聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 5 章  わがまま



 この天井はもう見飽きてしまった。
 何度目だろう。もう、ずっとそう思いながら目覚めてるような気がする。
 天井の模様を変えさせようにも、最近は私に近づいただけで寿命が縮むと、侍女たちは恐れてこの部屋に立ち入ろうともしなくなった。三色運んでくるのは澍煒。その澍煒だって、第三次神闇戦争に向けた準備で聖刻の国と天宮とを行ったりきたりしているのだ。この上、天井を見飽きたなどという世迷言に付き合わせるわけにもいかないだろう。
 あとどれくらいだろうか。
 あと何回、目を覚ませばもう目を開けなくてもよくなるのだろうか。
 回数を数えることも馬鹿らしい。死は必ず訪れる。もうじき、神代は終わりを告げる。その前に、私はこの身体から解放される。
 天宮に兄様、姉様たちが集められ、闇獄界侵攻のための会議が開かれたというその夕刻、私は相も変わらず天井を見上げていた。短く三回刻まれたノック音につづいて、私の返事も待たずにその人はこの部屋に入ってきた。
「澍煒?」
 窓から差し込む夕焼けに、夕飯の時間と思った私は、腫れあがった瞼を持ち上げ、軋む首の骨の音を聞きながら戸口の方へと顔を向けた。
「夕飯にはまだ早いようだね」
 私の生活サイクルを熟知している麗兄様は、部屋に入り込んでくるなり苦笑と嘲笑の入り混じった表情でわたしを見下ろした。
「何、しに来たの?」
 掠れる声で私は尋ねるまでもないことを問う。
 決まっている。この人はまた私に嫌味を言いに来たのだ。
 ああ、いやいや。私にはもう、この人の嫌味を受け流せるほどの余裕も何も残っていないのに、どうしてこんな時にさらに追い詰めに来るんだろう。
「私、治りたいなんて思ってないの。もういいからほっといて。これは絶対に治せない病なのよ。知っているんでしょ? お願いだから、出て行って」
 上半身だけでも起こせたら、這ってでもこの部屋から追い出してやったのに。
「ほんと嫌いだよ、お前なんか。昔の自分を見ているみたいで反吐が出る 」
 ああ、始まった。
 そんな挨拶いらないのに。
「なら来なければいいでしょ」
「龍兄上が来ても同じことを言うのかな、この口は」
 麗兄様は傍らの椅子に腰掛けると、私の皮ばかりになった頬を親指と人差し指とで挟んで口をすぼめさせた。
「やめてよ」
 わたしは首を振って兄様の手を振り払う。
「お前は何で今生きてるの?」
 振り払われた手をもう片方の手で包み込んで撫でながら、麗兄様は訊いた。
「帰ってよ。出て行ってよ」
「それだけ元気なら、会議に出ればよかったのに。龍兄上もいらしていたし?」
「元気? 自分で体も起こせなくなった私のどこが元気だって言うのよ!」
「そのヒステリー、他の奴らにも聞かせてやりたいね。可憐で可愛いはずの聖が眉間にしわ寄せて金切り声上げているのを見たら、きっと誰も同情しなくなる」
「同情されるくらいなら呆れられてほっとかれる方がましだわ」
「気づいてないの、聖? お前の兄達も姉達も、お前が母の愛情も知らずに育ったことを哀れに思っているだけなんだよ。お前だって、今までその優しさに甘えてきたんじゃないか」
 何を今更、と麗兄様は意地悪く付け足し、私を見下ろす。
「でも僕は思うんだ。聖は愛優妃に育てられなくて正解だったって」
 私は小さく息を呑み、麗兄様を凝視した。
「さっきの会議で聞いたんだけどさ、聖は知ってた? 今回の戦争は、結界張りなおして神界を守ることに主眼を置くんじゃなくて、闇獄界に攻め入って叩きのめすことに目的があるらしいよ」
「どういう意味?」
「愛優妃が闇獄軍に寝返ったんだってさ」
 こともなげに言ってのけた麗兄様を、私はそう、なぜか愛優妃のことをよく知りもしないのにまさか、と唖然とする思いをぶつけるように見つめた。
「実際、あの人を知らないお前でさえそんな顔をするんだ。統仲王や兄弟たちはたまらないだろうね」
「その言い方、まるで自分には関係ないかのようね」
「僕はね、小さい頃、一度あの人に裏切られているんだ。これでもお母さん子だったからね。僕とエルメノを引き離すために、意図的にエルメノを闇獄界に落としたと気づいた時は、もう誰も信じられなくなったものだよ」
 麗兄様がそっと私の頭を撫でると、金と黒、色の違う髪の毛の束が兄様の手に握られていた。
「こんなに抜けて……健康な体に戻りたいとは思わないの?」
 痛ましそうに指の間の私の髪の毛を見つめる麗兄様の横顔には、さっきまでの嫌味な性格の片鱗も見えなかった。
「だってもう、戻れないもの」
「戻れないと諦めるくらいなら、戻る方法を探してみたらどうなの?」
「残念ながらもう手詰まりなの。気づいているんでしょ、私の罪を」
「時の病、ねぇ」
「そう、時の病。だけどそれだけじゃないわね。私、喧嘩売っちゃったの」
「このところとんと飛嵐を見かけないようだけど」
「このところも何も、もうずっとよ。私が……外に追放したんだから」
 私が耳を貸してしまったがばかりに、私の魂の中に宿ってしまったこの世の本当の神。彼女は私が身体を貸し与えても、結局は何一つ私の望みを叶えてはくれなかった。それどころか私の大切な人たちを苦しめはじめている。
 私が彼女の虚言に耳さえ貸さなければ、事態はこれほど悪くならなかったかもしれない。私が彼女を受け入れる前まで時を戻してやりなおしたい。もう同じ過ちは繰り返さないから。私ではなく彼女を想い反対した飛嵐は、虚無に追放した。結果、〈時戻〉は失敗した。時の精霊王の力だけではもう手に負えないほど世界は広がってしまっていた。
「おお、怖い、怖い」
「そうよ、治っちゃいけないのよ。この身体は渡しちゃいけない。もう何があっても身動きが取れないように腐らせて使えないようにしなきゃ」
 私の呟きに、麗兄様は目を細めた。
「お前もか。お前も来世に望みをかけてる口か」
「そうよ。私はもう、早く終わらせたくて仕方ないのよ。こんな……こんな永遠の地獄、もういやなのよ」
「未来が望みどおりになるとは限らないだろう?」
「運を天に任せるのはやめたの。〈予言書〉どおりにことが進んでいるというのなら、小さな歪をたくさん作ってやるまでよ。私は、ただでは死んでやらない」
 哀れなものでも見るように麗兄様の紫水晶のような瞳に映った私の顔は、死に魅入られながらも続く永遠の生を渇望して色の違う瞳ばかりが異様な輝きを放っていた。
「死なんてまたがなくていいだろ。長く生きていれば思わぬ形で望みが叶うこともある」
 麗兄様は見ていられないとでも言うように、私の目の上に自分の手を伏せおいた。
「過去二度の大戦では闇獄軍が侵入してきたら、侵入された穴を中心に、世界を隔てる結界を強固に張りなおすことで神界を守ってきたんだ。戦闘は結界が完成するまでの防戦と、結界完成後、帰還できなくなった闇獄兵たちの殲滅のためにあった。結界は神界側からは統仲王が張りなおし、闇獄界側からは愛優妃が張りなおしていた。だけど、お前が生まれて魔法石を継承したことで、統仲王と愛優妃は時の精霊の支配力が弱くなってしまった」
「だから?」
「お前が傷つけてきたもの、毀してきたもの。直らないものは数多あるだろうけど、この先まで同じように傷つけ、毀していく必要はない。お前が神界を守る結界を強固なものにすれば、この世界のたくさんのものを守ることが出来る。お前の病名は時の病でもなんでもない。ただの絶望だよ」
 淡々と言い放たれたその言葉に、私は反射的に起き上がって麗兄様の両腕を掴んで言い募っていた。
「ただの? 麗兄様に何が分かるっていうの? 私のこの中に渦巻いているものはただのなんて言葉で片付けられるほど小さなものじゃないわ。そんなに小さなものなら、私はこんなになってまで自分を殺そうとなんてしない。現在の何もかもを諦めようとなんてしない。私は、私は……」
 咳き込んだ拍子に毛布の上に赤い血が飛び散った。
「お前は自分で自分を病にかけている。お前が守りたいのは世界でもなければ他の誰かでもなく、幼い頃から育ててきた次兄への恋の芽だけだ。諦めろとは言わない。他人から言われたくらいで思い切れるなら、お前もそこまで思いつめはしないだろうから。だけど、じれったいんだよ。切ないんだよ。お前と僕はよく似てる。一つのものしか見えなくなって突っ走って、手に入れられないと分かっていても諦めきれなくて。お前の諦めの悪さ見てると、イライラするんだよ。昔の自分見てるみたいで。客観的にみればどうにもならないって分かるのに、それでも望みを叶えたくて仕方ないんだ。突っ走って周りを振り回した分、幸せになっちゃいけないって自分を呪ってさらに周りを不幸に陥れて――可哀相に」
 麗兄様は咳き込む私の背中を撫で、血に塗れた口元を拭った。
「可哀相なんて、言わないで! 自業自得だってことは自分が一番よく知っているわ」
「いいや、可哀相だよ、お前は。お前は、失恋を知らない」
 前髪を掻き上げられ、こつりとあてられた麗兄様の額の冷たさに、私は言葉を失った。
「嫌いじゃ、なかったの? 私のこと」
「嫌いだよ。だから好き放題言って同情してる」
「ああ、それが麗兄様の嫌味の言い方ってことね」
「お前を妹だから可愛いなどと思ったことは、僕は一度もない。僕はいつも自分のことで精一杯だったからね。他人に分け与える愛も情も持ち合わせていないんだ。お前もそうだろう? お前は今自分の全てをあの男のためになげうってる。あの男への恋情がお前の心全てだから。いつまでそんな想いを抱き続けられるものか、最初は興味があったんだ。恋なんてものはし続ければここがいかれてくる。でも、大概は自分の身体に害が及びだしたところで醒めるものなんだよ。人の体ってのは面白く出来ていてね。自分の生命維持に害が出はじめると、逆に同じ勢いで拒むようになるものなんだ。ひたすら愛した相手を、受け入れてもらえないと思い知らされた時点で憎みはじめるのと同じでさ。でも、お前はもうとっくに箍が外れてる。諦めようにも、あの男があんな風に煮え切らない態度をとり続ける限り、お前が期待してしまうのも道理だ。それも、その若さも時間も永遠に続く。可哀相な奴だよ、お前は。捨てたくても捨てられない。失いたくても失えない。憎んでも、愛することをやめられない」
 感じることなどない。麗兄様が口にしているのは、ただの私への嫌味だ。過去の自分を私に重ね合わせて、過去、自分に言ってやれなかったことを言ってるだけだ。
 涙なんて、出なくていい。枯れてしまえ。こんな言葉に感化されるくらいならば、いっそ涙腺も何も壊れてしまえばいい。
「僕は誰を失っても、この世の終わりに約束どおり大切なものが出来た。でも、聖。お前にははじめから最後まであの男しかいないというのなら、捕まえてしまえ。小さい頃のお前は呆れるくらい積極的だったじゃないか。あいつがそうであるように、大人になればなるほどたくさんのしがらみに縛られて身動きが取れなくなるものなんだ。現状維持が最善だと思ってしまう。でも、お前はそれじゃ満足できないんだろう? それなら、立ち上がれ。その足で立ってあいつのところに行って、全てを奪ってくればいい。できるんだろう? 本当は」
 脚に、膝に力が入っていた。立ち上がりそうになっていた。そんな力、もうこの体のどこにも残されていないはずなのに、麗兄様の横をすり抜け扉を弾き飛ばし、龍兄の部屋へと駆け出して行きそうになっていた。
「だめ。だめ……!!」
 拳で足を押さえつけ、私は目をつぶって衝動をこらえた。
「誰が保証してくれる? 死んだ後も未来は続くなんて、まだ来ていない時間をいったい誰が保証してくれるっていうんだ? 神様か? 〈予言書〉を書いた神様なら、永遠に続く記憶いのちを保証してくれるっていうのか? これほど僕たちを、お前を苦しめている奴が?」
 かみしめた唇から鉄くさい味が舌に浸みてきた。
 早く終わればいい。早くこの身体に縛られる時間が終わればいい。私は死なない。身体を捨ててこのまま生き続ける。死後の未来に期待するほど、私は浅はかじゃない。〈予言書〉通りの未来を辿る中で、一寸の狂いを未来の時間に挟み入れるの。そのためには、私はこの身体を殺さなきゃいけない。有極神彼女の意志を深い眠りの淵に沈め封じるために。
「私はもう、自分だけのためには生きられないの。〈予言書〉の未来を引き寄せてしまったのが私だというのなら、私は償わなければならない。私が未来を変えなければならない。未来を創造しなければならない」
 睨みあげた私を、麗兄様はしばしまじまじと見つめた。
「そのお前の暴走が、望まない未来を引き寄せているのだとしたら?」
「なっ」
「傲慢だよ。お前は神じゃない。僕らの真性は神の子でもない。人の子だ。何より、未来を創造するのはお前でもなければ神でもない。全ての時間を刻む存在だ。創造神の意識と融合しかけて、己まで神と錯覚しはじめたか?」
「私は……」
「私は、私は、私は。続くのは言い訳ばかりだ。来世なんか待つなよ。望みを捨てるなよ。現在を生きろよ。でなきゃ、本当にお前が創造神だっていうなら、お前が望めば未来は願いどおりになるんだろう? 望めよ。あの男しかいないっていうなら、来世、違う身体で結ばれたって意味がない。今度はお前はその聖の身体を取り戻そうと躍起になるぞ? せっかく結ばれても、お前は足ることできずに今と同じ悲劇を繰り返す」
 麗兄様の言葉は呪縛のように私の脳裏にこびりついた。
 そうかもしれない。
 将来、私が守景樒という名の少女に生まれ変わったとて、私が彼女と同じになりきれなければ、たとえ生まれ変わった龍兄と結ばれることがあったとしても、私自身は満足できないかもしれない。生まれ変わった彼が、龍兄と全く同じ人である保証はないのだから。
 叶えられるなら、叶えたい。
 好きだと告げるだけじゃ満たされない。好きだと言ってくれなきゃ満たされない。一方的に思うだけじゃもう、満たされないの。龍兄の時間を、龍兄の隣の空間を私が占めてもいいと許してくれなきゃ、いやなの。
 助けて。助けて、龍兄。
 私を貴方の呪縛から解放して。
「だ……め……」
 私は私に、もう一度念押しをした。
「何がだめなの」
「だめ。だめったらだめ」
 まだらっこしそうに言った麗兄様の誘惑を振り払うように私は首を振った。
「つまり聖、お前は今神界の人々が享受している幸せを守る責務を放り出しても構わないと言うんだね?」
 今、神界の人々が享受している幸せ?
「こんな時代にあって、残念ながら僕は幸せなんだよ。今が人生で一番幸せなんだ。そうだよ。僕はこの幸せをずっと味わっていたいんだ。生まれ変わってしまったら意味がない。麗のままじゃなきゃ、彼女といてもつまらない。僕だけじゃない。昨日今日、結婚した奴、子供が生まれた奴、この世界には今現在、この上ない幸せを享受している奴が必ずいる。第三次神闇戦争は少なくとも彼らから平和な環境を奪い取る。自分のためだけに生きられないというのは、他人のために生きるという意味だろ? お前の考える責任っていうのは、来るかどうかも分からない未来の人に対してだけ果たされればいいものなのか? 今を生きている神界の奴らに対しては、お前の治める国の人々に対しては果たされなくてもいいものだというのか?」
「やめて……責めないで……もうこれ以上、私を責めないで……」
 麗兄様に言い募られて、私は手で顔を覆ってこみあげてくる嗚咽を噛み殺した。
「神界に結界を張りなおせ。そうでなければ、その魔法石、統仲王に返せ」
「魔法石を、返す? そんなことできるわけないでしょ? これは私の魂とリンクしてるのよ?」
「どうせ死ぬつもりだろ? 守るものなんて何もないはずだ」
「違う! 私は死なない! この身体が死んでも、私は死なない!!」
「孤独に弱いくせに。あの男がいなくなった世界にどうやって自分を繋ぎとめておくつもり?」
「決めてるの! 覚悟してるのよ、私だって……!」
「今も一所懸命生きられない奴に、一体何を託せっていうの?」
 くい、と私の顎を持ち上げて、麗兄様は冷たく清んだ紫色の瞳で私を見下ろした。
「逃げるなよ。未来の孤独を背負う覚悟があるなら、現在も背負えるだろ? 違うか?」
 違わない。違わないけど、だめなの。
 私は、射抜くように見つめてくる濁りない瞳に耐えられなくて目を伏せた。
 麗兄様は呆れたように私の顎から手を放す。
「誰もが自分の望み叶えたくて必死なんだよ。自分の思いと相手の思いが対になっているとも限らないのに、ごり押しするからすれ違った気持の大きさだけ闇獄界は拡大する。昔は単純でよかったのにね。自分の望みは相手の望み。全てが対になっていて、だからこそ齟齬なんて生まれなかった。神界の人口も少なくて、統仲王たちの掌の上で生きてるようなものだった。憎しみも悲しみも、怒りも苦しみもない世界だった」
「麗、兄様……」
「そうだね。今更神界と闇獄界を隔てること自体が馬鹿げているのかもしれない。光があれば影が生まれる。清濁併せ持つ世界こそが目指すべき着地点なのかもしれないね」
「ちが、そうじゃなくて……私が望むのはそんな汚れた世界なんかじゃなくて……」
「へぇ、意外だな。それだけ負の感情にまみれて生きながら、なお綺麗な世界を現実のものとして望むことができるなんて」
「……」
「僕にはその昔〈影〉がいた。エルメノという名前の幼馴染だ。彼女はぼくより何倍もできがよくて、賢くて勇気があって、正義感に溢れ、前向きで明るかった。すぐに後ろ向きになる僕を叱咤激励しながらよく支えてくれていたよ。そう、今思えばあれは全部僕を支えようとしてやっていたことだったのにね。僕は彼女のその強さに眩暈がしていたんだ。自分の方が〈影〉だったんじゃないかと何度も疑って、ついには彼女に麗になれとまで言った。彼女の方が法王たるにふさわしいと思ったから。一度闇に堕ちた僕はさ、思うんだよ。己の裏に潜む闇を認められないから、誰かを傷つけてしまうんじゃないかって。己の正義ほど客観的に不確かなものもない。そんなものにしがみついてたら、時代の流れとともに軸の位置が変わっていても気付けないだろう?」
 麗兄様は私の吐き出した血を拭きとった布を籠に投げ入れ、咳を鎮める薬を溶かした水差しを私の口に差し入れた。
 薄めてあるとはいえうすら苦いその咳止めは、しばらく飲んでいなかったせいか想像以上に苦く感じられた。
「飲みつづけてれば慣れてそんな顔もしなくなるだろうにね。咳は体力削り取るんだから、せめてこれくらいちゃんと飲みなよ」
「……だってその薬が私、一番嫌いなんだもの。それ以外のお薬だったらまだ毎日飲んでもいいって思えるけど、そのもやもやした苦いのはだめ。慣れるなんて無理」
「わがまま言って。我慢と諦めを覚えておかないと、自分で自分の来世を苦しめることになるよ」
 まるで見てきたように麗兄様は言って、毛布を私の肩まで引っ張り上げた。
「実際のところ、その気になればあの人たち――統仲王と育兄上は、お前の身体を回復させられるんじゃないかと思うんだ。一時的かどうかは置いといて。僕は、いくら愛優妃を取り戻すためとはいえ、神界の民を率いて闇獄界侵略に乗り出すのはおかしいと思う。統仲王たちはお前の身体が悪いから無理はさせられないというけれど、本当は治せるはずなんだよ。精神はおいといて、その身体ならいくらでも望ましい状態に置けるはずだ。なのに提案も試みもしないで、初めからお前をこの戦争から切り離して考えているってことは……」
「言わないで。もう、いいから。言わないで」
「死を望まれることほど哀れなことはないね。それがお前のわがままの結果だとしても」
 元気になっちゃいけない。元気になったら、有極神がこの身体を好きに使いだす。確かに未来は変わるかもしれないけれど、いい方には変わらない。全てが無に帰されてしまうに違いない。
 麗兄様は私の額に掌をあて、そっと憐れみを込めた紫色の瞳で私に視線を落とした。
「微熱か。聖、お前一人償いと苦しんだところで、実際は誰も幸せになんかなりやしないんだよ。お前のやっているそれは欺瞞もいいところだ」
「でもこれが……これが私の、私なりの幸せを探す方法なのよ」
 あの咳止めの薬は嫌い。咳は収まるけれど、抗いがたい眠気が身体中を包み込んで土の中へと沈めていくから。眠って目覚めれば、私は苦しむことなくまた一日、死へと近づく。貪った夢の虚しさに涙を落とす。
 眠りたくない。眠りが訪れないように、苦痛よ、私を苛みつづけて。
「それでも僕は――ねぇ、聖。僕はこの身体から魂が抜けてしまうその時まで、お前が僕たちの幸せを守ってくれると信じているよ。いいだろう? 信じることは自由なのだから」
 期待でもなく信じるだなんて、意地悪にもほどがある。私が変わらないことくらい、わかっているくせに。それでも、口にせずにはいられない望みなのだ、と、念を押していくのね。
 離れていく麗兄様の足音に続いて、扉が開く音がした。
「さようなら、聖。……僕の、妹」
 呟きの余韻すら残さずに、扉は閉じられた。
 その途端、溢れ出してきた涙の意味を、私は今でも分からない。
「ごめんなさい。ごめんなさい、麗兄様……ごめん、なさい……」
 幸福な夢はいらない。
 悪夢を運ぶ鳥だけがこの手にとまればいい。











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