聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 5 章  わがまま



 アイカ。アイカ、アイカ、アイカ。
 どんなに呼んでも、好きなだけ抱きしめても、彼女はここにいる。消えたりなんかしない。僕と同じ姿になったりもしない。
 大好きだよ、アイカ。僕にはない無残な火傷の痕も、君の生きてきた証なら愛おしく思える。これから先、永遠に僕との時間がこの身体に刻まれていくと思えば尚更、愛おしさは増す。
 違うんだ。この気持ちは、欲しかった玩具を手に入れた満足感とは違う。玩具で遊ぶことが目的なんじゃなくて、手に入れることが楽しかったあの頃とは違うんだ。君とどう向き合って付き合っていこうか、この僕が未来を思案している。
 分かる?
 この僕が、ようやく永遠に立ち向かう気になったんだ。
 君という援護者がいるからこそ、僕は立ち上がる気になったんだよ。それだけ、君が側にいてくれれば僕はなんでも出来る気にさえなってしまうんだ。
 君に時止めの実を飲ませた罪悪感にはこの際目をつぶって。そんな後ろ暗い思いがなくたって、僕は君への気持ちだけで未来への扉を開けつづけられる。
 そのつもりだった。
 忘れていたわけじゃない。僕にも終わりの時が近づいているってことも、この時期じゃ神代も黄昏に沈みかけているだろうことも。
 でも覆してやるつもりだったんだ。アイカさえいてくれれば、未来は変わるんじゃないかと、いつしか僕は期待さえするようになっていた。
 〈予言書〉は変えられる。
 僕がエルメノと離れ離れにされたことも、海姉上に裏切られたことも、カルーラを傷つけつづけてしまったことも、今までのことは、たまたまその通りになってきただけだ。それは僕が予言どおりエルメノを失ってしまったことで〈予言書〉を信じ込んでしまったから。起こりうる未来を変えようとしてこなかったから。だから、未来はそのとおりになった。あるいは、僕が悲劇的な〈予言書〉の内容を信じたから、僕自身がその結果を引き寄せてきてしまったのかもしれない。
 それなら簡単だ。僕が信じなければいい。僕はもう、疑心暗鬼ながらも〈予言書〉を信じ込んで振り回されてきた僕じゃない。僕には失えないものが出来たんだ。今度こそ、失ってはいけないものが出来たんだ。
 ようやく生きたいと思うことが出来たんだ。この時間の先に繋がっている未来へと漕ぎ出して行きたいと思えたんだ。
 だからこそ、過去二回の大規模な神闇戦争時でさえ法王と将軍、楔皇を集めた幹部会議を全てすっぽかしてきた僕が、今天宮のこの改まった場所で真面目くさって赤いビロードの椅子に座っている。
「魔麗の国北端及び羅流伽北端に見られる一部地域の著しい気温上昇は、闇獄界が神界への侵攻ルートを築くために過剰なエネルギーを加えて次元を歪めようとしている結果と考えられる。また、気温上昇が全世界的な規模に及んでいることから、ルートはすでに完成してしまっているものと考えられる。聖が病床を離れられない以上、次元の穴を塞ぐことは不可能。神界としてはむしろ、これを契機に闇獄界に攻め入りたいと考えている」
 過去二回の大戦を防戦を主に神界を守ることに重きを置いていた戦略から一転、闇獄界に攻め入ると言う攻撃的な戦略を打ち出した長兄・育に、会議に参集した者たちは口々に息を呑んだようだった。
 円卓の上座に座を占める統仲王が、天宮の大会議室に集った末妹・聖を除く七人の法王の反応を窺うように見回す。
「何か意見は?」
 父・統仲王と長兄・育との間ではすでにこの戦争の方向性、もしくは意義が合意されていた、ということか。それならば、どんなに統仲王が軽い調子で異議を募っても、誰も口を挟むことなど出来ないだろう。
 統仲王は待っていたのだ。神界と人界に溜まった負の感情を処理するという当初の目的を忘れて主に仇為すようになった闇獄界を処断する機会を。それを分かっていて、今更神界は自ら血に塗れるようなことがあってはいけない、などと言える者はいない。多くの命が消えていく戦争を手離しで歓迎する者はここにはいないはずだが、今後、幾度となく領土拡大を目的に闇獄界に攻め込まれ、その度に大切なものを失っていくのは誰もが耐え難いと思っていた。
「賛成だね。守るだけじゃ何も守れない」
 おそらく、一番それを痛感しているのが、数百年前、妻と長女を闇獄軍に惨殺された鉱だ。人を妻に娶り、死が二人を分かつまではと共に見た目だけでも年をとることを選んでいた男は、妻を失って、再び妻と出会う前の十八の齢に見た目を戻した。だが、目に燻る暗い影は解き放たれることない永遠の命という牢獄の中で日々深さを増し、いまや闇獄界侵攻を打ち出した統仲王と長兄の言葉に、暗くも嬉々とした光を浮かべていた。
「いつかは片付けなきゃならないことだってだけの話だろう? いいじゃないか。これ以上あたしらの世界が蹂躙される前に、決着をつけてやろうじゃないか」
 海姉上はこの件に関しては是非もないだろう。意外だったのは炎姉上の発言だった。炎姉上は普段こそ攻撃的な発言が多い人だが、多数の国民の命がかかるとなると、生まれてきた国民の命を自分達の一存で無碍にしてよいのか、と驚くほど慎重になる。今回も、統仲王たちがわざと作り出しているかのような終末への奇妙な流れを体を張ってでも止めてくれるのではないかと、秘かに僕は期待していたのだが、意外なほど素直に彼女は賛意を示してしまった。
 僕は思わず炎姉上を凝視する。炎姉上は、俯いているわけではなかったが、僕は勿論、誰とも視線を合わせようとしていなかった。様子がおかしい。そう気づいたのは、風も同じだったらしい。
「闇獄界に攻め込むにしても、兵となるのは国民です。今はまだ冬だからいいけど、もう時期春になれば農民は忙しくなる。彼らが食糧を生産してくれなければ戦時中の補給が出来なくなる。闇獄界に攻め入るならば、場所はすでに次元の歪みの発生が確認されている魔麗の国から羅流伽。年中食糧供給できる育命の国とは天宮をはさんで真逆の位置。距離がありすぎます。魔麗の国と羅流伽の食糧生産力では自給がやっとだし、天龍の国と聖刻の国もそれほど土地が豊かなわけでもないことを考えれば、風環の国が主となって補給を担うこととなるかと思いますが、しかし、風環の国には天宮同様四季があります。長期的な補給には適しません」
 普段は統仲王や上の兄姉達が決めたことにはほとんど口出しをしたことのなかった風が、珍しく厳しい表情で現実を説く。
「お前、それは自国の負担がでかいから嫌だってことか?」
 嫌味を言うような弟ではなかったはずだが、にやにやと風を揶揄したのは鉱だった。風は鉱に反駁する気はないらしく、一瞥だけして統仲王の真意を見極めようとでもいうように真っ直ぐにこの世の王を見つめた。
「統仲王。過去二度の神闇戦争では、戦闘は闇獄界があけた神界への侵攻トンネルを塞ぎ、新たに時空の結界を形成するまでの一時凌ぎでしかなかったはず。今回も時空のトンネルを塞ぎ、新たな結界を結んで終結でいいではないですか」
 統仲王は表情一つ変えず、鋭い視線を風に向けた。
「過去二度の戦では、お前同様まだ聖も生まれていなかった。時空を操る魔法石は、まだ私の手にあった。それが今までと今回の違いだ。風、お前は聖をことのほか可愛がっているな。聖の今の病状も分かっているはずだ。お前なら無理をさせられるか?」
 僕なら絶対、這わせてでも聖には無理をさせるけどね。風はその辺、やっぱり聖に甘い。無言のまま統仲王を睨みつけている。
「たとえ魔法石がなくても、天地を創造なさった貴方ならば、時空など片手で操れるのではないのですか?」
 風に助け舟を、と思ったわけではないだろうが、大嫌いな統仲王に少しでも楯突いておきたかったのだろうか。口を挟んだのは、それまで腕を組み、瞼を閉じて無言で聞いていた次兄、龍。
「私の力は愛優妃が側にいてこその力だ。私一人では何も出来ない」
「何もこのような場で無能を曝け出さなくてもよろしいでしょう」
「……貴様」
「父上。たとえ愛優妃を失った貴方から時空を支配する力も失われてしまっていたとしても、出来るでしょう、貴方なら。聖を一時的に回復させて時空の穴を塞がせることくらい」
 ほう、と思わず僕は次兄の発言に感嘆の溜息を漏らした。
 一時的に生体機能を回復させて神界と闇獄界との間に出来た綻びを直させようだなんて病人に鞭打つ発言、たとえ本人がいなかったとしても、普通、愛しい女相手に出来るものじゃない。これを聞けていたら、聖もいい加減に目を醒ませていたかもしれないのに。
「麗。今の龍の発言、主治医のお前はどう思う?」
 日和見主義に徹しようと思っていた僕に、意地悪く統仲王が問いかけた。
「主治医? 僕はそんなもの引き受けた覚えはないね。主治医はジリアスだろう? 僕に意見なんか求めないでほしいね」
 そっぽを向いた僕を、統仲王がにやにや見ているのが分かる。ほんと、嫌な男だ。こんな男の遺伝子でこの体の半分が作られているのかと思うと虫唾が走る。
「でも、一時的にでも回復した状態を味わえるなら、今度は健康を手放したくなくなるかもしれないね。そのためには心優しい次兄の思いやりが必要だろうけど?」
 聖を唯一あの泥沼の底から引き上げられるとしたら、聖の使い捨て発言も辞さないほど保身に徹してみせたこの男だけだ。統仲王の力も、育兄上の力も必要ない。それこそ特効薬はこいつだけなのに。
「私がいつ聖の思いやりのないことをしたと?」
「さっきからの発言、聖が聞いてたら自殺するよ、きっと」
「勘違いするな、麗。私は法王として、聖にも自分の責務を果たすことを求めるべきだといっているだけだ。末妹だからと甘やかすのは聖のためにもならない」
「おお、こわ。これだから育ての親は嫌だね。聖はとっくに成神してるってのに、まぁだ親のふりをしようっての? 聖もかわいそうだね。こんな親の愛情とエゴを一緒くたにした奴にいつまでも親の顔してつきまとわれて、さ」
 次兄の眉間に闇よりも深い皺が刻まれた。
 いいさ。構わない。言ってやれ。親兄弟が集まって言いたいこと言い合えるのもどうせこれが最後だ。
「好きならいいじゃないか。全力で守ってやれよ。建前なんて何だっていいだろ? 今までだってそうだったんだから。だから、自分守るために切り捨てるような真似なんかするなよ。かっこ悪い」
 僕よりどれだけ長く生きてると思っているんだ。失ったものだって僕よりも多いだろう。それなら、とっくに気づいていてもいいはずだ。再び失えないものに出会ったら、意地でも手を離しちゃいけないってことを。
 たとえそれが血の繋がった妹であっても。
 次兄は睨むように僕を蒼氷色の瞳で凝視していた。小さい頃はあの瞳が僕を見ていると気づいただけで、背中に冷たいものが走っていたものだけど、今は何も怖いものはなかった。会議室にいるメンバーの中で、次兄と末妹の恋を知らない者はいない。末妹は愚か、次兄とて憎からず想っていることは見ていれば分かる。だからこそ、思いをひた隠そうと聖への発言が厳しくなってしまっていることも。
 聖も法王としての責務を果たすべきだ。僕もそう思う。だけど、次兄のあんたが聖を突き放したら、あいつはまたさらに深い想いの深遠へと沈んでいくだけだ。
 重い沈黙が降りていた。次の第一声が場の雰囲気を決めると言っても過言ではないほど、誰もそう簡単には声を出せないほど重く深い沈黙。
 そんな沈黙を一声を投じて破ったのは、これまでずっと成り行きを見守っていた海姉上だった。
「麗。貴方の解決策は?」
 深海の静かな青を湛えた瞳がひたと僕を見据えていた。こうなることを一番に分かっていて止められなかった張本人。僕に気をつけなさいと注意を促すことしか出来なかった可哀相な人。
 僕は怯むことなく気圧されることなく彼女の視線を受け止めて、父と兄弟たちを見回した。
 僕は、知っている。
 僕が何を言ったって、もう統仲王と長兄の間で決められた神代の終末は覆しようがないということを。彼らは今は〈予言書〉通り進めたいのだ。自らのうつわから離れ、違う身体と違う名を持ち、故に運命のしがらみも緩くなる来世へと進もうとしている。人間の身体に宿って、僕ら神の眷属から見れば砂粒が地に落ちるまでの間でしかない刹那にかけるつもりなのだ。刷新も革新もない神界では何もかもが変わらず永遠だ。考え方も、技術も、とうに闇獄界に先を越されている。この世界が存在できているのは精霊たちが助けてくれているから。自分で自分を生かすことが出来ないこの世界では、闇獄界は愚か、その先の存在に抗していくことはもう出来ない。
 僕たちは捨てなきゃならないのだ。この世界を。この名と身体に連なるべきであった時間を。この世界で得た大切な人たちを。
「僕は風の考えに賛成だね」
 でも、僕は捨てない。
 せっかく出会ったんだ。ようやく、僕は自分の居場所を見つけたんだ。
 僕は、アイカの笑顔を守りたい。
 僕自身の帰る場所を守りたい。
「魔麗法王として僕が前線を守る。その間に統仲王と聖とで神界の結界を繕いなおしてください。それでいいでしょう? 貴方達が永遠である限り、神界は闇獄界に侵されても何度でも守りを固めなおすことが出来る。今回の闇獄界侵攻を口実に闇獄界に攻め込もうというのは、あまりに唐突すぎます。長年かけて準備をしてきたというのならまだしも、闇獄界にはまだ愛優妃がいます。今回のことは愛優妃が闇獄主たちを止めきれなくなったが故のことでしょう? 神界の自衛力を見せてやれば、しばらくは大人しくなるのではないでしょうか?」
「その愛優妃が、今回の首謀者だといったら?」
 静かに口を開いたのは長兄だった。
「愛優妃の名の元に闇獄主たちが集い、版図拡大のために鬨の声を上げたのだとしたら?」
 しばし、僕は沈黙した。そして、海姉上を見た。
 海姉上は俯いて唇を引き結んでいた。
「聖を産んで、愛優妃が再び闇獄界に戻ったのはもう何万年も前のことですが、しかし、統仲王、貴方はずっと連絡は取り続けてきたのでしょう? どうしたらそんなことになるんです。夫婦喧嘩にしては性質が悪すぎる」
 唖然とした僕に、統仲王は苦笑を浮かべて見せた。
「愚かだと思うか? 闇獄界に攻め入ることを決意したのは、愛優妃を取り戻すためだ。私だって愛優妃が闇獄界の意志に同調しただなんて信じたくはなかった。しかし、最後に私の元に届けられた彼女の言葉は、『私は見捨てられた子供たちを切り捨てることは出来ない』だった。情が湧いてしまったんだよ。あまりにも長くいすぎたがために、理性よりも本能が先に立ってしまったんだ」
「あるいは、愛優妃自身、中和しきれずに闇獄界の負に染まってしまったか。いずれ、これ以上愛優妃をあの世界においておくわけにはいかない。神を持ってしまえば、闇獄界は神界の属界ではなく、独立した同レベルの世界になってしまうのだから」
 統仲王の言葉に長兄がつなぎ、事実上、僕は口を塞がれる形になった。風も同じだ。苦々しげではあったが、風もまた、碧玉の瞳を瞼で覆い隠し、統仲王と長兄に恭順の意を示した。
 闇獄界に愛優妃を渡した状態で今後、何度も神界を守り抜けるかと問われれば、答えは否。愛優妃自ら帰還の意志がないのであれば、多少の危険を犯してでも彼女を連れ戻す必要は、ある。
 幼い頃に見た〈予言書〉の結末。まさかこんな風に僕らを終末へと落とし込んでいっていただなんてね。結局僕らは歴史に恥じぬ程度の足掻いたという事実だけを残し、この世界を後にするんだ。
 囚われた未来への絶望。生まれ変わっても戦い続けなければならないくらいなら、今を守ろうとして何が悪い? 本気で足掻けば、〈予言書〉の未来だって変わるかもしれない。
 握った拳に込められたのは悔しさじゃない。覚悟だ。運命を変えてやろうという、覚悟。
『貴方は王です。王は政を行うものです。貴方が人々の前で玉座に座って見せるだけでも、魔麗の国の人々の心は中央に集まりましょう』
 あの日、アイカが言った言葉が頭の中で蘇る。
 僕が守らなきゃいけない。僕が、魔麗の国を守らなければ。
 僕はまだセロの氷の城に居を置いたままだ。だけど、この戦争を勝ち抜くことが出来たら――その時は、アイカを連れてクワトへ移ろう。雪雲に閉ざされることのない青い空を見に。
「明朝、四楔将軍ならびに四皇を召集して、闇獄界侵攻に向けた詳細を立てる。本日はこれにて解散とする。部屋を用意している。一晩、ゆっくり休むといい」






「お帰りなさいませ、麗様」
 がらんとした魔麗城は、静寂に包まれていると思われた天宮さえ騒々しい場所に思えるほど静かだった。時間はアイカの周りにだけ流れ、それだけに急にゆっくりになったようで、未来へと急いていた僕は、気持ちつんのめりそうになった。
 アイカの笑顔は相変わらず田舎臭くて、馬鹿みたいに明るかった。
「なにか、ついていますか?」
 見つめる僕に不安そうに尋ねてくるアイカにそっけなく「目と鼻と口」と答えて、僕は外套やらマフラーやら、飾り紐やらを脱ぎ散らかしながら自室へ向かう。
「ちょっと! 子供じゃないんですから歩きながら脱ぐのはおやめください! 風邪ひきますよ!!」
「いいよ、風邪引いたらアイカに看病してもらうから」
「滅多なこと言わないでください! 貴方のわがままに付き合っていたら、このお城の中は埃だらけになってしまいます」
「何だよ、僕のわがままってそんなに付き合いきれないようなものばかりだった?」
「御自覚ないんですか? これだから麗様は」
「あ、今溜息ついただろ? 溜息つくと幸せが逃げるんだよ?」
「一息ついたくらいで無くなるくらい、幸薄いわけではありませんから」
 自室のドアノブを引き開けて一歩中に踏み込んで、それから僕はくるりと踵を返して振り返った。
 予想通り、落とした僕の服を拾うために下ばかり向いて着いて来ていたアイカは、上半身を起こすと同時に僕の胸にぶつかった。
 逃さず、僕は彼女の温もりを確かめる。
「れ、麗様!」
 一線は守ろうとあげる非難の声にも、最近甘さが出てきたのを僕はちゃんと気づいてる。
「アイカは幸せ? 吐息いくつ分?」
「吐息いくつ分って、幸せは吐息の数で測るものだったんですか」
「アイカが言ったんだよ。吐息一つ以上幸せだって。だからいくつ分くらいあるのかなって」
「たくさんですよ、たくさん。麗様が脱ぎ散らかしたり、こうやってメイドいじめをしなければもっと幸せなんですけどね」
「メイドいじめ? 心外だな、それは」
 ちょっと腕を緩めて彼女の顔を覗き込むと、アイカは素直に赤くなった。
「僕はメイドなんて思っていないのに」
 顔を近づければ素直に目を閉じ、唇をついばめば教えたとおりについばみ返す。ただし、未だに困惑した表情で。むしろ時が経てば経つほど戸惑いが深くなっているような気さえする。
「あの、カルーラ様と禦霊様は?」
 だからすぐに慌てて仕事の話に戻そうとする。
「禦霊ならクワトの方に帰った。カルーラはもう一日天宮に残るってさ。ねぇ、アイカ。そんな困った顔しないでよ。いいんだよ、どうせここには誰もいないんだし、もっと自信持って僕の……」
 僕の――何だと思っていい、と?
 まだ誰にも言っていない。まだ、誰も知らない。海姉上だって僕がそこまで気持ちを固めているなんて思っていないだろう。そんな状態で、一体何を以って自信を持っていいなどと言える? 贈ったものといえば保湿クリームだけだし、今もって指輪も用意していないというのに?
「そんな表情させても当然か」
「そんな表情って……麗様……。私、十分に幸せです。このお城においていただいているだけで、十分」
「もっと欲を出せよ。表情は素直なのに」
 ふっくらとした頬を撫でて、軽くつまむ。
「遊びじゃないよ。暇つぶしでもない」
「私、決してそんなこと……」
「だから、アイカの顔は素直なんだってば。僕にキスされるたびに遊ばれてるかも、とか、このまま一生からかわれておもちゃにされるのかしら、とか、思ってるだろ?」
「そ、そ、そ、そんなこと……」
 やっぱり思ってたんだ……。
「なんて言えば安心する? なんて言えば僕のこと、信じてくれる?」
 おずおずとアイカは遠慮がちに僕の上衣の裾を掴む。
「守らせてよ、アイカのこと。守りたいんだ、アイカの笑顔。本当はそんな顔させたくはないんだけど……もし僕がアイカを悲しませているというなら好きなところへ行ってもいいんだよ? ここが好きだというのなら、僕が出て行くし」
「とんでもございません! 麗様を追い出すなんてこと、私、考えたこともございません! 麗様のいない魔麗城に留まることも考えられません!」
 ふっと頬が緩んだ。
「アイカ、第三次神闇戦争の開戦日が決まったよ。明日、禦霊がクワトから魔麗軍を引き連れてセロに到着することになっている。合流したらそのまま羅流伽平原へ向かう予定だよ。一週間後には闇獄軍と対峙することになるだろう」
 アイカの体が強張ったのが分かった。
「そんなの、急、すぎます」
「僕のいない魔麗城に留まる気はないんだっけ」
 意地悪く僕はアイカに笑いかけた。
 アイカの目の中で二つの思いが揺れているのが分かった。
「連れてはいけない」
 そして、アイカは僕の一言で心を決めたようだった。
「では、私は麗様がいつでもお帰りになれるようにこの城を守ります」
 決意に満ちた表情で、彼女は毅然と言ってのけた。
「僕がいない城だよ?」
「いいえ、さっきのは貴方が戻らない城に留まる理由はないという意味です。戦いに勝利して凱旋なさっても、我が儘な貴方はクワトで開かれる祝勝会よりも、一番に住み慣れたこの城に帰って寝たいとおっしゃるでしょう? 貴方を誰もいない家に帰らせるわけには参りませんもの。それに、ずっとこの城にこもりっきりというわけでもありませんから。お買い物や慈愛院のみんなに会いに町に出ることだってありますから、孤独ではありません」
 きっぱりと言い放ったアイカを抱きしめて、僕は彼女の耳に囁いた。
「この戦争が終わったら、クワトに行こう? 僕は王として、君は僕の妃として。雪雲に閉ざされていない青空を見に行こう?」
「麗、様……」BGM♪YURA YURA(UVERworld)
 守れないかもしれない。不安を胸の奥底に沈めたくて、僕はさらに強く彼女を抱きしめた。単純なアイカは、もしかしたら僕が死んだことも知らずに何十年も、何百年もこの城で一人で僕のことを待ち続けるかもしれない。老いもしなければ死なないことにも気づいて、一人残した僕を恨むかもしれない。
 それでも、彼女がここで僕を待っていてくれるというのなら、僕は何にも優先してこの城に戻って来ることを考えるだろう。
「僕の妻になってくれる?」
「はい」
 あるいはアイカは気づいていたのかもしれない。勘だけはいい奴だったから。僕が悲壮な決意で彼女を抱きしめていることに気づいていて、自分が一人取り残されてしまうかもしれないとわかっていて、それでも、アイカは頷いてくれたのかもしれない。
 そうでなければあのアイカが拾い集めてきた僕の服を床に落として、両腕で僕の首に抱きついてくるなんてことがあるだろうか。不安を紛らわすように、自ら僕の唇に触れてくるなどということが、あるだろうか。
 その夜ほど、明けないでほしいと願った夜はない。永遠の闇の帳が神界中を覆い隠してしまえばいいのにと願わなかった夜はない。吹雪がやまなければいいと、願わなかった夜はない。
 ねぇ、聖。
 変えてくれよ。
 定められた未来なんて、本当の神と融合したお前なら、書き換えることも易しいんじゃないのか?
 来世なんか待つなよ。望みを捨てるなよ。現在を生きろよ。
 そうすればきっと、お前もいつか大事なものをその腕に抱きしめられる時が来る。
 時は人生を変える。出会いは人を変える。
『ほんと嫌いだよ、お前なんか。昔の自分を見ているみたいで反吐が出る』
 お前を傷つけることで、僕は過去の自分を傷つけていたんだ。
 同時に、もどかしくて仕方なかった。
 何も捨てられないお前が。失えないお前の人生が。
「来世で結ばれたって意味がない。そうだろう、聖」
 僕ならそう思う。未来の木沢光は、僕とはもう別人だ。彼の人生に土足で踏み込んだところで、僕はもう麗の身体には戻れない。今じゃなきゃ意味がないんだ。聖、僕と似ているお前だって本当はそう思っているはずだ。もし気づいていないなら、来世でお前はまた辛い目に遭ってしまうだろう。
「麗様? 今、何か?」
「なんでもないよ。そんなに不安そうにしなくても大丈夫だから」
 アイカを抱きしめて、僕はもう一度目を閉じた。
 カーテン越し、僅かに蒼い光が忍び込みはじめていた。











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