聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 5 章  わがまま



 家族ごっこ。それでもいい、小さな家に家族七人で暮らしていけたら、どんなにかよかったことだろう。僕たちは確かにあの女性の腹から生まれてきたはずなのに、こんなにも他人のようにぎすぎすしている。もっと小さい時は……あの小さな丸太小屋に肩を寄せ合って暮らしていた頃は、僕は一人でも平気だった。満たされていた。頬ずりをして子供用の小さな椅子に乗せ、焼きたてのパイをふーふーと吐息で冷まして食べさせてくれる母がいて、太陽の下、土を耕し野菜を育て、川から魚を釣ってくる父がいて、おもちゃを取り合っている次兄と次姉がいて、ソファで済ました顔で本を読んでいる長兄がいて、母を手伝って僕に飲み物を差し出す長姉がいて。
 幻のようだけど、本当にあったんだ。そんな家族の原風景が。
 長兄が成神した時、父と母は小さな家を出て天宮と呼ばれる巨大な宮に移り、幼い僕もそこに連れて行かれ、父とも母とも寝所を分けられて知らない女達に傅かれるようになった。上の兄、姉達は皆遠くに自分の城や宮を与えられ、結局、僕の側には誰もいなくなってしまった。その隙間を埋めてくれたのが、エルメノ、君だった。
 二人じゃ家族ごっこは出来ない。夫婦なんてものを求めるには僕はあまりに幼すぎた。僕が欲しかったのはないものを補完しあって生きていく夫婦でもなければ、遊んでくれる年の近い兄弟でもない。まして、自分自身でもない。本当は、父と母にもっと近くにいてほしかったんだ。他人のいない互いの息づかいが聞こえる小さな家で、もっともっと一緒に暮らしたかった。もっと母に絵本を読んでほしかったし、もっと父の話す一日の外での出来事を聞いていたかった。兄、姉達にだって、もっと遊んでほしかった。
 気がついたら自分ひとりしかいなかったんだ。望んでない環境に自分が取り残されていた。だから、ずっと逃げ出したかったのかもしれない。だから、ずっとその環境に合う自分を探し続けていたのかもしれない。
 誰にも望んじゃいけない。誰も僕の希望はかなえてくれない。
 だから僕はもう、自分しかいらない。
 鏡に覆われた世界は八方に僕を映し出し、さらにその向こう、向こう、向こう、無限にたくさんの僕を映し出す。だけど鏡に映ったどの僕も、僕の家族にはなってくれない。彼らは他人ではないから。
 麗にとって、エルメノという存在も無数の鏡に映し出された僕のうちの一人でしかなかったんだ。おそらく、エルメノもそれに気がついていた。
 エルメノの心に闇を住まわせてしまったのは僕だ。僕が、エルメノを壊してしまったんだ。僕がエルメノを狂わせた。
「お帰りなさい!」
 目の前にある幸せを、僕一人で享受しちゃいけないんだ。
 本当は。
「ただいま」
 マンションのチャイムを父さんが鳴らすと、慌てたようにママが転がりだしてきて、僕たち二人の顔を見てほっと頬を緩ませた。
 ママは僕を抱きしめ、父さんと長い抱擁を交わし、それからようやくここが戸口であることを思い出したようだった。
「やだ、こんなところで。寒かったでしょう? さ、中に入って。今、あったかいお茶を入れるから」
 父さんと抱擁を交し合って上気した頬に手のひらで風を送りながら、ママは突き出たお腹を撫でつつ眩しいほどの照明に照らし出されたリビングへと入っていった。
「光、入らないのか?」
 ドアに寄りかかるようにして開けたままにしてくれていた父さんが、ちょっとにやにやしながら僕を見ていた。
 僕は入り口の銀色の縁をまたぐことが出来ずに、入り口から見えるいかにもありきたりでいるだけで幸福になれそうな家族の住まいを眺めていた。
 いつものように中に入ればいい。「ただいま」と言って、「ほら、父さんも早く入りなよ」、とまるで僕がこの家の主であるかのように父さんを招きいれて。何事もなかったかのように、家族ごっこの続きをするんだ。この中には、確かに僕の居場所があるんだから、何も遠慮することはない。麗のこともばれてることが分かった以上、少なくとも父さんには隠す必要はない。思い切り甘えてやればいい。
 欲しがってたじゃないか。あんなに。こんな、ありきたりな家族の集う場所を。取り戻したがってたじゃないか。帰りたがってたじゃないか。
 いいんだよ。僕は許されている。この中に入ることを、僕は誰にも咎められやしない。当たり前のことなんだ。父さんがいて、ママがいて、子供の僕がいるというこの家族は、この日本の、いや、世界中に溢れているごく当たり前の家族なんだ。もう間もなくママのお腹から赤ちゃんが生まれれば、この家は四人家族になる。僕はお兄ちゃんになって、赤ちゃんのオムツを替えたり、子守唄を歌ってあげたり、たまにママを独り占めする弟か妹に嫉妬しながら、でもいいお兄ちゃんになろうってがんばっていくに違いない。麗の時にはできなかった家族ごっこの続きを、ここでは存分に楽しむことが出来る。居心地の悪さを「ごっこ」と言っていても、そのうちいつかしっくりなじむようになるだろう。少なくとも、ママのお腹の中の子が生まれれば、僕は……。
「あ、弟か妹が生まれれば、自分はこの家の子のふりしなくてもいいとか思うなよ?」
 すかさず父さんは僕の考えを読み取ったらしい。
「何で分かるんだよ」
「ふっ、父親だからな」
「いばらないでよ」
「偉いんだよ、親父だからな。地震、雷、火事、親父っていうだろ」
「偉いと怖いは別だろ?」
「怖いから恐れられて偉い地位に祭り上げられるんだよ」
 いけしゃあしゃあと言ってのけて、父さんはするりと一年ぶりくらいになるであろう自宅の敷居をまたいだ。
 僕はまだ、銀色の敷居に拒絶感を覚えている。
「だけど、知ってるか? 光。この世でほんとに一番怖いのは山の神様なんだ」
 ちらりと中を窺って、父さんはそっと僕に囁いた。
 僕は思わず小さく噴出す。
「ちょっと、そこ男同士で何いちゃついてんのー? 風邪引くんだからさっさと中に入りなさい。いつまでもあけてたら寒いでしょう」
 ポットと湯飲みをお盆にのせたママが怪訝そうに僕らを見やって奥へと消えていった。
「な?」
「さすがカミ様。逆らっちゃいけない威厳を感じるね」
「だから早く中に入れ」
 再び父さんに促されて、僕はもう一度銀色の敷居に視線を落とした。
 明らかに僕の目線よりも下に、と言うか、足を五センチも上げれば余裕で踏み込める程度の高さなのに、僕にはまるで立ちはだかる壁のように思えていた。
 おかしな話だ。あれだけ切望していた空間なのに、向こうはこれっぽっちも拒絶してないのに、どうして僕自身が背を向けたがるんだろう。
「父さん、僕、もう少し外の風浴びてくるよ。まだちょっと興奮してて大人しく座ってられそうにないんだ」
 僕は父さんから視線をそらせたまま後退った。
 父さんは痛いほど僕を見つめてくる。
「光、お前も大人になったんだな。久々の再会を果たした夫婦に二人きりの時間を作ってくれようとするだなんて……!! 風邪引かない程度に戻って来るんだぞ!」
 しばらく見つめた後、父さんは大袈裟なくらい腕を広げて僕を胸に抱きしめると、あっさりと手を振って玄関の扉を閉めた。
 バタン、と言う音につづいて鍵がかけられる音がして、チェーンまでかけるくぐもった音が聞こえてくる。
「ちゃんと、自分からチャイム押して入ってこいよ」
 分厚い扉の向こうから、念を押す父さんの声が聞こえた。
「分かってるよ」
 コン、と扉を拳で軽く叩いて、僕は非常階段へと歩き出した。お隣の桔梗の家には今日も誰もいない。桔梗自身、まだ戻っていないらしい。
 魔麗城の地下で人々が全員鏡を潜ったのを確認して老婆に感謝し、一番最後に鏡を抜け出してきた時、僕は父さんに手を引かれて潜ったからなのか、出たのは成田空港だった。携帯もずっと圏外の神界にいたせいか電池切れになってしまっていて、桔梗や葵お姉ちゃんたちが無事に家についたのか分からないままだった。せめて家で充電してから出てくればよかった、と思っても今戻ったんじゃ早すぎるだろう。パーカーのポケットに入れたままの小銭入れからコンビニで簡易充電器を買う余裕もない。
 一気に非常階段を下り終えた僕は、上弦の月が浮かぶ黒い空を見上げた。
「光くん」
 何台かの車が走り去って行った後、僕は呼ばれて声の方を振り返った。
「桔梗」
 呼び返した僕の声には親しさも安堵もない。含まれていたのは微かな驚き。
「気になってたんだ。無事かどうか」
「私もよ。会えてよかった。携帯も繋がらないから、葵ちゃんも心配してたのよ」
「長いこと圏外にいたからか電池切れちゃっててさ」
 桔梗は僕の一.五メートルほど前で立ち止まった。
 これだけ長い一日を過ごしておきながらほつれ一つない二本の三つ編み、絶やされることのない口元の微笑、落ち着いた目元、全身に漂う凛とした雰囲気。
 手が、届かない。
「どうしたの、光くん?」
 ふっと僕は笑っていたらしい。不思議そうに桔梗が僕を覗き込む。僕は、じっと彼女を見つめた。
 瞬く回数は、増えない。目に慌てた様子もない。口元に何か言葉が湧き上がってくる気配もない。
「ねぇ、桔梗、僕って子ども?」
「え?」
「僕は、そんなに魅力ない?」
 さらに顔を近づけて覗き込んで、ようやく何度か桔梗は瞬きをした。
「どうしたの、急に」
「大人って、答えはあっても答えたくないとき、質問の意味を聞きたがるんだね」
「大人って、私はまだ十六歳よ? 大人とは呼べないわ」
「そうかな。桔梗は大人だよ。十六歳の高校二年生をやっていても、本当は貴女ほど長い年月を一人で生きてる人もいない」
 すっと桔梗は僕から視線を外して、車道の方に体の向きを変えた。
「僕が好きだったのは綺瑪じゃない。海姉上だ。知ってるでしょ?」
 美しい横顔に、僕は問うた。
 確認して何になるというんだろう。本当は知らなくていいことだ。うやむやにしておけばいいことなんだ。あの時の麗にはアイカがいた。でも、今の僕にはかわりになる人は誰もいない。
 失ってしまうかもしれないのに。
「知ってるわよ」
 桔梗は振り向きもせずに一言返した。
 僕はその肩に手を伸ばそうとして――もう身長だって追いついたんだ、肩を抱きしめることだって、背伸びしなくても出来たはずなんだ――躊躇った末に伸ばしたまま拳だけを握った。
「好きだよ、桔梗」
 さっきの家の敷居じゃないけど、僕は結局彼女と僕との間にあるものを越えられないまま告白した。
「好きなんだ。桔梗のことが、小さい頃からずっと、すごく好きだった」
「ありがとう」
 桔梗の言葉には、いつも何かが欠けている。心配もすれば、喜びもするけれど、それは藤坂桔梗という人物のマニュアルを忠実になぞるロボットのように事務的なにおいがするんだ。
 でも、おそらく桔梗が抱えている問題は、麗と記憶と人格を混在させてきた結果悩んでいる僕とは違う。彼女は前世も現世も全て割り切って生きているようにみえる。どちらかと言うと、現世を行きたいのに、前世のしがらみに煩わされて自分を押し殺して前世のしがらみに付き合っているかのよう。
「君は十六歳で、僕は十二歳。君は九歳の時にここに引っ越してきたけれど……本当の君は、なんて名前なの?」
 微かに桔梗の喉が上下したように見えた。でも、見間違いだったかもしれない。桔梗に限って、本心を見せるわけがない。期待していたわけじゃない。
「藤坂桔梗よ。水海法王を前世に持つ、藤坂桔梗。光くん、私も聞いてみたいことがあったの。聞いていい?」
 どこからか桜の花びらが舞い込んでくる車道を見つめていたかと思うと、桔梗はくるりと僕を振り返った。
「な、に?」
 なぜか僕のほうがおそるおそる頷いて、だけど桔梗は気にせず、まるでさっきの僕の告白を聞いていなかったかのように問うてきた。
「光くん、私のこと、嫌い?」
 輝くような笑顔で、彼女はそう、僕に聞いてきた。
 僕は、嬉しげに輝かせながらも奥底で揺らぐ桔梗の瞳に耐えられなくて顔を俯けた。
「好きだよ」
 顔をみて言わなきゃ意味がないのに、僕は顔を伏せたまま呟いた。
 だから、桔梗がどんな表情で僕を見ていたかも知らない。もしかしたらとても間近で彼女の素顔を見るチャンスだったかもしれないのに。
 桔梗はゆっくりと前から僕の肩に両腕を回して抱きしめ、囁いた。
「嫌いになって。海は貴方に一生かけても癒しきれない傷を負わせた。恨んでいたでしょう? 憎んでいたでしょう? 好きになんてならないで。たとえ憧れだったとしても貴方に許されてしまったら……私は本物になれない」
 僕は、抱きしめ返そうと持ち上げかけた腕を中途半端な位置で止めた。
 口止めされたも同じだった。僕はもう、それ以上何も彼女に問いかけることも囁くことも許されなくなってしまった。ぶつけどころのない怒りがゆっくりとうねりながらこみ上げてくる。
「僕は、木沢光として藤坂桔梗に初恋をしたんだよ。それだけは、認めてやって」
 足掻きたい。
 君が全てのことに決着をつけて本当の自分に戻る時まで、待っててもいいかと、問いたいのに。
 夜空に舞う花びらを、月明かりが薄紅色に透かしだす。
 失恋なんてもうしたくないのに、もうこれ以上この気持ちを大事に抱きしめておくことは出来ないんだ。桔梗に嫌われたわけじゃないのに、ただ、線を引かれてしまっただけなのに、これからもずっとお隣さん同士で姉弟のように接していかなきゃならないのに。
「光くんが知っているのは、藤坂桔梗」
 海姉上の偽者に恋をしたわけじゃないんだ。海姉上にまた恋したわけでもない。君はいつも一人で凛と前を向いて歩んでいくから、悲しみも喜びも全て飲み込んで完璧な藤坂桔梗として生きているから、だから惹かれたんだ。同情なんかしたつもりはないけれど、強すぎる君を一人歩ませていくことが僕は不憫でならなかった。誰か一人くらいは理解者がいてもいいんじゃないかって。弱みを見せることを嫌う君だから、きっと僕が何歳になっても、前世のしがらみが全て消滅しない限り僕の提案に君が頷くことはないと思ってはいたけれど。
「光くんは本物の藤坂桔梗を覚えてくれている。私はそれで十分」
 僕は持ち上げかけていた腕で桔梗の腕をゆっくりと解いた。
 いなくなるつもりだと、思った。いつか、桔梗は藤坂桔梗ごといなくなるつもりだ。
「嫌だ……」
 一歩、離れる。
「そんなのは嫌だ。許さない」
 もう一歩、桔梗から離れる。
「何を?」
「いなくなるなんて、許さない!」
 怒鳴った僕に怯むことなく、桔梗は僕を困惑した表情を作って見つめていた。
「わがままねぇ」
「わがままだよ! 桔梗をつなぎとめるためなら、いくらでもわがまま言ってやる! 子供だもん。聞き分けのいいふりなんかしてやらない! 僕は桔梗が好きなんだ。いなくなることも消えてしまうことも許さない!!」
 桔梗の両袖を掴んで、僕は桔梗を睨み据えた。
 脅すつもりなんかなかったのに、こみ上げてきたものを僕は結局我慢することが出来なかった。
 桔梗はするり、と僕の手から両手を抜き去った。
「光くんなら分かってくれるかと思ったんだけど」
 背を向けて、何歩かマンションに向けて歩いて、再び桔梗は振り返った。
「忘れてあげる。だから、貴方も今言ったことを忘れなさい。誤った認識で私を理解したふりなんかしないで」
 それは思いのほかきっぱりとした宣言だった。鋭利な刃物を首元に突きつけられたかのように、僕の全身は粟立った。
 一瞬の緊迫感。
 そして、桔梗はにっこりと笑んだ。
「なんか、騒がしいわねぇ」
 いつもの微笑。しかし、彼女の言葉につづいて道路の向こうから聞こえてきたのは、不吉な救急車のサイレンだった。
 行き過ぎるかと思った救急車はマンションの入り口前に堂々と止まり、慌しく担架を抱えた救急隊員たちが非常階段を上っていく。しばらくしてマンションの入り口から聞こえてきたのは、父さんの悲鳴にも似たママの名前を呼ぶ声だった。
「洋子! 洋子! しっかりしろ、洋子!」
 担架に乗せられているのはお腹の大きなママ。半泣きで寄り添っているのは、さっきまであんなにかっこつけていた父さんだった。
「行かなくていいの?」
 優しく桔梗は僕を促した。
 僕は唇を噛み、桔梗とすれ違いざま、彼女に囁いた。
「それでも、好きだよ」
 謝らない。謝ったら、僕は自分の気持ちに嘘をつくことになるから。初めて桔梗を怖いと思ったけれど、それでも、いつか彼女が見ているものが僕にも見えるようになったら。そのときはもう一度、彼女に伝えよう。追いつかなきゃならないのは身長だけじゃ足りなかった。それが分かっただけでも良しとしなきゃいけない。
 目を閉じて気持ちを切り替えて、僕は救急車の中に呑み込まれていった担架を追いかけた。
「マ……」
「ママ! 父さん、どうしたの?!」
 もう少しでママたちに追いつく、そう思った瞬間、僕の行く手を遮って、僕の台詞まで横取りした奴がいた。
「ああ、光、大変なんだ、ママが急にお腹痛いって……」
 陣痛が始まっただけなのに、父さんたら救急車呼んじゃったのか、なんてつっこめる距離じゃなかった。
 父さんは救急車に乗り込んできた僕そっくりな奴の後ろに、もう一人息子そっくりな奴、つまり僕がいることに気づいて目を丸くした。
「光?」
 僕への父さんの呼び声に、偽者の僕が本物の僕を振り返る。
 にやりと笑いかけたそいつを、僕は肩を引き掴んで救急車から引き摺り下ろす。
「厚かましい奴だね。偽者のくせに僕の家族と家族ごっこしようっての?」
 アスファルトに転がしたそいつに馬乗りになって動けないようにすると、僕は救急車を振り返った。
「父さん、後で必要なもの持ってくから連絡ちょうだい」
「あ、ああ……」
 うろたえている父さんに、救急隊員たちも異変を察したらしい。だけど。
「ここは私たちに任せて、行ってください。おじ様の息子さんなら、心配ありませんから」
 桔梗が僕たちと救急車との間に入って軽く手を振ってみせると、父さんは神妙に頷き、救急車の運転手が扉を閉めて救急車は赤いサイレンを点して公道へと出て行った。
「桔梗」
 ばたつく自分を押さえ込んで見上げた桔梗は、いつもどおりくすくすと笑っていた。
「ほんと、ただ見ただけじゃどっちがどっちだか見分けがつかないわねぇ」
「笑いごとじゃないよ」
「ほんとだよ」
 偽者の僕まで不快感をあらわに桔梗に言った。
「お前に言う権利なんてないだろ」
「僕たちが違うとしたら、それは生まれた時間だけ。現世を実際に生きてきた時間だけ。でも、君が重ねてきた分の記憶が僕にはある。僕だって本物だ。君には自分を殺すだけの度胸がある?」
 偽者の僕は、押さえ込まれて尚余裕げな笑みを崩さなかった。なんとしてでも本物の僕に成り代ってやろうという必死さは微塵も見えない。表面的には。
「本物と偽者の違い、一つ教えてやるよ。偽者は自分が偽者だって知っているってことだ――〈紫精〉」
 短く握った紫精の鋭い切っ先を、僕は偽者の胸に垂直に突きたてた。偽者は目を見開き、赤い血を吐く。赤く染まったその口で、偽者は呟いた。
「〈紫精〉」
 紫色の光が偽者の手に宿り、僕の上に振りかざされる。桔梗は動かない。ただ様子を見守っているだけ。仕方なく僕は紫精を引き抜いて偽者の上から転がり退く。間髪をいれず、偽者が僕の腕を掴んで僕の上に馬乗りになる。
 ぱたぱたと僕の胸の上に偽者の僕の血が落ちてきた。
 血を流して死にかけている僕。意地悪な鏡が間に挟まれているかのように、僕らの運命は対極だ。
「どうして僕にならなきゃいけないんだよ。いいじゃないか。せっかく命を与えられたなら、別人だっていいじゃないか。木沢光の記憶があるなら木沢光って名乗っていいよ。だけど。僕の世界に入ってこないでくれ。ここは僕だけの居場所なんだ。同じ顔して同じ名前持って、同じ過去背負ったお前の居場所なんかないんだよ」
 奴が僕なら思ったはずだ。どうして本物だけが認められて偽者が認められないのか、と。偽者だって本物になる権利があるんじゃないかって。
 もし、僕が偽者だったら。
「どうして生まれてきたんだろうと思うよ。偽者になりたくて生まれてきたわけでもないだろうに。その魂が憶年樹を経てきた本物の魂だとしたら、尚更、コピーなんかの体に入れられたら僕は僕を造った奴を許さないと思う」
 闇獄界を彷徨う魂がどんな道を通ってくるのかは知らない。転生さえあるのか、僕は知らない。それでも思うんだ。誰かのコピーとして生かされるくらいなら、僕は今の自分を本物にするように努力する。奴ら〈似影〉は、僕らの一挙手一投足をそのまま真似るわけじゃない。鏡に写し取られて分かたれた時から、もう記憶の共有率は落ちているんだ。
「違う?」
 血に混じって、偽者の僕の目から黒いタールのような涙がこぼれてきた。
 ああ、そうか。違うんだ。こいつは僕の偽者なんかじゃない。
「悲しみを知っているのなら、これ以上戦う意味なんかない。戻ってきなよ。君は、切り離された僕の一部だ。そうだろう?」
 もう一人の僕の顔や首、手、そして全身に無機質なひびが入っていった。
「望みは何だった?」
 目を見開き、僕を見つめるもう一人の僕に、僕は問うた。
「……ふりじゃない、本当の家族……ごっこじゃなくて、なくならない僕の場所……」
「何だ、純粋じゃないか」
 純粋すぎて、最も僕が忌避したかった僕の望み。彼が〈聚映〉によって僕からはがされることがなければ、僕は無邪気にさっきあの銀の敷居を越えていられたかもしれない。頭で望んでいたって、心が決めていなければ飛び込めない場所だってあるんだ。いや、頭が拒んだから、結局僕はさっき自分の家には入れなかったのか。
「帰って来い。もう、拒まない。遠ざけたりなんかしない。君の望みは木沢光として至極当たり前のことだったんだから」
 魂が抜けるように表情が消えて、全身に入ったひびは溝を増して割れた鏡の破片のように月明かりに煌きながら僕の上に降り注ぎ、僕の中に消えていった。
「桔梗、〈聚映〉が作った似影は倒すものじゃなかったんだね。自分じゃなきゃ、どうにも出来ないわけだ。あいつらは本物よりも本物の望みに忠実な生き物だ」
 コンクリートの上に大の字に寝転んだ僕は、上限のつきを背にした桔梗を見上げた。
 桔梗は僕の側にしゃがみこんで手を差し伸べる。
「それは手ごわいわね」
「手ごわすぎだよ。ねぇ、桔梗。あの地下にいた人たち、みんながみんな、自分の本当の望みを許容できるわけ、ないよね?」
「本当の自分に気づくいいプロセスになるかもしれないけれど、でも彼らはやっぱり本物にはなれないでしょうね。脈もないんだから病院になんか行ったら大騒ぎよ。全員が全員、社会的に許容できる本源的な望みを持っているとは限らないもの、〈聚映〉そのものを何とかするしかないでしょうね」
 桔梗は表情には何も出してはいなかったけれど、僕はふと気にかかったんだ。僕が一度紫精で貫いたあの偽者の桔梗は、一体どんな望みを持って本物から切り離されたんだろうか、と。
 探ろうとしても無駄だった。彼女の鉄の笑顔は気持ちの一切を外に見えないようにシャットアウトしている。
 言葉にしても、目で探ろうとしても駄目なら、諦めるしかない。僕はあっさりと話を変えた。
「そういえばさ、安藤の兄貴、サーカスの帰りに鏡くぐっても偽者が現れなかったんだよね。どう思う?」
「拒まなければならない望みがなかったのか、まさにその望みを叶えるべく動いていたところだったのか、どちらかでしょうね」
「夜が明けたら、探しに行こうか。樒お姉ちゃんもどこかに行ってしまったままだし、ママのとこに必要なもの持って行かなくちゃ」
 しなければならないことを口に出して確認しながらも、僕は抗いがたい強烈な眠気に襲われはじめていた。見ればマンションの合間の東の空は闇の魔法が解けかかっている。
「あ、携帯の充電……」
 差し伸べられた桔梗の手をとることなく、僕の瞼はそこで閉じてしまった。











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