聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

第 5 章  わがまま



 もっと。もっともっと。私を愛して。
「はい、時の実よ。五つあるわ。分かってると思うけど、約束事だから言うわね。絶対、他の人に食べさせてはだめよ?」
「わかっております」
 膝を折って時の実を拝しながら力強く爽やかな笑みを浮かべたヴェルドに、車椅子から私も微笑みかける。
 甘えたくなるのだ。この微笑に。
 私を唯一無二のものとして愛しんでくれるこのビリジアンの慈愛深い瞳を見ていると、いけないと思っていてもつい求めてしまうのだ。
 返すこともできないのに、ただ一方的な愛情を。
 嫌な女。悪い女。
 愛する気もないくせに、乾いた心を満たしてほしくて彼の笑顔を求めてしまう。利用しているだけだと分かっているのに、止められない。
 ヴェルドが何かと用事を作っては会いに来てくれるのが、何も統仲王から私の婿候補にされているからだけではない。義務で私に会いに来ているのなら、時の実をもらいにくるときだけで十分なはずだ。それも、一回に十個まで渡せるのに、他の人の口に間違えて入ってしまうと困るからなどと理由をつけてわざと五個までしかもらわないのも、私に会いたいから。
 気づいているの。貴方が心から私のことを想ってくれていることを。それを隠そうともしないことを。
 龍兄さえいなければ、私はとうにこの人の胸に飛び込んで、こんな作り物の足でなく自分の足で立って愛される喜びに満ち満ちた日々を送っていたことだろう。もしかしたら鉱兄様のように子どもさえいたかもしれない。本当は今からだって遅くはないのだ。いつだって、いつまでだって、生きている限りヴェルドは私を待っていてくれる。
 それが分かっているから、私は今日もこの人を一人で帰すのだ。
「ヴェルド」
 私は一言名前を呼び、立ち上がろうとしたその人の袖を掴む。
 甘えるだけ甘えて。搾り取れるだけこの人から私だけに向けられる愛情を搾り取って。
 龍兄のことは、いっそ嫌いになれたらどれだけ楽だろうと何度思ったことだろう。だけど、ヴェルドのことは嫌いになりたいなんて思ったことはなかった。向けられる愛情を重いと感じたこともなかった。ヴェルドはいつも私の様子を見ながら見せる愛情の量を調整してくれるから。私が友を求めている時は友人として傍らに佇み、私が守ってくれる人を求めている時は父のように私の前に立ち、私が甘えられる人を求めている時は、今のように男性として私に微笑みかけてくれる。
 彼の愛情が確実に私の心の中に穏やかな愛情の芽を育んでくれているのがわかる。私はそれを嫌だと感じたことも気持ち悪いと感じたこともない。春の日差しの中でのんびりと青空を見上げるかのように、この気持ちは温かく穏やかで居心地がいい。キスなどいらない。抱擁もいらない。身体を重ねあうことも必要ない。ただ、側にいてくれるだけで満たされる。そんな愛もあるのだと彼は教えてくれている。
「もう少し。もう少しだけ……」
 龍兄に感じる感情は、もはや長年蓄積された執着でしかないのではないかとさえ思わされる。あのどろどろとした行き場のない想いは恋じゃない。愛じゃない。諦めきれないのは、昇華できない想いが復讐に転化してしまっているから。それなのに、龍兄が私を避けるから、私の募った想いは龍兄にではなく自分を蝕んでしまっている。
 愛しすぎて憎む時間が増えるほど、私は私を嫌いになっていく。
「何のお話が聞きたいですか?」
 ヴェルドは全てお見通し。私が龍兄を憎むように愛していることも、そのせいで病んでいることも、ヴェルド自身、私に利用されていることも。すべて分かった上で受け止めているから、彼は私に期待しない。キスは愚か、手を重ねることさえも求めない。
 車椅子に腰を下ろした私と同じ目線で、ヴェルドは優しく微笑む。
「鉱土の国の砂漠地帯に新しくオアシスが生まれたと聞いたんだけど、本当?」
「ええ、本当です。人工に作ったものなんですよ。私も灌漑用の水路造りなんかにちょっと携わったんです」
 知ってる。天宮から鉱土の国を経由して周方までの安全な交易路を確保するために、点在するオアシスを増やして、いつか緑溢れる人の住みやすい土地にしようとヴェルドががんばっていることを。
 西の太陽はここ、東の聖刻の国の太陽とは違って日差しが強い。その分、空の色も限りなく吸い込まれそうなほど青い。そんな空の下に築かれた緑の城は、どれほど住み心地のよいことだろう。
 ヴェルドのオアシスの話を聞きながら、私は叶える気もない未来を夢想する。ただの聖となってヴェルドの妻となり、共に西のオアシスに暮らす未来を。
 そこに苦行のような想いを抱えた私はいない。身軽になって、夫の愛を一身に受け、自信をつけ、信頼を込めて微笑み返す私がいる。青い水路の辺で緑の茂みに縁取られた青空を二人で見上げながら畑を耕す。旅人を労わり、晩にはささやかな料理でもてなす。
 ヴェルドの話を聞きながら、オアシスに暮らす誰もが当たり前に送る日常に思いを馳せて、再び私は車椅子に縛られた現実に戻ってくる。
「いつか、私も行けるかしら?」
 話を聞き終えて、私はわざと期待させるようなことを言う。
「望まれるのなら、いつでもお連れいたしますよ」
 ヴェルドは引っかからない。期待に目を輝かせることもなく、穏やかな心持ちのままいつも曖昧にそう返す。
「貴方の妻として?」
 だから、何回かに一回は意地悪をしてみるのだけど。
「それほど光栄なことはございません。ですが、申し上げたでしょう? いつでも、と」
 余裕でヴェルドはかわすのだ。私の意地悪を。
「ヴェルド、構わなくていいからね。もし好きな人が出来たら、父の戯れの言葉など気にしないでね」
 そして、意地悪をしたあとは罪滅ぼしのようにいつも言うのだ。私のことなど、構わなくていい、と。
 本当は、この言葉こそが一番ヴェルドを困らせていることに、私はちゃんと気づいてる。この言葉こそが、彼にとって私からの一番の意地悪になるのだ、と。
 意地悪をしたくてしているんじゃない。ただ、ヴェルドには幸せになってほしかったから、だから目は合わせずに、なのに袖だけはしっかりと握って私は言うのだ。引き止めるつもりもないのに。
「お心遣い、ありがとうございます。ですが、私には今は聖様だけです」
 穏やかな微笑のまま、照れもせず、しかし自信に満ちた目でヴェルドは言う。
 自分への愛を確かめているわけじゃない。そう思うのに、彼がそう言ってくれる度に、私は心の奥底で深い安堵を得る。
「いつか、よくなったら……この病が癒えたら……」
 口先をついて出てくる小さな声。罪悪感から出てくるのか、本心から出てくるのか、それは私にも分からない。
 ヴェルドも、分かっている。私の病が永遠に癒えることがないことは。
「その時はオアシスにお連れいたしましょう。約束です」
 だから、永遠に待ち続けますというのだ、この人は。
 重いとは思わない。私はそれ以上のものを彼に背負わせている。むしろ、この重さがなければ私はとうにどこかへと吹き飛んでしまっている。
「ああ、そうだ。帰りに海様のところに寄ろうと思うのですが、何か言伝はありますか?」
「そうね、聖は元気です、と伝えて?」
 嘘をつくときばかり、わたしの声と表情は元気になる。
 ヴェルドはこのときばかりは痛々しそうに私を見る。でも、すぐにそんな表情は押し隠してまた微笑むのだ。
「かしこまりました」
 大きな背中が部屋から出て行って、居なれた自室はしばらくのもぬけの殻のように空虚な空間になった。独りぼっち取り残されて、私は窓辺に進み寄る。ヴェルドの去り行く背中を見送るためじゃない。
 あの薄蒼い雲の合間から、翡瑞に乗って龍兄が現れやしないかと待つために。





 ごちゃごちゃと居並ぶたくさんのビル、地上にひしめく住宅、薄灰色の青空を突き上げるマンション。重なるところなど、空の色くらいだというのに、わたしは家の近所の人気のない公園で白く巨大な鳥から降りた後、しばし空を見上げて立ち尽くしていた。
「樒」
 叱咤するような、それでいて心配げな低い声が耳朶を打って、わたしはいつの間にか白く巨大な鳥がいなくなり、見覚えのない中華系のクールな美青年が目の前に立っていることに気づいた。
「樒」
 その人はもう一度わたしの名を呼ぶ。わたしは思い出せないもどかしさと不審感で早くなる脈を感じながらおずおずと青年を見上げる。
「わたし、ですか?」
 静かに青年は頷く。
「過去の記憶は貴女を混乱させるだけかもしれない。しかし、忘れないでください。貴女は守景樒という人界に生まれた人間であることを。縛られるために思い出すのではないのです。確信できる真実に辿り着くために、過去を知るのです。それさえ忘れなければ、貴女が苦しむことは何もない。貴女は今を生きていいのです」
 訥々と語ったその言葉は、何かを氷解させそうで、しかし届かずに胸の奥に沈んでいった。難しすぎて、一度聞いただけでは言葉の断片すら拾えなかった。青年の言葉はきっと、覚えようとするものではなく、ワクチンのようにわたしに何かが起こったときに効いてくるもののような気がした。
 わたしは意味を訊ね返す勇気もなく、ただ首を傾げる。
 青年は微笑むことすらなくまじまじとわたしを見つめ返した。
「たとえ何も信じられなくなっても、自分だけは裏切ってはいけません。それから、エルメノが持っている〈聚映〉鏡を通して造られた偽物は、闇の者でありながら光がなければ存在できないものです」
「光がなければ存在できない?」
「はい。あの偽物の名前は〈似影〉。影は明るい場所で光を遮るものがあってはじめて形を成します。ですから、明かり一条ない真の闇の中では彼らは形を失うと同時に存在そのものを失ってしまうのです。もし、また彼らによって危険な目に遭わされたら、真っ暗な場所に逃げ込んでください。闇を潜る力は〈似影〉にはないはずです」
「闇獄主が生み出したものなのに、闇の中では存在できないなんて、そんな矛盾したものもあるんだね」
「矛盾。それこそが〈欺瞞〉たる由縁なのです。樒、いいですね、闇を恐れることはありません。光があるからこそ、闇があるのです。同様に、闇があるからこそ、光がある。いずれの存在もどちらかがなくなればいいというものではない。バランスを取ることが肝要なのです。それでも恐ろしくなったら、私をお呼びください」
 淡々と解説しながら、最後に青年は照れる様子もなくまっすぐにわたしを見据えた。
 わたしの心臓は脈に耳を寄せなくても声高に騒ぎはじめたていた。
「なんて呼べばいいの?」
「飛嵐、と」
「飛、嵐……」
 頭の奥底で何かが引っ掛かって、裏側をこっちに向けて頭蓋骨に張り付いてしまったかのような歯がゆさが全身を駆け巡った。
 飛嵐。どこだろう。どこで聞いたのかはさっぱり思い出せないけど、とても大切な人の名前、だったような気がする。
 もう一度青年を見上げても、わたしは何も思い出せなかった。
「ごめんなさい。思い出せない」
 見えない壁に阻まれているかのように、ここから先に進めない。それがもどかしくてもどかしくて仕方ない。
「貴女は過去よりも未来を選んだ。そういうことです」
 青年は謎の言葉を残して目の前から消えた。一瞬出来た公園の緑の木陰に代わりに現れたのは、さっきわたしを乗せてきてくれた白い巨鳥。それは、金色の目でわたしを一瞥して飛び上がると、灰色の雲の彼方へと飛び去っていった。
「人が、鳥?」
 氷解するどころかますます謎を深められて、わたしは一人、人気のない公園に取り残された。
 とりあえず家に帰ろう。
 頭を振ってさっきの青年のことは記憶の片隅に押しやって、わたしは公園出口から自宅の方へ、おそるおそる歩き出した。
 もしかしたらちゃんと戻っているかもしれない。いつもの洋海、いつもの家族に。学校に行けば、本物の桔梗と葵が待っているかもしれない。ううん、きっと待ってる。
 見上げた空に飛行機雲が淡く白い尾を引いて地球のどこかへと向かっていた。公園を出ると、お昼を前に洗濯物を干す主婦や郵便を配達するお兄さん、小さな子どもの手を引いてベビーカーを押しながら散歩するお母さん、携帯電話を耳にあてながら車から降り、小走りにビルに入っていく男の人――普段学校に通っていて見られない人々の日常がやけに新鮮に目に飛び込んできた。
 こんなに普通の世界なのに、わたしだけがまるで覚めない白昼夢の中を彷徨いつづけているかのようだった。
 それもきっと、昨日の夜中からさっぱり眠っていないからに違いない。気がつけばわたしったら靴も履いていない。こんな姿、近所のおばちゃんに見られたら大変だ。噂が回りまわってお母さんに怒られちゃう。
 公園から家までの道はたくさんの小さな発見に彩られていた分、思ったよりも短かった。門を開いて小さな庭を四歩で抜け、玄関のドアノブに手をかける。いつも、家に帰ってくるときと同じように、無意識でも出来る体に染み付いた動作。だけど、ドアを引き開ける前にわたしははたと我に返った。さっきよりも大きな鼓動が、背中を滑る冷たいものと共にわたしの身体を凍りつかせていた。
 あとをつけられた覚えはない。けれど、確かに今、扉を入ってから玄関扉までの四歩の間に誰かが立っていた。
「姉ちゃん」
 それは、よく聞きなれた弟の声で呼びかけてきた。
 ぞくりと緊張感に震えが走る。
「どこ行ってたの、心配したんだよ」
 どうしたらいい? 呼んじゃう? さっき覚えたばかりの呪文のような名前。でも、本物の洋海かもしれないよ? ううん、本物の洋海だったら、こんなに嫌な感じはしない。
 わたしはかみ合わなくなりそうな奥歯に力を込めて、後ろを振り返ろうとした。
 その途端、玄関のドアが内側から押し開けられた。
「声がすると思ったら、樒!」
 悲鳴にも似たお母さんの声が発されたかと思った瞬間、わたしは玄関から飛び出してきたものに抱きしめられていた。
「もう、どこに行ってたのよ! 朝起きたらいないんだもの。もう、どうしようかと……警察に連絡するところだったのよ」
 それは、お母さんの声でいかにもお母さんが言いそうなことを泣きながら喚いていた。柔らかな胸に顔を埋めさせられて、わたしは母の胸の鼓動よりも自分の胸の鼓動ばかりをうるさく感じていた。
 それもそのはずだ。母の胸からは心臓の音がしなかった。
 わたしは母を突き飛ばして後退る。
「全然、安心できないじゃないっ!」
 緋桜の馬鹿っ。
 ついさっき初めてあった少女を当たり前のように詰って、わたしは裸足のまま冷たい小道の上で踵を返した。
「どこ行くの。姉ちゃん、変だよ。事情は後で聞くからさ、とりあえず家入んなよ。靴も履いてないし」
 昨夜、わたしが家を裸足のまま飛び出す原因を作った張本人は、陥れる過程を楽しむようににやにやと笑いながらわたしを見た。
「あんたこそ何時だと思ってるの。転校したばっかりなんだからちゃんと学校行きなさいよ」
 余裕なんかちっともないのに、口から出るがままに減らず口を叩き、その勢いを利用してわたしは偽者の洋海の脇を駆け抜けて道路に飛び出した。
 右? 左? もう一度公園に戻る?
 どうしたらいい?
『一度人界に帰って安心したら、光くんのこと探しなさい。必ず会えるから』
 緋桜の声が蘇る。
 そうだ、光くんだ。光くんを探さなきゃ。どこにいる? 昨日、サーカスから無事に帰っているなら、今日もちゃんと学校に行ってるよね? それなら、駅だから右だ。
 思い切って、わたしは駆け出す。本気の洋海ならすぐに追いつかれることは分かっていたけど、あのまま玄関先に立っているわけにはいかなかった。転がるように坂を駆け下りる。靴も履いていなければ、定期もお金も持っていないのに、一路駅を目指して。
 下を向いて懸命に走るわたしは、ちゃんと前を向いていなかった。周りの景色も見えていなかった。いつの間にか通行人がとおせんぼするように前方に集まりはじめていたことにも気づかず、張られた罠の中に飛び込んでいた。
 異変に気づいたとき、わたしは横道もなければ逃げ込める店の入り口も見当たらない、ぽっかりとビルの合間の空き地の横にいた。
 一度立ち止まったわたしは、ちら、と後ろを振り返る。
 後ろからは、走りもせずに洋海の姿をしたものがゆっくりと歩いて追いかけてきていた。
「姉ちゃん、相変わらず足遅いね」
 目が合うなり、それはいかにも洋海が言いそうなことを口にする。
「何で追いかけてくるのよ」
「だって姉ちゃん足から血出てるよ。ほっとけるわけないじゃないか」
 言われて足を見てみると、確かに左足の裏がざっくりと切れて血が流れ出していた。こっちに戻ってきてからガラスか何かが刺さっていたのだろう。見れば見たで痛みがこみ上げてくるから性質が悪い。
「いいからほっといて。こっちにこないで」
 異様な光を目に浮かべた群集と洋海に似たものとの間に挟まれて、わたしは空き地を背に後ずさりする。やがて空き地への侵入を阻むロープが膝の裏にちょうど当たった。このロープを飛び越えて向こうに逃げたって、その後ろには非情なコンクリートの壁が聳えている。泥棒でもないわたしにはとても越えられそうにない。
 〈渡り〉を使えば早いのは分かっていた。でも、緋桜に言われて飛嵐がここにわたしを連れてきたのには、必ず意味があるはずだ。本物がいる場所に、ちゃんと連れてきてくれたはずだ。その人だって、こんな偽者だらけの世界に苦しめられているかもしれない。それなら繊月で片っ端から射抜けばいいかといわれればそういうわけにもいかないだろう。もし仮に本物が混ざっていたら大変なことになるもの。知らない人たちばかりじゃ本物か偽者か見抜くことも出来ない。たとえ、偽者とわかっていても、今のわたしは洋海の偽者らしきあいつにも繊月を放つことは出来ない。逃げ込むべき陰も見つからない。最後の手段は飛嵐と呼ぶことだけど、さっき帰ったばかりなのにまた呼び出すのも気が引ける。
「ほっとけないよ。決まってるだろ?」
「どうしてよ! どうして追いかけてくるのよ。関係ないでしょう? 少なくともこの人たちは、何も」
「関係大アリ。わかってるんでしょ? この人たちも鏡から飛び出した偽者だって。偽者はさ、本物がいなくなれば本物になれるんだよ。姉ちゃんも同じ。ね? 姉ちゃん」
 洋海の偽者が振り向いた背後、制服を着て学校のかばんを持ったいかにも登校途中のわたしが立っていた。
「一人じゃ難しくても、何人か同じ目的の人たちが集まっていればやりやすいものでしょう? 群集心理って言うんだって」
 偽者の微笑を貼り付けたわたしが淡々と解説した。
「やりやすいって、何をよ?」
 思わず聞いてしまってから、しまったと思っても遅い。答えなんか分かっているのに。
「こういうこと」
 似せのわたしの一言で、集まっていた人々は一気にわたしに押し寄せた。もみくちゃにされながら右腕、左腕を掴まれ、背後から羽交い絞めにされて、暴れようのないくらいに締め上げられる。
「苦、し……」
 仰け反ったわたしは思わず天を見る。薄青い空が白黒にちかちかして見える。
 そんなわたしの前に偽者のわたしが立つ。
 その手に握られているのは白矢。繊月と対になっている矢。
「どうし……て……」
「どうしてこれを持っているかって? 決まってるじゃない。あなたのコピーだもん。魔法石だってちゃんとコピーされたの」
 馬鹿な。そんなわけない。魔法石は魂も同じだもの。魂までコピーできるはずがない。
「異国の少女の記憶も、しっかりあるんだよ。本物としての条件はばっちりでしょう?」
 白矢をわたしの顔の前でちらつかせながら、偽樒は自慢げに言った。
「辛く、ないの?」
 思わずわたしは尋ねる。
 わたしの問いの意味が分からなかったのだろう。偽樒は「は?」とばかりにわたしを覗きこんだ。
「辛い? 何が?」
「怖くない? 知らない少女の記憶があるんだよ?」
「怖い? あはは、そんなわけないでしょ。それを言ったらわたしたちはみんな、知らない自分の記憶で構成されてるんだもの。異国の少女の記憶もわたしの一部なんだよ」
 諭すように彼女は言ったけれど、わたしは動かせる限り首を振った。
「違う。わたしはこわいもの。その少女はわたしじゃない。わたしじゃないの!」
 逆上がりも出来たことがないのに、わたしは両腕と背中を固められているのをいいことに、両足で地団太を踏むように偽の自分を蹴りつけた。
 不意を食らったのだろう。偽樒は後ろに倒れる。
 その手からは白夜が抜け落ち、わたしの足元に転がった。不思議なことに、誰もその矢を拾い上げてわたしに向けようとはしない。
「離して! はーなーしーてーよーっ」
 理由を考えている暇はなかった。とりあえず偽樒の手に渡らないように、白夜を足で踏みつけて、もう片方の足で取りすがろうとしてくる人々を蹴散らす。
「痛ったー。偽者だからって、よくも本気で蹴ってくれたわね。偽者にだって痛覚くらいあるんだから!」
 偽樒はよろよろと立ち上がったかと思うと、遠慮なくわたしの腹部に膝を入れた。
 それだけでわたしの意識は半分以上飛び去る。お腹の中がぐちゃぐちゃになってしまったかのような気持ち悪さがこみ上げてきて、口から何かが吐き出される。
「悲しいね。偽者、偽者ってどうして自分でそんなこと言うの?」
 涙目になりながら、呟くようにわたしは言った。
「エルメノも、ひどいよ。あんなに自分は本物になりたがってたのに、こんなに同じ悲しみを背負う人たちを作り出して、同じ宿命を与えるなんて」
 思いはもはや、言葉にはなっていなかったかもしれない。
 それでも、両腕と背中を捕まえる力が一瞬緩んだのは確かだった。
 出来ることならその隙に逃げ出せればよかったんだけど、わたしの体は前のめりにアスファルトに倒れただけだった。お腹を抱えて咳き込んで、転がって逃げ出すことすら出来やしない。まして、〈渡り〉を唱えることも、飛嵐の名を呼ぶこともできるわけがない。
 こんな集団リンチみたいな格好で、まさか自分が殺されるなんて思ってもみなかった。まして、昨日まではそう。昨日の今頃は教室の窓から満開の桜を眺めていたのに、運命なんてどう転がるか分からない。
 薄れゆく意識の中、円の外側がざわついたような気がした。かと思うと、うっすらと半開き状態になった瞼の向こうに聳えていた黒い人々の影が一つずつ減っていくのが分かった。
「守景!」
「姉ちゃん……!」
「守景さん!」
 三人の男の子の声が聞こえて、そのうち最もよく聞きなれた声の持ち主に、わたしは助け起こされていた。
「洋、海、なの……?」
「そうだよ。姉ちゃん、一人でよくがんばったな」
 目が開かない。お腹が気持ち悪い。
 肉親の顔を見た途端にわたしの気持ちは緩んで、洋海の腕に全体重を預けきった。
「どっちが上だかわかんないね」
「喋らなくていいから」
 そう言って洋海はわたしの口元をティッシュで拭う。
「洋海、お腹痛いよぉ。もう、こんな怖いところ嫌だよぉ」
「分かってる。後は何があっても俺が守るから」
 洋海のしっかりした声が早鐘のようだった心臓に染み入って、落ち着かせていく。
 大丈夫。洋海がいれば、絶対、大丈夫。洋海はわたしに嘘をついたことがないから、とっても安心できる。
「夏城さん、安藤さん、そっちは?」
「埒あかねぇ。お前の偽者以外、一旦本性見せてもすぐ立ち上がってくるんだけど」
「きっと本人が倒さなきゃ意味がないんですよ。だから木沢君が一度倒したはずの守景君までここにいたんだ」
 夏城君? 安藤君? いるの? ここに?
 夏城君がいるんだ。そう思った瞬間、わたしは意地でも立ち上がらなきゃいけないような気がした。こんな姿、見せられない。
 だけど身体は心ほど思いのままにはいかなかった。
「大人しくしててよ、姉ちゃん。今、安全なところ連れてくから」
 肩を押し止められると、途端にわたしの身体は力をなくしてしまった。
「安藤さん、行きましょう。工藤先輩のお宅に」
 洋海の口から出た言葉にわたしはぎくりとする。
「工藤君の、所?」
「とりあえずはそこが一番安全だから」
「い、いや、だってわたし……」
「逃げ出してきたんだろ? 偽者かもしれないって疑って。工藤さんも草鈴寺さんも真っ青になってたよ。姉ちゃんが塔から落ちたって。だから、ずっと探してたんだ、俺たち。大丈夫。工藤さんたちは疑われたこと、気になんかしてないよ」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと」
 明るい洋海の笑顔が、逆行になっているくせにやたら眩しいのは、気が弱くなっている証拠だろう。
「それでは、お連れいたします」
 いつの間にかアスファルトの上には、わたしと洋海を中心に白いチョークで小さな魔方陣らしきものが描かれていた。その中に、まずは安藤君が、続いて夏城君が入ってきて、見計らったように魔方陣を象る白いチョークがまばゆく光を放った。
「〈渡り〉」
 そして安藤君の一言で、わたしの視界から薄曇の青空は消え去った。











←第4章(6)  聖封伝  管理人室  第5章(2)→