聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 4 章  業 ――オリジナル――



 本物だと思う場所は偽物の場所。それなら、偽物だと思う場所は僕にとって本物の場所になりうるのだろうか。
 葵お姉ちゃんが浮かべた小さくても明るい光球に照らし出されたがらんとした空間を前に、僕は溜息さえ出なかった。
 仮定の問いに現実は明確な答えはくれない。答えが欲しければ、目の前に突きつけられた事実から自分で答えを決めるだけだ。与えられるのではなく、これと思われるものを事実から抽出して検討づけるのでもなく、自ら真実と思われることを信じること。それが僕が望む問いの答えの出し方。
 だけど、方程式が分かっているからといってxに代入する数値の選定方法まで分かっているとは限らないんだ。
 大広間を出て、記憶を頼りに地下へと続く階段を下りる。片山先生の「そうそう、こんな階段だった」というほぼ当てにならないだろう言葉にも勇気づけられて、僕はクリスと共に先頭に立って石畳の階段を下った。なのに、その先に現れた光景がこれだった。昨日、僕が捕らえられていたのは確かにこれくらい広い地下室で、アルト・カルナッスル城には地下室はここ一部屋しかない。間違えようがないのだ。それなのに、僕が見たはずの横たえられたたくさんの人々も中央の紫色の液体を目いっぱいに湛えた巨大フラスコも四方の壁に張られた鏡もここにはない。
「片山先生、片山先生も紫色の液体が入った大きなフラスコ、見た?」
「ああ、見た……と思う」
 僕の問いに、片山先生はちょっと自信なさげに首を傾けた。
「思うって、先生だろっ。びしっとはっきりしろよ」
「それを言うなら葵ちゃん、先生相手なんだからもっと敬意をこめて『しっかりしてください』って言わなきゃ」
「言ってることは同じだろう?」
 葵お姉ちゃんは不満そうに桔梗を見つめる。
 僕はクリスと目配せしあい、片山先生を窺う。片山先生も、僕らの視線に気づいて苦笑を返してきた。
「片山先生と僕らが合流してここに来るまでざっと五分。先生がここから逃げ出して僕らと合流するまでが……」
「ふらふら酔っ払ったようになってたから、まあ十分というところか」
 左腕の時計を見て片山先生が頷く。
「たった十五分で、あのたくさんの人たちと巨大フラスコ一つを片付けたってことか? 濃い香りまで?」
 僕は軽く腕を組んで広々とした、しかしさっきの大広間に比べれば灰色い石ばかりが積み重ねられた空間を見回した。
「昨日はこの床がこう、傾きながら中央に沈んでいって、眠っていた人々も下に落ちていったんだ。てことは」
 僕は部屋の中央へ向けて走り出す。足音は靴裏の消音素材で鈍いけど、こつこつと同じ音が続き、中央に近づいたある場所から低く響くものに変わった。
「ここだ」
 しゃがみこみ、はめ込まれた石を取り外そうと溝に指を入れるが、簡単には持ち上がらない。
「そこの下が空洞になっていると?」
 僕とは違って大股で滑るようにやって来た片山先生が、僕の前にしゃがみこむ。
「うん、この辺が丸ーく」
「それならとりあえずこれ、使ってみる?」
 片山先生がズボンのポケットから取り出したのは、真新しい金属のへらのようなものだった。
「何ですか、これ?」
「油絵用のペインティングナイフ。学校で使っているものが壊れてしまったから、新しいのに変えようと思ってて忘れてたみたいなんだ」
 ずっとポケットに入っていたのに、サーカス行った後まで気づかなかったんだ……独身なんだろうな、この先生。服のセンスとか、彼女もいなそう。
 ざっとその全身に目を走らせて、僕は片山先生からペインティングナイフを受け取った。しかし、溝にはめ込み、石を押し上げようとしても、五面ががっちり埋まってくっついてしまっているらしく、びくともしない。
 だんだん乱暴に溝を突きはじめた僕の様子を間近で見ていた片山先生が、とぼけたように尋ねた。
「ところで木沢君。床は一斉に中央へ向かって落ちるように開いたんだろう? それならこの石の下にも隣の石も一緒に貼り付けている板か何かがあるんじゃないかなぁ」
「あっ、うっ」
 僕はペインティングナイフを握る手を肩くらいの位置に持ち上げたところで止めて、片山先生を仰いだ。
「つまり、この床を開く仕組みがあるということだよね? 誰か操作している人はいなかった?」
 僕は首を振る。
「中央のフラスコの中の液体が沸騰して、揺れたかと思ったら自動的に床が抜けてたから。でも、あとから出てきた奴がいた」
「その人はどこからでてきた?」
「どこって、フラスコの上から」
「ふぅむ」
 片山先生は口元に手を当てながらゆっくりと立ち上がり、中央へ向けて歩き出す。
「ちょっと待ってよ」
 僕も立ち上がって、片山先生の背中の衣服を引っ張った。
「ん?」
「何でこれ、貸したりしたんだよ。この石は取れないって分かってたんでしょ?」
 ずいと差し出したペインティングナイフを受け取って、またズボンのポケットに入れると、片山先生はさっきからずっと張り付いている困ったような微笑のまま僕を見た。
「確証がなかったし、それに、木沢君は何でもやってみないと、人から言われただけじゃ納得しなそうだったから」
 不意に、呆れたような微笑が、麗の記憶の中の医術の師匠の微笑と重なった。
『麗、君はほんとに自分で確かめてみないときがすまない性質らしいね。だからといって、危険な毒草まで呷るのは感心しないな。記録というのは再び同じ過ちを犯さないために記され、受け継がれているものなんだ。君は過去の人々の偉業を尊重する気はないのかい?』
『ですが、先生、僕が新たに毒を試したことにより、量を加減すれば薬になるものも見つかりましたよ』
『全身麻痺で三日間、動けなくなったのは誰ですか?』
『麻酔に使えば、痛みの伴う施術も容易になります』
『……全く、君の飽くなき探究心には頭が下がります』
 呆れてもなお、麗を見捨てなかった先生。麗の頑固さを許容してくれた人。
「ジリアス?」
「ん? じりあす? なんだい、それは。誰かの名前かい?」
 呆れた微笑が苦笑に変わったのを見て、僕は慌てて取り消した。
「何でも、ありません」
 顔を背け、僕はちらりと桔梗を窺い見る。
 桔梗は葵お姉ちゃんとクリスと共に、室内をとりあえず歩いてみているようだった。壁沿いにいくら歩いても灰色い石積みが続くばかりの中、桔梗は僕の視線に気づいて振り返る。
「何かヒントは見つかった?」
「んーん、何も」
 エコーする桔梗と僕の声が天井の中央で混ざり合う。
 桔梗はこの先生に出会ったとき、何も感じなかったのだろうか。いや、そんなわけはない。桔梗なら、きっととうに何かを感じ取っているに違いない。先日担任になる前から、もしかしたら去年、高等部に進学した時から。
 頼りない風貌、頼りない物言い、だけど、片山先生の人を見る目は鋭い。美術室の鏡から出てきた時の鷹揚な構え方といい、桔梗だって何かを掴んでいるからあんな無茶をしたんだ。
 ジリアス・ルーリアン。四楔、北の羅流伽の王にして、将軍職筆頭の北方将軍を担う。さらに平時は天宮の侍医として統仲王を支え、法王たちの健康を管理してきた。最も世話になったのは聖と、おそらく僕、麗。聖は言わずもがな、幼い時から目が離せない患者だった。麗の場合は、海姉上の件で精神のバランスを欠いていたとき、氷雪に閉じ込められた魔麗城から連れ出し、天宮や羅流伽で自分の手伝いをさせ、医術への興味を植えつけた。おおよそ、父とは別だが、法王たちにとっては叔父という感覚だったのではないだろうか。少なくとも麗はそうだった。厳しくされて反抗しても、けして切れない絆が彼と僕との間にはあった。彼は、僕たちの精神的、肉体的支えだった。
「考えられることは、僕たちがここに来ると分かって人々もフラスコも、この下に落として隠した。どこかにこの床を開くスイッチがあるはずだけど、禦霊が出てきたのはフラスコの上の方。フラスコがあった場所の真上には……シャンデリア?」
 見上げた先、灯が点っていないシャンデリアがあった。
「あったっけ、あんなもの」
 こめかみのあたりを押さえながら僕はそれを見上げた。そもそも地下は食糧庫にしたり、書類庫にしたり、人を招き入れるための昨日はないのだから、あんな派手なシャンデリアなんてつけているはずがない。昨日目が覚めた時だって、巨大フラスコがあったとはいえ、真上にあれほど派手なシャンデリアがあって気づかないものだろうか?
「罠かもしれないね」
 僕の独り言を受けてシャンデリアを見上げた片山先生が呟いた。
「罠ってことは、乗れば何か起きるってことだよね。葵お姉ーちゃーん」
 片山先生がおいおいと言わんばかりの顔で僕を見ていたけれど、止めるつもりはないらしい。
「何だ、光」
「〈朱雀蓮〉であのシャンデリア、引っ張れる?」
 葵お姉ちゃんは一瞬僕のことを穴が開くほど見つめたが、天井に浮かべた光球と片山先生とを見比べて、「ま、いっか」と呟き、右手を一振りした。
 葵お姉ちゃんの右手には紅の炎の連なりが握られていた。長さにして三メートルはあるだろうか。葵お姉ちゃんはその朱雀蓮を一振りしてシャンデリアを吊るすワイヤーに絡みつかせた。
「勢い調節しないと焼け落ちるわよー」
「わぁってるって」
 桔梗の揶揄含みの声に葵お姉ちゃんは振り向きもせずに返事をし、「よっ」という掛け声と共に朱雀蓮を引っ張った。その腕前、鞭捌きたるや、毎日練習していたのではないかというくらい昔と変わらない。体もとい、魂が覚えているんだろうけど。
 シャンデリアは葵お姉ちゃんが踏ん張るまでもなく簡単にワイヤーを伸ばした。連動するように、足の下、床一枚下から歯車が回り始めるような音が響きだす。
「ビンゴ!」
「喜んでる場合か。床が抜ける!」
 クリス、桔梗、葵お姉ちゃん、片山先生は一斉に壁目指して思い思いの方向に走っていた。スタートダッシュに出遅れた僕は、慌てて手が届く位置まで垂れ下がってきていたシャンデリアによじ登った。
 床は、僕のよじ登ったシャンデリアの真下から二つに割れ、ゆっくりと暗い口を開けた。
 呻き声が漏れあがってくる。知性あるもののそれではない。理性を失い、絶望の闇に突き落とされたことだけを知っている動物の吐き出す嗚咽。地獄の釜の蓋の如く開いた床の向こうからは、ぎらついた白目を剥き出し、光ある地上への梯子の如く差し伸べられた石畳の床を駆け上がりだす人々。
 白昼の如き光球の元に現れた人々は、スーツを着たサラリーマンだったり、その辺に買い物に出てきましたって格好の主婦だったり、見知った学校の制服を着た高校生だったり中学生だったり。本当に、ちょっとその辺から集めてきたエキストラのような格好をしていた。でも、正気じゃないのは目を見れば分かる。
「エルメノ……これは、失敗なんじゃないのか?」
 理性を欠いた兵など、わざわざ人界から調達する必要はない。闇獄界の低級魔物を集めて放てばいいだけの話だ。
 ただ、僕を苦しめたいだけだというのなら、残念ながら多少の効果はあったと言える。
「父さん?」
 ママとは違って、パパと呼ぶにはいささか照れが入る。もう、何ヶ月会っていないだろう。お正月も仕事で日本に帰ってこられず、パソコンを通しての新年の挨拶になってしまっていた。実際に最後に会ったのは、去年の七月、父さんがなかなか休みを取れないものだから、夏休みにママと僕とでアメリカに遊びに行ったとき以来だ。
 見間違いでなければ、の話だ。
 大体もう十ヶ月近く会っていないんだぞ? 一人暮らしの不摂生が祟って痩せこけてるかもしれないし、ジャンクフード漬けになって太ってるかもしれない。それに、眼鏡にスーツ姿なんて真面目な社会人の格好、めったに見ることないんだから、やっぱり違うかもしれない。それに、この時期に帰ってくるなんて一言も聞いてなかったし、あそこにいる奴らはみんなサーカスで釣られた奴らなはずだろう? 何で父さんがサーカスなんか行ってるんだよ。
「サーカスとは限らないよね。飛行場にもゲートはあるし。スーパーにだって決められた出入り口がある。学校にも会社にも、姿を映す鏡はそこら中にある」
 背中がぞくりと震えた。
 耳元に当たる息はエルメノのものだった。
「待て、エルメノ。〈聚映〉を寄こせ」
 捕まえるつもりで僕が振り返ったとき、エルメノはとうにチェシャ猫のように消えていた。
「つまり、〈聚映〉なしでも彼らを助けられる、ってことか」
 これはゲームだ。人為的なゲームは、与えられた条件内でクリアできることになっている。「これはゲームである」というエルメノの言葉に嘘がなければ。
 だけど、これほどたくさんの人々をどうすれば助けられる? 傷つけずにも人の世界に帰せる?
 焦るそばから、葵お姉ちゃんが逃げて行った方で小さな爆発が起こった。
「〈火弾〉っ」
 そして更なる爆発で寄り集まった人々が十人単位で吹き飛ばされ、積み重なる。
「葵お姉ちゃん、だめだ! その人たちを傷つけないで!」
 慌てて僕は叫ぶが、返ってきたのは怒声だった。
「はぁ? ふざけんなっ! 黙って殺されろって言うのかよ!」
 殺される? 元は普通だった人たちに? 葵お姉ちゃんが?
 いや、葵お姉ちゃんだけじゃない。桔梗はどうしてる? クリスは? それこそ戦う術を持たない片山先生は?
 床下から這い出した人々の流れは、出口を求めるというよりも、自分達と異種のもの、つまり闇獄界の瘴気に感染していない僕たちを排除する方向に流れているようだった。一人で抗戦する葵お姉ちゃんはそれでも軽度の爆発で彼らを弾き飛ばすに止めている。桔梗も同じく一人だったが、こちらは自らの周りに水の障壁を張っていた。気になる片山先生は、氷壁を張ったクリスの背後で震えている。
 床下から這い上がってきた人々は、ベルトコンベアーにでも乗せられているように葵お姉ちゃん、桔梗、クリスと片山先生の方に流れていっていたが、桔梗の方へと引き寄せられかけていた父さんは、何を思ったのか、あるいは僕の気配に気づいてしまったのか、ふとシャンデリアを見上げた。ぶつかり合う音が聞こえるかのように僕らの視線は交錯する。
 父さんは、見たこともないほど虚ろな瞳で僕を見上げていた。
 様子のおかしい仲間に気づいて、周りもシャンデリアの上を見上げる。
 その後、猿山にでも群がるように人々は喚声を上げながら飛び上がったり肩車をしてシャンデリアの縁を掴み、揺らしはじめた。そんな群集に襲われる僕を、父さんは少し離れたところで虚ろな目のまま見つめていた。
 揺らされるシャンデリアの上で、僕は父さんから一旦目を離し、深呼吸をしてもう一度室内を見渡す。昨日、いや、もう一昨日になるのか。この地下室で目覚めた時、ここには巨大なフラスコと一面に張り巡らされた鏡があった。フラスコは麻酔と思しき紫の気体を吐き出し、地下に集めた人々が途中で我に返らないように意識を奪うために置かれていた。それなら、あの鏡は何故一面に張り巡らされていたのか? そして、何故今取り払われているのか? 考えられることは、あの鏡を見れば自分が理想とする自分や世界が映し出され、すんなりと本物の自我を手放せるものになっていたのではないかということ。この室内自体が〈聚映〉の中だったんだ。そして今鏡が置かれていない理由は、完全に彼らが本物の自我を手放しているから、自己を意識させる鏡は逆に彼らの意識を取り戻させてしまう可能性があるから。
 僕はもう一度葵お姉ちゃんと桔梗とクリスの方をそれぞれ眺め渡した。
 思ったとおりだ。
 小さな爆発で人々を弾き飛ばしている葵お姉ちゃんのところは、ひっきりなしに人々が襲い掛かっている。だけど、水の障壁を張っている桔梗の周りは動きが鈍い。氷壁を張っているクリスの周りでは完全に襲い掛かる動きが止まり、集まった一人ひとりが何かと戦うように頭を抱えて腰を折り呻いている。
「クリス、生きてる?」
「生きてるよ。後ろで先生が真っ青になって震えてるけどね」
「それは何より。じゃあ、この部屋一面、床と天井、壁の四方を凍らせるくらいわけないよね」
「そりゃあもちろん」
「葵お姉ちゃん、そういうわけだから、僕が呪文唱え終わった後、人々が凍死しないように適度に〈暖球〉を浮かべてくれないかな。床からも天井からも、壁からも離して」
「分かった」
 火弾を止めて暖球を出すタイミングが難しいだろうけど、葵お姉ちゃんなら何とかするだろう。
「それから桔梗、水の精霊の力を貸して。出来るだけ曇りない鏡を作りたいんだ」
「天地四方に水の精霊たちを集めればいいのね」
「よろしく」
 短く桔梗に手を振って、僕は紫精を横薙ぎに振り回してシャンデリアの上に乗り込んできた人々を押し払った。払われた人々は、肩車をしていたため、バランスを失って群がった人々の中に放り出されていく。
「ごめんね」
 届かないだろう謝罪を口元で呟いて、僕はシャンデリアの上にしっかりと腰を下ろして目を閉じた。
 僕の準備が整ったことを見てとって、まずは桔梗が水の精霊たちを天地四方の壁に集める呪文を唱えだす。
『集え、水の精霊たちよ
 寄り集まりて 天地四方を洗い流せ』
 一瞬遅れて僕も呪文を唱える。
『清らなる水面よ 凍りつけ
 偽りに満ちた闇を弾き 真実を映しだせ』
 僕の呪文が終わるのを待って、桔梗は呪いを形にした。
「〈流壁〉」
 間髪をいれず、僕も呪いを結ぶ。
「〈氷面鏡ひもかがみ〉」
 一瞬にして、室内の温度が吐息さえも凍りつくほどに下がった。襲い来る人々の動きも呻き声も止まる。その瞬間を狙って、葵お姉ちゃんが静かに唱えた。
『集え 炎の精霊たちよ
 汝らが温もりを以って 凍えし者どもの肌を温めよ』
「〈暖球〉」
 人々の頭上にぽつぽつと明るく温もりを放つ炎の球体が浮かび上がる。それは寄り添うように僕の側にも現れた。少し離れてはいても、その球体はなかなかに温かい。僕は、鏡となった氷が融けてしまわないようにより一層意識を集中させた。
 極度の寒さから温もりを得た人々は、床に映った自分に驚き、目覚めるように顔を上げはじめた。壁に映った自分、天井に映った自分――それら逃れられない自分の檻に気づくと、彼らは呻き声とも悲鳴ともつかない声を上げて涙を流しはじめた。
 それは、父さんも例外ではなく。
 倒れた人々の間を縫って、桔梗と葵お姉ちゃん、クリスと片山先生がシャンデリアから飛び降りた僕の元に集まってきた。
「ありがとう」
 本当はちゃんとお礼を言うべきところだろうけれど、僕はみんなの顔をさらりと見回して、父さんのところへ駆け寄った。
「父さん」
 躊躇いがあったせいか、氷の上に跪いて愕然と床に映る自分を見つめる父さんの背中に呼びかける声が震えた。
 父さんはおそらく聞き覚えのある声にびくりと肩を震わせ、身を硬くした後、徐に顔をあげて僕を見つめた。僕はそんな父さんの前にしゃがみこむ。
「久しぶり、父さん」
 突然の再会になんて言ったらいいのか。横たわる沈黙が怖くて、僕は言葉を繋げる。
「元気だった? 帰ってくるなら連絡してくれれば迎えに行ったのに。びっくりしたよ」
 この状況を説明する気はなかった。知らないふりをして、被害者の一人のように振舞おうと思っていた。きっと、桔梗たちも事情は察してくれるだろう。
 父さんは無言のまま僕を見つめていた。知らない子どもを見つめるように。誰だ、この子どもは。そんな声が聞こえてきそうなほど不審げに僕を見つめながら僕の目の中に真実を探っていた。
 僕は、さらに何か言葉をつなげようとして、しかし言葉も声も何も搾り出せなかった。
 疑われている。
 この男性が本当に僕の父さんなのか、自信がなくなる前に、涙がこみ上げてきていた。
「見てた?」
 小さく、尋ねた。おそるおそる、内緒話を囁くように。
 父さんは頷かなかった。そのかわり、一所懸命言葉を飲み下そうとしているのが分かった。
「いいよ、言って。我慢しなくていい。聞いてよ。『お前は、誰だ』って」
 はは、と小さく笑いが漏れた。
 怖かった。胸にせりあがってくる恐怖が、嗚咽となってしゃくりを上げさせた。
「本物の木沢光はどこだって、言えよ」
 突き放される前に、自分で突き放さなきゃと思った。逃げなきゃ傷つけられると思った。もう、大切な人に傷つけられるのはたくさんだった。
 僕は、やっぱりまだ麗のままだった。
 きっと一生、僕は麗のままだ。木沢光にはなれない。この人の息子には、永遠になれない。
「いないよ、そんな奴」
 それならそれでいい。僕が木沢光になりたいなんて、夢のまた夢だったんだ。夢ならいくらでも諦められる。与えられた現実だけに甘んじていればいい。僕が夢をつなぎとめるには誰かを傷つけずにはいられないのだから、望んじゃいけない。手を伸ばしてはいけない。
「木沢光なんか、はじめっからいなかっ……た……」
 指が伸びてきていた。細いながらも骨のしっかりとした長い指。パソコンの上でひたすら踊り続けるばかりの白い指。その指が、食い込むほどに僕の肩を掴んだ。
「痛っ」
 僕の悲鳴も聞かず、父さんは一瞬強く僕を見つめると、僕の肩を胸に抱き寄せた。
 ふわりと男物の香水のような香りが鼻をくすぐった。
「帰ろう」
 耳元で父さんは言った。
「光、家に帰ろう」
 もう一度強く。
「サーカス見に行ったまま帰ってこないって、ママが心配していた」
 ママ。僕の、木沢光のママ。出産間近なのに、僕ともあろう出来た子が心配をかけてしまった。
 だけど、僕はこのまま父さんの胸に顔を埋めて素直に頷くことはできなかった。僕は、いつまでも偽者の木沢光のままではいたくなかった。
「はぐらかさないでよ! 見て見ぬふりすんなよ! さっきの見てたんだろ? 覚えてんだろ? 僕があのシャンデリアの上に胡坐かいて、紫精振り回してそこらへんの人振り落として、呪文唱えてこの部屋一面凍らせて……おかしいと思っただろう? 夢でも見てんのかって思ったんだろう?」
 このまま木沢光の演技を続けなきゃならないのか、本物の木沢光になれるのか。
『エルメノ、君に僕の名前をあげるよ。僕の家族も、運命も、何もかもエルメノにあげる』
 ああ、本物のように振舞うって辛いよね、エルメノ。幼いは、自分が運命の重荷から逃れるためにそんな酷いことを押しつけようとしていたんだ。
 本物になりたいよ。何も言わずに帰ろうって抱きしめてくれたこの人の本当の子どもに。
 でも、本当の木沢光って何?
 今こうやって喚いている僕は、麗のまま? 今まで、生まれる前も死ぬ前も、僕は麗を全うしていた? ちゃんと麗だった?
 麗は、どこにいた?
 麗という名も運命も捨てようとした僕は、麗じゃなかったんじゃないか? 結局、僕は麗と呼ばれながらも麗だったことがなかったんじゃないのか? 自分で麗だと思ったことがなかったんじゃないのか?
 麗という運命から逃れようとするあまり、僕は名無しの男として前世を生きてきてしまったんじゃないのか?
 僕は今、麗でも木沢光でもない、ただの名無しの男のままなんじゃないのか?
「僕は、誰だよ……」
 一度は突き放した父の肩に、僕は額を乗せた。
「僕は、誰?」
 記憶があるのに、僕は人格喪失だ。誰になればいいのか分からない。麗と木沢光を、どう整理したらいいのかわからない。
 木沢光になりたいから麗を否定する。
 麗の記憶があるから木沢光になりきれない。
 前世の記憶という不純物だらけの新しい生なんか、望んでいなかったんだ。
 何も知らないまま生まれ、この人たちに育てられた純粋な木沢光に、僕は憧れつづけていたんだ。
「受け入れられない。無理だ。こんなのは、僕が望んだ木沢光じゃない」
 答えはわかっている。木沢光は麗の記憶と力、ひねくれた人格を持ったまま人界に生まれ育った人間のことを指す。父さんもママも知らない記憶を持っているから、家族とどこか距離をおかずにはいられない子どもが僕。秘密を抱えきれなくなって、ただの子どもに戻りたいと悲鳴を上げているのが、今の僕。
 上手くなんかできない。クリスのように割り切ることなんか出来ない。僕は麗の役割を全うするために生まれてきたんじゃないんだ。
「忘れさせてくれ。もう、麗のことなんか忘れさせてくれ」
 こんなところで叫ぶつもりなんかなかった。何食わぬ顔で木沢光をやればよかった。波風立てるのは嫌いだったはずだ。いい子でいる自分が僕は好きだったんだ。海外に単身赴任している父さんの代わりにママを支えて、心配をかけない、怒らせない、わがままを言わない、それが僕が木沢光でいる条件だと思っていた。
 何度、溺れればいいのだろう。麗と木沢光、両岸を有する川の淵に。どちらにも泳ぎ着けずに、僕はふらふらと右に左に翻弄されながら時間に押し流されている。
「前世の記憶は幼稚園に入るころには消えてしまうものだと聞いていたけど、光は特別だったみたいだね」
 そっと後頭部に添えられた父の手に震えながら、僕は信じられない思いで父さんの言葉を聞いていた。
「知っているよ。光の前世は麗という名前の神様の子どもだった」
「なんで? 僕が言ったの、そんなこと?」
 信じてくれるわけがないことを、僕が口走るわけがない。今だって、ここまで心を吐露しておいて、その理由説明からは逃れようと思っていた。
 それなのに、父の口から前世だの、神様の子どもだのという言葉が聞こえてくると、気恥ずかしさに燃えて灰になってしまいたかった。
 父は笑って言った。
「言ったよ。まだ二歳の時だったかな。言葉を喋るようになるのも早かったけど、また話すのも同年代の子どもに比べて達者でね。うちの子は天才に違いないってママと喜んでた矢先に、子どもらしく四十度の高熱を出してさ、そのときにうわ言であれこれ薬草の名前を挙げて熱さましを作ってくれって言ったんだ。それはもう、何かの霊が憑いたみたいに。おそるおそるママとあなたは誰ですかって聞いたら、『今は木沢光だけど、その前は麗という名前の神様の子どもだった』って、だから早く薬を作ってくれって」
「……覚えてない」
「普通の子どもなら覚えていなくて当たり前の年だよ」
 ぽかんと僕は父さんを見つめた。
 父さんは照れたように笑っていた。
「それから、迷惑はかけないようにするからって、何回も言っていた。テレビでも前世を語る子どもの話が取り上げられていたから、その通りならそのうち忘れると思ってたんだ。何より、光自身、一番気にしていただろう? だから、ママも俺も麗という人の存在には知らん顔していた。ごめんな。距離置きたがっている理由も、思春期だし、麗って人のこともあるんだろうなって分かってたけど、知らんふりしといてやるのが光のためだと思ってたんだ。そのうち忘れるか、自分で折り合いつけてただの人になるだろうと思って。だけど、違かったみたいだな。迷惑なんかじゃないよ。麗も光も、ひっくるめて木沢光だ。俺と洋子が育ててきた俺達の子どもだ」
 そうだよ。僕は麗から逃れられない。麗の記憶が光の記憶に入り込んできてしまっているから。麗なしでは光の記憶は完成しない。麗もひっくるめて木沢光なんだ。
 分かっていた。分かっていたけど、自分じゃ納得できなくて、そんな自分を父さんとママは認めてくれないんじゃないかって怖くって、自分に納得させても父さんとママからお前はうちの子じゃないって突き放されるのが怖かった。
「認めてしまえ。もう一人の居場所くらい与えてやれ。少なくとも、俺達はそれくらい度量の広い子を育ててきたつもりだよ、光」
 父さんの手が、頭の天辺を髪をぐしゃぐしゃにするように強く撫でた。
 父さんが光と呼ぶ。それが嬉しくて、僕の目からは涙が溢れ出した。
「辛かったな。ごめんな。もっと早く認めてやればよかったな」
 ぐしゃぐしゃ。ぽん、ぽん。
 父さんの大きな手が、小さな僕の身体を励ます。
 子どもになりきれていないと思っていたけど、僕は子どもだった。ちゃんと、父さんとママの子供だった。
「ママには言わないで」
 俯いて安心感を噛みしめながら、僕は言っていた。
「僕はこの先もこのまま変われないから、だから、ママには言わないで」
 たとえ今安心できても、この先何度も不安になるだろう。その度に僕は思い出したようにまた光と麗の間で苦悩する。
「父さんとママを信じてないわけじゃないんだ。信じたいけど、多分きっと揺らぐ時があると思う」
「信じ続けることほど難しいことはないと思う。人間なんだから、信じることに正義なんか見出さなくていいんじゃないかな」
「神様の子どもでさえも毎日が疑心暗鬼だった」
「神様ほど孤独なものもないからだろう。人間がそんなこと言っていいかわからないけど。――言わないよ。ママには言わない」
 強く噛みしめるように父さんは言った。
「約束だよ」
「ああ、約束だ」
 深く息を吐き出すと、身体中から力が抜けていくのが分かった。
 辺りを見回すと、自分を取り戻した人々が出口を求めて歩き回りはじめていた。
「ねぇ、ところで父さんはどうしてここにいるの?」
 冷たい氷の上から二人で立ち上がりながら、僕は内心おそるおそる尋ねた。
 今更ながら、家族なのに質問一つするのも手探りだ。
「俺は……」
 父さんは言葉にしていいことといけないことを選り分けるように、凍りついた天井に映った自分の顔を見上げた。
「そろそろママの予定日だから休みとって日本に来たんだけど、ゲート潜ったら……夢を見てた」
 苦笑して父さんは僕を見下ろした。
「海外に単身赴任なんかしないでずっとママと光と暮らす夢。予定日にあわせて気を揉みながら仕事片付けなくてもいいリラックス感味わったり、毎晩光から学校の話聞かされながら晩酌したりとか」
 そして父さんはうーん、と背伸びする。
「夢だったんだー。英語に煩わされず、家族と畳の上で夕飯食べながら日本酒飲むの」
「うち、ご飯はテーブルと椅子だよ」
「何っ? じゃあこれからは和室で食べることにしよう」
「何言ってるの。父さんはまたアメリカ帰るんでしょ?」
 僕が尋ねると、父さんはにやりと笑って僕のほっぺたを両側に引っ張った。
「残念でした。期末処理に手間取って遅くなったけど、夢なんか見なくっても来週から日本の本社勤務になったんだ。いつまでもお前にかっこつけさせるわけにはいかないからね。洋子さんは俺が守る。ついでに光も生まれてくる子も」
 子ども扱いされているかと思いきや、ライバル視されていたのか、僕。そりゃ、冗談で桔梗にマザコンへの道を歩んでるんじゃないのって言われることもあったけど。
「ラブラブじゃん。ごちそうさま。邪魔はしないから、帰ったら思い切りセカンド・ハネムーン楽しんで」
「何他人事みたいに言ってるんだ。光も入ってるんだからな」
「家族ごっこ?」
 うっかり口を吐いて出てきた言葉に、多分父さんよりも僕が一番驚いていたと思う。絶対、口にする気はなかった言葉なのに、気が緩んでしまっていた。
 だけど父さんは傷ついた顔ひとつせず、余裕の微笑さえ浮かべながら自分の額を僕の額に押し付けた。
「うあっ、やめてよ」
 ごりごりごり、と押し付けられて、謝るどころかつい嫌がる言葉が出てきてしまう。
「ふっふっふっ。逃がさないぞ。我が家に生まれてきたからには、家族ごっこは強制です。逃げるの厳禁。逃げたら理由、ママにでっち上げるよ?」
 こいつ、性格最悪だ。大人気なさすぎ。
 それなのに、唖然として口もきけない僕に父さんは言った。
「たとえふりでも、やってるうちにほんとの家族になってるかもしれないよ?」
 僕は穴が開くほど父さんを見つめた。
 相変わらず何も感じない。前世では何の繋がりもなかった人だ。ママも。でも、だからよかったのかもしれない。実際には麗を知らないこの人たちが、僕を光と呼んでくれるなら、僕は本物の光になっていくことだろう。自分で偽者か本物か悩み迷うんじゃない。真偽を決めるのは周りなんだ。
 再び緩みかけた涙腺に恐れをなして顔を伏せた僕は、遠慮なく紫精の先端を父さんの腹に突きつけた。
「ママに言ったら容赦しないから」
「うわぉ、イッつ・デンじゃラす! マイ・らいふ・イズ・ぎりぎーり!」
「……父さん、ほんとに七年もアメリカに住んでたの?」
 呆れた僕は紫精を握った腕を下ろして父さんを見上げた。
「アイ・アム・ジャパニーズ。日本語万歳、ニュアンス、ジェスチャー万歳」
 小さく両手を挙げて見せる父さんに呆れながらも、僕は笑っていた。
「お帰り、父さん」
「ただいま、息子」
 くすぐったい安心感。
 桔梗たちはそんな僕らを見ない振りしながら待っていてくれた。
「いつもうちの愚息がお世話になっております」
 礼儀正しく父さんが挨拶をして、桔梗たちがそれにお決まりの挨拶を返して、さて、どうやってこの人たちを人界に帰そうか、と僕が腕を組んだ時だった。
 僕たちが入ってきた扉が開いて、アイカと名乗った老婆が等身大の姿見を抱えて飛び込んできた。
「ああ、やっと開いた。おお、いたいた、いなすった」
 見かけによらず、機敏な動きで老婆は中央の僕らのところまで鏡を持ってかけてきた。
「光様、魔麗王様からこれを預かってまいりました」
 多少息を切らしつつ、魔麗城の年老いた侍女はずい、と王の寝室奥に立てかけてあった、時空を越えられる鏡を僕の前に突き出した。
 老婆と鏡が偽者何じゃないかと疑惑が頭を過ぎる。
 桔梗もそうだったのだろう。
「ちょっと失礼しますね」
 そういって老婆の脈を測って頷いた。
「本物のようね。葵ちゃん、ちょっと手を握っててくれる? 離さないでね」
 つづいて葵お姉ちゃんと手を繋ぐと、老婆が持ってきた鏡に果敢にも自ら一歩歩を進め、すぐに戻ってきた。
「この鏡も、人界に繋がっているみたいよ。サーカスのあったドームの外に繋がっていたわ」
「当たり前です、私は直接、魔麗王様が寝室の壁からこの鏡を外されるところを見ていたのですから」
「疑ってごめんなさいね。この人たちをまた迷わせるわけないはいかなかったから。察してくださいね」
 丁寧に桔梗が言うと、老婆も怒りの矛先を治め、僕に鏡を手渡した。
「お使いください。多少時間はかかってしまうかもしれませんが」
 僕は頷いて鏡を受け取った。
 それから鏡をクリスに預け、再びシャンデリアによじ登る。
「皆さん、聞いてください――」
 説明が終わった後、疲れが如実に顔に表れた人々は、不安げながらも先に鏡に入って見せた桔梗と葵お姉ちゃん、それから片山先生に続いて、鏡を潜っていった。
 自分達の身に何が起きたのかを尋ねる者は、不思議と一人もいなかった。
 諦めてきた夢に惑わされて現実を投げ出した結果だということに、自ら気づいていたからかもしれない。











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