聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 4 章  業 ――オリジナル――



 覗きこむ気なんかなかった。でも、エルメノは己の帰る場所として知っておいてほしかったのだろう。そこは闇獄界だった。真っ暗闇の中、身体中に重くてねちゃねちゃした粘土のようなものが執拗に絡みついてくる場所。いればいるほど絶望だけが重なっていく場所。
 そんな中を、希望を見失わずに少女は歩いていた。
『麗、止まっちゃだめだよ。止まったら、もう二度と歩き出せなくなる』
 手を引く少年を励ます言葉は、自分を励ます言葉だった。少年が絶望さえしなければ、ちゃんと二人でここから出られる。そう信じることで、少女は泥の中を這い進んでいた。進む方向に確信などありはしない。ただ、少年にも言ったように、立ち止まってしまったら、足を上げるのさえ億劫になって泥の中に沈むのがおちのように思えたから、ひたすら歩を進めていただけだった。
 だけど、少女は懸命に少年を励ますのに、少年はむしろその泥の中に沈みたがっていた。
『エルメノ、僕のことは置いてっていいよ。そんなに帰りたいなら、僕のことは置いてって……』
 そして少年は立ち止まる。
「こんなところに戻ったって、誰も過去は変えられない。こんなところに家はないよ」
 歩き続ける二人の少年少女を見守りながら、わたしは呟いた。
「過去に帰りたいと願うのは過去を変えたいからだというのは、いささか短絡過ぎる発想だと思わない?」
 エルメノは憮然と言い返す。
「じゃあ他に何が目的で過去に行きたいなんていうの?」
「君は、家に帰りたいのは何故だと言った?」
 意識が闇の混沌から抜け出し、現実世界に戻ってくる。
 このお城では窓から見えるものは雪ばかりだったけれど、それでも白い光というのは目に染みるだけでありがたいものだったんだと気づかされる。
「落ち着きたいからだろう? そこに自分の居場所が必ず用意されていると確信があるからだ。人はそこを家と呼ぶ」
 エメラルド色の瞳は、真摯にわたしを見つめてきていた。しかし、わたしは思い切ってその視線の呪縛を振り切り、掴む彼女の手を振り払った。
「アイカさんの人生を弄び、聖刻の国の民を互いに殺し合わせ、憎しみあわせ、今度はわたしの弟までどこかにやって、世界の半分は偽物に入れ替わっているなんて言い出しておいて、家に帰りたい? ふざけないで! めちゃくちゃじゃない、やってることと望んでいることが」
 お腹の中に溜まったぐちゃぐちゃとした感情は、思いのままに吐き出してもまだ身体中を駆け巡っていた。
「確かに、めちゃくちゃだ」
 くすり、とエルメノは苦笑を漏らした。
「いつからめちゃくちゃになったのかというと、闇獄界に堕ちた時からだ。きっと麗もそうだよ。僕たちは一つだったんだから。だからこそ、一つに戻れれば、僕たちの抱える矛盾はなくなる」
 エメラルド・グリーンの瞳に差した剣呑とした光に、わたしは嫌な予感がした。
「さあ、言え、〈渡り〉と」
 胸と胸の間、鳩尾の少し上辺りに片手を当ててエルメノはわたしを見上げ、すごんだ。
 わたしはおそるおそる首を振った。そのときだった。
 ずるり、と胸の肉を押し開けて、エルメノの手がわたしの胸元に埋まっていき、心臓を鷲づかみにした。
「あ、わ、あ……」
 悲鳴を上げようにも言葉が出ない。痛みは感じないはずがないのに、全身を走り回る悪寒が全てを帳消しにしていた。わたしの名を叫ぶアイカさんの悲鳴も遠ざかる。
「気なんて失ってていいの? 君が今感じている恐怖は、このまま握りつぶされれば二度と転生できないって魂が知っているから感じる恐怖だよ」
 視界は真っ白だった。その世界にエルメノの意地悪な声だけが響き渡る。
 二度と転生できないって、どういうこと?
『わぁ、きれいなオパール』
『聖。これはお前の魔法石だよ。生まれたときに統仲王と愛優妃から賜ったものだ。この魔法石は聖の魂と繋がっている。魔法石はお前を守ってくれるものだけど、ゆめゆめ誰かの手に渡してはいけないよ。たとえどんなに信じるに足る人物でもだ』
『龍兄でも?』
『ああ、私がちょっと見せてほしいといっても、決して渡してはいけないよ。それは聖自身なんだ。その魔法石は聖しか守らないし、聖以外には使えない。いいね?』
「はい、龍兄。聖は魔法石、誰にも渡しません」
 うわ言のように、わたしは白昼夢の続きを呟いていた。そして、体内にめり込んだエルメノの腕を掴み、引っ張り出す。が、エルメノは掴んだものを放そうとはしなかった。乳白色の光がわたしの胸から溢れ出す。
「放して」
「放してほしかったら僕を過去に連れて行け」
「それは出来ない」
「じゃあ、このまま壊してやる」
「そんなことをしたら、本当に過去に行けなくなるよ?」
 一瞬迷って力緩んだエルメノの手首を思いきり握る。エルメノは顔を歪めながらもやがて手を開いた。全身に感じていた息苦しさから解放されて、わたしはエルメノを突き飛ばす。
 突き飛ばされたエルメノは椅子とテーブルにぶつかって床に尻餅をついた。
「過去に連れて行ってくれる気もないくせに、よくもぬけぬけと」
 わたしは胸元を押さえ、肩で息をしながらエルメノを遠巻きに見下ろす。
「そっちだって何がほんとで何が嘘か分からないじゃない」
「それは、全部本当だからだ」
 よろよろとエルメノは立ち上がると、わたしではなく朝来さんのほうによろめくふりをしながら近づき、朝来さんの肩に手をかけるのと同時に、彼女の前に懐から鏡を差し出して掲げた。
 悲鳴を上げる間もなく朝来さんはその中に吸い込まれていく。
 そして、エルメノはアイカさんに向かい合った。
「何をするんですか。せっかく部屋から出てこられたとお喜びだったではありませんか」
「そうだよ。僕と朝来との契約は僕が朝来の代わりに人界で生活すること。朝来が自分で部屋から出てくればそんなこと続ける必要もなくなるからね。出きた時点で契約終了だ」
「そんなの、あなたが勝手に言ってることじゃ」
 口を挟んだわたしには目も向けず、エルメノは今度はアイカさんに向かって歩み寄る。
「いいや、そういう話になってたんだよ。ね?」
 鏡の中の朝来さんに向かって同意を求めても、返事が返ってくるはずもない。エルメノは構わずアイカさんを振り返った。
「僕も随分と馬鹿なことを望んだものだ。分かれてしまってはもはや僕ではなくなってしまうのに分けてしまうなんて。カルーラもそうだ。あのいい子ちゃん子も元は僕の一部だったのに。いくら記憶を共有できたからといって、時間を共有しなきゃ意味がないんだ。そうでなければ経験したことにはならない」
「エルメノ様。私は逆立ちしたってあなたではありません。私はあなたの魂の片割れでもなければ、あなたの鏡で写しとった魔物でもない」
「オリジナルだと言いたいんだろ? でも、オリジナルは僕だ。僕だけが本物だ。麗の周りに本物は僕だけでいい」
 エルメノは躊躇わず、アイカさんに鏡を向けた。白色の閃光が弾ける。
 かざした手からおそるおそるアイカさんのいた方を見ると、アイカさんの姿はなくなっていた。
 かわりに、俯き加減で含み笑いをしているエルメノが見えた。
「はじめからこうしておけばよかった。オリジナルが消えれば僕がオリジナルだ。みんなみんな消えてしまえばいいんだ。みんなみんな入れ替えれば、オリジナルは僕だけだ」
 彼女の抱えるオリジナルへのコンプレックスたるや、尋常ではなかった。手に持つ鏡すら震わせて、歓喜に咽んでいる。
「あなた、エルメノの偽物でしょう?」
 口から出たわたしの声は、高揚する彼女の気分を一気に下げてのけた。
 くるりとエルメノはわたしを振り向く。
「偽物? 誰が? この僕が? 僕はエルメノ・ガルシェビチ。麗の幼馴染で麗の敵」
「それなら、麗兄様にだけ纏わりついていればいい。ほかに用なんてないはずでしょ。特に、自分の偽物には」
「違う。僕の偽物は麗の偽物だ。麗の偽物はこの世にはいらない。麗は一人だけでいい」
「じゃあ、あなたも必要ないってことだよね? それとも、あなたが本物の麗兄様だって言うの?」
 エルメノは一瞬怯み、すぐに胸をそらした。
「そうだ、僕が麗だ」
「めちゃくちゃだよ」
「それは、お前が何も知らないから! 麗が僕に麗になってほしいと言ったことを知らないから!」
「だから、あなたは結局最後までオリジナルになれないんだよ」
 次にあの鏡に吸い込まれるのは自分かもしれない。その先がどこに繋がっているのか分からないのは怖かった。どこにも繋がらず、ただの狭い部屋だったらどうしよう。さっき気を失いかけたときに見えた白い空間を思い出す。あの中に閉じ込められてしまったら、どうしよう。
 それでも、言ってはならないことを口にしてしまったのは、魔法石があれば何とかなるとどこかで思っていたから。
「お前だって偽者じゃないか。聖の記憶を曖昧にしか持っていないお前は聖の偽者だ。麗兄様なんて言ってるけど、実感なんかないだろう?」
「わたしは聖じゃない。聖になろうとも思わない」
「その胸の魔法石が聖である確たる証拠なのに? 時の魔法を自由に使いこなしたいとは思わないの? 聖を取り戻せば、世界の全てはお前の思いのままになるというのに?」
「世界?」
 わたしは思わず少女の口から出た言葉の壮大さに笑ってしまった。
「どっかの大きな会社の社長でもなければ総理大臣でもない。そんなものになろうとも思ったことのないわたしが、世界を支配したいと思ってると思うの?」
 望むことはささやかでいい。可愛い小物に歓声を上げたり、美味しいものに舌鼓を打ったり、好きな人と楽しい時間を過ごせれば、それ以上望むことなんてない。たとえほかに望むとしても、数学の成績がせめて平均取れるくらいにならないかな、とか、テストが減らないかな、とか、そんなものだ。
 夢に出て来ていた聖という少女もきっと同じだ。ただ、好きな人に自分の気持ちを受け入れてほしいだけだった。好きな人と一緒の時間をより多く、過ごしたいだけだった。本当は、きっとそんなささやかな願いしか抱いていないはずだった。
 世界を望んでいいのは、きっと神様だけ。この世界を創造した神様だけが、その腕に世界を抱いていい。
「ごめんね。わたしは普通でいいの。普通から逸脱したくないの。当たり前のありふれた人生を歩めればそれでいいの。大それた力は要らない。わたしに使いこなせるわけがないもの」
 大きな力を持つからには、それなりに大きな責任がつきまとうものだ。夢で見た聖という少女は、時の魔法を使えるかわりに、一国の民の命を背負っていた。その義務の重さに、自分の恋心さえも押しつぶされかけていた。
 そんなのはもういや。せっかく手に入れた平凡な人生なんだもの。わたしはずっと無力になりたかった。力ないただの人間になりたかった。世界も罪も責任も記憶も、何もかもリセットして、生まれなおしたかった。
 手放すものか。乱されてたまるものか。
 これ以上。
『悠久なる時の流れにたゆといし 我が魂なる力ある石よ
 時の王の魂、守護者の血の祝福を受けし 聖なる時の石よ
 時空の理 守るため
 今こそ一張りの弓となりて 我が手によみがえれ』
 途中から心の中の呟きに別の誰かが声を重ねていたことに、本当は気づいていた。だけど、その気持ちはわたしも同じだったから、彼女の思いに唇を貸した。
「〈繊月〉」
 胸から痛みなく取り出された白い輝きを放つ石は、呪いに応えて白い長弓となった。弓を持つのは初めてだったはずなのに、身体が覚えているとでもいうように、わたしは矢を番え、弦を引いていた。
 そのわたしの前に、エルメノは苦し紛れに鏡を両手で押し出す。
「見てみろ。そこに映っているのは本当に君自身の姿か?」
 金から黒までグラデーションが買った髪、青と黒の異色の双眸、透けるように青白い肌、どこか異国の装束。
 映っていたのは夢に出てくる異国の少女。名を聖という。
「わたししか、映ってないよ」
 わたしは嘘をついた。
 あの鏡が本当に真実だけを映すとも思えない。持ち主の望みならば、見せたい姿を映し出すことも可能なのではないか? わざと、聖を映しているのかもしれない。
 いずれにせよ、鏡に映し出される姿などこの際もうどうでもよかった。何が映ろうとも、わたしは守景樒だ。それだけは信じられる。それさえ揺らがなければ、わたしが他の誰かになることもない。たとえば、聖に戻ることも、ない。
 聖の姿を映し出す鏡は俄かに黒く曇った。
 嘘をつけば黒く曇るんだっけ?
 黒い靄は異国の少女の姿を覆い隠していく。
 鏡の後ろでは、エルメノが気味の悪い笑みを漏らした。
「聚映、嘘つきは、だぁれだ?」
 エルメノの問いに答えようとでもいうかのように、鏡いっぱいになった黒い靄は鏡を飛び出し、先端を何本もの指に変形してわたしに襲いかかってきた。
『聖なる力を宿しし時の矢よ
 穢れに満ちた闇をうち祓え』
「〈浄矢〉」
 口早に唱えてわたしは引き絞った弦から矢を放った。
 白い光を撒き散らしながら矢は黒い腕を突き抜け、真っ黒に濁った鏡に突き立った。
 同時に、黒い手がわたしの首筋を掴んだ。
「くっ」
 わたしは繊月を手放し、黒い手を首から引きはがそうと力を入れる。でも、元となる鏡を割られたにもかかわらず、黒い手の力は変わらない。むしろどんどん強くなってきている。焦るわたしの前で、黒い手は矢を受けて割れた鏡からずるりと抜け出てきた。
「あーあ、割れちゃった」
 エルメノは口ほどにはショックを受けていない様子で黄金色の縁を放り投げると、しゃがみこんで割れ散った鏡の破片を集めはじめた。
「放して! 放してよ!」
「そう言われて放す奴がいるかよ」
 楽しげなエルメノの意思に連動しているのか、黒い手はわたしを持ち上げはじめる。
「どうして? どうして〈浄矢〉が効かなかったの?」
 闇に生きる者を浄化する力がある〈浄矢〉。闇獄主の一人が持つ〈聚映〉ならば、さっきのようにまともに受ければ鏡面が粉々になるなどそれなりのダメージは出るはずだ。それなのに、どうしてこの腕は絡みついてくるのか。
「効いているさ。効いているからこんなに力が弱くなってしまった。でも、やっぱりオリジナルに比べて身体が弱いと魔力も弱まってしまうようだね。いくら転生してもその力じゃ何もできないかもね」
 人間の身体だから魔力が及ばない? そんな馬鹿な。今の身体の方が聖の身体よりも何十倍、何百倍も健康で体力もあるのに? そりゃ走るのは遅いし、握力だって並み以下だけど、大きな病気も怪我もしたことないのが自慢なのに?
「何が違うっていうの?」
「そりゃ勿論、神の血が入っているかどうかさ。身分にふさわしい服装があるように、魂にもふさわしい身体がある。神界人の身体ならまだしも、それは泥からできた人間の体だろう?」
「泥? 違うよ。人間の体はアミノ酸と水と……」
「結局は統仲王と愛優妃が自らの姿に似せて有機物という自己増殖する泥をこねて造った人形だよ。知らないの?」
「知らない。だってわたしは……」
「聖じゃない? 聞き飽きたよ、それ。繊月で〈浄矢〉まで放っておきながら、わたし聖なんか知りませんって、ほら、〈聚映〉も呆れて真っ黒になってる」
 粉々になったはずの聚映は、いつのまにか多少のいびつさは残しながらも元通り円形の鏡に戻っていた。エルメノは自己修復した聚映を拾い上げると、ずい、とわたしの顔の前に突き出した。鏡は黒い闇を吐き散らし、中からはもう一本の黒い手が大蛇のように鎌首をもたげ、うねりながらわたしの身体めがけて巻きついてきた。
「きゃぁぁぁぁ」
 ひたっとした爬虫類特有の冷たさに、思わずわたしは悲鳴を上げる。
 首を締めあげていた手を開かせようと躍起になっていたわたしの手は、肩ごと動きを封じられてしまった。黒い手は左右の手でまるで雑巾でも絞るようにわたしの身体を握りつぶそうとする。
 こんなつもりじゃなかった。あの矢さえ当たれば、吸い込まれた朝来さんもアイカさんも戻ってきて、鏡は割れて目の前にいるエルメノも大人しくどこかに引き下がるはずだったのに。
 助けてと叫ぼうにも息がつけない。手足を動かしてわずかな隙間でも見出そうとしても、手足は胴にぴたりとくっついたままどんどん食い込んでくる。
 馬鹿だった、わたし。大人しく逃げてればよかったのに、どうして〈繊月〉なんて手にしてしまったんだろう。どうして、〈浄矢〉なんて思い出してしまったんだろう。
 どうして、聖の感情に同調なんかしてしまったんだろう。
 どうして、偽者の洋海がいる世界を拒んで逃げ出してきてしまったんだろう。せめて工藤君のところで大人しく留まっていればよかったのに。逗留するのも二、三日だけの話だと言っていたじゃない。
 ううん、やっぱりどんなに桔梗と葵から誘われたって、サーカスなんか見に行かなければよかったんだ。嫌な予感はしていたもの。拒み通せばよかった。
 思い浮かぶことは後悔ばかり。全部自分で選んできたというのに、誰かのせいにしたくて仕方がなくなってきている。工藤君と詩音さんがもう少し熱心にひきとめてくれていたら、とか、桔梗さえサーカスの招待券を持ってこなかったら、とか。誰かのせいにしたところで何かが変わるわけじゃないのに。むしろ、全身を圧迫する力は増している。
 そうだ、こういうときこそ〈渡り〉を使えばいいんだ。
 意識がはじけ飛びそうなくらいのぎりぎりで、わたしはようやくもっとも簡潔な逃避方法にたどりついた。だけど、いったいどこを目指す? わたしの知っている本物の人界は、もうどこに信頼できる人がいるのか分からなくなっている。昨夜一緒に遅い夕飯を食べたお父さんとお母さんは、果たして本当のお父さんとお母さんだったんだろうか。洋海が偽者になっていたくらいだ。もしかしたら二人も偽者にすり替わっていたかもしれない。じゃあ、さっきみたいに誰か頼りになる人を思い浮かべてみる? でも、こんな現実離れした状態で頼りになる人って? 少なくともエルメノはわたしに用事があるのだから、あの鏡がある以上、どこに行ったって追いかけてきそうだし、わたしを守るどころかわたしのせいで傷つけられてしまうかもしれない。剣道が強い桔梗でも、スポーツと兄弟喧嘩に強い葵でも、この状況からわたしを救ってはくれないだろう。
『お願いというのは、その時の実の効果を消す実がほしいのです』
 あれほど拒んだのに、ついに聞こえてきたのは穏やかだが決然と望みを託してきたアイカさんの声だった。続いて、目の前に鮮明に点在する赤い実を懐に抱いた緑生い茂る樹木が現れた。
「〈渡……り〉」
 鏡の中に吸い込まれたアイカさんと朝来さんを残していくことには、もう頭が回らなかった。自分が助かることだけで精一杯だった。
 だからだろうか。
 わたしは草むらの上に座り込んでいた。風が吹く。嗅いだこともないのに、懐かしいと思う大地の香りが全身を包み込んでいた。目の前には、〈渡り〉と唱える直前に見えた林檎の木と見紛う果樹がのびのびと枝葉を広げていた。その成熟した緑の葉の陰には林檎を思わせる赤い実がたわわに実っている。
 見上げれば、見たこともないほど濃いターコイズブルーの空が広がっていた。わたしはそのまま仰向けに倒れる。取り入れられるだけの酸素を取り入れて、締めつけられていたからだから手足を広げ、解放する。ゆっくりと風に押されて真っ白な雲が海を渡る船のように空を渡っていく。聞こえる音と言えば風になびく草花の葉掠れの音だけ。
 エルメノが追ってくる気配はない。
 その直感だけを信じて、わたしは急いていた呼吸を整えるために、息を吸って一度止め、ゆっくりと吐き出した。
 泣いていることに気がついたのはそのあとだった。
 風が撫ぜていった頬がすぅっと冷たくなったのだ。
 怖かったんだろうか? そりゃそうだ。死にかけたんだもん。怖くないわけがなかった。そのあとでこんな静かなところに出たら、安心して涙だって出てくる。
 だけど、きっと理由はそれだけじゃない。
 ここが、夢に出てくる異国の少女が人生の大半を過ごした場所だからだ。
 神界は聖刻の国の王都、ユガシャダにある聖刻城。ここはその城の中でも法王だけが入ることを許される中庭の禁域。目の前に生い茂る一本の時の木の剪定をするのも、時止めの実をもいで四楔将軍に提供するのも、全て聖ひとりの仕事だった。
「木、手入れされてる……」
 それでも、今目の前にある木は主を失って相当な年月を経ているはずなのに、枯れもせず、無駄に枝を伸ばすこともなく、聖の記憶のままの整った姿を残していた。
 わたしは引きつけられるように膝で草原をかき分け、幹に手を伸ばす。
 どくん。
 幹は心臓よりも大きな鼓動を一つ返した。そして、しばしの間隔をあけて、ふたたびわたしの掌を押し返す。
「生きてる」
 聖はこの木の幹に触れるのが好きだった。自分の鼓動はもはや弱々しくてあてにならなくなっていたけど、この木の幹に触れれば木は力強い生命の鼓動を掌に返してきてくれた。その反動を感じることで、聖は生きていることを何度となく確認していた。
 来てしまった。
 その後悔よりも、一つ一つ認識できないほどの思い出が溢れ出して胸がいっぱいになった。思いの奔流の中に「戻りたい」という呟きが混ざりこんでいた。
 捨てたはずなのに。捨てたくて仕方がなかったはずなのに、こんな時に思い出すことなどみんないい思い出だから、戻りたいなんてどこかで思ってしまったんだ。
 ただ、それだけだ。
 あの少女の思いを封印する。意識しなければいい。ここが聖刻の国の禁庭であることも、この木が心のよりどころだったことも、何もかも。知らないふりをしてしまえばいい。
 わたしはわたしなんだから。
 わたしは幹伝いに立ち上がって、一番低い位置にあった赤い実に手を伸ばしてみた。百五十六センチほどのわたしでも、爪立てすれば手が届くほどの位置。だけど、見上げながら腕を上げていると次第に手から力が抜け、頭がくらくらとしてくる。
 せっかく実に手を伸ばしてみても、悲しいかな、わたしはその実をもぎ取る勇気が湧かなかった。たとえもぎ取ったとしても、アイカさんに渡さなければいい。渡さないと決めた時は握りつぶす――のは無理としても、誰も食べないように足で踏み潰すなりなんなりして壊して捨ててしまえばいい。それもこれも、アイカさんを見つけて助けることが出来たらの話だけれど。
 わたしはつめていた息を吐き出して、また根元に座り込んだ。
「時の実、採らないの?」
 赤く輝く実を見上げるわたしの背後、ガラスのベルのように透き通った少女の声が聞こえた。
 びくり、とわたしの肩は震える。
 ここは法王以外入ることを許されない庭だった。植えてあるものがものだから、法王がいなくなった後は聖国王しかは入れないことになったはずだ。
 どうして自分の死後のことまで知っているのか、という疑問に答える記憶は即座には見つけられなくて、とりあえずわたしはおそるおそる後ろを振り返った。
「はろー」
 昔の友人にでも再会したように、多少気恥ずかしげにひらひらと手を振りながら軽く声をかけてきたのは、ちょっと彫りは深いけど、日本人に近い顔立ちをした可憐という言葉が似合いそうな綺麗で可愛い少女だった。年はわたしと同じくらいだろうか。
「は、はろー」
 つられてわたしもどもりながらだったけど手を振ってみる。
 すると、にこっと少女は笑って、その笑顔のまま、主人に猛ダッシュする犬のような早さで駆け寄ると、捥げそうなほど力強くわたしの首に抱きついた。
「会いたかったよ、樒~っ」
 名前を呼び捨てられても、不思議と馴れ馴れしいとは感じなかった。むしろ、彼女のことが思い出せなくて申し訳なくて仕方がない。
「てか、やっぱり来ちゃったのね。思い出しかけちゃってるのね。もう、馬鹿、馬鹿、馬鹿っ。この子ったらどうして自分から茨の道歩こうとするのかしら、全くもうっ」
 テンションが高くて初対面なのに呆れ半分、懐かしさ半分の気持ちがわいてくる。
 東の海のように青い瞳が微笑みながらも若干起こっているように見えるのは気のせいだろうか。
「あの、すみません、ごめん、どちらさま、っていうか、だれ?」
 とりあえず初対面なんだから敬語で話せばいいのに、なんだかそれも気恥ずかしくて、いちいち言い直していたらもったいぶった言い方になってしまった。
「わたしよ~、わ・た・し。困った時のあんたの両腕。緋桜ちゃんよ、ひ・お・う・ち・ゃ・ん」
 緋桜と名乗った少女は調子に乗ってウィンクまでして見せた。
「何か分かんないけど、性格壊れた?」
 思わず口から飛び出た言葉に、どきっとしたのは自分。
 少女の方は一瞬毒を抜かれたような顔でわたしを見た後、ばしばしと遠慮なくわたしの上腕を叩いて大口を開けて笑った。
「やだ、そんなことないわよ。昔っからこんなもんよ。こんなもん。まぁ、多少気が楽になったっちゃなってたんだけど、どっちかというとわたしはあんたに会えて嬉しいわ」
「意味、わかんないんだけど」
「いいの、いいの、わかんなくて結構。あんたとの再会は気苦労のはじまりって分かってるけど、それでもやっぱり会えて嬉しいって思ったのよ」
「……気苦労が嬉しいんだ……」
「もう、いいからいちいちつっかからないの。素直じゃないぞ。喜びってのは表現してこそ相手に伝わるんだから」
 一人で演説を繰り広げて、再び緋桜はわたしをぎゅっと抱きしめた。
 抱きしめられたわたしは、いくら葵に抱きしめられなれているとはいえ、やや頬が熱くなった。でも、確かにこの腕には覚えがあるような気がする。何からでも守ってくれるという安心感、絶対にわたしを裏切らないという信頼感、無意識に湧き上がってきたその二つの感情が、エルメノに追われていたわたしの緊張の糸をぷつりと切った。
「やだ、この子ったら、何泣いてんのよ」
 さっきの涙はただ溢れてきただけだったのに、今度の涙は嗚咽混じりだったからすぐに気づかれてしまった。緋桜は母親のようにかいがいしく、ひらひらと広がった袖でわたしの目元を拭う。
「ごめん、ずっと怖くって……」
 本音をこぼしてしまうと、もういくらでも甘えていい気分になってしまって、わたしは思う存分彼女の肩に顔を埋めた。
 彼女まで偽者じゃないか、と一瞬過ぎった感覚はすぐにこの安心感に消し去られていった。胸の奥がほんわりと温かくなっているのは、きっと胸の中に消えた魔法石が喜んでいるから。
「大丈夫、わたしがついているじゃない。それに、あのエルメノは樒のことはどうこうできないはずよ。だって、あの子は過去に執着しすぎているもの。かわいそうなくらいにね」
「かわいそう……?」
 思ってもみなかった言葉が緋桜の口から出て、わたしは彼女を覗きこんだ。
「同情するなんて、意外?」
「意外」
「記憶がさっぱりなあんたじゃ説明しても分からないかもしれないけど、わたしとエルメノは元は同じものなの。同族というか、兄弟というか、体の血は繋がっていなくても、魂は同じものから生まれたって感じかな」
 緋桜も闇獄界に関係しているのかと、わたしは思わず後退った。
「あ、闇獄界関係でっていうんじゃないわよ? エルメノも元は熱の精霊王の端くれだって言いたいのよ。熱の精霊王は吸熱と過熱、二つの魂を持っていてね、でも、いつも加熱のエルメノが吸熱のカルーラを支配する関係で、主人格もエルメノだった」
「魂が二つ? 主人格?」
「二重人格よ、二重人格。端から見ればね。構造はさっき言ったように二人で一つの体を使わなきゃならない関係だったわけ。カルーラは喧嘩したくない子だから、いつもエルメノの陰に隠れて眠ったふりをしていた。エルメノは気が強いからあの通り、カルーラを邪魔に思いながら好き放題やっていた。悪気はなかったのよ。でも、愛優妃はエルメノが麗様の側にいるといつか麗様を駄目にすると思ったみたいね」
「駄目にする?」
「二人は、妙な連帯感を互いに抱いていたみたいなのよね。二人で一つ、みたいな。それがエルメノとカルーラの間にあればよかったんでしょうけど、主従の間でそれは、いつか〈影〉を増長させることにもなりかねない。現に麗様はエルメノに依存しきっていたからね。闇獄界に堕ちた時、エルメノに自分の代わりに麗になって神界に戻ってほしいって言うくらい」
 同じような話を、ついさっきも聞いたような気がした。
 安藤君の妹の朝来さんが、自分とよく似た容姿のエルメノに、自分の代わりに人界で暮らしてほしいと頼んだ、と。
「麗兄様は何が辛かったの? 朝来さんは学校に行くのが嫌だと言ってた。本当のことを言っても、嘘つき扱いされるからって」
「そうねぇ、麗様は法王っていう立場が性に合わなかったんでしょう。上には育様、海様、龍様、炎様、錚々たる面子が兄と姉やってたからねぇ。あんないかにも神様って感じのオーラが出てる人たちと同じ立場におかれて同じものを求められたら、普通の人だったら鬱になるわね」
「それはつまり麗兄様が凡人だったと」
「最も人に近かったと言ってあげてちょうだい。法王なんて崇め奉られて気の遠くなるくらいの神生、投げ出さないで生き続けたんだから、その時点でやっぱ凡人なんて言葉で一くくりにされるような方じゃあないのよ。ただ、本人はそれに気づいていなかっただけ」
 緋桜は同情するように記憶の中にいる麗兄様を眺めているようだった。
 わたしはというと、同情する気にはあまりなれない。聖のせいだろうけれど、麗兄様はあまりに聖に冷たかった。義務で兄弟をやっている感じだった。自分を嫌いだった人に同情できるくらい、残念ながら聖の心は広くない。
「複雑そうな顔しちゃって。まあ、いいじゃない。今の光くんはとっても大人よ。ズバッと聞いてみたら? どうして聖のこと嫌いだったの~って」
「え? 光くん?」
「あ……、まあ、光くんなら何か知ってるかもよ、っと」
「ごまかした?」
「そんなことより、時の実、採るの? 採らないの? 必要なんでしょ?」
 あからさまに顔をあさっての方向に向けつつ、緋桜は赤い実を指差した。
「必要……なんだろうけど、でもこれを渡したら、わたしその人を殺すことになるかもしれない」
 わたしはやっぱり臆病で、迷いやすくて、どうしようもない。
 永遠を生きつづける苦しみを知っているような気がするのに。
「その実が必要な理由って、そもそもなんなの?」
 緋桜はわたしの迷いには慣れていると言わんばかりに大袈裟に首を振った。
「麗兄様がアイカさんに時止めの実を飲ませてしまったみたいなの。アイカさんは、とりあえず麗兄様が帰ってくるまでは待つつもりらしいけど、もし戻ってきたらその後は、聖刻法王との約束を守るために引き延ばされた寿命を返したい、って」
 わたしはおずおずと緋桜の問いに答える。緋桜は腕を組んで、ふんふんと、聞いているんだかいないんだか分からない返事を返していたけど、わたしが説明し終えるとぱっと顔を上げて笑顔でズバッと言い切った。
「それならその実、光くんに渡せばいいのよ」
「え? どうして光くん?」
「多分光くんもエルメノに振り回されてどこかにいるはずだから、アイカさんが待ってるよって言ってその実を渡しちゃえば、後は彼が考えて行動するでしょ」
 緋桜はわたしの尋ねたいことには答えず、さあ、時の実をもぎ取りなさいと言わんばかりにわたしの両肩を叩いた。
「はい、時解きの実はこの赤い奴ね」
 緋桜はわたしの手を持ち上げて、二人羽織よろしくわたしの手で、赤い実をもぎ取らせる。
「よかったわね。ちょうど熟す時期にここに来れて」
「緋桜……」
 まだ困惑気味のわたしには構わず、緋桜は上空を見上げる。その先、濃い青が塗り込められた空には、いつしか一羽の大鳥の影が浮かんでいた。
「飛嵐ー、恥ずかしがってないで降りてきなさいよ」
「飛、嵐?」
 なんとなく聞き覚えのある名前に、わたしは首を傾げたけれど、黒い障壁みたいなものに阻まれて取っ掛かりになりそうなものも何も思い出せなかった。
 そんなわたしの前に、一羽の大きな白い鳥が舞い降りてくる。その大きさたるや、人を何人か乗せられそうなほど大きい。みつめる金色の瞳は猛禽類のように鋭く、わたしは思わず身を竦ませた。
「ああ、大丈夫、大丈夫。そんなに怖がらなくても、飛嵐なら絶対樒のこと襲わないから」
「襲うって?」
「この嘴でつついたり、この怖ーい目で射殺したりしないってこと」
「ひぃっ」
「だから、しないってば。飛嵐、ちょうどよかったわ。樒のこと、ちょっと人界まで送ってってあげて。この子、さっきから〈渡り〉使いすぎなのよ。よく分かってないくせに〈浄矢〉まで放ったのよ? あたしも疲れちゃったから、はい、バトンタッチ」
 緋桜は恐れることなく大きな白い鳥の首を軽く叩くと、未だ承服したとは思えない目で睨んでくる鳥の上にわたしを押しやった。
「じゃ、飛嵐、よろしくね」
「よろしくねって、ちょっと待って。緋桜は? わたし、どこに連れて行かれるの?」
「一度人界に帰って安心したら、光くんのこと探しなさい。必ず会えるから」
「え、いや! 人界になんて帰りたくない! だってあそこはみんな偽者になっちゃってるもん!」
「本物もいるから大丈夫。飛嵐、頼んだわよ」
 白い鳥は頷く間も惜しむように大きく広げた翼で、大気を一打ちした。
「緋桜ー!」
 せっかく安心できる人に出会えたと思ったのに、急に心細くなってわたしはどんどん下に遠ざかっていく緋桜に手を伸ばした。
「樒、今はちょっと仕事忙しくってここあけられないのよ。そのうち会いにいくから待っていて」
 緋桜は笑顔で手を振る。
「い、いやだよ、緋桜! 今一緒に来てくれなきゃいや」
「わがまま言わない! ほら、しっかり掴まってないと振り落とされるよ。時の実も落っことさないようにね」
 緑の大地が遠ざかり、視界が青一辺倒になった次の瞬間、わたしの視界はもう薄灰色に汚れた青空でいっぱいになっていた。











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