聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 4 章  業 ――オリジナル――



 テーブルに散りばめられるようにして並べられたお料理は、どれも今までわたしが食べたことのあるレストランの味を凌駕していた。朝ごはんだというのに、わたしは胃もたれも気にせずに全て平らげきって、腕を振るってくれたアイカさんに苦笑された。
「エルメノ様もそれくらい好き嫌いせずにお召しになってくださると助かるのですが」
「やだ、わたしったらつい美味しくって何も言わずに黙々と食べちゃって」
「いいんですよ。それこそ作った者の冥利に尽きるというものです」
 アイカさんは笑顔で答えると、音も立てずにテーブルから食べ終えた皿を片付け、あっという間にまたこの長ーいダイニング・テーブルに戻ってきた。
 正面に座った彼女は、わたしと変わらないくらいの少女だった。頬や額に皺が出ることもなく、首にたるみもなく、くすみもなく、顔立ちも若いままだ。
 アイカ・ロムスタン。
 同名でそっくりだというだけで憶測してしまうのもどうかと思う。普通の人が一千年以上も老いもせず生きつづけられるわけがないのだから。きっと子孫とか、親戚とか何じゃないだろうか。
 馬鹿げた想像をありきたりの理由でごまかそうとしても、心の中で彼女はあのアイカ・ロムスタンだよという声がする。一度獄炎を取り込めば不老不死になれるものなんだろうか?
 彼女について思考をめぐらせるわたしは、いつの間にかわたし自身ではなく夢の中に現れる左右異色の髪と瞳を持つ少女になっていた。聖刻の国で連続放火事件を起こして捕まったアイカ・ロムスタン。殺してしまった少女の記憶を抱いたまま生きることを科したあとの処遇はカルーラに任せてしまったから、魔麗城に連れて行くといったあとの足取りは定かではない。大体、あの事件から五年もしないうちに第三次神闇戦争が勃発し、麗兄様を皮切りに兄姉達はばたばたと死んでいったのだ。麗兄様、鉱兄様、炎姉様、そして聖。死んだ後のことなど、知っているわけがない。
 手繰る記憶は深入りしすぎると身体中に計り知れない痛みをもたらす。特に死の直前は、痛みと何か凶悪な思念しか残っていないらしく、彼女自身、そこから先には進もうとしないのだった。
「あの、ご馳走様でした」
「いえいえ。お口にあったみたいで何よりです」
 にっこりと微笑まれて、つられてわたしも微笑む。だから、次の一言にもわたしは普通に返事をしていた。
「〈渡り〉でいらっしゃったとおっしゃってましたね」
「はい」
「一体、どちらからいらしたのですか?」
 アイカさんの笑顔は変わらない。だけど、目には何かを探り出そうとする用心深い色が浮かんでいた。
「知っているんじゃ……ないの?」
 おそるおそるわたしは彼女を窺う。彼女はふっと笑った。
「意地悪なことを申しましたか?」
「なんて言ったらいいか分からないの。わたしはわたしの暮らしている世界では常識ではないことを常識として知っているみたいなの。知らない人の記憶があるの。その人の記憶によると、わたしは人界から来たみたい。地球の日本の東京っていうところから」
 アイカさんはうんうん、と何度も自分の知っている事実と照らし合わせるかのように頷いた。
「わたしも聞きたいことがあるの。アイカ・ロムスタンさん。貴女は一体今何歳なんですか?」
 知ってはいけないことを確かめなければならない時のように、わたしの心臓は早く脈打っていた。そんなわたし様子を観察し、少し考え込むふりをし、アイカさんは顎に手を添えて天井を見たまま呟いた。
「忘れてしまいました」
 すぐにわたしに視線を戻すと、アイカさんはにこっと笑った。
「わたし、百以上は数が数えられないんです。だからもう、分からなくなってしまいました」
 彼女の笑顔に胸が潰れそうに軋んだ。あまりにも長い時間を、彼女も一人で生きてきたのだ。なぜかわたしはそう共感していた。それなのにちっともすれたところがない。彼女は本当に、聖刻の国を脅かしたあの連続放火魔だったのか。
「普通に生きることが貴女の役目だったんじゃなかったの?」
 ぼそりとわたしの口は呟いていた。
 胸に受けた衝撃を吐き出してしまわなければ取り乱してしまいそうだった。それは決してわたしの受けた衝撃ではなくて、わたしの中にいる他の誰かが受けた衝撃。
「恋はした? 結婚は? 子供は何人? 旦那様はどんな人? 孫は? どんなところで暮らしていたの?」
 頭を両手で抱えて、わたしは彼女の顔も見ずに口走っていた。
「二度目の死は安らかに訪れた? あの少女の夢は全うできた?」
 夢の中の少女がわたしの口を借りて叫ぶ。そう、これはわたしの叫びじゃない。わたしは口と喉を貸しているだけ。胸が苦しいのも、あの少女に感情移入してしまっているから。けして、夢の中の少女はわたしじゃない。
 怖ろしくなっていた。あの夢には出てこない場面で、もしかしたら実は、わたしはアイカ・ロムスタンという名の少女を永遠という名の牢獄に閉じ込めてしまっていたのではないかと。神さえも倦む時の牢獄に、生きよと命じておきながら閉じ込めてしまったのではないかと。
「恋はいたしました。人が望んではいけない方に。恥ずかしながら、その方も少なからず思ってくださっていたようです。結婚もいたしました。その方とは別の方でしたが、わたしの過去も至らなさも丸ごと受け入れてくれるよい夫でした。子供は二人。孫は五人。玄孫は十人。その先も生まれていましょうが、孫が死んでからはめったに子孫に会うこともなくなりました。貴女様との約束で守れていないのは、あとは老いることと死のみでございます」
 おそるおそる顔を上げて見上げた彼女の表情は、わたしを恨んでいるでもなく、憎むでもなく、凪いだ海のように穏やかだった。
「なんて顔をなさります。わたしは、人としては十分すぎるくらい恵まれた人生を歩んでおります。罪も愛も味わうことが出来ました。それもこれも、聖刻法王様がわたしに生きなさいと力づけてくださったからでございます」
「辛くはなかったの? 死んでしまおうとは思わなかったの?」
「わたしは一度人の道を外れております。聖刻法王様に言われたことだけは守らねばならないと言い聞かせてこれまで生きてまいりました」
「でも、家族と一緒にいたのだって五十年足らずじゃなかった? 残りの九百五十年を一人で生きてきたのでしょう? わたしは耐えられなかった。一人で知り合いが誰もいない世界を彷徨うのは辛くて寂しくて、わたしは……」
 口から突いて出た言葉に、わたしは一瞬言葉を失った。記憶の奔流が、ほんの些細な障害を乗り越えて溢れはじめたからだった。
「わたしは、ほんとに消えてしまいたいと何度も思った……」
 天宮地下の暗い統仲王の寝室で、眠りについた兄姉達の棺に囲まれ、わたしは何度その棺の蓋を開け、喋らぬ身体に話しかけたことだろう。何度温もりを感じようと頬に、手に触れてみたことだろう。
 そんな記憶の断片だけが感情の奔流と共に流れ込んできて、わたしはさっき食べたものを戻しそうになって口元を覆った。
「幸いにも、わたしは一人ではなかったのですよ。その昔魔麗城に奉公していたということで、子供達が自立して夫に先立たれたあとは、時の魔麗王が気をきかせてわたしにここの管理を任せてくださったのです。やはり神代から生きていると何やかにや噂の的になって大変だった時もありましたが、セロなら噂する人々自体少ないですから。だからといって完全に忘れ去られるでもなく、毎年何かパーティがあると呼び出されるんですよ。照り焼きチキンを作れだの、美味しいイチゴケーキを作れだの言って。歴代の魔麗王様たちには本当に良くしていただきました」
 花が綻ぶような笑顔は、聖の記憶にはない。聖の記憶にあるのは両親姉弟、その他親しくしていた村の人々を殺されて憎悪を快楽としてむさぼっていた時のあのおぞましい笑顔だけ。今のこの笑顔を見て、本当に愛されてきたのだ、とわたしは内心胸を撫で下ろしていた。
「実は、わたしにはもう一つ約束があったんです。それを守るために、わたしは今まで生きてまいりました。その約束があったから、わたしは待つことが出来たんです」
 晴れ晴れとした顔でアイカさんは言った。
「誰……を?」
「麗様を」
 花の咲いたようだった笑顔にさらに太陽が宿ったようだった。恋をした相手は、麗兄様だったのだと一目で分かる表情だった。千年経ってもその想いは変わらず、色あせずにその胸に宿っているのだと言われなくても分かるような、そんな満たされた表情。
「第三次神闇戦争に出征される麗様をこの魔麗城からお見送りした時に、帰ってきたら笑顔で迎えてほしいと言われたんです。わたしは、今はその約束を守るために生きております」
「だって……死んだんだよ? あの時、麗兄様は一番に……まさか、知らないわけじゃないでしょう?」
「はい。でも、約束しましたから」
 もはや異次元だという思いを持たなかったわけじゃないけど、その信じ抜く強さには憧れるものがあった。一体、麗兄様はそこまで魅力的な人だっただろうか? そう思ってしまうほどに。
 アイカ・ロムスタンと聖が出会ってから神代の終わりまで五年足らず。そのあと魔麗城で働いて――一緒に過ごしたのは僅かに三、四年というところではないだろうか。あの頃の麗兄様は、聖に対して苛立ってばかりいたような気がする。生きる気のないわたしに、あらゆる苛立ちを隠さずにぶつけていた。思いやってもらった覚えはない。今思えば、ただ優しくされるよりもああやって突き放された方が聖のためだったのかもしれない。けして優しくはなかった麗兄様だったけど、こんな向日葵のような笑顔に最後は支えられていたんだ。
「聖刻法王様、ですね」
 確認するようにアイカさんは言った。
 わたしは首を振った。
「いいえ。わたしは……ただ、最近見た夢で見て知っているだけです。それも、貴女のことや麗兄様のことや……ごくごく限られたシーンだけ。夢の中に出てきた人物や魔法がここ二、三日だけ現実に関わってくることが多くて」
「ごめんなさい。わたし、変な聞き方をしてしまって。どうしても聖刻法王様にお会いしてお願いしたいことがあって。それでつい、先走って守景様の気持ちも考えずに聞いてしまいました」
「お願いしたいこと?」
「はい。お気づきと思いますが、わたしの寿命は人為的に延ばされたものです。おそらく、四楔将軍にだけ許されていた時の実をいつの間にか口にしてしまっていたのでしょう」
「時の実を!?」
 叫んではみたけど、具体的にどういうものだったのか分かっていたわけじゃない。ただ、門外不出のわたしにしか捥ぐことの許されない大切な実だったことだけは、名称を聞いただけですぐに分かった。
「麗様が戦死なさったあと、棺を魔麗城に届けてくださったのが西方将軍のヴェルド・アミル様でした。その時ヴェルド様がおっしゃるには、水海の国で麗様にお会いになった後、時の実を一つ紛失していることにお気づきになったそうでございます。後日麗様を問い詰めたところ、わたしに飲ませたと白状した、と」
 アイカさんは、勝手に不老長寿にされたというのにけらけらと笑っていた。千年もの重い時を背負わされたのに。
「お願いというのは、その時の実の効果を消す実がほしいのです。〈予言書〉によれば、間もなくわたしと麗様の約束は果たされます。その約束が果たされれば、わたしがあと守らなければならない約束は聖刻法王様との約束だけでございます」
 わたしは、思わずじっとアイカさんのわたしとさほど年の変わらない顔を見つめた。
 老いることと死ぬこと。それは人として当たり前のサイクルの一つ。だからこそ普通の人生に欠かせない要素なのだろうけれど、時の実でずっと維持してきた時間を突然解いてしまったら、反動で即座に老衰してしまわないんだろうか。
 もし、その実をわたしが持ち出してアイカさんに渡すことが出来たとしても、わたしは自殺を助けることになってしまいはしないだろうか。
「悩みますよね、普通。聖刻法王様がお優しい方でよかった。あ、すみません、ついうっかり。運命を握る方がお優しくてよかった、と思いまして。ですが、優しすぎると迷うことになります。迷いは逆に人を傷つけることもあるんです」
「傷つける……?」
「判断が遅くなることによって、大切な瞬間に間に合わなくということもまま、あることでございます。なんて、やだ、私ったら脅すようなことを言って」
 両手で口元を覆ってみせたが、アイカさんは発言を撤回する気はないようだった。
「自殺ではありませんよ。私は人に戻るだけです。永遠の命など、私には過ぎたものですもの」
 アイカさんの微笑には嫌味はなく、大きな信頼だけがわたしに寄せられていた。でも、わたし、というより、夢の中の彼女が引っかかった一番の問題は時の実のことじゃなくて。
「さっき、〈予言書〉って言いましたよね? どこで見たんですか?」
 息を詰めて尋ねたわたしに、アイカさんは一瞬考え込み、にっこりと微笑んだ。
「それは――秘密です」
「未来を見ることが出来るのは、定められた者だけです。もし盗み見たのだとすれば、場合によっては……」
 場合によっては、どうだというのだろう。わたしがこの人を罰する? 何の権限があって? わたしは聖じゃないのに?
「未来を盗み見た罰は、おそらく、〈予言書〉を見た者には等しく下されるものなのではないでしょうか? 定められたものだと知れば、諦めを知って努力しなくなります。努力をしなければ、運命は悪い方へと変わってしまうこともある。私は過去に一度大罪を犯しています。人を憎み、〈悔惜〉の獄炎に身を委ね、たくさんの罪なき人々の命を奪いました。〈予言書〉を見たのは、〈悔惜〉の獄炎がこの身体に入ってきたときです。断片的な誰かの記憶が流れ込んできたかのような感覚でしたが、最近になってようやくその断片を時系列に並べることが出来たんです。それでも、獄炎のうつわとなったのは一瞬のことでしたから、全てを知っているわけではありません」
 言葉とは裏腹なわたしの内心を見透かしたように、アイカさんは静かに語った。
「そんなわけだから、エルメノがぼくをこの旧魔麗城に連れてきたときも大人しく面倒見ること引き受けたんだ? この人に時の実をお願いするために」
 食堂の扉が引き開けられる。背伸びをし、あくびの大口を隠しもせずに入って来たのは、朝来さんだった。
「早かったですね」
 アイカさんはおそらくここに来てからはじめて自室の外に出てきた朝来さんを驚きもせずに笑顔で迎え入れると、温めてあったカップにコーヒーを注いで彼女の席の前にミルクとともに置いた。朝来さんはミルクをカップの縁いっぱいに注ぎ足してかき混ぜもせずに半分ほどを一息に飲み干す。
「で? アイカ、お願いは終わった?」
 カップを置くなり朝来さんはぶっきらぼうに尋ねる。
「ええと、それが……」
 アイカさんは困ったようにわたしを見る。
 わたしは、まだ決心をつきかねていた。第一、わたしが時の実が生っている場所に辿り着けるのかどうかすら怪しい。時の実をアイカさんに渡すには、一度聖刻の国に行って、またここに戻ってこなきゃならないわけでしょう? 〈渡り〉を使えば一瞬とは言え、正確にあの場所を思い描けるかどうか。それに、やっぱり止められている時を元の流れに戻すのは時の実だけでは副作用が大きすぎる気がする。わたしが時の実の効力のみを消し去るような魔法が使えればいいのに。でも、どこをあたっても時の実の効力は時の実をもってしか打ち消せないという記憶にしか辿り着かない。夢の中の少女は国民だという理由でその命を背負う覚悟をしていたけれど、わたしにはとてもそんなかっこいいことは思えない。さっき会った人の命を背負うなんて真似は、できない。
 わたしの未だ決着のつかない逡巡を見てとったのだろう。アイカさんはゆっくりと首を振った。
「わかりました。守景様、さっきの話はお忘れください」
「で、でも……」
「迷って下した決断は、大概あとで後悔するものです。考えずに即決したことも同じくらい後悔するものですが。いいんです。これは、聖刻法王様にお願いすべきこと。守景様も頼まれても困るだけですものね」
 わたしは言い淀んだまま、結局時の実をもらってくるとは言えなかった。聖刻法王との約束を守らせるためではなく、ただ、アイカさんが人としてのライフサイクルに戻る手伝いができるのならそれが一番だったけれど、全ての起こりうる結果に自信がなかった。何より、わたし自身、聖刻の国に入ることが恐かったのかもしれない。
「だってさ。とりあえずもうそのことは頭の片隅に追いやっちゃいなよ」
 朝来さんは放り投げるような言い方をすると、すっとテーブルに身を乗り出した。
「エルメノを知ってるんだね。どこで会ったの?」
 見据えてくるエメラルド・グリーンの瞳は、獲物を見つけた猫のように鋭く、息をつかせない迫力を持っていた。
 似ているかもしれない。
 どくりと緊張に跳ねた心臓の奥底で、わたしは呟いた。
 ここ二、三日つきまとっていたあの少女と、彼女は似ている。初対面の時こそ、拒絶されることを恐れて引っ込み思案なふりをしていたけど、姿かたちだけではなくて、元は同一人物だったかのように、今目の前にいる彼女とつきまとっていた少女とは本来の気性もそっくり同じ物が備わっているように見える。鏡で姿を写し取られていれば、どこか人に操られているような虚ろさが残る目をしているはずだから、今目の前にいる彼女はおそらくオリジナル。だけどそれでいけば、わたしにつきまとっていたあの少女もオリジナル。
「一昨日だったかその前だったか、学校に行く途中、駅で予言めいたことを言われたり、昨日のサーカスで話しかけられたの」
「予言? へぇ、なんて言われたの?」
 朝来さんはにやにやと問いかける。わたしはやや口角を落としながら思い口を開いた。
「わたしは二人いるって」
「あっはは、そりゃそうだ。誰でも自分の中には自分じゃどうしようもないもう一人の自分を飼ってるものだ。それで?」
「そのもう一人が目覚めるって言われた。どんなに押し殺してもまだその人は死んでいないからって。それから、もう一人の自分を知っていて知らないふりするのは残酷だって」
 すっと朝来さんの表情が曇ったことに、残念ながらわたしは記憶を辿るのが精一杯で気づかなかった。
「あとは昨日のサーカスでの出来事の予言だった。行かないようにしようと思ったんだけど、成り行きで行かなくちゃならなくなっちゃって、そうしたらどんどん現実から離れてきてしまった」
 朝来さんはもう一度口元でコーヒーカップを傾けた。私もアイカさんに差し出されたコーヒーに砂糖とミルクをたくさん混ぜて口元を潤す。
「そう。サーカスなんかやってたんだ。一体どうやって入り込んだんだか」
 朝来さんはカップを置きながら溜息を吐き出した。
「やっぱり元から所属していたわけじゃないんだね」
「ぼくがそんな社交的に見える? そもそもぼくは運動あんまり得意じゃないんだよ。一輪車も乗れないし、ブランコだって得意じゃない」
「エルメノの芸はライオンの調教だったよ」
「とんでもない。猫も飼ったことがないのに」
 首を振って、やがてふっと朝来さんは笑った。
「でも、ぼくがしそうにないことしてくれてたんだ。あまりに突飛っちゃ突飛だけど、やろうと思えばぼくはサーカスの団員にもなれたんだ」
「サーカスの公演にはクラスの子達もたくさん集まってたみたいだよ」
「意外とあっさり受け入れるものなんだね、人って。それとも、一度排除したことなんか忘れてるのかな」
「クラス替えもあったんじゃない?」
「そっか。四月だもんね。ぼくさ、どうしても一度同じクラスになりたかった人がいるんだ。木沢光って言って、木沢君は覚えてないかもしれないけど、木沢君だけは笑わなかったんだ。何かの話の流れで、無知だったぼくが神界っていう神様がその昔暮らした世界があるんだって喋っちゃった時も。どうして笑って馬鹿にしなかったのか、ずっと聞きたいと思ってて聞けなかった。そのあと学校に行かなくなっちゃったから。エルメノはさ、その木沢光にご執心なんだ。木沢光はエルメノのオリジナルなんだって。だから、どうしてもまた一つに戻りたいんだって。そのために、エルメノは木沢光と同じ学校に通ってたぼくに目をつけて、成り代ることを約束した。そうだよ、元からエルメノはそのつもりだったんだ。ぼくの望みが何かを知っていて、だから叶えるなんて言って堂々とぼくになったんだ」
 今まで見ないふりをしてきた事実を順を追って言葉にすることで、朝来さんは整理して受け入れようとしているように見えた。ずっと閉じこもってきた部屋を出てきたのも、何か思うところがあってのことだったのだろう。
「ねぇ、部屋から出る時にドアノブで火傷しなかったの?」
「え? ああ、それが不思議とね、なにもなかった。びっくりするくらい普通に開いたよ。ほら」
 ひらひらと朝来さんは手を振って見せる。
 それをアイカさんは慈愛のこもった眼差しで見つめていた。
「あの部屋には、外からはお世話のために私だけが入ることを許されていました。内からは、たとえ誰かが朝来様を連れ出そうとなさっても連れ出せないようにあのような仕掛けになっておりました。ですが――」
『ですが?』
 朝来さんとわたし、二人声が重なる。
「エルメノ様がおっしゃっていました。朝来様が自らあの部屋を出たいと言った時は妨げないように、と。だから、朝来様が開ける分には何も起こらなかったのでしょう」
「エルメノ、様?」
「ああ、誤解なさらないでください。私、闇獄主の肩を持っているというわけではありませんよ? ただ、私はあの方に昔振り回されましたが、それでも憎めないんです」
「憎めない? どうして? だって、間接的とは言え元はといえばアイカさんの家族を殺したのも、アイカさんを罪人に仕立て上げたのも、みんなあの子のせいだったんでしょう?」
「はい。ですが、あの方の中にも二人いらっしゃるのだと思います。麗様と姉弟のように親しんでいたエルメノ様と、已むに已まれぬ事情で〈欺瞞〉となってしまったエルメノと。本来は、優しく気高い方だったのだと思います。だから、反面傷つきやすかったのだと」
 声を荒げたわたしに対して、アイカさんは全てを呑み込む大海のような穏やかさを保ったままそう答えた。
「でも、だからといって許せるようなことでは……」
「エルメノ様がいらっしゃったから、私の出会った麗様がおられたのです。一千年前に私が犯した罪は、私の心の弱さです。悪いことと分かっていて、私は悪魔の甘言に心を委ねたのです。それに、たとえ彼女が私の前に現れなかったとしても、わたしはもっと不器用な方法になってしまったかもしれませんが、きっと同じことをしたでしょう。――納得できないというお顔ですね」
 どうしても頷くことが出来なかったわたしは、すみません、と小さく言った。アイカさんはそれでも笑みを絶やさない。
「私はあなたが思うほどいい子ではなかったんですよ。たくさんの弟妹達の為に上級学校に行くこともままならず、晩の姉弟喧嘩は翌朝村中に知れ渡っているような小さな村が本当は嫌で嫌でたまらなかった。捨てたんです。出稼ぎに行くなんて言って、私は一度村も親兄弟もみんな捨てたんです。飛び出した先、聖刻の国のユガシャダで路頭に迷った私に家と仕事をあてがい、親兄弟は捨ててはいけないと滔々と諭して手紙を書かせたのがエルメノ様でした。つくづく不思議なご縁です。人生の岐路にはいつもあの方が私の側にいるんです。たとえ騙されていたのだとしても、私はあの方にたくさんの大切なものを気づかせていただきました」
「だからってぼくの名前までエルメノにするかな、普通。闇獄主の名前ってしか誰も思わないじゃないか」
「エルメノという響きには『真実』という意味があるのだそうです。麗様が教えてくださいました。とてもいい名前なのですよ」
 ぼやいていた朝来さんは、ふと目が覚めたようにアイカさんを見つめた。
「本当?」
「はい。髪の色も瞳の色も彼女そっくりな貴女を見て、貴女は偽らない人生を歩んでほしいと私がおつけしました」
「アイカが? そんなの、初耳だよ?!」
「はい、初めてお話いたします」
 朝来さんはあんぐりと口を開けてアイカさんを見つめていた。
「何で?」
「実は、代々の魔麗国王家の皆様のお名前は私がつけておりました」
「どうして?」
「それは私の可愛い孫たちにあたりますから」
 がたん、と朝来さんは椅子を後ろに跳ね飛ばして立ち上がった。わなわなと肩は震え、口はパクパクと酸素を求める魚のように開閉される。
 それに触発されたように、頭の片隅で声が響く。
『ひぃりね、この名前好きだよ。ねぇ、ひぃりって名前、誰がつけてくれたの?』
『聖の名前はね、海姉上がつけてくださったんだよ』
『ふぅん。じゃあ、龍兄は?』
『私は……私の名は綺瑪という人がつけてくれたんだよ。炎も麗も鉱も風もね』
『えー、じゃあ、ひぃりは仲間はずれ?』
『仲間はずれじゃないよ。私たち兄弟の名前は定められた人が一所懸命考えてつけてくれたんだからね』
 なぜか龍兄の顔が悲しげに歪んだような気がして、聖は慌ててご機嫌をとろうとしたんだ。
『あのね、ひぃり、龍兄のお名前も大好きだよ。ひぃり、きっとその綺瑪さんって人のことも大好きになるよ。会ってみたいなぁ、ひぃりの名付け親さん』
 知らないって、残酷だ。幼い頃を思い出してそう思ったのは、もう龍兄にもほとんど逢えなくなってから。思い出ばかりの世界に遊ぶようになってから。
「嘘!」
 打ち寄せてきた記憶の欠片は朝来さんの声に砕かれた。
「嘘ではありませんよ」
「そんなこと言われたって、ぼく、今更アイカのことなんて呼べばいいのか……」
「今までどおりでいいんですよ。何せこれは歴代の魔麗王しか知らない話ですから」
 よかったんだろうか、わたしまで聞いちゃって。わたしじゃこの世界への影響力も何もないようなものだから問題ないのかもしれないけど。
「いいよ、わかったよ。ぼくの名前につけるくらい、アイカにとってはその人が大切だったわけだ」
「はい。理解するのは難しいかもしれませんが。守景様、エルメノ様は他にもなにかおっしゃっていませんでしたか? たとえば、思い出せ、とか」
 無理やり納得することにしたらしい朝来さんに頷いて、アイカさんは再びわたしを返り見た。
「言ってたよ。でもどうして? その理由も分かるの?」
「時を戻してほしいのでしょう。麗様と別れる前の時間まで」
 時を戻すという言葉に、どきりと心臓が跳ねた。視界がぐらぐらと揺れはじめる。
「時を戻すって、わたしが?! 無理。無理、無理、無理」
「だから聖刻法王様だったときの記憶を思い出してほしいと言ったのでしょう」
 気がつくと、わたしは必死で首を振っていた。
「だめ。無理。それはやってはいけないの。簡単に出来るようなことでもないし、いや、恐い……」
 恐怖に心臓が高鳴る。あまりに音が大きすぎて気が遠のいていくようだった。まるで警告の音だ。思い出したら痛い目に遭うと、わたしの身体が警告している。結局本物だったのか偽物だったのか分からなかったけど、工藤君だって言ってたじゃない。何も思い出さなくていいって。何も思い出さなくても生きていけるって。
 そうだ。人は都合のいい言葉にだけ縋りつきたくなるものなんだ。
 自分がどうして「彼女」を知っているのか考えないようにしているのも、自分を守るために必要なことだから。都合の悪いことは考えちゃ駄目。行き着いた真実がわたしを幸福にするとは限らないもの。
「アイカ、喋りすぎだよ。それと訂正が一つ。僕は時を戻してほしいんじゃない。僕を過去に連れて行ってほしいだけなんだ」
 恐慌状態だったわたしの耳に低く響いてきたのは、全く違う場所――リビングの入り口から響く朝来さんと同じ声だった。エメラルド色の瞳は、獲物を見つけた蛇のようにじっとわたしだけを見つめながら近づいてくる。わたしは胸に拒絶感を募らせながらも、ボンドで椅子にお尻を貼り付けられてしまったかのように、全く立ち上がることも椅子ごと後退ることも出来なかった。
「せっかく元の世界に帰してあげたのに、どうして戻ってきたの?」
 溜息をつきながらも、わたしに向けられたその声には嘲笑が含まれていた。
「元の世界って、あれのどこが元の世界だっていうの? 洋海がお化けになっちゃってたじゃない!」
「家に帰りたいと言っただろう?」
「あそこは違う! 洋海がいなかったし、ちっとも落ち着けなかったもの」
「本物だったよ。君を返した空間は確かに人界だった。ただし、今頃世界の半分くらいは君も見たあの偽物に入れ替わってしまっているけど」
「なん、ですって?」
「入れ物は本物。中身は偽物。さて、一体その世界は本物でしょうか? 偽物でしょうか?」
 楽しげに笑ったエルメノは、同じく椅子から動けずに凝固していた朝来さんの肩に両手を置いた。
「安藤朝来。僕そっくりの僕。よかった、自分であの部屋から出られたんだね」
 エルメノは愛しげに朝来さんの耳元で囁く。
 朝来さんは緊張に目を見開き、肩を強張らせていた。
「おめでとう。安心したよ」
「どうして……どうしてそんな優しいこと言うんだよ?」
「どうして? そんなの当たり前だろう? 君は、僕と麗の子供なんだから」
 さも当然と胸を張ったエルメノに目を瞠ったのは朝来さんだけじゃない。わたしも、だった。だって、麗兄様に子供なんかいなかったはずだ。それも子供のときに生き別れになったエルメノとの子供なんて、いるはずがない。
 ――なんで、そんなことわたし知ってるんだろう。
 それ以前に、朝来さんは安藤君の妹なのだ。本当なわけがない。
「何だ、騙されるところだった」
 安堵の一言は、知らず、声になっていて、小ばかにしたエルメノの視線を浴びるはめになった。
「騙してなんかいないさ。この身体はサースティン家に生まれた。そして、アイカと麗の娘がサースティン家に嫁ぎ、千年の時を経て君が生まれた。それに……」
 エルメノはじっとアイカさんを見つめた。アイカさんは視線をそらしもせず、正面からそれを受け止める。
「馬鹿正直なアイカ。本当にお前は僕に似てないね。――望みどおりだ」
 満足げに口元は笑んでいるくせに、エメラルド色の瞳はこの上なく悲しげだった。失ってしまって、もう二度と取り戻せないものを諦めに似た思いで見つめるかのように。
 そして、再びエルメノはわたしを見つめ、わたしに歩み寄ってきた。
「『何だ、騙されるところだった』、か。少しは思い出したのかな? 生まれる前のこと」
 鼻の頭と鼻の頭がぶつかるんじゃないかというくらい近くから、エルメノはわたしを覗き込んできた。
「思い出してなんかいないよ」
 わたしは精一杯虚勢をはる。
「またまた。じゃあ、どうやってここに来たの? 唱えてみたんじゃない? 〈渡り〉と」
「違……う」
「嘘をつくときは目をそらしすぎてもいけないし、必死に相手の顔を見すぎてもいけない。ばればれだよ?」
「知らない! わたしは何も……」
 慄きが椅子に伝わったのだろう。わたしは椅子を蹴倒して後ろに後退った。
「なら、知らなくて結構。〈渡り〉が使えるだけで十分だ」
 エメラルド・グリーンの瞳は、それこそ必死だった。冷たい幼い手でわたしの手を掴んだエルメノは、まるで最後の藁に縋りつくかのようだった。
「帰りたいって言ったよね。昨日、君は帰りたいと言った。僕も帰りたいんだよ。家に」
 夕焼け色の長い睫毛が、遠い過去に思い馳せるように伏せられる。
「家って……」
「僕の一番落ち着く場所は麗の隣だよ。麗のいるところが僕の場所だ。さぁ、唱えて。いや、呟くだけでいい。君はもう、その言葉の意味を知っているのだから。ほら、簡単だ。〈渡り〉と唇を動かして」
 わたしはしきりに首を振っていた。だけど、掴まれた手首からは滾る熱意と共に真っ黒く塗りつぶされた記憶が流れ込んできていた。











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