聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 4 章  業 ――オリジナル――

3‐2

 日の落ちる前に水海宮の門前で禦霊とカルーラと落ち合った僕は、水海の国一高い真珠エキスの入った保湿クリームが売っている店に連れて行かれ、あまりの高さに思わず値切ってしまったのだが、結局二人に進められるままにそのクリームを買って帰途に着いた。
「おい、麗、気持ち悪いぞ。その笑み」
 禦霊の翼に乗っているのだから、見えているわけがないのに、禦霊はまたぶつくさと文句を言っている。
「いいでしょ。誰も見てるわけじゃないんだから。アイカが喜ぶのが楽しみで仕方ないんだよね?」
「カルーラ、僕がそこで素直に頷くと思う?」
「えっと、ううん、思わないけど、でもそうなんでしょ?」
 空気を読めよ、と思わず言いたくなったけど、まぁいい。不問に付してやろう。カルーラと禦霊のお陰で、予定より早くアイカの手を救えるんだから。
「さて、聖刻と天龍の国は抜けますからしっかり掴まっててください」
 水海の国の国境に来て、禦霊が一言言った次の瞬間、強い風が伏せた背中を抉るように薙いで、身もしまる寒さが全身に絡みついた。
「ふぅ、着いたね、魔麗の国」
「まだだろ。ここからセロまでが長いんだよ。あー寒ぃ」
 懐かしがっているカルーラに対して、禦霊はぶるぶると身体を震わせている。
「カルーラ、お前、一緒に戻って来てよかったの?」
 いつものカルーラなら、この寒さは誰よりも堪えるはずだ。きっと水海の国に残るのだろうと予想していたのに、当たり前のように禦霊に乗ってきたカルーラに、僕は多少違和感を感じていた。
「んー、寒いからほんとは来たくなかったんだけど、でもまだ麗ちゃんとの話が終わっていないから」
「それなら今すればいいだろ。で、終わったら禦霊にどこへなりと届けてもらえ」
「ええっ?! 私、明日からまた通常通りきりきり舞いの毎日なんですよ? その私にまたカルーラを乗せて飛べ、と? 冗談じゃございません。クワトまででしたら私も帰り道ですから乗せないわけじゃないですけどね、これで火炎の国にでも飛べといわれたら、いくらなんでも私だって労働権を酷使させていただきますからねっ」
「わかってるわかってる。僕はそんな無茶いわないから。今日は魔麗城に泊まらせてもらうから。いいでしょ、麗ちゃん?」
「ま、部屋はいくらでもあるから好きに使え。但し、アイカに迷惑はかけるなよ。今夜一晩は休みを出しているんだから」
「休みを出した宰相を友達だといって呼び出してこき使っているのはどこのどいつでしょうね。あー、顔が見て見たい」
「ふん、見たかったら降ろしてから存分に見ればいい」
「かーっ、このくそ忌々しいガキが。振り落としてやろうか?」
 脅しとはいえ、かなり強烈に禦霊は身体を揺すった。
「うわあぁあ」
 本気で振り落とされかけたカルーラは落下する直前に禦霊の猛禽類の如き足に掴まり安堵の息を吐いたが、すぐにただならない様子で叫んだ。
「麗ちゃん、セロが燃えてる!」
 日の短い魔麗の国では夕焼けはとっくに消えうせ、薄暮の空にどんよりと立ち込めた雲が紫色に染められて白氷の大地を覆っていた。目指す方向は北北西。その地平線の舳先に、赤い鬼灯のような灯火が広がっているのが僕の目からも確認出来た。夕焼けにしては不気味さを孕んだ血のように赤い色。あの炎の色は、ストーブの火が燃え移って家が燃えているという程度のものではない。元はそうだったとしても、あれはもはや魔物のように街ひとつを呑み込んでいた。
「アイカ――」
 やっぱり連れてくればよかった。そんな後悔は先には立たない。
「急げ、禦霊」
「十分急いでるよ。着くまでに消火作業の段取りでも組んどけ」
 言われるまでもない。
「カルーラ、雨を降らせるよ」
 燃え盛る街がぐんぐん近づいてくるにつれて、炎の放つ熱風が煙と共に吹きつけてくる。人々の悲鳴が耳に届きだす。この北の最果てに、まだこれほど多くの人々が住んでいたのかと絶望するほどたくさんの人々が炎にまかれて逃げ惑っている。その中にアイカがいないか探してみても、彼女はどこにも見当たらなかった。もしかしたらまだ城にいるのかもしれない。言ってたじゃないか。ここしか自分の居場所はない、と。
 魔麗城にはまだ火の手は上がっていない。
 どうかそのまま街に出てこないでくれ。僕が今すぐ雨を降らせてこの炎を消し止めてみせるから。
『冷たき吐息 我が唇から流れ出よ
 白き風となりて大気を渡り 遍く天空を濯ぎ清めよ』
「冷却」
 ふぅっと僕が息を吐き出すと、呪文の通り白く濁った吐息が勢いをつけて一息に前方へと駆け進んでいった。陽炎となってゆれる熱気が冷気に押されてぐにゃりと曲がる。瞬間、大気が緊張した音を放った。光線が南北に走る。
 もう一息。もう二息。
「雲よ、凍れ」
 ぽつり、とようやく凝った黒い雲から雨の雫が零れ落ちる。だが、まだ足りない。まだ、セロ中を覆うには足りなすぎる。
 眼下には火の海が広がっていた。
 どうしてこんなことに。どうしてここまで広がった? 普段から家々は火事になっても隣家に延焼しないようにある程度距離をあけて建てさせていたはずだ。立ち並ぶ建物があったとしても、決してその両端を他の行列とは交わらないように十分にあけていたはずだ。風が強かったのか? それともこの寒さだ、あちこちの家で同時に火事が起きるなんて偶然が重なってしまったのか?
 ぽつぽつと降り出す雨。
 足りない。ぜんぜん足りない。
 魔麗城が炎の障壁の向こうにゆらゆらと見え隠れしている。あの中には兵一人いない。僕が動かせる駒は、この街にはひとつもない。ちょっとした火事の時は住民達が自主的に協力し合って消し止めていたはずだ。だが、ここまで大きくなっては彼らも逃げるしかないだろう。踏みとどまって消火活動をしろなんて命令はできない。
「大丈夫。僕と禦霊がついてる。アイカも運のいい子だから大丈夫だよ」
 カルーラはいたって冷静だった。悔しくなるほど頼もしい笑みを浮かべて僕を見ていた。
 僕は法王なのに、ここに住む人々を傷つけずに守る力さえない。
 法王だから、地上に降りてアイカを探し回ることも出来ない。
 雨の音が強くなっていく。でも、炎が弱まれば上空に上がってくる熱が少なくなる。大気を冷やすだけでは中途半端に炎が弱まるだけで鎮火させることは出来ない。
 歯噛みして地上を見たときだった。
 寄せ集まった家々の作り出す狭い路地を駆ける一人の少女が見えた。
 それは、あまりにも偶然のなせる業だっただろう。顔さえ分からないこの距離からでも、彼女の走り方、背格好から僕はそれがアイカだと分かった。
「あの馬鹿、どうしてあんなところをっ」
 それと察して禦霊が炎が上がっていない近くに急降下していく。でも僕は着地するのを待てずに飛び降りた。
「伸びろ、紫精」
 紫精を雪の融けた石畳に突いて着地の衝撃を和らげる。
「アイカー!!」
 叫びながら滲んだ汗を拭い、彼女の背を追う。
 いつも追ってばかりなんだ。どうしてかいつも、僕は彼女の背中を追ってばかりいる。それなのにアイカは僕に気づいた様子もなく、真っ直ぐに路地裏を走り続ける。その両側では窓ガラスを割って炎が噴出してくる。
 どこに行くつもりなんだ、あいつ。
 強烈に降り出した雨に白い煙が湧き起こる。赤い炎は勢いをそがれたかに見えたが、次の瞬間、ごう、と音を立てて僕とアイカの間を遮った。
 その煙を潜り抜けたとき、アイカの姿はどこにも見えなくなっていた。
「アイカ? アイカーっ!」
 燃え落ちる家々の屋根が崩れはじめる。ここにいては下敷きになってしまう。幸いここは狭い一本道。この燃え落ちる家々に踏み込んでさえいなければ、いずれこの先にある行き止まりの小さな広場で落ちあえる。
 僕はひたすら駆け抜けた。勿論、左右の家々にアイカの姿がないかすばやく確認しながら。そして通り抜けた先、家一件分開けた行き止まりの広場にでた。左右には民家。目の前にあるやや大きめな建物は身寄りのない子供からお年寄りまでが身を寄せ合って暮らす慈愛院。その前には何人かの大人と子供達が集まって震えながら燃え盛る建物を見上げていた。
「お前達、何してる! 早く逃げろ! 路地から逃げらなくなるぞ!」
「ま、魔麗法王様?! ああ、助けてください! まだ中に子供達が取り残されているのです。アイカさんが今助けに入ってくださったのですが……」
 腰の曲がった老婆が見えていなそうな目で僕を見上げながら一生懸命説明した。
「アイカが? 中に? どうして?」
「アイカ姉ちゃんは暇があればここに来て、ぼく達に歌を教えてくれたり一緒にボール遊びしてくれたりしてたんだよ」
 小さな子供が僕の服の裾を掴んで泣きそうな顔で言った。
「助けてよ。お兄ちゃん、法王様なんでしょ? アイカ姉ちゃんのこと、助けてよ」
 アイカが慈愛院に通ってた? 子供達の面倒を見てた?
「法王様、私からもお願いします。アイカさんは私らの太陽なんです。どんなにこの街が雲に覆われていても、アイカさんが笑えば、私らの心は光に喜び震えるんです。お願いします。どうかアイカさんを」
 どこが、行く場所がない、だ。あの馬鹿。これほど慕われておきながらよくもあんなことが言えたものだ。自分だって心配で飛び出してきたくせに。見つけたら叱り飛ばしてやる。
 お前はもっと、自分を大切にしなきゃ駄目だって。
「言われるまでもない」
 僕は彼らにそっけない一言を残して、開きっぱなしの扉から中へ飛び込んだ。中は、窓から炎を噴出しているとは思えないほど静かだった。黒く炭化した床や椅子、テーブルはつい先刻までここに人々が集っていたことを窺わせる。足元には燃え残った黒いボールが転がっている。しかし、その奥に続く部屋、階段の上は未だうねるように炎が暴れまわっていた。
「アイカーっ」
 叫んでも返事は返ってこない。
 そのかわり、あれほど燃え盛っていた奥の廊下を埋めていた炎が見る間に縮小していくのが見えた。
 水でもかけたのか? でもあれはバケツ一つで一息に消し止められるほど小さな炎でもなかったはずだ。
 考えている暇はない。僕は奥へと走りこみ、歩を止めた。
「鎮まれ、炎の精霊よ。悪戯なその舌を口に納めなさい。これ以上、人々を弄ぶことはわたしが許さない」
 取り巻く炎の中心に彼女はいた。泣き叫ぶ子供たち二人を抱きかかえて尚、物怖じせずに顔を上げ、凛とした声で命じていた。その声に脅えたのか、アイカの周りで踊り狂っていた炎はぴたりと床に伏せ、沈んでいった。
「アイ……カ?」
 呆気にとられて僕は彼女を見つめる。
 アイカは炎が取り囲んでいた場所を平然と歩き越えて、ようやく僕の存在に気がついたようだった。
「れ、麗様!」
 毅然とした表情が一瞬にして慌てふためいた頼りないものに変わった。
「話はあとだ。子供達を」
 アイカから子供達をひったくるようにして両脇に抱えると、僕は彼女の手も引かずにずんずん出口へと急いだ。彼女が数メートルも後ろで立ち止まっていたとも知らずに。
「ちゃんとついて来てるんだろうな、アイカ」
 気配が消えた気がして振り返ったとき、僕とアイカの間には再び手が届かないほどの距離が生まれ、崩れ落ちた二階の床が炎の山となって僕らを隔てた。
「麗様、その子達をお願いします。あと一人、まだ中に残ってるんです」
「残ってる? どうしてそれを早く言わないんだ!」
「わたしなら大丈夫です。見たでしょう? わたしの力」
 一息おいた後、消えてしまいそうな乾いた笑い声が続いた。
 人であっても精霊に愛されれば使役する力を得ることもある。彼らは炎術師と呼ばれるが、しかし、たとえ強力な精霊と契約を結んでいたとしても、説得のための詠唱を省いて命じただけであんなにも簡単に炎を納めることは出来ないはずだ。それこそ、炎の精霊王と結んでいる炎姉上ならば別だろうが。
 何から口にしようか迷っているうちに、アイカは崩れかけた階段を昇りはじめていた。僕の両脇ではピーピーと甲高い鳴き声があがり続けている。
「絶対戻ってくるから待ってろよ」
 それだけをやっと言い残し、僕は熱気の満ち満ちた部屋を駆け抜け、外に出た。
 冷たい雨がしたたかに頬を打つ。
「うわぁぁぁ」
 抱えていた子供達は見慣れた老婆達の顔を見つけると、一目散に彼女らの元へと駆け出していった。彼らがちゃんと老婆達の腕の中に納まるのを見届けて、もう一度慈愛院に踏み込もうとしたときだった。
 目の前で慈愛院の建物が断末魔にも似た唸りを上げた。足が折れるように一階の柱、壁が歪み、バランスを失った二階が炎を抱いたまま一階の壁の中に飲み込まれていく。
 まるで中に誰もいないかのように、無慈悲に。
「アイカ……? アイカ?」
 頭の中が真っ白になっていた。ただ目の前の光景だけが鮮明に焼きついている。喉からはもうこれ以上声が出ない。
 何故? 僕は法王なのに。何故僕は何も出来ない?
 いや、そうだ。僕は法王なんだ。どんな炎にまかれたって、どんなに酷い火傷を負ったって死なないことになっているんだ。
「火傷……?」
 こんな時なのに、僕の目の前には昼に見たアイカの手のケロイドが蘇っていた。
 生きていなきゃ、何も聞けない。アイカのことを何も知らずに手放してなんかやるものか。
 逸る気持ちを抑えるために天を仰いで深呼吸をすると、石畳の上に紫精を突きたてた。
『熱の精霊たちよ 物質に宿りて摂理を調節する者よ
 我はこの世の摂理の守護者なり
 過剰なる力溢れれば奪い取り 不足あれば付け与える
 流れる力を等しく均すが我が役目
 見よ 仲間達の荒れ狂う様を 寄り集まりて踊り狂う様を
 過剰なる力は寄り集まりて汝らを滅ぼさん
 然らば奪い取れ 摂理を越えた力
 熱に浮かされた者どもの覚醒を促せ』
「〈絶対零度〉」
 全ての音が消え去った。自分の影が消えている。
 脂汗が背中に、額に、胸に湧き上がってきていた。
 明らかに力の使いすぎだ。火を噴いているセロ中を範囲指定して人の体温より高い熱を放つもの全ての分子運動を止めたのだから。
 僕が深く息を吐き出すと、周りで歓声が上がった。
「やった! 火が消えた! さすが法王のお兄ちゃん!!」
 子供達がうるさく周りを飛び跳ねる。
 僕はよろりと身を起こす。立ちくらみがするなんて、血の気が足りていない証拠だ。あとでアイカにたっぷり精のつくものを作ってもらおう。
「アイカ……アイカは……」
 暗闇に目がなれると、真っ黒な残骸が目の前に現れた。それはもう、がたりとも動かない。
「アイカ、アイカ、アイカ」
 残骸に駆け寄る。陥没した一階に落ちた二階の山まで登りきって、一つ一つ炭化した物を背後へと投げ捨てる。
「出て来い、アイカ!」
「麗……様……」
 何度目かに叫んだときだった。下から弱々しいアイカの声が聞こえた。
「今助けてやる。気、しっかり持ってなよ」
「いいえ、離れてください。今すぐ、この子を連れてわたしから離れて」
 アイカが瓦礫の中から子供を一人差し出してそう言うが早いか、僕は子供を抱きかかえたままあっという間にそこから吹き飛ばされていた。
 目の前では赤黒い火柱が天を突いていた。
 僕は呆然とそれを見上げた。
 周りで聞こえていた歓声は悲鳴に変わった。ばたばたと逃げ出す足音がそれに続く。
「何で、だ? どういうことだ? これは一体……」
「そんな、アイカの中の獄炎は全て聖様が闇獄界に返したはずなのに」
 駆けつけてきたカルーラの顔面は蒼白だった。
「どういうことだ。アイカの中の獄炎って」
「何年か前、聖刻の国で連続放火事件が起こっただろ? そのうち二つはアイカがやったんだ。エルメノが闇獄界のとち狂った炎の精霊をアイカに紹介して契約させて、闇獄界の念とアイカの負の思いが〈悔惜〉を生み出した」
 思わずカルーラを振り返った僕の表情は一体どんな顔をしていただろう。自分でも一体何にショックを受けたのか分からなかった。アイカが罪人だったことになのか、エルメノが神界に出入りしていたことになのか。
「まさか、この火事もアイカが起こしたんじゃ……」
「馬鹿言え! 自分で起こしといて子供助けに入る奴なんていないよ。少なくとも、ここに助けに入ったときのアイカは正気だった」
 カルーラが人を疑うなんて、聖刻の国の連続放火事件は話に聞いた以上にひどいものだったのかもしれない。だとしても、僕の知っているアイカは暗さなど欠片も見せない女だった。慈愛院の奴らじゃないけど、太陽のような笑顔を持っている女なんだ。
「絶対に違う」
 言い聞かせたんじゃない。これは確信だ。
 それなのにカルーラは考え込むように、そして半ば脅えたように言った。
「本当にそう思う? 本当に、今はアイカが家族を殺された恨みを綺麗さっぱり忘れて笑っていると思う? ぼくは違うと思うな。ぼくには今のあの子の笑顔は全てを飲み下した上での笑顔に見えるんだ。お腹の中に納まっているってことはさ、消化不良を起こすこともあるよね?」
「お前、カルーラ! アイカを連れてきたのはお前だぞ? お前が信じてやらなくてどうする!?」
 掴みかかった僕を、カルーラは明緑色の瞳でいとおしげに見つめた。
「助けてあげなよ、麗ちゃん。信じているなら貫けばいい。でもきっとすぐに信じられなくなるよ」
 僕の手をやんわりと離させると、彼女はくすくすと嫌な笑いを残して割れたガラスの中に消えていった。
「あ……あ……、お前、エルメノ……? 何で? どうして久しぶりとかじゃなくて、カルーラなんかに成りすまして? 何であんなこと……」
 この手の届く範囲にいたんだ。エルメノが。なのに僕は、気づかなかった。カルーラだと思って酷い掴み方をしてしまった。
 違う。そうじゃなくて。
 どうしてこのタイミングでエルメノが現れるんだよ。腹の底から湧き上がってくるこのどうしようもない愛しさを、僕にどうしろというんだ。アイカにだけ向けられようとしていたこの有り余る自己愛を、どうして今更手の届かないところに行ってしまったお前に向けなければならない?
 アイカだけ。アイカのことだけ考えるんだ。あんなの、ただの白日夢だ。見る気などなくても、思ってなどいなくても、ただ見てしまっただけ。
 自分の中で重ねられていく言い訳に虚しさを感じながら、僕は歯噛みしていた。胸元にしまった時の実を服越しに握りしめる。
 永遠に添い遂げようと思った。それだけ愛しいと思った。アイカの存在に価値を見出していた。彼女のこれからの時間を全て背負えると思った。不安になどさせないと思った。自分のエゴを通すからには、それなりの責任を負おうと思った。
「悪に走ったぼくは、もうお払い箱だよね?」
 耳元で囁かれた言葉。
 動揺なんかしちゃいけない。今は、アイカを助けることだけを考えなきゃ。
「寂しいな。悲しいな。麗ちゃんに嫌われるなんて」
「エルメノ。君にはまだ会いたくなかった。僕はまだ君に夢を見ているんだ。叶わない夢を」
「なら、また一緒に夢を見よう?」
 目を閉じた。眼裏には真っ暗闇。聞こえてきたのは『私から離れて』――悲痛に満ちたアイカの声。
「エルメノ、今はまだその時じゃない」
 僕は見えない彼女に向かってそれだけを答え、天に突き立つ赤黒い火柱と対峙した。火柱の根幹には操られているかのように力の抜けた姿で立つアイカがいた。
「目を覚ませ、アイカ! 起こすのはお前の仕事だろ? 僕に起こされてどうする?」
 いくら罵倒しても、アイカはぴくりとも動かない。それどころかアイカを取り囲む火柱の炎は消し止めたはずの慈愛院の残骸に再び燃え移った。
「ああ、いた! あの子だよ、火をつけて回っていたのは」
「ほんとだ、ひらひらしたものを着た女だ」
 逃げ去ったと思った人々が残骸を乗り越えて、思いもよらない言葉を吐きながら火柱に包まれたアイカの周りに集まりはじめる。
「何を言う! アイカさんは私らのことを助けに来てくださった……」
「いいや、わしは確かに見たね。楽しげに鼻歌を歌いながら民家の窓ガラスを割って火のついた紙を投げ入れるあの女を」
「そうだ、そうだ!」
「違う、アイカ姉ちゃんはそんなことしないもん」
「燃えろ、燃えてしまえ! 俺たちの家を焼いた奴なんか、焼け死んじまえばいいんだ!」
 火柱に向かって石が投げられた。一つ、二つ、三つ、四つ。石だけじゃない。硬い炭になった木材まで両腕で放り投げられる。それを必死に慈愛院の奴らが止めようとするが、物を投げる奴らの方が断然多くて、やがて彼らは取っ組み合いの喧嘩を始めた。
「麗ちゃん、大変、大変! みんな、アイカが火をつけたのを見たって息巻いちゃって」
 青い目をした本物のカルーラが、今頃になって息せき切って駆けつけてくる。
「遅い」
「ごめん。雨降らすのに手間取っちゃって。加熱と吸熱両方駆使してたからさ。それより、あれ」
「カルーラ、あの炎は獄炎か?」
「獄炎? え、何で?」
「アイカは〈悔惜〉の器候補だったんだろ?」
「どうしてそれを」
「エルメノが言ってた」
 青ざめたカルーラに、僕はこれまでどれだけエルメノの動向で隠し事をされてきたのかを知る思いだった。
「獄炎じゃないよ。獄炎じゃないけど、あれは闇獄界に送られるべき炎の精霊たちだ」
「可哀相に。ここももう、聖域じゃないんだね」
 火柱に包まれたアイカは、投げられるものを恐れることなく一歩、二歩と歩きはじめていた。そう、恐れるわけがない。彼女を取り巻く炎が全て投げられたものを一瞬にして灰にしてのけているのだから。それでも人々は怯まずに物を投げ続け、慈愛院の奴らは火柱の周りを取り囲み、アイカに物が当たらないように心を砕く。あれじゃまるで人質も同じだ。
 僕はもう一度、瓦礫を掻き分けてアイカに近づいた。
 さすがに僕がいてはものを投げつけることも憚られるのか、怒号も雨のように降る瓦礫の欠片も止んだ。
「紫精」
 紫色の輝きを纏った槍を取り出すと、僕はそれで炎の壁を突き通し、アイカの胸の中央に切っ先を据えた。歩み続けていたアイカもさすがに躊躇する。
『聖なる力を宿せし魔法石よ
 その光以て 闇に潜む邪なる思いを打ち祓え』
「浄化」
 紫精の切っ先に紫の光が集中し、一瞬の緊張の後弾け散った。
 迸るエネルギーの奔流に僕は弾き飛ばされ、僕と反対方向にアイカの身体が投げ出されていく。瓦礫の山に打ち付けられたのも束の間、僕はふらふらの足でアイカの元へ走った。放っておいたら、この街の奴ら、手当てするどころか殺しかねない。
 嫌な推測だった。法王である僕がそんなことを思っちゃいけないだろうに、僕は国民を問答無用で疑っていた。
 実際は人々はあまりの暴風に彼女に近づけもしなかったのだが。
「アイカ!」
 頬や手に黒い煤をつけたアイカを抱き起こす。炎に焙られたらしい足はタイツが破れ、水ぶくれが出来ていた。
「しっかりしろ、アイカ!」
「あの子は? あの子は、無事?」
 アイカの黒い睫毛が震えた。
「無事だよ」
「よかっ……た」
 僕の腕の中で、アイカはがくりと身体中から力を抜いた。






 久しぶりに分厚い石壁を通り抜けて人々のざわめきが聞こえてきていた。もう夜もだいぶ更けたというのに、まだ家を失った人々の興奮は収まらないのだろう。
「あ……麗、様……?」
 おでこに載せたタオルの下、ゆっくりとアイカが瞬きをした。
「起き上がるな、寝てろ」
「ぅあっ、いったた……」
 注意した側から聞かずに起き上がろうとしたアイカは、全身に走ったのであろう激痛に声を失い、呼吸も止めて天を仰いだ。
「だから言ったのに。お前、また火傷が増えたんだぞ? それに、この寒いのに毛皮一枚着ないで外を走り回るとはどこまで大馬鹿者なんだ? 三十九度近くあるんだから大人しくしてろ」
「すみません」
「謝るくらいなら、人助けする前にちゃんと自分のことを守れ」
「火の手が上がるのを見たらいてもたってもいられなくなっちゃって……ごめんなさい、以後気をつけます」
 アイカはほっとしたのかくすりと笑い声を漏らした。
「何がおかしい」
「一日で随分とにぎやかなお城になりましたね」
「笑いごとじゃないよ。明日日が出たら瓦礫を片付けて、一から街を作らなきゃならないんだから」
「やっぱり、麗様はお優しいんですね」
「ふん。この城は部屋だけは大量に空いてるからね。兵もいない。執事もいない。政庁も置いていない。空っぽの城だったんだ。たまには役に立てないともったいないだろ」
 くすくす、とアイカは笑った。その頬には赤みが差しはじめている。
「麗様。これを機に、ここを出ませんか?」
「出る? 出るって……」
 思いもよらないアイカの言葉に、僕は意味も分からず鸚鵡返しに尋ね返していた。
「家を失った人々を連れて、クワトに行かれてはいかがでしょうか」
 アイカは決意のこもった口調で付け加える。
「アイカ、何言って……」
「貴方は王です。王は政を行うものです。貴方が人々の前で玉座に座って見せるだけでも、魔麗の国の人々の心は中央に集まりましょう。ここは、人が住むには寒すぎます。麗様は、青い空と白い光が見える場所で堂々と胸を張って生きたっていいはずです」
 熱に潤んだ目にしっかりと見つめられて、僕の心臓は柄にもなく跳ねた。
「ここに住む人々も、元は麗様にお仕えするためにこの地へ共に来た人々が多いと聞きます。今も、毎日のご飯が食べられるのは彼らが食べ物を作り育て、食べ物を仕入れてきてくれるお陰です。彼らはそんなつもりはないと言いますが、ご先祖様がそうしてきたように今でも麗様の生活を支えているんですよ」
 小さい子供にでも教え諭すようにアイカは言った。
 ここよりも色彩のある、少なくとも青い空を仰げる日の多いクワトに移る――ようやく出られると、正直思った。ようやく、このモノクロの世界から這い出すことが出来る。この手を掴めば。
 あかぎれてささくれの多いがさがさの手。指は肉付きよく、指先は平たくて、お世辞にも綺麗な形とはいえない。それでも、子供のように愛らしさの残る手。この手を掴めば、僕の神生は変えられる。
「ああ、そうだ、お土産を買ってきたんだ。水海の国一効能のある保湿クリーム」
「麗様、わたしは冗談ではなく本気で言ってるんですよ?」
「分かってるよ。ほら、開けてみて」
 箱を渡すと、アイカは困ったような表情で受け取った。が、熱があるせいか、包みを開ける手がおぼつかない。
「貸して」
 見ていられなくなって、僕はアイカの手から箱を奪い取ると包装をはがし開け、ボール紙の箱を開けて意匠を凝らしたケースに入ったクリームをアイカの手のひらに載せてやった。
「わぁ、かわいい」
 途端に小難しい顔をしていたアイカの表情が明るくふわりとほぐれた。
「でしょう?」
「開けてみていいですか?」
「いいよ。それはアイカのものなんだから」
 目を輝かせながらアイカはケースの蓋に手をかけたが、やはり力が入らないらしい。
「麗様」
 困ったようにはにかんで、アイカはクリームのケースを僕の前に差し出した。
「はいはい」
 わざと仕様がないふりをしながら僕は蓋を開けてやる。
 蓋を開けた途端、気持ちが華やぐような香りが広がった。
「わぁ、いい匂い。麗様、ありがとうございます」
 うきうきとアイカは手の甲に一掬いのクリームを馴染ませはじめた。が、間もなく、さーっと霜が落ちるように表情が曇っていった。
「どうしたの?」
「あ、いえ、その、えっと……」
「はっきり言えよ。気に入らなかったの? 肌に合わなかった?」
「ううん、違うんです。そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「わたしがこんなに素敵なものをもらってしまってよいのかと」
 手のひらに容器を載せて見つめる表情には喜んではいけないと自制するかのように嬉しさと困惑とがない交ぜになっていた。
 僕はアイカの手からクリームケースを取ると、一掬い掬って彼女の手に馴染ませた。
「どうしてそう思うの?」
 手は僕に託したまま俯くアイカに僕は問いかける。
 アイカは、しばしの沈黙の後僕を見上げると、震える声を押し出した。
「わたしは……罪人です。たくさんの人を殺しました。大人も、おじいちゃんもおばあちゃんも、小さな女の子も……わたしは自分の中の恨みに負けて死なせてしまいました。身体も心も負の感情で一杯になって、暗い高揚感に任せて炎で村を焼いて回ったんです。それなのに、わたしは聖様に言われたんです。犠牲になった女の子の夢を叶えることがわたしへの罰だと。平凡に暮らして、愛した人と結婚して子供を産んで育てて、長生きしてやがて老いて死ぬことがわたしへの罰だと。その子の生の続きをわたしが生きろと。あの子は幸せになりたかったんです。だから、わたしも幸せにならなきゃ罰を受けていることにはならないんです。でも、こんなの……幸せだなって思えた瞬間、とてつもない罪悪感が襲ってくるんです。そんなこと思っちゃいけないのに。思ってしまったら償いにならないのに。わたしは……許せないんです。自分のことが、まだ許せない。わたしはまだ、自分のことを殺しきれないんです」
 かたかたと細切れに僕の手の中でアイカの手が震えていた。
 僕は、昼に再会してきた彼女のことを思い出した。彼女も自分を殺しきれないからあんなに苦しそうに僕を見ていたのだ。全て洗いざらい喋ってしまえたらきっと楽になれるだろうに、それでもそうしないのはきっと、主を守れなかった罰を自らに科してあの状態を甘受しているから。
「アイカ、聖はお前に死ねと言ったのか?」
 僕は、彼女のことは救えない。海姉上と綺瑪と育兄上は、元から僕の入る余地などないほど深い繋がりがあった人たちだったんだ。僕では彼女をあの状態から救ってはあげられない。それならば、せめてあの人が望むように、僕が愛したいと思う女性と幸せになるだけだ。いずれ、アイカを紹介することになれば、彼女も少しは抱える罪悪感から楽になれるだろう。
「いいえ。死は刑罰として与えることは出来ない、と。だから、その分わたしに生きろとおっしゃいました」
「なら、生きればいい。アイカのまま生きればいい。名前は変えていないんだろう?」
「でも麗様! わたしにはその少女の記憶もあるんです! わたしが喜べばあの子の一番嬉しかった記憶も一緒に蘇ってくるんです。まるであの子もわたしの中で一緒に生きているように、あの子も喜ぶんです。悲しいときは一緒に悲しんで……」
「アイカが罪悪感で一杯の時は、その子も幸福感を途中で中断されてしまうわけだ。今のように」
 俯いたアイカは、僕の手から両手を抜き取って顔を覆った。
 殺してしまった少女の記憶を託すなんて、死よりも残酷な刑かもしれない。それだけの罪を犯したということなのだろうが、憎しみの種をまいたのはエルメノだと、さっきカルーラが話してくれた。エルメノをそんな人にしてしまったのは僕の責任だ。アイカの罪は、僕の罪なんだ。
 ――それなのに僕はアイカにその苦しみを永遠に味わわせようとしている。
「その女の子は、アイカ自身なんだよ。アイカと同じように喜び、悲しみ、思いやりのある子だった。違うかい?」
 アイカは何故知っているのかと問わんばかりに僕を見つめた。
「驚くほど似ているんです。兄弟の多さも、長女だったことも、優しい人たちに囲まれて育ったところも、もう一人の自分なんじゃないかって思うくらい、とてもよく似すぎていて……他人とは思えないほど」
「聖はお前を苦しませるためにその子の記憶をアイカに与えたんじゃないと思うよ。アイカの中でその子が人生を追体験できるようにしたんだ。そうは思わない?」
 聖刻の国で連続放火事件が解決した後、病床から一人で立つこともままならなくなっていた聖がぽつりと呟いた言葉があった。
「人は、記憶がある限り死なないんだよ。記憶が受け継がれていく限り、身体は変わっても存在の終わりじゃない。人は誰しも思い出される限り永遠の命を持っているんだ」
 僕たち法王が、神界の黄昏には死を迎えるというのに断固として統仲王と愛優妃が僕らは永遠の命を持っているという本当の意味。それは、転生しても途切れない記憶を持ち続けるから。
 自分という存在が途絶えてしまうことは怖ろしい。だけど、僕は危惧せざるを得ない。麗という名前を失って別の名を持つ者として生まれた僕が、麗と全く別の意識を持ってしまったら、僕を疎ましがらないわけがないんじゃないかと。
 考えても詮無いことだ。たとえ疎ましがられても魂に間借りしている状態になった僕が新しく本物になった僕をどうこうすることは出来ないのだから。ならば、もし少女がアイカの中に息づいていたとして、息詰まるような罪悪感ばかりを貪りつづけたいと思うだろうか? どうせならおいしい果実を食むように喜びを噛みしめたいと思うのではないだろうか?
「本当に、そうなんでしょうか? 本当に?」
「生きてるような気がするんだろ、その子も」
 アイカは茫然と僕を見つめると、やがて腑に落ちたのかこくりと頷いた。
「わたし、ここに来てよかった。麗様にお会いできて、本当によかった」
「ふん、当たり前だろう? 何を急に改まってるんだよ」
 アイカは強い意志のこもった目で微笑むと、やおらかけ布団を跳ね返してベッドから出ようとした。
「おい、急に何するつもりだよ。ハンドクリームのケースも開けられないくせに、立てるわけないだろ」
「だってここは麗様のベッドでしょう?」
「何を今更。看病するのに都合がいいからここを使ってただけだ。襲ったりしないから安心して寝てろ。大体、僕に遠慮するなんてお前らしくもない」
 案の定立とうとして前のめりに倒れかけたアイカをベッドに押し戻して僕はアイカを軽く睨む。
「さっきも起き上がれなかったのに学習能力のない奴だな」
「だってわたしはもうここにいるわけには参りません。石を投げられましたから。他にも木の端切れや椅子やテーブルやら……放火の犯人だと思われているんでしょう? これ以上麗様にご迷惑をかけるわけには参りません」
「アイカにそっくりな女の影を見たという奴が街中に何人もいたんだけどさ、そいつらに話を聞いてみたら、みんな同じような時間に見かけてるんだよ。それともアイカ、お前分身も出来るとか言い出すんじゃないだろうな?」
「それは……さすがに無理ですけど、でも!」
「犯人はカルーラの話から見当がついているんだ。彼女は、いずれ僕が捕まえると約束したよ。それに慈愛院の人たちが必死になってアイカがどんな人となりしてるのか話してくれたんだ。それ聞いたら、物理的にも無理だし街の人たちも口を噤んでいた。あとで会ったらちゃんとお礼言っとくんだね」
「慈愛院のみんなが……」
 意志強く輝いていた目がふと緩み、じわりと光るものが浮かび上がっていた。
「そ。ねぇ、アイカ。君はもっと自分を大切にした方がいい。君は十分辛い思いをしてきた。それどころかその痛みさえも乗り越えて、周りを元気にする笑顔を振りまいている。ようやく分かったよ。アイカの笑顔がどうしてそんなに強いのか」
 ほろりと頬にこぼれだした涙を指先で拭う。
「強いだなんて、そんなこと、ないです」
 アイカが泣くのを見たのは初めてだった。家族を失ってから今まで、どれくらい一人で気を張って生きてきたのだろう。まだ、たった十六年しか生きていないのに、彼女の人生はあまりに過酷過ぎる。
「アイカ。さっきのクワト行きの話だけど、アイカも一緒に来てくれるなら考えてもいいよ」
 抱きしめたくなるのを堪えながら、僕はアイカを見つめた。
「わ、わたしもですか? でも、わたしはもう二度と日のあたるところには出られないと……」
「僕のさっきの話聞いてなかったの? 君の中のその少女に、青空を見せてあげたいとは思わないの?」
「それは……」
 戸惑いすぎて歯切れの悪いアイカを、僕はついに我慢できなくなって抱きしめていた。
「アイカに返事を選ぶ権利なんてないんだよ。雇い主は誰? 僕が引っ越すといったら、君も一緒に来なきゃならないに決まってるだろ?」
「クワトなら麗様のお世話をしてくださる方がたくさんいらっしゃいますよ」
「違うよ、馬鹿。僕は今更他の誰かの作ったご飯やおやつなんて食べたくないんだ。他の誰かが洗った服も着たくないし、他の誰かが掃除した部屋にも住みたくない」
「そんなわがままな」
 呆れたように笑ったアイカを、僕はさらに強く抱きしめた。
 離れてしまうくらいなら、このまま抱きしめ殺してしまいたい。
 呆れられても仕方ない。僕は結局自分のことしか考えられない。彼女の幸せを願おうとするのに、いつの間にか自分の幸せばかりを考えているんだ。刹那の幸せを永遠にするために人の命一つを奪い取ってしまいたいと思うなんて、大概僕の思考は常軌を逸してる。
「一緒に来い、アイカ。返事は『はい』しか許さない」
 しばしの沈黙のち、アイカはおそるおそる僕の背を両腕で包み込み、囁いた。
「はい」
 あまりに純粋な思慕のこもった声に、その後僕が迷わなかったといえば嘘になる。何故迷ったのか、その理由を探る余裕があれば僕は鉱の気持ちを理解することも出来たのかもしれない。未来に猶予さえあれば。
「じゃあ、早く風邪を治さないとね。アイカがいないと僕は引越しもままならないんだから」
 だけど僕は永遠の幸せほしさに、すりおろした時の実を熱さましに混ぜ、震える手で水と一緒にアイカに飲ませた。











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