聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 4 章  業 ――オリジナル――

3‐1

「麗、休日の決裁を下ろしておきながら呼び出すなんてなんて王様なんですかねっ。私、一生この日のことをお恨みもうしあげますからねっ」
 漆黒の翼をはためかせ、冷たい風を切る禦霊は、鴉の如き嘴でさっきから押し黙ることなくひたすらぶつくさと言っている。
「水臭いじゃないか。僕たち友達だろう? 今日は法王として来てもらったんじゃなく、禦霊の友達として一緒に水海の国にでも遊びに行こうよって誘っただけじゃないか。良かったんだよ? 無理に出てこなくても。お家で引きこもって本読んでたってよかったんだ。でも室内にこもってばかりじゃいつかこの翼も白くなってしまうんじゃないかと思ってね」
「白くなるとしたらこの極寒の国の雪が翼に積もって白くなるんでしょうよ。あー、寒い、寒い」
「ほら、そう言ってる間にもう水海の国だ」
「ちっ」
 つまらなそうに舌打ちした禦霊は、嫌がらせに遠回りするでもなく、大人しく水海宮の門前に降り立った。
「ったく、何なんだよ、この機嫌のよさは。おい、カルーラ、説明しろよ」
 人型に戻って肩についてもいないゴミを払いのけながら、禦霊は今度はカルーラにあたりはじめた。
「言ったでしょ。海様から北方で何か良くないことが起こっていたら教えてくれって書状が来たから……」
「麗に来てくれなんて一っ言も書いてないんだろ? それならお前一人、また水海の国に帰ればいいだけじゃないか。何で俺までこんな汗かかされなきゃなんないんだよ」
「ああ、かいてるのは冷や汗か。主人思いだねぇ」
「冗談じゃない。水海の国は宝飾品やら海産物やらでいろいろと取引が多いんだ。海様の機嫌損ねてそれらの取引がパーになったらと思うと、俺はもう胃がひっくり返りそうなんだよ」
「素直じゃないね。もし海様の機嫌次第で商取引が決まるんなら、うちはとっくに禁止されてるはずだよ」
 何気なく言っておきながら、カルーラは直後に僕の顔色を窺った。
「麗ちゃん、確かめに来たんでしょ?」
「そうだよ。だって、詳しい話を聞きたいじゃないか。北方といえば龍兄上の国も羅流伽もあるのに、あの手紙じゃ、いかにもうちの国に問題があるような書き方だったしさ」
「そうじゃなくて」
 水海宮の門を目の前にして、ついに止めたそうにカルーラが僕の袖を掴んだ。
「止めるなら禦霊呼ばなきゃいいだろ」
「法王の命なら僕は逆らえない」
 ぎり、と睨みつける青い瞳に、忘れようとしていた幼いエルメノの正義感に溢れた瞳が重なった。
「似てないのに、その目だけは同じなんだ」
「とにかく、麗ちゃんは買い物でもしてて。アイカに保湿クリーム買いに来たんでしょ? 真珠の成分を贅沢に使ったクリームなんてここでしか買えないし、話は僕がしておくから麗ちゃんは外で待ってなよ」
「カルーラ」
 呼ばれて顔を上げたカルーラを、僕は適当に殴り倒しておいた。
「お前が来いと言ったんだよ」
「入れてもらえないかもしれない」
「僕を? 書状送っといて、立ち入り禁止はないでしょ。育兄上のように統仲王から禁じられたわけでもないんだから」
「でもやっぱり……」
 なおも往生際悪く僕を引きとめようとしたカルーラの腕を掴んだのは、禦霊だった。
「カルーラ。俺たちは大切なオトモダチの為に奴の財布が涙ちょちょぎれるくらい世界一高い保湿クリームでも探しに行くとしましょ。麗の用事が終わったらさっさと帰れるようにさ」
 目上のはずのカルーラにこざっぱりと言っておいて、禦霊は僕にも不遜な目を向ける。
「麗、日ぃ暮れたらおいて帰るからな。間に合わなかったら歩いて帰ってこいよ。どうせ時間だけはたっぷりあるんだ。それと、くれぐれも貿易が滞るような事態にはするなよ」
「ありがと、禦霊」
「俺は海様を襲うなよって言ってんだよ。にやにや感謝される覚えなんかないね」
「ふん、感謝しがいのない奴」
 顔をしかめて見せると、禦霊は安心したように上から目線で口元にだけ笑みを浮かべ、女々しいカルーラを引きずって去っていった。
「さて、と」
 朱塗りの門を前にするのは、あの時以来となる。
 門番の制服もデザインが変わり、顔も知らない者たちに変わっている。
「魔法石」
 僕の顔を知らない者たちに怪しいものではないと身分を証明するには、これが一番だろう。
 手に魔法石を捧げ持って、僕は門の正面に立った。
 一斉に槍が門の前で交差する。
「そんな殺気立たなくても。僕は海姉上の弟の麗。これが魔法石。姉上から書状をもらってね。急いで会いに来たんだよ」
 魔法石の次に密書に封をした蝋の部分を門番達の前に差し出すと、門番達は顔色を青や赤に変えながらも疑わしそうに僕を観察し、一人が脇の御用門から中へ入って行った。
 きっと彼らも僕の恋のことを知ってるんだろう。昔話に出てきた人くらいに思っていた奴が目の前に現れたら、そりゃあ興味も湧くに違いない。民衆に広まった噂話によると、僕が育兄上と海姉上の間に横恋慕して、彼ら二人の中を裂いたことになってるんだから。海姉上の目論見どおりだという辺りが、これまた気に食わない。せめてしょっちゅう出入りしているカルーラが傍らにいれば話も早かったんだろうけれど、カルーラもなんだかんだ言っておきながら、僕を海姉上に会わせるのは気が引けていたんだから、これでよかったんだろう。
「お入りください」
 やがて、警戒感も露な門番が形ばかり恭しい礼をして朱塗りの門を開けた。ぎぃぃといささか古びた音を立てて門が左右に開けていく。
 広がった庭園は、僕が最後に見たときと何一つ変わらないまま整っていた。
 花の終わった桜並木も、流れる小川も、池も、波打つ海の向こうまで続く回廊も、潮騒に抱かれた奥宮も、何も変わっていない。
 どうしてここまで何も変えずに保ってきたのか、むしろ僕は姉上の心理に病的な影さえ感じた。もう何百年、何千年、あるいは何万年と時を経てきたというのに、いくら僕ら法王でも同じままでは飽きるんだ。特に、海姉上は一時愛着を持っていたものでも、割に早く興が醒める性質だったと思う。庭だって一年もすれば違う趣向を凝らさせていた。
 こんな庭は、まやかしでなければありえない。
「お久しぶりでございます。麗様」
 来ることを知っていたように、門の向こうで一人の女が灰色がかった金髪をゆるりと前に傾けて礼をした。
彩霞サイカか。久しぶり。この国で君に会うのは初めてだね」
 綺瑪が死んだ後に現れた、海姉上の守護獣、彩霞。髪の色といい、肌の色といい、虹彩の色といい、何かと色が薄く、顔立ちにも花のある方ではない。海姉上、綺瑪と並び立てば、たとえ横にいても背後にくっつく影のようにしか見えなかったことだろう。それでも、留守がちな海姉上のかわりによくこの国を守っている、と禦霊が鼻高々に語っていただけはある。目つきだけはやたらと鋭く感じる女だった。
「主がお待ちです」
 僕の挨拶も左から右へ。お堅い彩霞は笑顔一つ見せずに僕の前に立って歩き出した。
「主がお待ちって、僕は来訪の意思は告げていなかったはずだけど?」
「ええ、先ほど門番が泡を食って駆けつけてきて知りました」
「ああ、そう」
 予約なしで来たことを詰りたいなら詰ればいいのに、なんて嫌味な女だろう。禦霊の気配で門番が来る前に僕が来たことに気づいていただろうに。
 こんな時にふと胸の奥に浮かんだのはアイカのあの田舎臭い笑顔。どんなにドン臭い顔をしていても、やっぱり笑顔の方が親しみがもてるというものだ。
 会話もなく、靴を脱いだ僕たちは奥宮への回廊を進んでいく。
 見覚えのある角では、あの時、真っ青になって僕を止めに飛び出してきた綺瑪の姿が蘇った。あの時、言うことを聞いていれば……そんな思いがこみ上げてきたけれど、無理やりに僕はそれを飲み下した。思ったって仕方ない。仮説はあくまで仮説でしかない。現実にならなかったのは、それなりのわけがあるのだ。
 今なら、それが分かる。
「海様、麗様がお見えです」
 軽いノックのあと、彩霞は奥宮の主に扉越しに声をかけ、扉を開いた。
 一瞬、あの目も眩むような香りが押し迫ってくるのではないかと、僕は身構えていた。が、中から香ってきたのは慎ましやかな抹茶と藺草の香りだった。
 目の覚めるような美貌を纏った海姉上が登場するわけでもない。
 ただ、奥には二人の影が向かい合って座っているのが見えた。
「いらっしゃい、麗。早かったのね」
 落ち着いた女性の声は、あの時聞いた艶を含んだものとは別人のもののような気がした。いや、むしろこの声の方が普段の海姉上の声なのだ。公式的な行事で挨拶を交わしたときの声も、小さい頃、僕を宥めすかし、面倒を見てくれたときの声も、この声だった。
 聞けば分かっただろうに。こんな気の遠くなるような時間を経ても思い出せるくらいなのだ。あの時、明らかに海姉上はおかしかったのだと、どうして僕は思わなかったんだろう。
「よぉ、麗。こんなとこで会うなんて奇遇だな」
 そして、もう一人、あまりにも意外な声が大きな熊のような影から響いてきた。
「ヴェルド? ヴェルドなのか?」
 僕はあまりの驚きに、姉上への挨拶よりも先にヴェルドに声をかけてしまっていた。
「ああ、そうだ。それより、ほら、海様が呆れておられるよ。早く挨拶をしたらどうだ?」
 促されて、僕は一歩中へ踏み込むと深々と頭を下げた。
「ご無沙汰いたしております」
 時候の挨拶、ご機嫌伺い――数多の言葉が頭の中を駆け抜けたが、結局声に出せたのはその一言だけだった。
「こちらこそ、あんな手紙で呼びつけたような形になってしまって申し訳なかったわ。疲れたでしょう。こちらにおいでなさい。今ちょうど、ヴェルド殿にも抹茶を振舞っていたところだったの。貴方もどうぞ」
 何一つ変わらない。あの事件が起こったことが嘘のように、海姉上は普通に僕をもてなそうとしていた。部屋の中に踏み込んだことで明らかになった姉上の表情にも、困惑も迷惑も表れてはいない。昔のままの姉上が……いや、本当に姉上はこんなに穏やかに微笑む人だっただろうか? この微笑はむしろ……そう、むしろ。
「失礼いたします」
 ヴェルドの隣に座った僕は、思い切りよくあの苦い緑色の液体を飲み干すヴェルドの喉元を見守っていた。
「ぷはぁっ、やっぱり海様のお茶は身体も心もすっきり洗われます」
「ヴェルド、お前、お茶はビールじゃないんだよ? なんだよ、ぷはぁって」
 仕事終わりの親父のようにお茶を飲み干し終えたヴェルドに、僕は遠慮なく非難の視線を投げかける。
「いいのよ。私はヴェルド殿のご気分をすっきりさせてあげたいと思ってそのお茶を点てたの。その心を受け取ってくださった証拠だわ」
「ですよね、海様」
 調子よくヴェルドが姉上に合わせる。が、直後に奴は顔をしかめた。
「ってて、痺れた~っ。海様、足、崩してもいいですか?」
「どうぞ。慣れないと正座は辛いでしょう? 存分に伸ばしてちょうだい」
 姉上とヴェルドのやり取りを見ていると、昔の姉上と自分を見るようで、胸の奥で小さく火花が散るようだった。
「麗は苦いのが駄目だったわね。変わらない?」
 僕の嫉妬を嗅ぎ取ったのかどうか、姉上は優しすぎて逆に残酷とも思える微笑を僕に向けてきた。
 僕は俯く。
 そんなつもりもなかったのに。全てを受け止められると思ってきたのに。
「変わらないみたいね。いいわ、貴方には特別にお砂糖を加えてあげる」
 笑いながら前に出されたのは水流を象った水羊羹とほんのり甘い香りのする抹茶。
「その水羊羹、絶品だよ。もし食べないなら……」
「食べるよ! もう、ヴェルド、お前どこまで食い意地が張ってるんだ?」
「海様に会いに来てる一番の目的はその茶菓子かな。季節によって趣向が違うんだ。もう、暦が変わるのが楽しみで、楽しみで」
 屈託なく言うヴェルドに、僕は遠慮なく驚きの顔をあげた。
「お前、そんなに頻繁に会いに来てたのか?」
 今まで暇をもてあましては何度となくセロの魔麗城まで氷山掻き分けて遊びに来るような奴だったが、まさか僕と姉上のことを知っていて、姉上のところにも足しげく出入りしているとは思わなかった。
「ヴェルド殿は私に会いに来るのはついでよ。いつもここで重い荷物を下ろしていくのよね?」
 くすくすと笑いながら、姉上はヴェルドに水を向けた。
 ヴェルドは珍しく俯いて顔を火照らせている。
「何だよ、重い荷物って」
「な、なんでもないよ」
「なんでもないわけないだろ。言えよ。姉上には話せて僕に話せないことなんてないだろ?」
 いつもは法王である僕に対等以上の振る舞いをするヴェルドだけど、この話だけは勝手が違うらしい。
 面白がった僕は当初の目的も忘れて奴の肩を揺らし続けた。
 すると、ころり、と懐から紙包みが飛び出した。
 白い紙包みは畳を一転、二転すると縁にぶつかってふわりと両端をくつろげた。
「なんだ、それ?」
 紙包みからさらに転がりだしたのは、黄色い林檎によく似た小さな果実だった。
 僕はそれをつまみあげ、まじまじと観察する。
「時の実、か?」
 時の実は、聖刻の国の奥庭にだけ生えている時の木に生る実で、そのうち熟す手前の黄色い時止めの実を食べると、人でも一千年間不老になるという。管理者は聖。食することを許されているのは、食べても何の影響も受けない僕たち法王と、神界を闇獄界から守るために心身を捧げることを誓った四楔将軍だけ。
「なるほど。聖のところに寄った帰りだったってわけか」
 急に声を低くした僕の手から、ヴェルドは慌てて時の実を回収しようとする。
「返せよ」
「いいじゃないか。なくなったらなくなったで、また聖に会いに行く口実が出来るだろう?」
 軽口を叩いた僕に、ヴェルドはこちらが身構えるほど真剣な目つきで僕を睨み返した。
「滅多なことを言うな。時の実の管理にどれだけ注意が払われているか、知らないわけじゃないんだろ?」
「知ってるさ。普通の人に食べられちゃったら大変だもんねー」
 統仲王と愛優妃は神と崇められている。が、考えてもみればいい。神界の人々は、皆死を迎える。人界の人間など、神界の人よりも過ぎ去る時は早く寿命は短い。これのどこが神のなせる業か? 結局、彼ら二人の手から生まれたものは不完全で、僕らを越える生物は造れない。ならばいっそ時の実を与えて命を保障すればいいものを、それをしないのは寿命という絶対的な生物学的優位を笠に着て、自らの地位を堅持するためだ。
 罪の無い、清い世界。それが神界だったはずだが、何のことはない。階級制の元に人々の思想を抑圧し、統制しているだけの自由の無い束縛された世界に過ぎない。負の感情の吹き溜まりだった闇獄界の方が、まだ自由な発想のもとに人々が生きているのではないか。
 憧れはしない。もう一度踏み込みたいとも思わない。あの世界は弱肉強食。生き残るためには自らを鬼にし、愛しいものを食らわねば生きていけない。人としてはあの世界では生きていけない。
 総じて、生きるに神界は水が澄みすぎ、闇獄界は水が濁りすぎている。
 それでも、ちょうどよく呼吸できる空間を造ることは、時の精霊の力なくしても可能かもしれない。大きくなくていいんだ。ただ肩を寄せ合うことが出来る隙間さえあれば。
「分かっているなら返してくれ」
 食い下がるヴェルドを右へ左へおちょくりながら、僕は紙包みから一つだけを袖の中に転がし入れ、五つばかり残った包みをわざとヴェルドに掴ませた。
 ヴェルドは僕を一睨みすると、数も数えず包みの端を合わせて胸にしまいこんだ。
 僕は、袖に転がり込んだ時の実を出てこないように袖を伸ばして奥へと隠しいれた。
 姉上にも見られてはいない。ヴェルドも気づいていない。
 この実があれば、僕は永遠に僕の居場所を確保しておける。
 考えてもみないことだった。あの白い包みが開いた途端、頭に閃いた企みだった。どうして今までこの手に気づかなかったのかというくらい、手に入れてしまえば簡単で、かつ永遠に老いることなくアイカを生かしておける確実な方法。
「悪ふざけが過ぎるぞ、麗」
「ごめんごめん。必死だったから、つい、さ。そんなにあいつがいいかねぇ。僕は絶対にごめんだけどね。あんな仮病女」
「麗!」
 怒りに顔を火照らせ、立ち上がって激昂したヴェルドを、僕は冷ややかな思いで見上げた。
 もっと怒ればいい。怒って、もらった時の実の数のことなど忘れてしまえ。
「大体、君も含めて周りが甘やかすからあんなに我が儘な女になっちゃったんだよ」
「聖様はご病気なんだぞ? お前、仮にも聖様の主治医の一人だろう?」
「好きでやってるわけじゃないよ。ジリアスが面倒見させようとして連れて行くんだよ。僕も師匠には逆らえないからね」
「治す気もないお前に診られているなんて、聖様がかわいそう過ぎる!」
「治してやる気はあったさ。でも、あいつが治りたいと思ってないんだよ。酔っているんだ。病気の自分に。酔って、周りを心配させて憐れんでほしいだけなんだよ、聖は。結局、あいつを治してやれるのは医者である僕でもジリアスでもなければ、聖にぞっこん惚れこんでいるお前でもない。うちの二番目の兄だけだよ。あの二番目の兄さえ今の秩序を破って聖を連れて人界にでも闇獄界にでも渡れば、あいつの病は簡単に癒えるだろうさ。海姉上、姉上もそう思うでしょう?」
 ちらりと横目に見た海姉上は、穏やかな微笑を頬に張り付かせてうっすらと青ざめていた。茶碗に添えた指先が僅かに震えている。
 海姉上は、聖を可愛がっている一人だ。まぁ、僕以外に聖を邪険に扱っている兄弟なんか知らないけど、海姉上は母のいない聖のために、母のような愛を聖に注いでいたという。それを遠く噂に聞いていた僕がどれほど嫉妬したか、彼女は知らないだろう。でも、そんな姉ならば、いくらなんでも僕の聖への暴言に微笑なんて浮かべていられるはずがないんだけれど。
「姉上、一体何に耐えてらっしゃるんですか?」
「耐え……る……?」
「姉上と龍兄上の不仲は周知のことですよ。それでも、龍兄上がこの世界からいなくなってしまうのはそんなに耐え難いことなのですか?」
 僕は真っ直ぐに姉上を見つめた。
 姉上も僕を見返す。どうかすれば下に落ちそうになる視線を必死に支えながら。
「ヴェルド、上手いお茶はもう飲んで聖に相手にされない憂さも晴れたろ? そろそろ席を外してくれないか?」
「相手にされてないわけじゃないよ。ただ……」
「聖の婚約者になれなんて統仲王が勝手に言い出した話だろ。実情はお前がいたいほど知ってるはずだ。どんなに口説いたってあの妹はお前のものにはならない」
 聖の次兄への恋心は長年統仲王の頭を悩ませてきている。成神すれば晴れるかと思いきや、想いの重さは桁を増し、心に巣食い、肉体を蝕む。それならば、と、人知れず聖に想いを寄せていた西方将軍のヴェルドを聖の婿にしてしまおうと統仲王が画策したのはつい最近のことだったように思う。ヴェルドならば寿命の心配もない。神と人の違いはあれど、四楔宮の皇子ならば格の違いも問題ない、聖とて嫌ってはいない、むしろよき友として慕っているのだからこれほどいい婿もいないと思ったのだろう。
 無駄と知りつつ足しげく聖のところに通っては玉砕して海姉上に慰めてもらっているなど、全くもっていつものヴェルドらしくない。公認されたのをいいことに理性の歯止めが緩くなったとしか思えない。
 馬鹿な奴。
 恋は病だ。そんなこと、海姉上に恋して酷い目に遭った僕が一番よく知っている。
「麗、言いすぎよ」
 ヴェルドに憐れむような視線を向けて、海姉上は目を伏せた。
「いいんですよ。麗はいつだって本当のことしか言わない。だから俺はこいつが好きなんです。それでは、失礼いたします」
 立ったまま深々と頭を下げると、ヴェルドはのそのそと部屋を出て行った。
 海姉上は片手で頭を抱えて、困った子ねとばかりにちらりと僕を見る。
「あとでちゃんとフォローしておくのよ」
「フォローなんてしようがないよ。そういうのは僕は苦手なんだ。また奴が来た時に姉上が聞いてやってください」
「でもそんなことを言っていたら、大切な人達がいなくなってしまうわよ」
 姉上は心底心配そうに僕を見つめた。
「余裕ですね。僕が何を確かめに来たか、気づいているんでしょう?」
 姉上の瞳孔は一瞬開いたように見えたが、それ以外はもうさっきのような明らかな動揺はどこにも出さなかった。
「その前に、北の様子を教えてちょうだい」
 覚悟を決めたのかどうか。姉上は書状の内容の確認にかかった。
「魔麗の国北端及び羅流伽北端にかけて大地を削るように北海に聳えていた氷山がこの数年でだいぶ融けたようです。永久凍土の面積も半分ほどになっています。カルーラの話だと、天龍の国のほうも若干気温は上がって来ているようですが、魔麗の国ほどではない」
「貴方の住んでいるセロは? あそこがこの大地の一番の北端でしょう?」
「うちは相変わらずだよ。酷い吹雪が続いて、一面空も大地も白いばかり。そんなところから来ると、この国は彩り豊かで眩しくて仕方ない」
「そう」
 姉上が沈思した隙に、僕は深く息を吐き出した。
「カルーラにも託せなかった話があるんでしょう? 何です? そのお話は」
 姉上はおもむろに顔を上げた。
「第三次神闇戦争が始まります。闇獄界の侵攻先は羅流伽平原。現在の気温上昇は、闇獄界が羅流伽と魔麗の国の間に侵攻のための穴を開けようとしているからです」
「羅流伽平原……」
 一息に言い切った姉上に、僕はそれしか返せなかった。
 〈予言書〉で知っていたことだ。あとどれくらいかなんて数えてはいなかったから時間的な危機感はなかったけれど、それは僕も知っていたこと。
「どうしてそれを僕に? そんな大事な話なら、統仲王に話すのが先では?」
「統仲王はご存知よ。貴方も知っているでしょう? 〈予言書〉の存在を」
「じゃあ、どうして僕に?」
「覆してほしいからよ。これ以上、〈予言書〉の通りに進めるわけにはいかないから、貴方に直接話してなんとしてでも闇獄界の侵攻を止めてほしかったのよ。このままでは貴方は手をこまねくどころか闇獄軍が攻めてきても何もしないでそのまま城で殺されてしまうわ。それだけは、それだけは……」
 僕はじっと姉上を見つめていた。言葉に嘘はないかと探るように、一言一言発するたびに姉上の表情、指先を見つめていた。
 ぶれはない。揺れもしない。決然たる意思の元、彼女はこの最大の機密を僕に漏らした。
 一体何故、急にそんなことをしようと思ったのだろう。何故、この世も末になって僕に分かってもらおうとするのだろう。
「もっと強く引き止めればよかった。そう、思っているんですか?」
 はっと、彼女は僕を見た。
「闇獄軍が羅流伽から侵攻する。それは、〈予言書〉を見られる人物か、闇獄界側のよほど地位の高い者でなければ知りようのないことなのではありませんか? 海姉上が愛優妃について闇獄界に出入りしていたのは知っています。でも、今の闇獄界は昔の闇獄界とは違うんでしょ? 聖を生んで愛優妃は戻ってこなくなった。いや、戻れなくなったんだ。あの世界の女王になってしまったから。カルーラから、貴女も久方ぶりにこちらに戻られたと聞きました。貴方は一体どちら側についているんです?」
「愛優妃様から、伝えてほしいと」
「それは、僕にではなく統仲王にでしょ? 闇獄界は〈予言書〉のとおりことを進めるから準備をしてほしい、と。僕は貴女からではなく、いずれ統仲王から同じ話を聞くことになったでしょう」
「だけど、それでは貴方は何もせずに城に閉じこもりきりになる。〈予言書〉は覆らないと。そうしてしまったのは私の責任だわ」
 唇を噛み締め、悔恨と悲哀に沈む彼女を見て、僕の口からこぼれだしたのは小さいながらも笑い声だった。
「貴女の責任? 違いますよ。貴女は十分ご自身の務めを果たされていた。それなのに、貴女を振り切って彼女の胸に飛び込んだのはこの僕です。貴女が責任を感じることは何もない」
 目から鱗が落ちたような顔で、彼女は僕を見つめた。
「では、やはりそうなのですね」
 僕の一言に、彼女は慌てて首を振る。
「違う! 違うの」
「何が?」
「貴方に許しを乞うために呼んだんじゃないの」
「許してなんかいませんよ。そもそも、貴女は僕に何の罪も犯していない。僕が知りたかったのは、姉上がどこに行ったのかです」
 海姉上を前に、僕は彼女の魂を捜し求めていた。
 切ないくらい胸を締め上げる「逢いたい」という気持ちはもうどこにも沸き起こってこなかったけれど、それはもう習慣のようなものだった。何千何万年時を経ようと刷り込まれた癖。
「育兄上と綺瑪があの寝室に入ってきたあと、僕は強制的にセロの城に戻されていました。あの後、何があったんです? 僕が知っているのは、海姉上と育兄上が睦みあっていた姿を侍女に見られてことが露見し、統仲王の怒りに触れ、育兄上と海姉上が私的に会うことが禁じられたということ、綺瑪は責任を感じて自殺した、それだけです。本来なら、罰せられるべきは育兄上ではなく僕だったはずだ。何故、育兄上が僕を庇ったのか、あるいは、庇うという理由以外に何があったのか、僕には知る権利があるはずだ」
「確かに巻き込まれた貴方には知る権利はある。でも、私の口から話すことは……」
「何故!?」
 思わず身を乗り出した僕に、彼女はびくりと身を震わせて体ごと顔を背けた。
「貴女が僕を呼んだのは、僕の過去を清算してくれようとしたからでしょう? 話してください。どんな辛いことだとしても、僕が自分の反省を整理するには真実が必要なんだ。そうでなければ、わざわざここには来ない。アイカを守るために、闇獄界の侵攻に備えて策でも立ててましたよ」
「アイカ……? 守る……?」
「そんな意外そうな顔しなくてもいいでしょ。僕にだって気に入った子が出来るようになったんです。安心しましたか?」
 ぽろり、と彼女の目から涙が零れ落ちた。
「そう。麗、貴方も周りが見えるようになったのね」
 感慨深げに呟いたその様は、まるで今までずっと僕を慈しんできた母のようだった。
 記憶が、巻き戻っていく。過去へと。エルメノをなくしたときの僕を、遠くから見ているだけでなく抱きしめてくれたのは? いつでも遊びにおいでなさいと声をかけてくれたのは? 成神のお祝いを実際に届けてくれたのは? 海姉上は戻っていないと必死に僕を海姉上から遠ざけようとしてくれていたのは?
「貴女だったんだ……。ずっと、貴女だったんだ。僕を守り慈しんでくれたのは、貴女だったんですね」
 僕は彼女を抱きしめかけた腕を留め、拳を握り締めた。
 できることなら、抱きしめて甘えたかった。でも、彼女の身体はおそらく本物だ。離れていれば微笑んでいられても、触れれば身体に刻まれた嫌悪感が蘇り、突き放されてしまうかもしれない。
「ありがとうございます。貴女を本当の名で呼べないのが、今更ながら口惜しい」
「麗。ごめんなさい、本当に。私は結局貴方を守ってあげられなかった。貴方どころか、誰一人……みんな傷つけるばかりで……」
「一番傷ついたのは貴女なのですね。貴女は自殺なんかしていない。自殺したのは海姉上だった。そのかわりに、貴女はその身体に閉じ込められた。違いますか?」
 彼女は顔を背けたまま頷きもしなければ首を振りもしなかった。
「育兄上ですか? 人の魂を抜き取って別の身体に入れるなんて、そんなことできるのは……」
「違うわ! それは違う! 育はそんなことはしなかったわ!」
 弾けるように言い募った彼女の必死さに、僕は気圧され、僕などが知りようもない深く長い歴史があることを思い知らされた。
 自分の額に思わず手が伸びたのは、致し方ない。これほど頭の痛い根深い問題に僕が巻き込まれていたとは思っていなかったから。僕はずっと自分のことだけで精一杯だったから。
「龍兄上はご存知だったんですか? その上で貴女と?」
「……龍は何も知らないわ。育の想い人が綺瑪だったことは知っていたでしょうけれど、私に確かめてきたことはなかった」
「何故、龍兄上だったんです? 何故育兄上じゃなかったんです? 海姉上に遠慮したんですか? そもそも、貴女が遠慮しなければ海姉上だってあそこまで苦しまなかったかもしれない!」
 僕に身体も心も傷つけさせようなんて、思わなかったかもしれない。初めから諦めきれる恋だったならば。もとより血が繋がっているのだから、などということはナンセンスなんだ。海姉上が一番気に食わなかったのは、互いに想いあっているくせに自分に気を使って綺瑪が寄り添わなかったからだ。海姉上にとってはどうあっても遂げられない望みなのに、綺瑪はそれを叶えられたのに、叶えようとしなかった。綺瑪の気遣いが、海姉上を追い詰めたのだ。
「だから、責任は私にあると言ったのよ。でも、私は彼を受け入れるわけにはいかなかった」
「何故?」
「生まれる前から、私と彼は罪を共有しているから」
 にっこりと微笑んだその笑みに、僕は深い悲しみが宿っていることに気がついた。これ以上はもう、責める余地がないことも、何も聞き出すことも出来ないだろうことも、僕は悟らずを得なかった。
 息を吐き出す。出来るだけ深く、出来るだけ長く。身体の中に溜まった全ての負の感情を吐き出してしまえるように。
 神界は傾いている。はじめから、正の感情だけの世界なんかじゃなかった。闇獄界はちゃんと機能していない。機能していたら、今すぐに僕のうちにこもったこの感情は綺麗に浄化されているはずだから。
 でも、理由も分からずにこのわだかまりが解けるなんてことがあったら、結局何も解決しないということではないか? 全てをなあなあにして見ないようにして、表面のいいところだけを笑顔で讃えあって。
 ここは、今も昔も嘘で塗り固められた世界なんだ。
 それでも、眼裏に蘇ったアイカの屈託ない笑顔。あれは本物だと信じられる。その笑顔が出来るようになるまでに、一体どんな修羅場を潜ってきたのかは、帰ってからゆっくりと聞くとしよう。カルーラを問い詰めても何一つアイカの素性について教えてくれなかったから。
 アイカにだけは嘘を吐かれたくない。
「麗、貴方は間もなくもう一人の貴方と再会するでしょう」
 願うようなアイカへの想いを断ち切るように告げられた言葉は、思ってもみないものだった。
「いい? けして彼女に殺されては駄目よ。もし殺されてしまったら、貴方は永遠に転生できなくなってしまう。永遠に、愛しい人に会えなくなってしまうわ。いいわね? 彼女に受けた傷が致命傷とならないように、もし最悪の場合は自ら命を絶ちなさい。もしくは、カルーラに頼みなさい。禦霊は駄目。貴方が頼りにしていいのはカルーラだけよ。あの子なら決して貴方のことを裏切らないわ」
 彼女の真剣なまなざしに、身体が震えるのが分かった。
「〈予言書〉に、僕の死はどう書いてあったの?」
「それは……私には分からないわ」
「言えないのではなくて?」
「……ええ」
 目を伏せた彼女に、僕は言った。
「僕は小さい頃エルメノと天宮でかくれんぼをしていて、統仲王の書斎に迷い込んだことがあるんです。そのとき、偶然〈予言書〉を開いてしまった。知ってるんです。僕は、あの小さいときからずっと自分の運命を知っていた。エルメノと離れてしまうことも、海姉上に裏切られることも、アイカと出会うことも、羅流伽平原で、エルメノの軍に敗退することも。闇獄界に残されたエルメノがどういう形で僕と再会するのかも、知ってるんです。でも、僕がエルメノに殺されることになるところまではちゃんと読んでなかった。教えてくださってありがとうございました。危なく、来世でアイカに逢えなくなるところでした」
 僕は畳に額がつきそうなほど深く、彼女に頭を下げた。
「もし、貴女の言葉なく〈予言書〉通りエルメノと再会してしまったら、僕は一も二もなく彼女にこの命を差し出していたでしょう」
「麗、顔を上げて。いい? 私の言ったことをけして忘れないでね」
 両肩に手を載せて懇願するように彼女は僕に言い聞かせた。
 じわりと布越しに温みが伝わってきた。これこそ、僕を守ろうとしてきた人の手だった。
「姉上。永遠の命とは、続いていくものなんですね。たとえ、僕が麗でなくなったとしても」
「麗……」
「貴女は僕の母のようなものだった。もし、僕が生まれ変わっても、また変わらず僕を愛してくださいますか?」
「勿論よ。約束するわ。でもお願い。まずはあなた自身が生き残ることを考えてちょうだい。そのために、私は貴方を呼んだのだから」
「わざと筆跡を自分のものにして、違和感を煽って? たくさん喋れないこともあって詰られると分かっていて?」
「何も出来なかったせめてもの償いだから」
 声を落とした彼女に僕は出来る限りの笑顔をつくって見せた。
「お元気で。姉上」











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