聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 4 章  業 ――オリジナル――



 憐れむな。憐れまないでくれ。
 僕は幸せだった。一瞬でもこの腕に憧れの人を抱きしめることが出来て、一生涯の幸せを全て味わいつくしてしまっただけなんだ。
 悲しむべきは、僕にとっての幸福な時間が彼女にとっての地獄の時間だったということ。彼女が僕をどういう形であれ傷つけてもいいと判断したこと。
 憐れまれるべきは僕じゃない。彼女だ。
 暗闇にひとつ点る灯が揺れる。
 場所も違う。時代も違う。周りにいる人も違う。重なるべき場面は暗闇にひとつ点るオレンジ色の灯火だけ。そんな場面には何度となく遭遇しているというのに、記憶が重なってしまったのは現世では二度目。一度目はその意味を分かりようもなかった。だけど、辛さだけは小さな心に巣食って僕に麗という存在を全否定させた。こんな気持ちの悪い思いをするのは奴のせいなんだって、揺り返してくる記憶を振り払おうと必死で頭を振っていた。父と母はそれこそ心配して僕を病院に連れて行ったり、怖い夢でも見たのかと聞いたけれども、病院では異常は見当たらず、問われても僕が見た白昼夢の話をすることはなかった。
 話しても信じてもらえないと思ったから。
 子供の空想ごとだろうと片付けられてしまうのが嫌だった。
 彼らがそんな大人だったのかどうかは今でも分からない。世の中には理解ある大人もいるというから、彼らはもしかしたらその大人の一種だったかもしれない。でも、当時の僕が未知の他人を信用できるわけがなかった。
 そう。どんなに慈しんでくれる両親であろうと、僕にとってはあの夢を境に他人になってしまったんだ。
 何歳の時だったろう。まだ桔梗に出会う前だったから、五歳くらいの時だったかもしれない。
「どこかしらねぇ」
 照らし出された吹き抜けのホールを見上げて、合流した桔梗は危機感もなく呟いた。
「暢気な奴だなぁ。どう見たって日本にある全うな建物とは思えないぜ?」
「葵ちゃん、その言葉遣い直しなさいって言ってるでしょう?」
「あー、はいはい。全うな建物とは思えないでございますね」
「間違えた日本語を使っていると、いつかそれが標準語になってしまうわよ? 気持ち悪くない?」
「もう、うるさいな。とにかく、ぼうず、ここはどこなんだよ」
 唇を尖らせて葵お姉ちゃんは僕を見下ろした。
「ぼうずって言わないでくれる? 僕には光って名前があるの。わかる?」
 僕が桔梗に会って変わったように、桔梗は葵お姉ちゃんと会って変わったと思う。それまでの桔梗は、優しかったけれどどこか無機的で、笑顔さえも作られたもののような気がした。僕と話すとき、僕は彼女が心を開いてくれていると信じたかったけれど、やっぱりそれはまやかしで、彼女は僕が麗だから話しかけていたんだ。でも、今は違う。今は、ちゃんと僕を見てくれている。麗も並んで見えているかもしれないけれど、木沢光の存在も認識してくれているような気がする。
 全ては葵お姉ちゃんに出会ってから。何があったのかは詳しくは知らないけれど、葵お姉ちゃんは僕に出来ないことを桔梗にしてのけたんだ。それだけは確かだ。
「わかった、わかった。それで、光、それからそこのウエンツ。お前達この場所に心当たりは?」
「ウ、ウエンツって……僕はクリス・マクスウェルです。去年から光と同じクラスの」
「なるほど、よかったな、光。友達が出来て。ウエンツ、出来の悪い子だけどよろしく頼むな」
「は、はぁ」
 葵お姉ちゃんに肩を叩かれたクリスは、曖昧に頷いて助けを求めるように僕を見た。
「葵お姉ちゃん、せっかくクリスが自己紹介したのに、それはないでしょ」
「ああ、そっか。あたしは科野葵。よろしくな、ウ、じゃない、クリス」
 どこまでもマイペースに葵お姉ちゃんはクリスの手を握ってぶんぶん振り回すと、目に温もりのない笑顔で僕を振り返った。
「それで? ここはどこだ?」
「知ってたらこんなとこで立ち止まってないよ。さっさとやることやって家に帰ってるさ」
「ちっ、なんだ。桔梗、やっぱりこいつらも迷子だってさ」
「まぁ、そう?」
 桔梗は上を見上げ、ぐるりと円形に囲まれたホールを眺めた。
「まぁ、そう? って、他人事じゃないんだぞ?」
 葵お姉ちゃんのモノマネは無視して、桔梗は僕を見下ろした。
「光君、ここ、クワトじゃない? 魔麗の国の政庁をクワトのアルト・カルナッスル城に移したでしょう? ここ、そのアルト・カルナッスル城よ。ガラス張りのドーム、円形の大広間――聚魔祭はいつも魔麗城ではなくここでやっていた。魔麗城はあまりに北の端で寒すぎて住む人も首都の割に少なくって、訪ねるのも大変だろうからって、天宮に程近いクワトに首都機能を移転して、六月のお祭りもここでやっていた。そうよね?」
 気のせいか若干興奮気味に桔梗は僕に話しかけた。
 僕は言われてもう一度葵お姉ちゃんの照らし出す灯を頼りに周りを見回す。
 周りがすべて闇に包まれているのは、そうだ、ガラス張りだから外の夜闇をそのまま通しているからだ。さっき禦霊が座っていたのはあのシャンデリアか。
 ひとまず桔梗たちと合流できて落ち着いたところに言われてみれば、周りを観察する余裕も生まれる。ただ暗かっただけの場所も、僅かな明かりでも見通せるようになる。
 この際、この目の前の二人が偽者かもしれないなんて疑念は捨てることにしよう。疑ったらきりがない。本物でなかったら、そのとき考えればいい。どうせ偽者でもできることは限られている。偽者は本物を倒せない。本物を倒してしまったら、偽者はアイデンティティを失ってしまうから。その辺を無視して何かやるとしても、隙を見て僕らに攻撃を仕掛けるくらいだろう。それなら返り討ちにしてやればいい。本物が偽者に負けるわけがない。影の守護は本物にしか与えられていないはずだから。
 ガラス張りのドーム。ガラス張りの円筒形の大広間。かつてこの部屋には数百人が集まり、いや、数千人と来訪し、魔麗の国の主である麗の誕生を祝った。僕と会ったことがない奴も、僕の噂を知らない奴も知ってる奴も、国治主の生まれた日だというだけでめでたいと口にし、お祭りに浮かれ騒いだ。小さな時は天宮で愛優妃の焼いたホールケーキと統仲王と兄姉達と影達と、ささやかに祝っていた。それが、国を任されてから僕のプライベートな時間は国民が羽目を外すための絶好の口実にされてしまった。
 嘆くつもりはない。あの頃の麗は、いっそ自分という存在を無視して体よく浮かれる口実にしてくれればいいと思っていたから。誰も自分が生まれたことを祝ってくれなくてもいい。むしろ、誰か自分を呪ってくれ。そう思っていたから。
 このホールでは水色、ピンク、黄色、ワインレッド、色様々のドレスの裾が翻り、ワルツを踊っていた。人々はワインを片手に談笑し、僕は、それをそう、あの最奥最上段から眺め下ろしていた。統仲王や兄・姉達、それに国の名士達からの祝辞に返礼の言葉を二言三言投じれば、あとはもう僕の存在など奴らは無視して自分の楽しみに興じる。人など、そういうものだ。僕もその輪の中に入ろうとは思わなかった。
 楽しんじゃいけないと思っていた。
 エルメノはもう、笑うことも喜ぶことも出来なくなってしまったと信じていたから。それでも、海姉上がことあるごとに側で支えてくれたから、僕はあの椅子に座っていることが出来たんだ。
 あの事件があってから。
 麗は二度とパーティーであの椅子に座ることはなくなった。首都セロの城に閉じこもり、吹雪を理由に外にも出ず、国政も聚魔祭も宰相の禦霊に預けきり、僕は何もしなかった。むしろ、僕がでしゃばるよりもここの奴らは気楽に祭りを楽しめるようになったんじゃないだろうか。禦霊はあれで社交的だ。どんな奴とも大方打ち解けてしまう。自分の心の裡は半分も見せないままに。クワトに拠点を置く商人たちにとっても、農家のおばちゃんたちにとっても、禦霊は人気があったんだ。よほど人を治める才覚があったんだろう。それでいて、きちんと表では僕の顔も立ててくれた。
 出来すぎだろ。
 昔からそう思ってたけど、やっぱり今でもそう思う。押し付けられて仕方なく、というよりは、天職を与えられたかのようだった。禦霊こそ、その性質は法王に相応しかったのかもしれない。でも、禦霊は法王ではなく精霊獣として魄を与えられた。運命に意味があるなんて信じたくはないけれど、奴は法王の下に甘んじるしかない立場に生まれついてしまった。それでよかったのかもしれない。
 麗の死後、禦霊がどんな経緯で宰相職を離れ、サースティン一家に一国を託したのか、僕は知らない。エルメノとは第三次神闇戦争の魔麗国侵攻時に再会したのか、その前から連絡を取り合っていたのか。禦霊がそう簡単に責任を放棄するような奴じゃないことは確かだけれど、エルメノとの仲は気になって頭から離れなくなってしまっている。
 一体、自分はいつからあの男に欺かれていたんだろうか、と。
 今、この場所で禦霊に出会ったときのことを思い出しても仕方がない。やっぱりあいつもカルーラが連れてきた。嫌な奴はみんなそうだ。嫌がらせのようにカルーラが連れてくる。そして、そんな奴に限って僕は実は心ひそかに気に入ったりするのだ。
 すべてにおいて全幅の信頼を置いていたわけではない。政治の手腕は買っていたが、あいつの中身はあまりに得体が知れなかった。きちんと契約を結んだわけでもない。ただ、麗の周りにいるようになって、いつの間にか宰相になっていた。僕が好き好んで任命したというよりは、周りに推されるようにしてその地位に上り詰めたのだ。禦霊とは、一度だけエルメノの話をしたことがあったかもしれない。そのときに、僕は直感だけど禦霊がエルメノに会ったことがあって、一方ならぬ思いを抱いているのではないかと邪推した。さっきのあの禦霊の言葉を聞いて、それは邪推なんかじゃなかったのだと、やっぱり僕の直感は正しかったんだと思ったわけだけれど、正面切って言ったところで、一瞬怯んで見せてくれるかどうか。あいつが怯む様を見たいといえば見たいけれど、見たところで一瞬僕の自尊心か何かが満足感を覚えるだけだろう。満足は、すぐに空腹に変わってしまう。わざわざひもじい思いをするくらいなら、もう禦霊のことは考えない方がいいのだろう。
「ああ、ほんとにここはアルト・カルナッスルの大広間そっくりだ」
 僕は溜息混じりに呟いた。
 去来する思い出は、派手な割に心情的にはちっとも美しくない。鬱屈した麗の思いばかりがここには染みついている。
「そっくりって、本物じゃないのか?」
 僕の呟きを掬い上げた葵お姉ちゃんはきょろきょろと辺りを見回しながら不思議そうに尋ねる。
「本物じゃないのかって、葵お姉ちゃん、葵お姉ちゃんは精巧に作られた等身大のものと偽物との違いが分かる?」
「何だよ、急に」
「サーカスの帰り口で鏡を潜ったらこの日本とも思えない城の中に迷い込んでいた。そうでしょ?」
「そうだけど」
「葵お姉ちゃんと桔梗が鏡を潜った直後、鏡からは二人の偽物が飛び出してきたんだ。見分けがつかないほど、そっくり同じだったよ」
 葵お姉ちゃんと桔梗は、僕の話に息を呑み込んだ。
「それで、どうしたんだよ」
「倒した」
 どうやって倒したのかは省略して、僕は結論だけを葵お姉ちゃんに伝えた。葵お姉ちゃんは一瞬面食らった顔をして、すぐに「はぁ?」と首を傾げた。
「倒したって、光、なんでまた」
「襲い掛かってきたからだよ。それに、現実の世界に偽物をのさばらせておくわけにはいかない。帰ったときに葵お姉ちゃん達の居場所がなくなっちゃうだろ? ああ、今更だけど二人とも、あの時の偽者が復活したわけじゃないよね? ちゃんと本物だよね?」
 葵お姉ちゃんと桔梗は再び顔を見合わせ、こくりと頷いた。
「私たちは、と言うか、葵ちゃんはどうか分からないけど、私はオリジナルであるつもりよ」
「葵ちゃんはどうか分からないって、一緒に鏡潜って一緒にこの世界に踏み出してただろうが」
「あの鏡、多次元に繋がっていそうだもの。もしかしたら私は本物で、本物の葵ちゃんは別次元を歩いていて、貴女は偽物かもしれない」
「同様に桔梗だってその可能性があるってことだよな?」
「ええ、そうよ。だけど一つだけ本物か偽物か見分ける方法がある。鏡に映されたものが偽物として出て来ているのなら、偽物はみんな私たちとは正反対の格好をしているはずよ。右利きは左利きに、ペンダントの向きや黒子の位置も左右逆になっているんじゃないかしら」
 桔梗の言葉に、葵お姉ちゃんがふと顔を曇らせた。
「おい、それってあの樒のこと……」
「葵ちゃんがあそこで情に流されなければここに来ることもなかったかもしれないのに」
「何だよ、だってあの疑い方はリンチだったぞ? それに、帰ろうって見切りつけたのは桔梗も同じじゃないか」
「帰ってから、何か異変が起こるかもしれないと思っていたのよ。洋海君にもそこは注意してもらおうと思ってた。でも、光君の話だと思ったよりもかなり早く正体がばれた、ってことよね。結局あの樒ちゃんは偽物だった。それなら、あの時観察したように偽者は左右が逆になっていると思えばいい。最も、オリジナルの特性が分からなければ見分けられないわけだけど」
「この城も同じってわけか。なぁ、もしかしなくても、俺――じゃない、あたし達の他にもあのサーカス見に来ていた人たちがたくさん偽物にすり替わってるんじゃないか?」
 勘のいい葵お姉ちゃんはちょっと考え込むように自分の手のひらの上で頬杖をついた後、ぐるりとホールを見渡し、暗闇の立ち込めた自分達の出てきた方向に目を凝らした。
 僕はちょっとだけ大めに息を吸い込んで、吐き出した。
「ああ、たくさんいたよ」
 僕は見捨ててきたんだ。この城の地下で変なガスを嗅がされて眠らされ続ける人々を。その揚句、暗い闇の深遠に落とされていった。闇獄界の知能ある兵士とされるために。あの時、守景洋海の言うとおり、見捨てずに助けていれば、また事態は違ってきていただろうか。いや、後悔はしないつもりで僕はあそこから逃げ出したんだ。それにしたって、またこの城に戻されるなんて……エルメノも賭けているならどこか遠い場所にすればいいのに、これじゃまるで僕に彼らを助け出してほしいと言わんばかりじゃないか。
 こんなの、ゲームでもなんでもない。ただの事実作りだ。
 あいつは僕と本気でゲームをしたいなんて思っていない。それは、あの荷を降ろしたがっていた表情からも明らかだ。ただ、〈欺瞞〉という闇獄主としての職務を全うしたという事実が欲しかっただけだ。成功しようがしまいが、彼女にとってはそんなことはどうでもいい。それでいて、優秀な闇獄兵が増えれば自分の手柄になる。それは、少しばかりの保険だ。
 生き残ってしまった時のための。
「たくさんいたって、光、お前見捨ててきたのかよ?」
 正義感の強い女っていうのは、こういうときに口うるさい。
「ああ、そうだよ」
「そうだよって、開き直っていいことじゃないだろう? いつ見たんだよ? どこで? 警察に連絡とかは?」
「見たのは昨日。ここの地下で。警察には言ってない。言ったって信じてくれるわけがないから。信じてくれたとして、どうやってここまで助けに来るわけ? 僕に超能力研究所送りになれと?」
 目も合わせずに僕が言うと、葵お姉ちゃんは桔梗の方に目配せした。
「見たのが昨日ということは、私と樒ちゃんとで鏡から光くんたちを引っ張りあげた時あたりかしら?」
 にっこりと微笑む桔梗に、僕はそうだよ、とそっけなく答えた。
 叱られるだろうか? 何も話さなかったのは、これ以上面倒なことに巻き込まれたくなかったから。エルメノと禦霊が絡んでいることを桔梗に知られたくなかったから。何故? って、そんなの簡単だ。
 彼女は「海」だから。
 僕はこの曖昧な関係を愛しているんだ。桔梗のことは好きだ。彼女のことを考えるといいようもなく胸が切なくなるし、身長や年齢をどうしても気にしてしまう。彼女を独占したくなるし、甘えたくなる。きっとこれは僕の初恋。彼女が「海」であることは、初めて会ったときにぴんと来た。でも、僕はそれをいまだに実は、きちんと彼女に確かめていないのだ。確かめる必要なんかない。彼女が本当に「海」だったとして、前世のことは前世のこと。僕は今目の前にいる藤坂桔梗という女性を愛しているんだ。おいしいオムライスやハンバーグを作ってくれる彼女、僕に前世のことを隠さなくてもいい場所を提供してくれる彼女に。
 そうだよ。どんなに言い訳したって、僕は「海」から逃げている。答えは知っているけれど、事実を突きつけられたくはないんだ。
 お前の初恋は間違っている、と。
「おい、何だよ、その鏡から引っ張りあげたって」
「葵ちゃんはいなかったんだったわね。光くんと洋海君が行方不明になっちゃってね、美術室の鏡から樒ちゃんと二人で引っ張り出したのよ」
「……は? 美術室の鏡? それって、あの真っ平らなところから幽霊よろしく光と樒の弟が這い出してきたって言うのか?」
「まあ、そんなところよ。片山先生も目撃してるわ」
「目撃してるわって、そりゃまずいんじゃ……?」
「何が? 不思議なこともあるものだ、ってむしろ感心してたわよ」
「そうそう、でもまさか自分がそんな目に遭うとは思わなかったけれど」
「そうですよねぇ。って、あら、片山先生。こんなところで偶然ですね」
 さらりと迎え入れた桔梗の視線の先、深酒でもしたのか千鳥足の男が僕たちの輪を目指して暗闇の中から現れた。
「偶然ですね、って、え? ええっ? 片山?! マジで?」
 ぼさぼさの髪の中から青白い顔を覗かせ、大した生気もない目が葵おねえちゃんを視界に捉えて苦笑する。
「俺は先生って言っても、しがない美術教師だぞ? 生徒指導しに来たわけじゃないよ」
「もしかして、先生もサーカスをご覧になっていました?」
「見てた、見てた。新聞屋に入らなくていいからチケットあげますーって言われて見に行ってさ、帰りに自分の未来見たさに鏡面すり抜け体験コーナーってとこを潜ってみたら、いい匂いのガスにやられてさっきまでぐっすり眠ってたんだよ。で、はたと目が覚めてみたら周りにびっしりと知らない人が眠っていて、生きてるか死んでるか分かんないけどとにかく怖くなって逃げ出してきてさ、ようやく灯が見えたから、もう藁にも縋る思いで」
 聞くも涙、語るも涙とばかりに高等部の美術教師は身振り手振りを交えて話したが、桔梗と葵お姉ちゃんは途中から二人だけで話し込みはじめていた。
「私達が来た方向とは反対方向ね」
「俺らは、じゃない、あたしらは……」
「いい加減に俺って言うのおやめなさいな」
「分かってっから言いなおしたんだろうが。んで? 片山は変なガス嗅がされてその他大勢と一緒くたにされてたわけだけど、あたしらが分けられた理由って、それじゃ何だ?」
「片山先生でしょ、葵ちゃん。でも、何かしらねぇ。光くんたちもそこから来たの?」
 語り終えて存在が一気に薄らいでしまったしがない美術教師を宥めた方がいいのか、そっとしておいた方がいいのか決める間もなく、桔梗と葵お姉ちゃんは僕に話を振ってきた。
「昨日はね。でも今日は違う。今日の場合は……」
 僕だけエルメノのいる空間にいた。彼女の手をまたしても掴みきれずに、僕はクリスのところに戻ってきてしまった。
 思えば、鏡が割れればクリスが待っているだなんて出来すぎている。
「今日の場合はここから始まったんですよ」
 口ごもった僕の代わりに、クリスがさらりと答えてのけた。
「僕らは実はまだスタートからどこへも動いていない状態なんです。きっと、皆さんと落ち合えるようにゲームの設計者が取り計らってくれたんでしょう」
「ゲーム?」
「はい。これはゲームです。ゴールを探すゲーム」
「ゴールを探す、ゲーム……」
 エルメノ同様全てを飲み込んでいるかのようなクリスは、ゆっくりと葵お姉ちゃんに頷いて見せた。
「鏡を潜ると現実世界には鏡に映された虚像が実体化して暮らしはじめ、僕たちオリジナルは鏡の主の許可なくしては永遠に鏡の世界から出られない。僕たちのゴールは、それぞれの偽物を倒すことです。自分達に成り代っている偽物を現実から排除して、自分の居場所を取り戻す。それが彼女が仕掛けたゲームの中身」
「……へぇ、そうだったんだ……」
「そうだったんだって、光、君ならとっくに気づいてたと思ったけれど?」
「葵お姉ちゃんと桔梗と守景洋海の偽物なら、僕、倒しちゃったけど? 紫精で突いたら丸太になっちゃったもん」
 悪びれずに僕は言ったけど、直後に葵お姉ちゃんと桔梗から痛いくらい冷たい視線を浴びた。
「お前、あたしらに平気で刃物向けたのかよ」
「光くん、葵ちゃんはともかく、私にまで?」
「ああ、桔梗、そんな悲しい顔しないで。だって考えてもみて。偽物の桔梗はやっぱり偽物でしかなかったんだよ。本物の桔梗じゃないと意味がないんだ」
「本物の桔梗……光くんは本物の藤坂桔梗を知っているというのね」
 物思いにふけるように悲しげに睫毛を伏せた桔梗に、僕は慌てて弁解を重ねる。
「違うんだよ、僕は本物の桔梗しかいらないって思ったから思い切りよく、未練なく紫精を振るえたんだ。ああ、ほら、桔梗は右利きだけど、その偽物は左利きだったし、なんかちょっとどこかいつもの桔梗よりも冷たいっていうか違和感があって、だから僕……」
「いいわよ、もう。私が冷たくない人間だって信じてくれていたから、光くんはもう一人の偽物を断じることが出来たのよね?」
 ああ、桔梗、声からどうか棘を抜いてくれ。桔梗の優しい声に棘なんて心臓に悪すぎる。
「光、お前、あたしのことは本物でも構わないって思ってやっただろう?」
 桔梗の横でぎろりと睨んできたのは葵お姉ちゃん。
「そんなことないよ。本物だったら困るなぁっては思ったけど……あとで報復されそうだし」
「やかましい! あたしがそんなことするような女に見えるかよ?」
「見える」
 即答を返すと、キレかけた葵お姉ちゃんは唇をわななかせた後、呆れた表情を無理やり顔に貼り付けた。
「覚えてろよ。で、結局あたしらはどっちに行けばいいんだよ。樒だって探さなきゃならないし、こんなわけわかんないところで一人置いてきぼりにされたくないし。光、お前、ここ知ってるなら早く案内しろよ」
 葵お姉ちゃんは、腕組みをして取り繕うようにぶっきらぼうに命じると、ぷいとそっぽを向いた。
「お、俺も行くぞ。いいよな、勿論。こんなとこに置いてきぼりにしたりしないよな?」
 慌てて片山先生も言い募る。
「勿論、置いて行ったりなんかしませんよ。さ、どうぞ先頭に立って、さっきまでいらした場所に案内してください。樒ちゃんを探すにしてもなんにしても、これがゲームならこのステージをクリアしなきゃ次に進めない。そうでしょ、光くん?」
 片山先生の背を今来た方へと押しながら、振り返って桔梗は僕に尋ねた。
『取りこぼしなく拾ってくればいいんだよ。人間の魂を』
 向こうでの別れ際、エルメノの言った言葉が耳元で蘇る。今度は見ないふりなどできないのだ。構わず人界に戻っても、そこにあるのは本物が偽物にすり替わった偽物の世界しかないのだから。たとえ出会ったことがない人々でも、これから先出会うかもしれない。これから先出会う人の知り合いかもしれない。すでに出会っている人たちの知り合いかもしれない。
 エルメノもそれら全ての人々の運命を僕に背負わせるなんて、ね。
「行こうか」
 この城のことは、この中では僕が一番よく知っている。人界へ帰れる可能性のある鏡はここの上階、魔麗王の私室にあるから、人界の人々が保管されるように眠らされている地下へ向かうことはゴールから遠ざかるような気がしてならないのだけれど。
 僕は上を一度見上げて地下へと向かう階段を目指して歩き出した。











←第4章(1)  聖封伝  管理人室  第4章(3-1)→