聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

第 4 章  業 ――オリジナル――



 姉上。僕は、ただ貴女の笑顔が見たかっただけなんだ。
 母に裏切られた僕を、他人を傷つけつづける僕を、貴女はいつも穏やかな微笑を浮かべて受け止めてくれた。僕は貴女と一緒にいるときだけは、心から笑うことが出来たんだ。ほんのりと心にあたたかいものが宿ることもあったんだ。
 貴女は僕を否定しなかった。
 貴女は僕を拒まなかった。
 ありのままの僕を知っていて、貴女だけは異種のものを見るでなく、僕を愛してくれた。
 そうだよね? 貴女のあの心は確かに愛だった。
 恋ではなく、よく懐く弟への愛。
 貴女が僕を、家族としか見てくれていないことは初めからわかっていたんだ。
 それでも僕の心は貴女に憧れ、貴女を敬い、貴女を一人の女性として恋しいと思ってしまった。どんなに胸の奥底に沈めても、沈めても、貴女への恋慕は逢う度に高まっていった。
 僕の成神を一番喜んでくれたのも、姉上だったよね。
 魔麗城の侍女たちは何代代替わりをしたことだろう。
 僕とカルーラの間にある暗くねっとりとした時間は、今も僕の部屋に置き去りにされたまま。そんな僕の行状を知らぬはずはないのに、貴女は僕を蔑まない。貴女はいつも、どんなときでも、僕に対して嫌な顔ひとつせずに優しい言葉と笑顔を与えてくれた。
 僕は貴女から欲しいものをもらうばかりで、何も返すことが出来ない。
 いっそ、こんな不埒な想いを抱えているからには、貴女に逢わないことが一番の孝行なのかもしれない。
 だけど、分かってほしいんだ。
 貴女が育兄上を思うように、その想いが結ばれることなく果てなく続くと分かっていても逢わずにはいられないように、僕もどんなにこの恋慕を抑えても抑えても、貴女に逢わずにはいられないのです。
 貴女が僕の抱えるこの薄汚い恋慕を見抜いていらっしゃることは、重々承知しております。貴女が育兄上しか見えていないことも存じております。ですが、貴女が僕にそれでもなお逢ってくださるのは、貴女が僕にご自分を重ねていらっしゃるからなのだと、僕は気づいていました。
 己を憐れむかわりに、貴女は僕を憐れんでいたのです。
 僕はその憐れみを愛だと思いたかった。
 貴女からかけられる情がどのようなものであろうと、僕に向けられたものであればなんでもよかった。
 貴女のためなら、僕はこの身も心も、魂も、そして運命さえも貴女に捧げることが出来ると、本気で思っていたんだ。それだけ貴女から与えられる言葉と笑顔に僕は心奪われていた。
 そう、貴女のためならば。
「姉上が危篤!?」
 だから、貴女が僕のいる世界からいなくなってしまうことなんて考えもしなかった。
「危篤なんて、そんなまさか! 法王が死ぬわけがないだろう!?」
 青い伝書鳥の足にくくりつけられた筒から取り出した紙切れを開いた僕は、『水海法王危篤』の六文字に一瞬で激昂した。
「死にはしなくても熱もでれば咳きもする。死と老いがないだけで、基本的には人と同じだろう、君達は」
「黙れ、禦霊! 今すぐ出発する」
 魔麗の国は三月でもいまだ灰白く塗りつぶされた世界が広がっている。空も大地も灰色いばかりで、窓の外ばかり見ていると気がめいる。この国にいる限り雪に閉ざされて鬱屈した想いばかりが募っていくのは誰しも仕方のないことだ。
 僕は、ずっと逃げたかったのかもしれない。
 自分で自分を閉じ込めるために選んだ地だったというのに、僕は自分でもう息苦しくなっている。長くはいられなくて、いつのまにか僕を甘やかしてくれる海姉上のところにばかり入り浸っていた。
 それでも、この半年は海姉上が忙しかったり不在にしがちだったりで、あの潮騒と色彩豊かな国からは遠ざかっていたのだ。どこに行っていたのかは知らない。来訪の意思を告げても『まだ戻りません』と綺瑪がそっけなく返してくるだけだった。
 なのに、散々足止めを食らわせたあげく、綺瑪め、どういうつもりだ。こんな手紙を僕に送るなんて。どうして危篤なんてことになる前に知らせてくれなかったんだ!
 こんなことなら、一月と空けず訪ねればよかった。たとえ姉上が心中どんなに迷惑に思っていたって、僕と姉上は血が繋がっているんだ。姉弟なんだよ。甘えたっていいはずだ。
 一番憎んでいる事実に都合よく甘えようとする自分。嫌い抜くには、僕は当に腑抜けてる。おいしいところだけを上手に食べて、口に入れたくないものはどんなに栄養価が高いと言われたって皿に残す。我が儘を通すことが、自分を保つことだった。他人の言いなりになどならない。他人の言を聞いて為になったことなどないから。傷つくだけだ。愛優妃の言葉でさえ人を傷つけた。言葉が悪いのではない。真実だったのだと、たとえ後で僕が気づこうとも、心に傷をつけられた過去は変わらない。
 むしろ、そんな真実はいらない。
 僕が欲しいのは事実の裏に隠された人々の思惑なんかじゃなくて、ただ、今の僕を慰めてくれる優しい言葉。
 広げさせた禦霊の黒紫の翼に乗り、時空を縫って、僕は春の訪いを受けはじめた水海の国は海姉上の居宮に降り立った。
 夕を過ぎて宵を迎えた水海宮は、薄紅色の桜並木の向こう、波音に抱かれながら静かに佇んでいた。
 主が危篤という割には、どこにも慌しさがない。
 そのかわり、魔物が息を潜めているような不気味な静けさが朱塗りの門の向こうに立ち込めていた。
 胸が苦しいのは、嫌な予感が現実になりつつあるからだろうか。
「おかしくないか?」
 暗に騙されたんじゃないかと言いたげに、人型に戻った禦霊は言ったが、僕に返す言葉はない。
 朱塗りの門扉の前に立つ門番は、僕たちに気づくと敬礼して何も言わずに奥へと通した。
 夕飯を終えたのだろう。蝋燭に照らし出された回廊を、膳を持った侍女たちがすれ違っていく。
「やっぱりおかしいって」
「おかしいから来たんだろ」
 そっけなく返した僕の前に、横から綺瑪がよろけるように現れたのはそのときだった。
「ああ、麗。どうしたの? 海はまだ……」
 疲労を通り越して倒れる寸前のように顔色が蒼白だったのは、けして宵の暗さと燭台から離れていたからだけではなかったはずだ。
「綺瑪、顔色が悪いよ。姉上は、そんなに悪いの?」
 綺瑪は抱きとめてやった礼も言わず、まじまじと大きな瞳で僕を見つめた。
「海が、悪い? いいえ、海はまだ戻ってきていないわ」
「戻ってきていない? この半年、ずっとそればっかりだったよね。でも、僕を呼んだのは貴女でしょう? 青い鳥に『水海法王危篤』って手紙つけて僕の国に飛ばしたでしょう?」
 驚いたように綺瑪は目を瞠り、慌てて必死に首を横に振った。
「私はそんな手紙は……」
 僕は綺瑪の言葉を最後まで聞かずに彼女を腕から放り出し、水海宮の最奥、姉上の私室へと駆け出した。
「ああ、麗! 駄目よ、麗! 海の部屋に入っては駄目!!」
 綺瑪の叫び声がわざとらしく聞こえた。
 綺瑪は僕が海姉上にどんな想いを抱いているか、一番近くで見ているから気づいているに違いない。だからこそこの半年もの間、姉上はいないなんて言って姉上から僕を遠ざけようとしていたんだ。だけど、もう言うことなど聞くものか。あの手紙は、綺瑪が書いたのでなければ姉上が綺瑪の筆跡に似せて書いたのだ。
 僕に助けを求めるために。
「姉上! 海姉上!」
 表の門扉よりも硬く閉ざされた扉に向かって、僕は力の限り体当たりを食らわせた。一回、二回、三回。
「麗、やめろ! 扉が壊れる」
 疲れきった綺瑪よりも一足早く僕に追いついた禦霊が、何を思ったか僕の身体を後ろから羽交い絞めにした。
「放せ! 放せよ! 何のつもりだよ! 精霊同士、何か通じるところでもあったのかよ!」
「どういう僻み根性してるんですか。綺瑪殿が開けるなと言ったら、相応の理由があるからに決まっているでしょうが。何を頭に血を上らせて勝手なことをしようとしてるんです、この単細胞」
「うるさいっ。お前、主に向かって単細胞とはどういうつもりだ!」
「綺瑪殿も海様を主と思っているからこそ、開けるなとおっしゃっているのですよ。分かりませんか、この短絡的思考の塊が」
「お前ね、どさくさに紛れて本人の目の前で悪口言ってんじゃないよ」
「お目は覚めましたか?」
「覚めるかよ! 扉よりも姉上のお体の方が僕は心配なんだ! 当たり前だろう!?」
 僕は、我が儘に振舞うことでしか己を維持できなかったんだ。他人の言なんて、聞く価値などないと思ってたんだ。
 もし、思いとどまれたなら、僕は本当のどん底を知らなくて済んだのかもしれない。
 こんな恋愛感情に基づいた薄っぺらい正義感に惑わされさえしなければ。
 禦霊の腕を振り切った僕は、その勢いをそのまま扉にぶつけた。
 みしり、と音がして、扉の真ん中がうっすらと割れた。その隙間から、えもいわれぬいい香りが鼻を突いて、体内にくゆり、胸にしみこんでいった。
「誰?」
 中からは、確かに海姉上の誰何の声が聞こえてきた。
「麗です。姉上が危篤だと聞いて馳せ参じました」
「まぁ、ようやく来てくれたのね」
 いつもよりも艶を含んだ姉上の声が徐々に近づいてくる。
「ようやくって……」
「この半年、ちっとも来てくれないんだもの。とても寂しかったのよ」
「え……」
 口では驚きの声を漏らしながらも、内心はやはりとの思いがわきあがってきていた。
 僕はこんな至近距離なのに息を切らしながら駆けてきた綺瑪を振り返って睨みつける。なのに、綺瑪は怯まず僕の肩に追いすがった。
「れ、麗様、なりません。離れてください! その中に入っては……」
「は、はなせ!」
「黙りなさい、綺瑪」
 うるさい、と綺瑪の腕を振り払おうとするのと同時に、目の前に硬く聳えていた扉はゆっくりと開かれた。
 さっき扉から漏れ出していた香りが、より濃厚に全身を濡らしていく。甘い香り。もっともっと、胸に吸い込みたくなる香り。
 深呼吸をすると、くらりと視界が揺らいだ。
 ほろ酔い。
 それさえも心地よい。
「姉、上」
 現れた海姉上は、上質な香りを纏って女王のように気高く、美しく僕らを睥睨した。
「海……」
 なのに綺瑪は僕の背中で泣きそうな声を上げる。
 僕は綺瑪を振り払い、姉上の足元に跪き、白い手の甲に口付けをした。
「危篤だなんてとんでもない。今日の姉上はお久しぶりにお会いするせいか、とても美しい。この世のものとは思えぬほどに」
 くすり、と鈴が触れるような笑い声が零れ落ちてきた。
「しばらく会わないうちに、どこでそんな甘い言葉を覚えたの? 悪い子ね。お入りなさい。疲れたでしょう? お茶でも飲みながら、ゆっくりとお話しましょう」
 白い手が僕を暗闇の中へと招き入れる。
 あれは、エルメノの手? 愛優妃の手?
 分からない。だけど、掴まなきゃ。もう、今度はどんな手も離しちゃいけないんだ。
「はい、姉上」
 たとえ、香りに酔っていなかったとしても、僕に否やはなかっただろう。踏み出した足は、雲の上を歩かされているかのように心もとなかったが、敷居を踏み越えて真っ直ぐに冷たさの残る畳の上を進んでいく。
「麗様!」
「麗!」
 綺瑪と禦霊の声は、かすかに軋みをあげて閉じられた扉に遮断されて途切れていった。
 薄暗い部屋だった。夜になるというのに、燭台には灯がなく、湯を沸かすための風呂に入れられた炭の熾きだけが滲むように赤く闇に咲いていた。
「座って、麗」
 姉上は先に風炉の前に正座すると、柄杓を手に取り、釜からお湯を茶碗に汲みいれた。
 嗅ぎなれて飽和してしまったのではないかと思っていたあの甘い香りが、再び湯気にのって僕の鼻をくすぐってきた。
 姉上は淑やかに、しかし慣れた手際でお茶を点て、僕の前に茶碗を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 何度も教えられたとおり、僕は決められた所作に則ってそのお茶に口をつけた。
 きっと苦い味がまた口中に広がるのだろうと覚悟していたのだが、しかし、今夜のお茶はお茶のようでいてお茶ではなかった。
「姉上、これは?」
 爆ぜる熾きの灯火に照らされて、姉上は優しく微笑む。
「新しくナニギから取り寄せたの。麗はほんとは苦いお茶、苦手だったでしょう?」
「姉上……ありがとうございます!」
 ちょっとの心遣いが痛いくらいに胸を熱くする。ちゃんと僕のことを見ていてくれてたんだって。ちゃんと、僕のことを考えてくれてたんだって。
 それは、舌をとろかすほどとろりとした甘いお茶だった。
 舌だけじゃない。お酒が混じっているんじゃないかって思うくらい、血液に乗って全身に熱く広がっていって、内側から気持ちよく身体を溶かしていく。
「ねぇ、麗。どうして半年も会いに来てくれなかったの?」
 おかしいな。姉上の声がいつもよりも耳にくすぐったく聞こえる。
「違いますよ。僕は何度も逢いに行こうとしていたんです。でも、綺瑪が今日は姉上はいない、しばらく帰ってこない、そればっかりで。もしかしたら、僕、姉上に嫌われてしまったんじゃないかって、ずっと気にしていたんです。そしたら姉上が危篤だなんて手紙が来るから、嫌われていても構うもんかと思って飛んできたんです」
「あの手紙ね、私が出したの。最近、綺瑪ったら私をこの部屋に閉じ込めたがるのよ。だから、窓から伝書鳥が見えたときにね、急いで捕まえてあの手紙を持たせたの」
「何だ、姉上だったんですね。でも、だからって危篤だなんて心配するじゃないですか」
「だって、逢いたかったんですもの」
 そろりと膝に乗せていた手に白い冷たい手が重ねられていた。
「姉、上?」
「逢いたくて、逢いたくて、死んでしまうかと思ったの」
 きゅっと握られた手から、迸るように熱が全身を駆け巡り、耳元で囁かれた声が肩を震わせ、吐息が身体中に回って鳥肌を立たせていく。
 思わず抱き寄せそうになった腕の力を拳を握ってやり過ごし、僕は姉上の肩を向こうへと押しやる。
「どうしたんですか、姉上。もう、からかわないでください」
 上手くは笑えなかった。
 真剣に見上げてくる藍色の瞳が、今にも涙をこぼしそうなほど潤んでいたから。
「麗」
 はじめて唇にあてがわれた唇は、柔らかく、あのお茶よりも甘い味がした。
「本当よ。貴方に会えなくて、本当に寂しかったの。育に逢えなくても、あんな手紙を飛ばしたことはなかったのよ。それなのに、たった半年麗の顔が見れないだけで、声が聞けないだけで……私、どうしてしまったのか自分でもわからないの。育のことが好きだったはずなのに、気がつくと貴方のことばかり考えているの。育のことを想うと暗いどうしようもない想いしか湧きあがってこないのに、不思議なのよ、貴方のことを考えるととても心が満たされるの。でもすぐに足りなくって、本物の貴方に会いたくて仕方がなくなってしまって……。信じ、られないでしょう? 私は、貴方の姉なのに。姉として、ずっと貴方が笑顔でいられるように目をかけてきたつもりだったのに。貴方は血の繋がった可愛い弟で、私の一番大切な弟で、なのに、それなのに……」
 溢れ出した涙に耐え切れなくなって、僕は彼女の細い腰を抱き寄せ、口付けていた。
「僕も同じです。血が繋がっていると言われようと、僕にとって貴女はただ一人の女性です。『姉上』と口にする度に、僕がどれだけ苦い想いを飲み込んできたか、分かりますか?」
「麗……。いいのよ。もうやめましょう。姉弟ごっこなんてしていても、お互いが傷つくだけだわ。貴方が飛んで来てくれて分かったの。私にはやっぱり貴方しかいないんだって」
 胸に縋りつく彼女の身体は見た目よりも細く華奢だった。憧れていた首筋は光を孕んでいるかのように闇の中でも白く輝き、僕の心中に残っていた弟としての理性を影の中に消し飛ばしてしまった。
 そのあとのことは、自分でも、実はよく覚えていない。自分がとても幸せな気持ちで満たされたことは確かで、彼女も嬉しげに僕を抱きしめてくれた。一瞬訪れかけた空虚な気持ちも、彼女の腕の温みがすぐに埋めてくれた、はずだった。
 くすり。
 耳元で吐息が聞こえた。
 くす、くす。
 今度ははっきりと、彼女の声となって僕に不安の芽を飢えつけた。
「海?」
 くすくすくすくすくす。
 問うても返事はない。代わりに聞こえてくるのは、冷め切った嗤い声。
「海? どうしたの、海? 海?」
 起き上がると、彼女は宙を見つめて嗤いを噛みこらえていた。
 長い黒髪を枕元に波打たせ、白い肌には数多の赤い印を刻まれて虚ろな顔で嗤う女の姿は、暗闇に慣れた目にはとても尋常とは思えなかった。
 さぁっと全身を火照らせていた熱が引いていく。
「ふふふふふ……ぁはははは……ははは、あははははは……」
 声は我に返ったかのように、しかし正気とは裏腹の方向へ次第に大きくなっていき、やがて堰が切れたようにはち切れた。
「あっははははははは、はは、あはは、あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ、ははは、あはは、あはははは……」
「海? 海?! しっかりして、海……姉、上……」
 『姉上』と口を吐いてでたとき、ぴたりと彼女は嗤うのをやめて僕を見据えた。
「言ったわね、姉上と」
「え?」
 呆然と聞き返したとき、彼女はまた嗤いはじめていた。
 僕はそんな彼女を恐れと危機感とを以って見下ろす。
「あははははははっ、麗、貴方がやったのよ。貴方が私の身体を傷つけたの。私は嫌だと言ったのに、貴方が無理やり私を抱いたのよ。私の血の繋がった弟だったというのに」
 嗤いながら、姉上は再び一瞬だけ僕を見つめてまた視線を宙に返した。
 胸から全身へと爆発的に焦りが広がっていった。
「違っ……違……、姉上が、だって、姉上が……」
「くすくすくす、あはははは、ふふふふふ」
 姉上にはもう、僕は見えていないようだった。それでも僕は何とか正気を取り戻させようと彼女の肩を揺らしていたのだけれど。
「あね……」
「さぁ、育は何て言うかしら?」
「……ぅえ……」
 宙に見えるはずのない愛しい人の顔を思い浮かべて恍惚と微笑んだ彼女の顔には、これこそまさに人を愛する表情なのだといわんばかりに愛しさと憎しみがない交ぜになっていた。
 僕の手は、彼女の肩から離れていった。
「育、早く、来て。私を、助けて……?」
 それは、絶望的なまでの僕への拒絶。
 割れんばかりの彼女の狂いきった嗤い声はそれから一刻ばかり続いて、やがて、彼女の望みどおりその男は綺瑪を伴ってこの寝室にやってきた。
 外に耳を澄ませる者がいたのだろう。慎重に扉を閉めて閂をかけてから、綺瑪は手持ちの燭台に灯を燈した。
 露になる僕らの惨状。
 海は、闇の中に長兄の姿を見出すと、ぴたりと嗤い声を喉に納め、くしゃりと顔を歪めてさめざめと泣きはじめた。僕はぼんやりとその様を見下ろしている。
「麗、」
 長兄は、そんな僕の肩に脱ぎ捨てられた僕の上衣を着せ掛けた。
「育、助けて……麗が、麗が私を……!!!」
 もはや抵抗する力もないとばかりにぐったりと身体を横たえて、それでも鬼気迫る勢いで彼女は顔だけを愛しい男に向けて訴えた。しかし、男は彼女を静かに見下ろしたまま、僕に言った。
「麗、帰りなさい」
 長兄は何も聞かなかった。ただ一言、感情のこもらない声で帰れと諭しただけだった。
 抜け殻同然になっていた僕の腸に落ちたその言葉は、何よりの怒りの糧となって燃え上がった。
「兄、上……!」
 ほんとは、僕が幸せにしてやりたかったんだ。
 腕と胸倉を引きつかんだ拳に、握りつぶさんほどに力を込める。
「兄上がしっかりしないから……あんたがしっかりしないから……」
 僕じゃ無理だってことは、試すまでもなく分かっていたことだった。でも、だけど、彼女が望んでくれたんだ。彼女が、僕を選んでくれたと思ったんだ!
 それなのに。
「何で、何であんたなんだよぉぉぉぉ」
 泣き崩れたのは、僕の方だった。
 長兄は僕を寝台から引き下ろし、一瞥と共に言った。
「他言するな」
 鋭い眼光に、僕は一瞬息を呑んだ。そして、どういうことだと反駁することも、どうするつもりだと尋ねることもできずに、次の瞬間、芯から凍えるような魔麗城の自室のベッドの上に座り込んでいた。
「なんだよ、これ……。どういう、ことだよ。ふざけんな……ふざけんなよ……!」
 一度は溢れ出したはずの涙は、目頭を苦く曇らせる痛みに変わっていた。
 頭は薄ぼんやりと重たく、視界だけが異様に冴えている。
「ふざ、けんな……」
 もはや、誰を恨んでいいのか、憎んでいいのか、僕には分からなかった。もしかしたら彼女と長兄と綺瑪の三人で仕組んだことだったのかもしれない。何のために? 決まってる。僕を馬鹿にするためだ。永年の思いに横恋慕しようとした僕を嘲り笑うために。
 そんなことのために彼女が身を挺するような危険を犯すかなんて、僕には考える余裕もなかった。
「やめて、くれ……見ないで、くれ……見ないで……もう、もうやめてくれぇぇぇぇっっっっっ」
 暗い。暗い、暗い。
 記憶の底闇。
 僕は、もう何も見なくていいと思った。
 何も聞こえなくて、いいと、思った。











←第3章(6)  聖封伝  管理人室  第4章(2)→