聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 3 章  ニセモノの世界

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 肌にぴりりと冷たい空気が触れていた。
 懐かしい空気だ。胸に入ってなお、冷たさは失われない。刺すような冷たさが肺一杯に広がって、私はむせる。
 眼下に広がるは天龍の国ロガトノープルの城砦都市。整然と計画的に建造された茶色いレンガの町並みはいかにもこの国の主の性格を現していて、見ているだけで愛しくなってしまう。
 空は曇天。吹き上げる風が目にしみる。
 はたと思う。私はこの国で抜けるような青空を見たことがあっただろうか、と。小さい頃、ここに住んでいたときには毎日が光に包まれていて、空は可愛らしい白い雲を浮かべて青く泰然としていた。冬の冷たい空気は変わらないけれど、私はちゃんとこの国にも春が来て、この大気が緩むことを知っていた。だけど、龍兄から離れて聖刻の国へ行ってからというもの、こうしてたまに恋しくなってこっそり〈渡り〉で帰ってきても、風は追い返すように冷たく、空は暗くどんよりと垂れ込めていることが多いような気がする。
 誰かに出迎えてほしいなんて贅沢は言わない。叱られるのがオチだもの。だからせめて空と大気だけでも歓迎してくれたら、私は精一杯この国の空気を吸い込んで、またあの時の止まったような国に戻るのに。
 そんなことを言い聞かせながら、ほんとは期待している自分がいる。
 (龍兄)
 声にはしない。唇を動かすだけ。
 誤って声が出たりしないかしらと期待しながら。
 ほんとは大声で呼びたい。私はここだよ、って。ほら、また〈渡り〉を使ってきちゃったんだよって。
 そして貴方は叱るの。そんなに心臓に負担をかけるようなことをして、死にたいのか、って。
 貴方に会えないなら死んだ方がまし。
 貴方に叱ってもらえないくらいなら、こんな国に未練などない。
 (見つけて)
 気づいて。
 私は、ここだよ。
 ロガトノープル上空を浮遊する空中庭園、ルガルダの森。その島の縁に膝を抱えて私は大地を見下ろす。背後ではぎりぎりまで繁茂する緑が枝葉を伸ばし、私の背を包む。
 こんな場所にいて、見つけられるわけがない。そもそも龍兄は私が今この国にいることさえ知らないはずだもの。見つけてほしいなら、天龍城のどこかじゃないと絶対無理。どこにいても見つけてなんて、そんなこといくら神の子でもできるわけがない。
「でも、見つけてほしいの」
 貴方と私の間に特別な絆があるというなら、きっと運命はどこにいても私たちを結びつけてくれる。
 運命なんて幻想を私が抱くことすら馬鹿げているけれど。
 それなら、必然なら現実に出来るだろうか。
 私は〈予言書〉を見ることが出来るのだから。
「聖様……?」
 葉ずれの音が近づいてきて、一人の子供が四足で茂みから顔を出した。
 白髪に碧眼、頬を赤く染めた愛らしい子。
「いらっしゃってたんですか」
 私と確信して、龍兄の守護獣、翡瑞は若干気まずそうに面を伏せた。
「申し訳、ございません」
「どうしてあなたが謝るの。いいのよ、気にしないで」
 作った笑顔に不自然さは出ていないだろうか?
 気にしたそばから、翡瑞は少年らしい鋭さで私の心中に気づいたらしい。何も言えずに俯いてしまった。
 私は立ち上がる。
 下から吹き上げてきた風が全身に当たって、寝巻き同然のワンピースの裾をはためかせる。
「翡瑞、龍兄には言わないでね」
 何かを言いたそうに目を張りつめて、翡瑞は顔を上げる。
「いいのよ。いいの……」
 分かっていたことだ。ここにいても龍兄はここには来ない。きっと今頃、下界での憂さを晴らしにユジラスカの精の元を訪れている頃だろう。
 いやらしい自分。こんなところまで追いかけてきて、逢わないでと言う勇気もないくせに探してくれることを期待して一人でかくれんぼなんかして。もう子供じゃないのに。もう、鬼はどこにもいないのに。誰も彼もが子供時代のまま草むらや岩陰に隠れ続けるわけがない。鬼も、いつまでも見つからない子供を探してくれはしない。とっくに日は暮れているのに、私だけが夜になっても息を潜めて鬼が探しに来てくれるのを待っている。ううん、龍兄が探しに来てくれるのを待っている。
 小さい頃は、必死になって探しに来てくれたよね。見つけたときの緊張の解けていく顔や、ぎゅっとわたしを抱きしめた時の龍兄の腕の強さを覚えているよ。
 いつから、探しに来てくれなくなったのかな。
 ねぇ、龍兄。
「絶対に、言わないでね」
 翡瑞の白髪を一撫でして、私は島の縁から飛び降りた。
「聖様!!」
 上昇気流は私の身体を押しのけはしても押し上げてはくれない。人は重力には逆らえない。大地なしでは生きられないんだと言うように、私の身体は地上へと引き寄せられていく。
 私の大地はどこへ行ってしまったんだろう。
 あの安寧だけがあった腕には、きっと今は別な女性が抱かれている。想像しただけで身が焼け焦げてしまいそうだった。
 こうして、来る度に後悔ばかりが積み重なっていく。見つけてもらえない度に、何しているんだろうって我に返って、でも、またしばらくすると繰り返してしまう。これはもう、病。
 暗い曇天に白い翼が広がった。
「聖様!」
 天馬に姿を変えた翡瑞が大慌てで私の身体を細い背に受け止める。
 私の身体は翡瑞の背で一度跳ね、くたりと翡瑞の背に沿って落ち着く。
 曇天を覆い隠す翡瑞の白い翼は晴天の日に見た光の雲のようだった。
「なんてことをするんですか!」
 純真な少年は空中で地団太を踏んで怒っていた。
「ちゃんと〈渡り〉を唱えるつもりだったのよ。死のうとしたんじゃないわ。大体、法王は死なないことになっているのよ」
 死なないのか、死ねないのか。不老不死は、数ある神の子の不自由の中でも最も不幸な呪いだと私は思う。病なら、早くわたしの全身を蝕んで、こんな馬鹿げたことをしないようにしっかりベッドにくくりつけておいてくれればいいのに。
 知ってる。私はまだまだこんな馬鹿げたことを繰り返すの。病が私の望みを叶えてくれるのはもう少しのようで、一日一日を数えればあまりにも遠い先。
 未来を知ることは絶望に未来を染めることだ。
「聖様、お願いですから主人を泣かせるようなことは……」
「泣いてくれるかしら、ほんとに。龍兄が私のために泣いてくれるなら、私……」
「めったなこと言わないでください! 言いますよ、聖様がいらっしゃってたこと! それとも、このままアイリーン様の元にお届けいたしましょうか?」
 翡瑞の脅し文句に、私は慌てて飛び起きた。
「それだけはやめて! それだけは本当に……!」
 〈渡り〉と心中で呟いて、私は元いた自分の国の自室のベッドの上に戻っていた。
 同時に、息つく間もなく私は咳き込む。
 必死に酸素を漁りながら、どうしてここまで苦しみながら生きているのかと、目に滲む涙の理由を模索する。
 綺瑪にユジラスカの精――アイリーン。
 私は誰にも敵わない。私は一生、あの人の腕の中には戻れない。





 居場所を探して彷徨う様は、どこか共感を覚えた。戻りたい場所が分かっているのに戻れないジレンマは、あまりに歯がゆい。携帯がない時代にどこへでも自由にいける魔法が使えたら、きっと彼女のようになってしまう人は多かったかもしれない。
 あれではまるでストーカーだと思っても、どうにも笑えなかった。彼女はあまりに切実に龍兄を求めていたから。
 それが本当に恋だったのか、家族を求める気持ちからだったのかはおそらく彼女にも分かっていないだろうけど。
「あの……」
 エメラルド色の瞳がおそるおそるわたしを覗き込んでいた。
「大丈夫、ですか?」
 おどおどとした喋り方は、初対面のわたしを警戒してのものにしては板につきすぎていた。頬に落ちるふわふわとした夕焼け色の髪を耳にかけて、その子は不安そうにわたしを見つめてくる。
「大丈、夫」
 言葉が途切れかけたのは、あんな高いところから落ちたのに本当に無事なのかと自分に問いかけたかったから。あるいは、彼女にそれを伝える必要があるのかと迷ったから。
 肩と背中とお尻にじんわりと鈍い痛みが広がっていく。手をついて身体を起こすと微妙に腰の辺りが軋む音がした。でも、それだけ。手首、足首、頭に腰に、捻ったり振ったりすれば思ったとおりに動いている。折れたり腫れているところは特にないらしい。
 〈渡り〉と唱えたとき、目に浮かんでいたのはまさに今目の前にある顔だった。別に彼女に会いたいと思ったわけじゃない。わたしをこんなことに巻き込んだのは彼女だから。
『ねぇ、君はほんとに自分が守景樒だと思ってるの?』
 そう言って、わたしを惑わせるから。
「触らないで!」
 目には本気で心配する色が浮かんでいたのに、わたしは彼女の声が聞こえた気がしてきつい声で彼女を突き放してしまっていた。
 少女はびくりと肩を震わせ、寄る方ない不安げな目でわたしを見ながら差し出しかけていた手を引っ込め、獰猛な熊か虎から離れるように一歩一歩、ゆっくりと後退っていく。
 いつもなら、わたしはすぐに「あ、ごめん」と口にしていただろう。現に、「あ」までは口にしていた。だけど、その先が続かなかった。
 謝れなかった。明らかに傷いついた顔をしていたのに。
 わたしは彼女の顔を見ていられなくなって顔を俯けた。
 夕焼け色の髪。エメラルド色の瞳。
 安藤君の妹。おかしな予言をしてわたしにつきまとっていたあの子が、今度は気の弱いふりをしている。何のために? 裏切られる痛みをわたしに植えつけようとでもいうの? そうやってわたしを人を信じられない人間にして、どうするつもり?
「ごめん……なさい……」
 消え入りそうな声で少女は言った。
 まるで、ほんとに別人のようだ。
 別人?
 そういえば、昨日安藤君はサーカスの会場で妹さんに会ったとき、敵でも見るかのように彼女を見ていた。それに妹を助けたいって言ってた。
 まさか、ね。
 まさか、彼女の方が安藤君が助けたいって言ってた本物の妹さんで、わたしにつきまとっていたあの子は鏡から出てきた偽者、なんてこと、あるわけが……。
「安藤陽色君の、妹さん?」
 恐る恐る顔を上げて尋ねると、彼女はだいぶ離れたところ――白い壁際に背をぴたりとくつけて膝を抱えた状態から、弾かれたようにわたしを見つめた。
 潤んだ大きな瞳には絶え間なく不安が揺れ動いている。
 あんなに自信満々でわたしの前に現れては消えていたのに、これでは同一人物と思う方が難しい。
 わたしはゆっくりと立ち上がり、部屋の中を見回した。
 一人分の椅子と木製のテーブル。クラシックなライティングデスクに、寝起きのままなのか皺の寄ったシーツがぐしゃっと置かれているベッド。壁にかけられた顔一つ映るくらいの掛け鏡。クリーム色のカーテンの向こうはおそらく窓があるのだろう。一見した限り、ちょっとリッチなホテルのシングルルームを思わせる一室だった。
 そのテーブルとベッドの隙間を縫って、彼女の前にしゃがみこむ。
 少女は顔を俯けて口元を両手で押さえて震えていた。
「ごめんなさい……。ぼく、もう……何も言わないから……」
 指の隙間からくぐもった声が途切れ途切れに聞こえてくる。痛ましいほどに弱々しい声。完全に自信を喪失している様は、なぜか、死ぬ直前まで元気に振舞っていた真由のことを思い出させた。
 わたしは、口元を押さえている少女の両手を包み込むように握った。
 緊張のためか、とても冷たくなっている。
 少女は張り裂けそうなくらい目を瞠って首を振った。
(だめだよ。ぼくに触ったら嘘つきが感染っちゃう)
 音は出さずに、唇だけを動かす。
 わたしは読唇術なんて知らなかったけど、その言葉は音となって頭の中に飛び込んでくるようだった。
「感染らないよ。だって、安藤さんは嘘つきじゃないんでしょう? ちゃんと喋っていいよ」
 ふるふると、少女はふわふわの髪を揺らして首を振る。
「わたし、守景樒。安藤君と高校で同じクラスなの。ごめんなさい。心配してくれたのに触らないでなんて言って」
 少女は視線を落とし、手首を掴むわたしの手を見つめた。
(どうして信じられるの? ほんとに嘘つきになっちゃうかもしれないのに、手、離さなくていいの?)
「そんな病気は聞いたことないよ。それとも、安藤さんは本当に周りに嘘をついて生きてきたの?」
 彼女はしばし沈黙したのに、ゆっくりと首を振った。
「でも誰も信じてくれなかった。誰もが信じられることをぼくは喋っていなかった」
「たとえば?」
「ぼくのパパは王様なんだって言ったら、そんなわけないって笑われた。ほんとなんだ。ぼくのパパは魔麗の国の王様なんだ。でも魔麗の国なんてこの世界のどこにも存在しないよって。ちょっとだけ人の心が分かるんだって、話したこともないクラスメイトの好きな人を言い当てたら気味悪がられた」
 声も喋り方もわたしにつきまとっていたあの少女と同じだった。だけど、気持ちの張りの問題なのか、今目の前にいる少女の声のほうが低く聞こえた。
「魔麗の国……」
 呟いて、わたしはその国の存在を肯定しようかどうか迷った。聞いたことならある。聖という少女が出てくる夢を見ているとき、その国の名前は当たり前のようにわたしの知識の中に納められている。でも、実際には、日本やアメリカや中国といった国と並び立つものではない。本当に存在しているのかどうかさえも、わたしは確信がない。わたしもその名を知っていて、彼女もその名を知っているのなら、わたしだけの妄想ではないのだろうけど、いつかのタイミングで集団催眠でもかけられたのかもしれない。たとえば昨日のサーカスとかのような場所で。
「やっぱり、ないって思ったんでしょ?」
 自嘲を口元に浮かべて、さっきとは打って変わって攻撃的な鋭い目で彼女はわたしを睨んできた。
「ううん、違っ……」
「やっぱりあなたもぼくを嘘つきだと思ったんだ!」
「違うって。確かに地球上では聞いたことがない国の名前だけど……」
 少女は弾かれたように立ち上がって窓の方へと駆け出し、勢いよくクリーム色のカーテンを開けた。
 うっすらと白みはじめた空が現れる。
「じゃあ、ここはどこだって言うんだよ! 日本にこんな景色がある? 世界のどこに、こんな氷原のど真ん中に立つお城に住んでる人がいる? こんなに寒いのに自動車よりも馬車が多く通る町なんて、観光地だってないよ」
 わたしはひんやりとした二重窓の際に寄り、おそるおそる窓の下を眺めた。
 一面の銀世界。スキー場よりも、テレビで見た北海道の冬の平原よりも広大で、もっと蒼いくらいに凍てついた大地。果てない大地の先は、微妙に弓なりになって空と分かれている。地平線だった。その向こうから、今にもこぼれんばかりの光が漏れ溢れている。視線を手前に戻す。今いるこの建物は急峻な雪山の上に建てられており、白い石で出来たずいぶんと古い建物のようだった。左下には複雑に組み合わされた尖塔や建物がのびている。そのさらに下には、小さく密集した町が見えた。家屋のデザインが今風でなく、この場所よりも高い建物がないことは確かだけれど、だからと言って異世界なのかと聞かれると、ここから眺めるだけで異世界だと決め付けるのは難しそうだ。どこか外国の田舎町かもしれない。
 ただ、日本でないことだけは確かだ。そして、工藤君のマンションから、来たこともない部屋に突然来てしまったということも。
 どこまでも広がる氷原は、昇りはじめた朝日を受けてキラキラと虹色に輝きはじめていた。
「ここは……」
「魔麗の国だよ。それも、この城は旧都セロの城」
「旧都?」
「そうだよ。ここは神界でも北の端っこ。神代の終わり、神界は柱とする神と法王を失い、劇的な天変地異に見舞われたんだ。その結果、魔麗の国の首都だったこのセロは、北の楔、羅流伽よりも北に移動してしまった。それもクワトとは大陸まで分かたれてしまって。こんな寒々しいところ、誰も住みたいなんて思わないし、政治の中枢を置くなら海を隔てるよりも天宮に近いほうがいいって判断がなされて、魔麗法王亡き後は、名実共にクワトが首都になったんだよ。って、言ったってわかんないよね。ほんとだなんて……」
「思うよ。わたしも多分、知ってるから」
 心の中にもやもやとした塊がある。覗こうとするとすっと逃げていってしまうけれど、おそらくあの中に、わたしが今巻き込まれている事態の理由が詰まっているはずだ。
 学校で習ったわけでもないのに常識的として知っている気がする国の名前。人の名前。何かの御伽噺とごっちゃになっているのかもしれない、なんて心のどこかで逃げ口を用意してはいても、今は彼女を肯定してあげることの方が先だと思った。
『聖、お前、また〈渡り〉を使ったね』
 部屋に戻るなり、ノックもなく、水を張り替えた盥を携えて入ってきたのは、見る者を凍りつかせるほど透き通った紫の瞳を持つ三番目の兄。
『麗兄様』
 むせつづける私に気遣いの言葉もなく、兄は盥を私の枕元に置き、タオルを絞った。
『馬鹿な妹。お前を見てると、ほんとイライラしてくるよ』
 憎悪のこもった声を浴びせて、麗兄様は粗雑な手つきで私の額にタオルをあてて、そのままベッドに寝かしつけた。
『お前の病は、きっとこんな粉薬じゃ治らないんだろうね』
 ナイトテーブルに置かれた水差しと新しい紙袋。
『馬鹿馬鹿しい』
 言い捨てて、麗兄様は私に背を向けた。
『ごめん……なさい……ごめんなさい……』
『お前、治す気がないんだろう? もう僕を呼ばないように侍女たちに言ってくれ。不快だよ、とても』
『ごめん……なさ、い……っうっ』
 心臓がまた肋骨の中で暴れはじめる。
 歪んだ視界の端に、哀れみのこもった麗兄様の紫色の瞳の残像が残って焼きついた。
「っうっ」
 胸が軋みをあげて締めつけられたのは一瞬。ビリジアンの目を瞬かせながら少女がわたしを覗き込んでいる。
「ああ、大丈夫、大丈夫」
 夢の中の少女がわたしの時間まで侵食しはじめている? それとも、私が魔麗の国の情報を引き出そうとしたからこぼれだしてきてしまった? まさか手繰ろうとした記憶のすべてにあの胸の締めつけるような痛みが付随してくるわけじゃ、ないよね?
「知ってるって、何を?」
 わたしが平気そうなのを見てとって、安藤さんは探るようにわたしを見つめてきた。
「魔麗法王っていう人がいたってことを、かな」
「ふうん」
 安藤さんは思ったほど関心も示さずにごろんとベッドに身体を投げ出した。
「ぼくは、統仲王や愛優妃や法王なんてものは、神話の中だけの話だと思ってる。小さい頃から寝物語に読んでもらった本は神界の神話だったんだ。ギリシア神話と同じような話だよね。すごく人間臭い神様達の話。でも、神話の中の人物は所詮神話の中だけなんだよ。神なんているわけがない。第三次神闇戦争で神が死んだというのに、創造主を失った世界が存続できるわけがない。ギリシア神話は最後にゼウスがどうなったのか、ネプチューンがどうなったのか、アテナがどうなったのか、何も書いていないだろう? でも、神界の神話は三度目の神闇戦争で神は死んだとはっきり書いているんだ。そのとき天変地異が起こって、世界は神から人に引き継がれたんだって。そんなこと言われたって、信じられる? ぼくのパパが魔麗の国の王であることは確かなんだ。でも、その王の血を辿ると神話に行き着く。そこで全てがうやむやになる。この世界には驚くことに精霊を使役することで魔法を使う人もいる。ぼくは嘘つきだって言われるけど、ぼくは自分が確信したことしか喋っていないんだ。神界の神話の話はしたことがないよ。魔法もぼくは使えないから、魔法が存在すると言ったこともない。でも、ぼくが一番疑っているのかもしれない。神界という世界があることを」
 一息に思いを吐き出すと、彼女は勢いをつけて起き上がった。
「ただぼくを肯定して勇気づけようとするなら余計なお世話だよ。でも、本当に知っているなら教えてほしい。ぼくは、何に巻き込まれているの?」
 不安げに縋るように少女はわたしを見た。
 それは、わたしが聞きたいくらいだ、と思ったけれど、口にはしなかった。代わりに別のことを口にする。
「安藤さん、自分にそっくりな少女に会ったことはない? 夕焼け色の髪、ビリジアンの瞳、白い肌、日本人離れした彫りの深い顔。鏡を見るようにそっくりな自分に出会ったことは、ない?」
 安藤さんは例によってその零れ落ちそうなビリジアンの瞳でわたしを凝視し、口を開きかけた。が、何を思ったか言葉を飲み込み、首を振る。
「彼女に鏡を見せられたことは?」
 安藤さんは顔も上げずにただ首を振った。
「やめて。やめてくれ」
 苦しげに、もがく。
「会ったこと、あるんだね」
「ない! いや、なくはなくって……」
 わたしはベッドの上で頭を抱える安藤さんの前にしゃがみこんだ。
「安藤さんは東京にもおうちがあるでしょう? もしこの世界で暮らしているなら、どうしてお父さんのいるクワトじゃなくてセロの方なの?」
 いや、いや、と安藤さんは首を振る。
 何かあるのは確かだけれど、この様子では何も話してくれそうにない。もしかしたら、わたしにつきまとうもう一人の安藤さんそっくりな子を何とかできるヒントがあるかもしれないって思ったのに。
 わたしは諦めて、窓と反対側についている扉の方へと向かった。
 この部屋にいて安藤さんと話していても、これ以上何か情報を得られるとは思えなかった。それなら、外に出て彼女が何故セロの城にいるのかを聞いた方が早い。
 そう思ってドアノブを握った時だった。
 じゅっと手がノブに張りつくような感触と同時に、焼けつくような痛みが右手に走り、わたしは反射的に手を離した。
「っっっううっ」
 呻き声が漏れ出だす。
 右手のひらは、ちらっと見る限り赤く焼け爛れていた。
 出来るだけ見ないように歯を食いしばって下に遠ざけながら、左手で右手首を握って痛みを散らそうとするけれど、痛みは滑らかな肌を失ってしまった喪失感と共に心臓の鼓動を早め、わたしを意味もなく焦らせる。
「願いを叶えてあげるって、言われたんだ」
 背中に、冷静な声が投げかけられた。
 その言葉はわけもなくわたしの心を別な方面から波立たせ、背中に冷水を流し込むかのように冷たく広がっていった。
「ぼくは、もう誰とも会いたくなかった。ぼくが喋れば、必ず誰かを傷つける。少なくとも、ぼくが傷つく。もう嫌だったんだ。誰とも話したくなかった。でも、ぼくが学校へ行かないって言ったらママは困るだろう? パパもきっといい顔をしない。だから仕方なく学校に行ってたけど、やっぱりだんだんいけなくなった。部屋から出られなくなった。そんなときに、ぼくそっくりの人がぼくの目の前に現れて言ったんだ。望みは何か、って」
 どくり、と心臓が跳ねた。
『汝、望みは何か?』
 低い女性の声が重なったようだった。
「ぼくはお願いしたよ。ぼくのかわりに安藤朝来になってくれって。そして僕がやらなきゃならない現世でのこと全部変わりにやってくれって」
『龍兄のお嫁さんになりたい……この身体を捨てて、血のしがらみに縛られず、龍兄に……愛されたい』
 赤裸々な願いを口にする聖の声が、続いて重なった。
「そしたら、彼女は二つ返事でお安い御用だと言ったんだ。それからぼくは自分の部屋に引きこもっていたんだけれど、半月くらい前、理由も聞かされずにここに閉じ込められた。トイレとお風呂は隣の部屋にくっついてるし、ご飯は侍女が持ってきてくれる。この城に残るたった一人の侍女が」
 まるで彼女が呼んだかのように、扉の向こうからノックが聞こえた。
「お声がしましたので、朝ごはんをお持ちしました」
「開けていいよ」
 こともなく安藤さんはそう言った。顔には悪びれる風もない。
「だ、だめです! このドアノブ、触ったら火傷します!」
 わたしが叫んだときには、もうドアは開いてしまっていた。
「もう開いてしまいましたが……、どちらさまでしょうか?」
 日本人にしてはちょっと癖のある顔立ちをした色白の少女が、コスプレと見まごうばかりの黒白のメイド服を着て湯気のくゆりたつ皿をいくつも乗せた台車の取っ手を掴み、ドアの向こうで歓迎するとも追い出すともつかない曖昧な笑みを浮かべて立っていた。
「アイカさん、その人、ドアを開けようとして火傷しちゃったんだ。ちょっと見てあげてくれる?」
「あら大変! ちょっと見せ……うわっ、これはまぁまぁ、どうしましょう」
 アイカさんと呼ばれたその少女は、わたしと同じくらいの年齢のようだったが、慌てている割には口ぶりも、動作も落ち着いたものだった。まるで法王のように見掛けは若くても、数え切れないくらい長生きしちゃっているかのようだ。
「ん? アイカ、さん……?」
 どこかで聞いたことのある名前のような気がするんだけど……。
 アイカさんはアイカさんで火傷したわたしの手を両手で包み込んだまま、わたしの顔を凝視している。
「失礼ですが、お名前は?」
「守景樒です」
「どうやってこの部屋へ?」
「……〈渡り〉と唱えたら、ここに来てました」
 正直にわたしはここへ来た方法を告げた。すると、アイカさんは納得したように大きく頷いた。
「それならば、時の精霊の加護を受ける方、私の後について復唱してください」
「え?」
「万物に流れる時よ 時空を回帰する者たちよ」
 反問する暇を与えず、アイカさんはわたしの左手を右手に添えさせて呪文らしきものを口にした。言われたとおり、半信半疑だったけどわたしもその言葉を復唱する。
『万物に流れる時よ 時空を回帰する者たちよ』
「この者 過去に傷を負いし者なり
 この者 現在 痛みに安堵奪われし者なり」
『この者 過去に傷を負いし者なり
 この者 現在 痛みに安堵奪われし者なり』
 ふっと胸の奥で何か高まるものを感じた。
「汝ら憐れと思わば 時を遡りて」
『汝ら憐れと思わば 時を遡りて
 傷無き過去を今に引き寄せん』
 アイカさんの先導を待たずして、わたしの口はつるりと最後の知らぬはずの言葉を紡ぎだした。
 その途端、左手からは白い光が溢れ、わたしの右手を覆い隠したかと思うと、見えぬ間に右手から焼けつくような痛みが拡散して消えていった。
「やはり、覚えていらっしゃるのですね」
 白い光が消え、傷一つ痛み一つなくなったわたしの右手を覗き込んで、感慨深げながらも複雑そうな微笑を浮かべてアイカさんは呟いた。
「覚えているって?」
 この人はわたしの何かを知っている。わたしの知らない聖のことを知っている。不安は逸る気持ちとなってアイカさんに投げかけられていた。
 同時に。
 ぐぅぅ、と情けない音がお腹から響き渡る。
「う、あ」
 アイカさんはくすり、と笑う。
「エルメノ様、時は動き出したようにございますよ」
「その名前で呼ばないでって言ってるでしょ」
「失礼しました。朝来様。このお客様を朝餉でおもてなししてもよろしいでしょうか?」
 アイカさんが尋ねると、安藤さんはちょっと天井を見上げて考えた後、ゆっくりと頷いた。
「ちょっと寝たいから、食堂でやってよね」
「かしこまりました」
 アイカさんはわたしの手をぱっと離すと、朝食を乗せた台車をテーブルの横に止めて慣れた手つきでパンとスープとサラダ、ハムエッグの載った皿をテーブルに並べ、また台車を押して廊下に出た。
「それでは守景様、参りましょうか。ああ、申し遅れました。私、この旧魔麗城をお預かりしておりますアイカ・ロムスタンと申します。何卒お見知りおきを」
「アイカ・ロムスタン……」
 にっこりと微笑んだ少女の顔に、時を越えて、夢で見た悲愴な思いにつかれた少女の顔が重なった。











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