聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 3 章  ニセモノの世界

 ◇

「お帰り、光」
 ふらふらと飛び出したそこで倒れかけた僕の身体を支えたのは、僕よりも背も高く、よっぽど麗に似た顔をしたクリスだった。
「何でいるんだよ」
「クラスの人たち全員、安藤さんからチケットもらってサーカス見に行ってたんだよ。僕もね。入り口のところで手ぇ振ったのに、光ったら気づいてくれないんだもん。それに――〈影〉だからね。君のいるところにはどこへでも行ける。君が望むと望まないとに関わらず」
 クリスがカルーラ。
 そんな事実はとっくに知っていた。クリスが去年転校してくる前から、麗の記憶を持っていることに気づいたときから、時が来れば〈影〉が側に戻ってくることは知っていた。〈予言書〉に書いてあるとおりに世界は動いているから。
「じゃあ、僕が今までどこにいたかも、誰といたかも分かっているんだ?」
「エルメノと一緒にいたんだよね」
 さしてこだわりのない声でクリスは当ててのけた。
 僕はクリスの心中を見透かそうと目を眇めて奴の顔を見つめる。
 クリスは穏やかな表情を崩さないまま僕を見つめ返した。
「僕はお前なんかいらないって言ったんだぞ」
「いつも言ってたでしょ、そんなこと。それでも麗ちゃんはカルーラを必要としてくれた。そうでしょ?」
「それはカルーラが〈熱〉の精霊王だったからだ。仕方なく麗はカルーラを〈影〉にしたから」
 麗がカルーラを必要としていた?
 そんなことは麗だってわかってたけれど、一番認めたくない事実だった。僕が助けたかったのは本物の〈熱〉の精霊王じゃない。エルメノだったんだ。それなのに愛優妃は大人の事情でエルメノを闇に切り捨て、僕に切りかかってきていたカルーラを神界に引き上げた。僕が本当にほしかったのは彼じゃない。エルメノだったんだ。僕のそんな心のわだかまりを分かっていたから、カルーラは麗が何をしてもされるがままだった。抵抗しない人間に振り上げる拳ほど虚しいものはない。僕らは何も通じ合っていなかった。僕は、カルーラに殴りかかってきてほしかったんだ。どうして自分をないがしろにするのかと、叫んでほしかった。どうしてこんなひどい目に合わせるのかと、僕を詰り倒してほしかった。僕の目を覚まさせてほしかった。
 いや、麗はとっくに目が覚めていた。
 カルーラも、気づいていて気づかない振りをして僕の拳を受けていた。それが、カルーラの僕に対する復讐だったんだ。通じ合えないまま義務だけで繋がっている時間を課すことで、僕を苦しめていたんだ。
 麗は、それには気づかなかった。カルーラが自ら魔麗城を飛び出すまで。
 くらくらと目が回っていた。早く肩の傷口を塞がないと、人間の身体はもろいから失血死してしまう。
「ああ、必要だ。僕にはお前の力が必要だ」
 細胞を再生させる力は僕たちにはない。出来るのは傷口を一部凍結して出血を抑えること。
 クリスはもはや目もろくに開かなくなってきた僕を見て、表情を改めたようだった。
「光、同級生ごっこは終わりだ。楽しかったよ。束の間だけど、君と同じステージに立てた」
 白い手を挙げ、肩の傷口にかざす。その手から、冷気が吹き出す。
「同級生ごっこは終わり? 何勘違いしてるんだ。僕はお前とゲイの関係になるつもりなんかないよ」
「それは中期だけでしょ。後期の主従関係に戻るだけだ」
「それも違う。お前は友人だった。家族だった。カルーラが城を出た後、僕はお前を命令で縛った覚えはない。お前ものびのびやってたじゃないか」
 冷たい風がはたと止まる。
「手を止めないでくれる? マジ、死ぬ」
「友人だった? 家族だった? 僕がのびのびやってた?」
「あれほど主人をないがしろにする従者がどこにいる。気ままに城を出ていくわ、気ままに戻ってくるわ、変な女連れてきて城に置くって言い出すわ……まさかクリス、覚えてないの?」
「覚えてるさ! 覚えてるけど、カルーラだったときの僕は、ずっと君の手足なんだと……物理的な距離はとっていたけど、それはこれ以上麗をだめにしたくなかったからで、離れていても麗のためになることばかり考えていて……僕の一生は君からエルメノを奪ってしまった贖罪のために費やそうと誓っていて……」
「だから手を止めないでってば。てかさ、僕としては去年クリスが転校してからも同級生ごっこなんてしてきた覚えないんだけど。前世が誰だったかなんて極力無視していこうって決めてたんだ。そりゃ勿論、あれは誰で、こいつが誰って、カテゴライズはどこかでしちゃってたけど。このところ特に不安定だったからすごく拘っちゃった時もあったけど。というか、これからはむしろその辺考えずにはいられないんだろうけど。だけど、僕はクリスのことをカルーラだと思って接したことはないよ。大体、カルーラだと思ってたら本人にあんな夜の夢を見てショックだったなんて話、口が滑っても出来ないよ。ごっこじゃなくてさ、僕ら友達でしょ? 幸い気もあうし、言いたいこと言っちゃえるし、僕、そもそもここまで心開いてる友人っていないからさ、いなくなられると困るんだけど」
 クリスは凍結魔法は続けているものの、しばらくの間口を噤んだままだった。
「それとも何? クリスはカルーラに戻りたいの? せっかく身体も変わって、新しい家族の中で成長して、クリス・マクスウェルって人間やってるのに? 今を捨てることなんか何もないじゃん。立ち位置が従じゃなく同級生の友人になったって力は貸せる。僕を助けなきゃならないって立場から、助けたいって立場にちょっと心持ちが変わるだけだ。それとも、クリスは義務でしか僕の側にいたくないの?」
 目は回っているけれど、僕は何とか目を開けてクリスを見つめた。
 きっとクリスが日本に来たのは親の仕事の事情なんかじゃない。〈影〉として僕の側にいるべき時期を悟ったから、大人の事情さえも操って日本に来たんだ。今まで僕の隣で机を並べて勉強をしているふりをしていたのだって、きっと〈影〉としての義務感からだったんだろう。法王である僕を守らなきゃならないっていう、〈影〉としての義務。
 でも、僕は麗じゃない。魔法石は持っているけど、法王という名前はついていない。木沢光として生きていきたいんだ。それに、それにだ。今までのクリスと僕との関係が全て義務から成り立っていたとはどうしても思えないんだ。僕は僕で彼の義務感に胡坐をかいた覚えもない。
「相っ変わらず、お前は我が儘だね。友だのなんだの言いながら、結局は僕の心を自分の思うがままの状態にしたいんだ。それも自分のために」
「そうだよ。我が儘言えるってのは友人の最大のメリットだと思わない?」
「詭弁だ」
「命令とは違うんだよ」
「分かってる」
「クリスも自由に生きればいい。せっかく永遠の時間から解放されたんだから。もし、自由に生きるのに不便なら、変えてしまえばいい。僕らが生きやすい世界に。僕らが記憶と力を持ったまま転生した意味は、そこだろ?」
 僕はカルーラの前に紫に透けて輝く魔法石を差し出した。
「魂縛っといて友人も何もないだろうけど、契約しない? 僕と。この木沢光と。ちょうど大量に血も出ていることだし」
 笑った僕の手から、クリスは呆れた顔で魔法石を受け取った。
「一生友人の契約なら」
 さらに魔法石を見つめて、クリスはどこか憮然と付け加える。
「友人になるのに契約も何もないけど」
 ぷっと笑った途端に肩が動いて、ぎりりと痛みが走った。でも、何だろう、この高揚感。なんだかすごく楽しいんだけど。口説くのが癖になっちゃったとか?
「出会いのはじめによく言うじゃん。僕と友達になってくれませんかー? って」
「小学生レベルだね、それ」
「かまわないでしょ。つい一週間前までランドセル背負ってたんだから。僕ら、まだまだ人生初級者よ?」
 人生初級者、そう思ったらなんだか笑えてきた。
 法王でいたために若い時間が長かった分、僕は絶対的に人間としての人生経験に不足していると思う。知恵とか、投げ出すこととは違う諦念とか、言葉でしか知らないことがたくさんある。あれほど永く生きたのに、その記憶があるのに、僕からやっぱりまだ幼さが抜けないのは身体が思うままに動かなくなる老年期がなかったからだろう。そう考えれば、統仲王や愛優妃よりも、何度も老いては死に、また生まれ変わって人生を送っている人間達の方が精神上は大人なのかもしれない。たとえ記憶を全て白く塗り替えられてその上に新たな記憶を刻んでいたとしても、前の時間がなくなったわけじゃないのだから。
「光、怪我して性格変わった? 大体、この傷誰にやられたの?」
「エルメノにプロポーズしたら噛まれちゃった」
「噛まれ……? えっ? 一体どういう状況で? え? プロポーズ?」
 顔をあからさまに火照らせながら、クリスは視線をあちこちに飛ばしながら聞いてくる。
「やっぱりクリスもまだ十三歳だったんだねぇ」
「し、しみじみ言うなよ! 変なこと、してないだろうな?」
 その問いは、クリスの口から出てくるには不自然で、たとえカルーラの口から出てきたものだとしても、おそらく不自然なものだったと思う。
 エルメノとカルーラは、対等な双子ではなく、エルメノが優勢な立場にあってカルーラを抑圧しつづけてきたのだと愛優妃は言っていたのだから。
 それとも、真実は別なところにあるのだろうか?
「キスならしたよ。濃っ厚な奴をね」
 胸を張って言ってやると、クリスはショックを隠しきれないらしくそわそわと僕とは違う方向を見ている。
「大丈夫だって。クリスだってかっこいいんだからすぐに彼女出来るって」
「そういう意味じゃ、ないよ。もう、憐れまないでくれる?」
「何怒ってんの」
「怒ってない」
「僕のほうが先に女の子とキスしたことがショックなんじゃないの?」
「違うっ」
「じゃあ、キスの相手がエルメノだからショックなんだ?」
 クリスは何も言わなかった。
 僕から視線をそらせたまま唇を少し尖らせて何か言いたかったことを飲み込み、無言で僕の傷口を見る。
「教えてよ。エルメノとカルーラ、本当は二人とも精霊王だった。吸熱と加熱、二人いるのはいいとして、どうして身体が一つだけだったの?」
 クリスは精霊界を思うように頭上を見上げた。
 暗いあまり、ここが中なのか外なのかは頭上を見る限り判別としない。クリスが出迎えてくれた安堵感で忘れていたけど、僕にはここがどこか分からない。風がこれ見よがしに吹いてこないということは、野外ではないのだろう。足に感じる感触も大地のような柔らかさではなく、冷たい硬質な床のようだった。
「僕たちは元から一人だったから体も一人分だった。魂も一つといえば一つ、だった。二つの魂がほんの少しだけくっついている形ではあったけど、やっぱり僕たちは一つだったんだよ。意思は二人分だったけど」
「それって、二重人格みたいな格好になってたってこと?」
「そうだね。それが一番分かりやすい。エルメノとカルーラ、それぞれに加熱と吸熱を、そう定められて僕らは一つの身体に入れられて誕生した。でも快活なのはエルメノの方で、僕はいつも彼女の決断の後についていくだけだった。彼女はいつでも正しくて、勇気もあって、なのに僕は一人では何も決断できないし、何も考えられない弱虫だった。君が誕生するのを見て、神界に下りると決めたのもエルメノだった。僕たち二人の間に相談なんて言葉はなかったんだよ。もしかしたら幼い麗ちゃんがエルメノに望んだ関係が僕らの関係に当てはまっていたのかもしれないね。二人で一つっていうのは、片方の意思が薄弱であればこそ上手くいくものなんだよ。僕はずっと彼女の意識の片隅で外を覗いていた。エルメノと手を繋いで楽しげに遊んでいる麗ちゃんがいつも羨ましかったよ。だからだったのかな。闇獄界に堕ちて、エルメノが〈欺瞞〉の声に耳を貸して同意した時、僕は目の前が真っ暗になったような気がした。ついさっきまであんなに麗ちゃんのことを励ましていたのに、強くて明るく輝いていたエルメノはどこへ行っちゃったのって。そのあげく、手に入れた異質な力で僕を切り離して吐き出し、聚映を使って現れたドッペルゲンガーに僕を押し込めて、襲い掛かってくる魔物に食わせようとした。何が自分に起きたのか掴みきれなかった上に、闇獄界のあの瘴気は人を狂わせる。言い訳じゃないけど、カルーラは麗ちゃんを襲ったとき正気じゃなかったんだ。エルメノと相思相愛の麗ちゃんを羨ましいと思っていた気持ちは増幅されて嫉妬に変わっていたし、エルメノのことも信頼してただけに裏切られて憎悪さえ抱いていた。止められなかったんだ。僕の感情に中てられて暴走する精霊達を。だから麗ちゃんには本当にひどいことをしてしまったと思ってる」
 長い独白の間に、クリスは僕の肩の傷をすっかり固めてしまっていた。
「ねぇ、クリス。もしかして僕は誤解してたのかな。カルーラは寒いところが嫌いだったから、てっきりカルーラは加熱の精霊だと思っていたんだけど、もしかして、逆? 吸熱の魔法を好んで使っていたのは加熱専門のカルーラに負担をかけてやりたくて使ってたりしたんだけど、魔法の威力がいまひとつだったのは、カルーラが吸熱の専門外だったからじゃなく、僕が契約を済ませていたのが加熱のエルメノだけだったから?」
 クリスは無言で自分の指先に魔法石の先端を走らせた。
 静かに流れ出た赤い血が魔法石をぬらしていく。
「契約がまだだったね、光。さあ、僕の友人として助けを欲するなら、魔法石に君の血を」
 差し出された魔法石を手にとって、僕は魔法石とクリスとを見比べた。
「僕ら熱の精霊は専門があるっていうだけで、全く反対の作用を起こせないというわけじゃないんだ。でも、魔法という力に還元して使おうとすれば、その差は歴然となる。ごめん、カルーラは麗ちゃんが勘違いしているのに気づいていて言わなかったんだ。自分のことをちゃんと見てほしいって思ってたから」
「気づかなかったのは麗の落ち度だよ。もっとよくカルーラのことを見ていればよかった。今からでもやり直せるかな、僕たち」
 問いかけられたクリスはふっと安らぐように微笑んだ。
「やり直すんじゃなくて、新たな関係を構築していくんだろう?」
「そうだった」
 笑って僕は左手の小指に、クリスがやったようにすっと魔法石の先端を走らせた。
 滲み出てくる血液を吸って、魔法石はこの世のどんなものよりも美しい高貴な輝きを放った。それはクリスの生命の輝きだった。友人の魂の輝き。一瞬クリスは苦しそうに顔をゆがめて胸を押さえたけれど、すぐにすっきりとした顔で僕に向き直った。
「これで契約完了だね」
「うん、改めてよろしく、クリス」
「こちらこそ、光」
 これからは過去の残影に悩まされずに話すことが出来る。はにかみながらもほっと安堵して笑いあったときだった。
「さて、ようやく終わったみたいですね。お涙頂戴モノのドキュメントでさえ、結論までこう長くはかかりませんよ、全く」
 いささか苛立ちを含んできた声と共に、黒い鴉羽が数枚舞い落ちてきた。
「禦、霊?」
 魔法石の輝きに照らし出された吹き抜けのホール。その吹き抜けた宙空に禦霊は足を組んで座って僕らを見下ろしていた。背後でわざとらしく音を立ててゆっくりとはためかせられた堕天使の如き黒い翼からは、また何枚か漆黒の羽が落ちてくる。
「魔麗法王。貴方はようやく熱の精霊の力を完全にその手中に収めたわけだ。おめでとうございます。お祝い申し上げますよ。エルメノ様に代わって」
 相変わらず慇懃無礼な喋り方をする奴だ。
「わざわざ出向いてお祝いの言葉をくれるなんて、元主人冥利に尽きるね」
「それほどまでに私からの言葉を喜んでくださるとは思ってもおりませんでしたよ。お祝いの品、にしては役不足かもしれませんが、エルメノ様が三頭連れて行けと申しましたので、どうぞ存分に貴方の新しい力をお試しください」
 上を見上げていた僕とクリスは、至近距離から聞こえてきた獰猛な唸り声に視線を地上に戻した。
 薄紫の光と薄暗闇だけだった場所に、僕らを囲むようにして三対の青い目が光っていた。目の周りにはうっすらとたてがみも見える。
「ライオン?!」
 じりじりと輪を狭めてくるあたり、人に飼われて身につけた狡さのようなものを感じた。殺気は野生のままに餌を目の前にしてどんどん研ぎ澄まされていく。
「本物? 本物、だよね?」
「さっきサーカスに出てたやつじゃない? ほら、首の辺りとかリボンがついてる」
 まさか、と目の前に襲い掛かること前提のライオンたちがいることを否定したい僕の気持ちも知らないで、クリスは冷静に彼らの存在を肯定した。
 さっきのステージでは大人しくエルメノの言うことを聞いてたから、あれほど大人しそうに賢そうに見えただけなのだ。きっとこいつらはもう、僕とステージで競演したことも忘れているに違いない。口元から溢れ出した唾液が透明な糸を引いて床に落ちていっているくらい飢えているようだから。
 上空の禦霊は一向に動く気配はなかった。ライオンをけしかけるでもなければ、僕らを助けようともしない。ただ上から成り行きを見守るだけのつもりらしい。
 僕はクリスと目を見合わせた。
「禦霊、あとで三頭もライオンを傷つけたってエルメノに叱られても知らないよ」
「その年で口ばっかり達者だと軽い人間に見られますよ」
 あっはっはと禦霊がわざとらしく嘲笑する。ほんっと、いちいち癇に障る奴だ。
「誰に? 禦霊、お前に?」
「世の中の人間全てにですよ。貴方はまだ十二歳のお子様。お子様はお子様らしく何も分からないふりをしていればいいのです」
 はは、と僕は笑った。
「僕は今でも十二歳のガキだよ。周りの十二歳も、あれで結構いろいろ分かってて子供の振りしているんだ。僕らが弱くいなければならないのは、一人でお金を稼ぐことが出来ないから。社会に出ることが許されていないから。だからみんな、部活とか進学とか、今目の前にあることに熱中して自由になりたいっていう願望を忘れようとしているんだ」
 なんて不自由なんだろうって、あのマンションのコピーされた一室に戻る度に感じていた心の重荷。僕は麗の記憶なんてものを背負っているから血の繋がった家族がいる家という空間が嫌いなんだと思っていた。
 でも、本当に僕だけなんだろうか? 本当に僕だけが特別な十二歳なんだろうか?
「〈紫精〉」
 クリスと背中合わせになった僕は、手の中の魔法石を一本の槍に変えた。〈熱〉の精霊王の力を完璧に閉じ込めた〈紫精〉の輝きはいつにもまして怜悧で美しい。
「ねぇ、クリス。クリスは家が重いと思ったことない? 家族が疎ましくなったことはない?」
「あるよ。アメリカからこっちに来る時にすごく実感した。どうして僕一人で君のところに飛んで行けないんだろうって。たとえフライト代と日本での生活費が自由になったとしても、日本では中学生一人じゃ編入手続きも、ガス代や水道代の支払いも満足に出来ない。大人がついてなきゃ社会じゃ子供は信用されないんだ。何も分かってないって思われてるから。でも、本当に社会の大人たちは僕ら以上に社会を知っているんだろうかね」
「足りないのは知識? 経験? ただ年の数だと言われれば納得はできないよね。国によって成人の年齢も違うし。大人って言われる年齢になったって、僕らより何も出来ない大人はたくさんいる。責任なら僕ら子供だって十分とらされているのにさ。それでも大人たちは子供を保護対象だって言うんだ。でも、子供はほんとは賢くてずるいから、甘えられるうちに甘えようとする。不自由を甘受することと引き換えに」
「多数決の世の中で、甘えることを選んだ子どもが多ければ、不自由を甘受することができない子供達は子供らしくないと罵られ、社会からはみ出すしかないこともある。よね?」
 まだあったことのない少女の顔が脳裏を過ぎった。きっとクリスも同じだったに違いない。
 安藤朝来。
 エルメノに安藤朝来という人間の生きる場所を明け渡してしまった少女。
 エルメノの話を反芻してみる。
『ぼく、いつもやっちゃうんだよね。話しかけられると嬉しくて、ついつい余計なことまで喋ってひかれちゃうの。前いた小学校でも虚言癖があるって言われちゃったことがあってさ』
 あれは、本物の安藤朝来の話じゃないだろうか。いつも彼女は自分の中の真実を語っているのに嘘つきだと周りから責められて、いられなくなってしまったんだろう。この世界に。消えてしまいたくても死ぬ勇気もない。学校という社会に出たくなくても、親と兄の面子を気にしたのか、教室の机を空席にもしておけない。どこにも逃げる場所がなくなった彼女に、僕に近づく機会を狙っていたエルメノは囁く。
『僕が君になってあげるよ。だってほら、ぼくらこんなに似ている。双子の姉妹だってきっとこんなには似てないだろうね。大丈夫、君の代わりは僕がしっかりやってあげるよ。だから君は安心してゆっくり休めばいい。君の一番好きな場所で』
 僕に記憶を読む力などなかったはずなのに、じわりと温む唇からはエルメノが安藤朝来に語った言葉が聞こえてくるようだった。
「子供って、切ないね」
 それを一番実感し続けてきたのは、もしかしたらエルメノだったんじゃないだろうか。人界じゃなくても神界でも、子供と大人という概念はある。僕がとうに大人の身体で、自分で生活できるくらいの信用があったなら、エルメノは僕とはもっと別な出会い方を選んだんじゃないだろうか。闇獄界でだって僕にもっと力があったら、エルメノの腕がもっと長かったら、僕らの手は繋がったままだったかもしれない。
「禦霊。どうしてエルメノは子供のままの姿で僕の前にまた現れたの? あの姿は、幻影でもなんでもないよね? エルメノ本人の姿だよね? どうして、もう何万年も、何十億年も、重ね切れないほど時間が経っているのにあの時のままの姿なの?」
「それは、ゴールで直接お尋ねください」
 すげない禦霊の返事。
 それを合図に、三頭のライオンたちは一斉に咆哮をあげ、僕らに襲い掛かってきた。
『万物を震わせる精霊達よ
 氷刃となりて 舞い踊れ
 降り積もりし雪原に赤き情熱の花を咲かせよ』
 とん、と僕は紫精の石突を床に突き立てる。
「踊れ、〈氷結雪花〉」
 僕らを中心に、白銀の嵐が渦を巻いて外へと飛び出していった。氷の精となった彼女達は、激しく思いの丈をライオンたちに、そして上空の禦霊にぶつける。
 その情熱、クリスとの契約前の比ではなかった。あるべき理の元に集められた精霊達は、迷うことなく僕の言葉のままに舞い踊る。
 その分、ステージを用意した小さな身体にかかる負担も従来の比ではなかった。思いがけず、僕は胸を掴み押さえて膝をつく。
 嵐がやむ。
 硬質な音を立てて、赤い傷を花のように晒し凍りついた三頭のライオンたちが床に落下し砕け散った。
 上からは黒い羽が舞い落ちる。
「待て、禦霊」
 息を整える努力はしながら、僕は見上げることも叶わず叫んだ。
「お前も全て闇に身をやつしたのか?」
「それは、私が闇獄主となったのかどうか、と尋ねてらっしゃる?」
「そうだ」
 それでもぎり、と歯を食いしばって僕は視線だけでも上を睨みあげた。
 奴の呆れたような笑みと共に、もう一枚、黒い羽が落ちてくる。
 さっきので傷ついた気配はない。防御のために力を裂いて多少疲労感は見えるものの、次代の王が同胞にやられるわけがない、か。
「私がお仕えしているのはエルメノ様。愛優妃様でもなければ闇獄界でもございません」
 どこで、いつの間にエルメノと接触したのか?
 そう問う間もなく、禦霊は吹き抜けの闇に姿を消した。
「光、大丈夫?」
 耳元で大きく鳴り響いていた鼓動は徐々に遠ざかっていく。元の肋骨の中に引きこもっていくように。
「そういうクリスは? 力を搾り取られたのはそっちだろ?」
「僕は平気だよ。これくらいならまだまだね。僕のほうが光より身体も大きいし」
「ちぇ、なんか悔しいな」
 クリスがぴんぴんしてる程度の魔法でこんなに体力消耗してたら、この先が思いやられるじゃないか。
「それに、僕はエルメノとは違う。〈熱〉の精霊を使役するのは、異質な二つの力を使いこなすようなものなんだ。でも光ならすぐに慣れるよ。君は麗以上に器用だから」
 麗以上に器用。その言葉に果てしなく自分の不幸を感じていたときだった。
「桔梗、いたいた! ぼうず達がいたぞ!」
 しんみり感のかけらもない葵お姉ちゃんらしき声がエコーつきで聞こえてきた。
「あら、ほんとだわ。葵ちゃん、目がいいわねぇ」
 相変わらず癒される声で桔梗がそれに答えている。
 やがて間もなく、葵お姉ちゃんの手に掲げられた赤い炎が吹き抜けのホール全体を照らし出して、僕とクリスはなぜか、ほっと安堵の溜息を漏らした。











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