聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 3 章 ニセモノの世界◇ 4 ◇
何故真実を偽るのかと問われれば、それは自分を守りたいから。
人から嫌われたくないから、自分が苦しみたくないから、真実を――自分を偽って嘘をつく。
嘘はやがて真実になることもあるけれど、生まれた心の軋轢は偽った罪の刻印となって一生消えない。
一生、罪人の証を心に刻まれて生きる。
いっそ、ニセモノだったらよかったのに。
そう思うことがある。
麗のニセモノ。光のニセモノ。
胸の奥に息づく麗の記憶も造られたもので、僕のこの気持ちも記憶も本物の光のコピー。ニセモノだったら、僕は自分から自由になれる。自分が誰かなど悩まない。自分は木沢光のニセモノ。本物が全うすべき寿命も、義務も運命も、僕には降りかからない。僕は、全てから自由になれる。自分からすらも。
己がないことに不安を抱くこともないだろう。僕はいる。確かにここで思考して行動する僕がいる。それだけで僕には十分だ。いつだってこの身体を離れる覚悟もある。
だけど僕は知っているんだ。
この魂は唯一僕だけのもの。魂にはニセモノも本物もない。みんな本物。だから、ニセモノの体に入っていても僕は本物なんだ。
悲しいことに、僕は僕から離れられない。
「麗、麗、しっかりしなさい。目を開いたまま寝るとは何事ですか」
「え……?」
目を開いたまま、寝る?
僕は辺りを見回した。
いつもよりも倍近く高い視線。回廊に置かれた花瓶の花が眼下でぽっかり花弁を開いている。壁にかけられた絵は見上げずとも背伸びせずとも、斜め上から見下ろせる。足元がやけに遠く見える。それも、ずいぶんと大きな黒い長靴を履いている。
そして、見回したあげく視界に入ってきた顔に、僕はあんぐりと口を開けた。
同じくらいの目線の位置に、奴がいた。
「禦霊」
その名を問うまでもない。あのつんと澄ました鼻、薄い唇、厳しさと冷たさを併せ持つ切れ長の目元、立てた黒髪は鴉羽のように艶やかながら漆黒の闇に対する恐怖を呼び起こす。
「そう嫌な顔をしないでください。私だって貴方にわざわざ会いにきたくなどなかったのですから」
本物、か?
そう確かめようとした自分に、僕はちょっと笑ってしまった。
自分はニセモノでいいと言っておきながら、他人は本物でなくては何も始められない。
「嬉しそうな顔をするな」
今度は心底嫌そうに禦霊は顔をしかめた。
「嬉しそう? お前に会えて? この僕が? 冗っ談」
はっ、と笑った声までが光よりも低い、すっかり声変わりした麗のものだった。
僕はもう一度歩みを止めて周りを見回した。
等間隔にずらりと置くまで並ぶ白い大理石の柱、白地に金で緻密なラインを描いた壁紙、天井には金が豪奢なシャンデリア。窓の外にはうららかな日和と若緑色の草原、勢いよく天を衝く噴水。
「天宮?」
「何を今更。統仲王様に呼び出されたんじゃないですか。忘却の薬でも飲みすぎましたか?」
「やかましい。そんなもの、作っても効果なかったよ」
「それは貴方の腕がお悪いのでしょう」
「うるさい」
ったく、なんなんだ。僕は麗じゃないのに、禦霊には麗の時並にイライラさせられる。
違う人格なんだと言い聞かせる。僕は麗じゃない。麗は木沢光なんて名前も人格も知らなかったんだから。麗の人格を知っていて尚且つ木沢光を知っている僕は、木沢光であるべきなんだ。
「何を深刻に悩んでいるんです? 所詮法王は統仲王の駒。そうおっしゃったのは貴方ではありませんか。どんな命が来ても、どうせ従わなければならないのが運命なのだと。貴方は、そう悟った時から考えることはやめたのではなかったのですか?」
奇妙なものでも見るかのように禦霊は僕を見ていた。
「何で悩んでるなんて思ったんだよ」
「何か悩んで考えてる時、麗はそうやって唇に指をあてる癖があるでしょう」
僕は、ぱっと右手を離した。
間違いない。唇にまだ自分の指の感触が残っている。
「何でそんなこと知ってるんだよ」
「麗が悩んでいるときはたいていろくなことが起きないからです。思考を放棄した人が思考をしているのですから、それはもう、大変な危険サインです。人は危険には敏感になるものなのですよ」
「……ヤな奴」
ぼそ、と僕は禦霊の目を見て呟いて、窓の方へと歩んでいった。
光を受けて、窓の外には明るい世界が広がっている。窓からも格子をわけてぬくもりある日差しが差し込んでくる。
僕は空を見上げた。
青い。青いとはいっても、それは穏やかなやんわりとした青さ。日本の春の空と同じ色。
「麗、日に焼けますよ」
禦霊は窓から差し込む日差しを避けて日陰に佇んでいる。
ふと気がつくと麗の真白い手の甲は、日差しを受けてもう赤く染まりはじめていた。おまけになんだかむず痒い。なにより、空の色は同じでも木沢光の目から見るよりも日差しはより眩しく刺激的だった。
僕は日差しを惜しみながらも日陰に入る。
「どうしたんですか。いつもなら日の光なんて絶対に避けて通るくせに、今日は窓辺に歩み寄るだなんて」
ここは、いつだろう。僕はエルメノの鏡を潜ってきただけだ。エルメノの鏡は確かに時空を繋いでいるようだけど、時間まで繋げるわけがない。それは時の精霊を従えていなければ決して出来ることではない。僕が麗の体にいるのは鏡で作った錯覚とか思いこませだとして、さっき禦霊は統仲王に呼び出されて天宮に来たのだと言っていた。大人になってから禦霊と二人で統仲王に会ったのは、禦霊を魔麗の国の宰相に据えた時と第三次神闇戦争の直前。永いこと生きてきて二人で天宮に来たのはその二回くらいじゃないだろうか。それ以外は禦霊は政務のためにクワトにこもりっぱなしだったろうし、僕は僕で氷原に立つ魔麗城にこもっていた。二人で一緒の場所にいること自体がほとんどなかったのだ。
それ以上に会う機会がなくなっていったのがカルーラだった。
おかしな話だ。魂をかけて運命を誓い合った仲だというのに、僕達は〈影〉も精霊獣もばらばらだ。僕達だけじゃない。他の法王たちも大なり小なり、この兄弟よりも濃い関係に頭を悩ませていたらしい。海姉上のところでは〈影〉であった綺瑪が死に、後継はいないまま。龍兄上のところも〈影〉のサザが風来坊のように彷徨ったあげく、あの人の一番大切な聖を傷つけて闇獄界送りになった。その聖も、この時期にはすでに、というか、はじめからだったのだろう。精霊獣の飛嵐とはあまり上手くいっていなかった。炎姉上と鉱のところは家族のように仲が良かったように聞いていたけれど、育兄上と風のところは真偽はわからない。まぁ、〈影〉と精霊獣との関係なんて、恋人の有無を聞くよりも憚られるような話題だ。神界の民達だって色恋の噂はしても、法王と〈影〉と精霊獣の話に関しては硬く口を閉ざすようにしていた節がある。
僕らは、それくらい微妙な絆で成り立っていたんだ。
「禦霊、そういえばカルーラは?」
手繰り寄せた記憶は、宰相となった禦霊の挨拶回りのときも神闇戦争の直前の時もカルーラが同行している。もし、ここが過去ならばどこかにカルーラがいるはずだ。
それなのに、禦霊はさも不思議そうな顔で僕を見返した。
「カルーラ?」
そんな者は知らないとでも言うように。
僕はそっと眉をひそめた。
「僕の〈影〉だよ」と言おうか言うまいか迷ったところで、いきなり両肩に重い衝撃が走った。
「れーいーちゃんっ」
予期していなかった僕は、ぐぐっと重さに負けて背中をそらせた。
「お、重い……」
「重い!? レディに対して重いはないんじゃない? 重いはっ」
もうっ、とばかりに甘いその声の持ち主はぐぐっとさらに体重をかける。
「ギブ! ギブ、ギブ、ギブっ」
僕は叫んで腕を解いた。
細くしなやかな女性の手。
振り返る。
「エルメ、ノ……?」
呼ぶ声が掠れた。
鼓動が耳元で大きくなっていく。
僕の視線ちょっと下くらいから、彼女はエメラルド色の零れ落ちそうなほど大きな目に講義の色を浮かべながら僕を見上げていた。
そう、瞳の色も夕焼け色の肩口までのふわふわとした髪も変わらない。だけど彼女は小さな子供のままではなかった。ファスナを途中まで上げた胸元からは浅めながらも白い谷間が覗いていた。手足も長く、ベルトをかけた腰も思わず抱き寄せたくなるくらいくびれている。
「もうっ、ギブって何? 新しい言語作っちゃったの?」
声も幼くはない。甘い響きがやけに耳をくすぐる。
もし、エルメノが大人になっていたら。エルメノを闇獄界に残してくることなく、ずっと一緒に成長していたら。彼女が僕の〈影〉だったら。
想像したことが、ないわけがない。
双子のカルーラがどんどん大きくなっていくのを見て、想像しなかったわけがない。この腕にあいつを抱きながら、どれほど彼女を乞うたか分からない。
思わず、目頭が熱くなってしまったのは何故だろう。
僕は、木沢光なのに。
「エルメノ」
名を呼んで、僕は彼女を抱きしめていた。
「どうしたの、麗ちゃん」
呆れたように彼女は僕の背中を抱きしめ返す。
ふんわりと透明な氷の香りが項から漂ってくる。
「ちょっと化粧直しに離れていただけでしょ。そんな一千年も置いてきぼりにされたような顔しないでよ」
笑いながら、でも、覗きこんだ彼女の目は優しさと憂いに満ちていて。
『ゲームをしよう』といった時のエルメノの表情と同じだった。
「会いたかったよ、エルメノ」
僕は、彼女をそっと腕の中から外へと押しやった。だけど両肘の辺りを掴んだまま、僕は彼女から手を離せない。
「会いたくて、会いたくて、どんなに望んだか分からない」
エルメノは、何を言ってるの? とばかりに首を傾げているけど、彼女自身、分かっているんだ。
「君も望んでくれてたんだね。嬉しいよ。君の本心に触れられて」
手は、やっぱり離せない。顔だけを俯けてしまったのは、僕がかからなかったと確信した彼女の表情を見たくなかったから。
どんな表情に豹変してしまうのか、見たくなどなかった。
「何言ってるの。大袈裟だなぁ」
それなのに、エルメノは笑って僕の手を解くと、両手で僕の頬を挟んで顔を上げさせた。
優しい表情。愛情のこもった、この上なく僕を愛してくれている目をしている。危惧した影はどこにもない。
心が緩みそうになる。
僕は麗で、木沢光は〈予言書〉を見てしまった僕が勝手に描いていた未来の夢で、本当は僕とエルメノはずっと一緒で、カルーラなんかも生まれてはこなくて――これが、幸せすぎるほど幸せな僕の現実なんだ。
熟れた林檎のような色をしたエルメノの唇に、僕は僕の唇で触れていた。彼女は当たり前のように目を閉じる。
何故、僕は辛い夢ばかり見ようとしていたのだろう。こんなに近くに幸せがあるのに、どうして僕は不幸にばかり関心が向いてしまっていたのだろう。
そんな僕の隣に、エルメノはずっといてくれた。
いつも笑顔で僕の側にいてくれた。
心の中に蘇る彼女の笑顔。魂を分け合った双子のように、盟友のように、時に母のように、僕の全てを満たしてくれていた。
どうしていままで気づかなかったんだろう。
これほどまでに穏やかでしっかりと心に根づく愛があることに。
胸の奥が静かに燻られていく。高鳴る心音と同時に、大地に同化していくような安らぎを感じる。ここには永遠がある。彼女の中には、僕の永遠の時間が詰まっている。
気づいてよかった。
失くさなくてよかった。
こみ上げる思いは、どんなに彼女に触れても尽きることがない。
「麗、いつまでやってるつもりですか?」
気づくと、憮然とした禦霊が腕を組んで僕を睨んでいた。
エルメノは困ったように微笑んでいる。
「統仲王様がお待ちだ。続きは後にしてくれ」
怒ってる。禦霊が本気で怒っている。
そう言えば、禦霊もエルメノのことが好きだったんだっけ。気づかないふりはしつづけていたけれど、それなのに僕ったらつい禦霊の前でエルメノにキスなんかしてしまって、ああ、馬鹿、馬鹿、馬鹿。
背を向けて靴音も高く禦霊は謁見の間へと向かっていく。
エルメノはそれを困ったように見やり、肩をすくめてみせた。
「気にしないで。わたしが好きなのは麗ちゃんだけだよ。それは禦霊も知ってる。ね?」
「うん……」
頷いた僕にエルメノはキスをくれた。いい子にしていた子供に母親が飴をくれるように。
僕は、ついに鼻につんと来たものを堪えきれなくて、ぼろぼろと子供のように涙を流していた。
「どうしたの、麗ちゃん」
呆れ困ったようにエルメノは言う。
「どうしたんだろうね」
僕は言う。
知ってる記憶だ。こんな優しい彼女を僕はずっと思い描いていた。こんな日が来ることを、毎日毎晩、切に願っていた日があった。
「だけど、望んだ幸せは手に入らないものなんだ」
何でこんなことを言ってるんだろう。
言っちゃだめだよ。言ったら、全て壊れてしまう。
顔を上げた僕の視界の先、禦霊の黒い背は消えている。
「そんなことないよ。望まなきゃぼくらは未来へ進んでいけない。不幸を願う奴がいるか? 幸せは望むものだ。そして、今君は望んだ幸せを手に入れている!」
必死にエルメノは僕に訴えかけてきていた。
だけど僕は涙が出て止まらなかった。
天宮の壁が、天井が歪みはじめる。
僕は、彼女だけは消えてしまわないように抱きしめた。
「エルメノ、君なら知っているでしょう? 僕がどれだけ貪欲か。僕の望みはきりがないんだ。そして、悲しいことに絶対に実現しないことしか望めないんだ。望みは叶った瞬間に望みではなくなってしまう。僕の幸せは、望まれつづける限り叶わないものに摩り替わっていってしまうんだ。もうどれだけたくさんの幸せを望んだか分からないくらいなんだよ。僕にはもう、何が僕の幸せか分からなくなっているんだ」
僕の腕の中でエルメノは小さく幼い姿に戻ってしまっていた。僕もそれに合わせて縮んでいる。
「この幻の世界。君だけが本物だったことが唯一の救いだよ。夢を叶えてくれてありがとう、エルメノ。だけど、僕はやっぱりもう麗には戻れないみたいだ。あれは麗が死ぬまで深く抱えていた望みだった。海姉上に恋焦がれ、アイカに癒されても、麗が心から望んでいたのは君だった。君との途切れない時間。大人になった君をこの腕に抱きしめたいって、エッチなことばっかり考えてた。笑えるだろう。君は純粋に今でも麗のことを思ってくれているのかもしれないけれど、麗は……」
はちきれんばかりに見開かれたエメラルド色の瞳に、自嘲気味な僕の顔が映っている。
「幻滅した?」
何を君に望んでたんだろうね、僕は。小さい頃はエルメノと心を共有していることが嬉しかった。心を隔てるこの身体が疎ましくてならなかった。それなのに、身体さえも融かし合えることを知ってからは、想うことだけでは足りず、身も心も奪い取る対象になっていた。もはや恋などという綺麗なものだけではなくなってしまっていた。
所有欲。
気づいてしまったんだよ、僕は。
君になりたいと望んだ幼い麗。君に麗になってほしいと望んだ幼い麗。
どうすれば一つになれるかなんて分からなかったから、存在を託せば一人しか残らなくなると思ってそんなことを考えていたんだ。それもこれも、僕は君がほしかったから。自分の一部だと思うようにさえなっていたから。
「君は、僕の側にいなくて良かったのかもしれない。もし僕の側にいたら、君も僕も、きっと駄目になっていた。あんな綺麗な付き合い方は出来なかったよ。二人とも」
エルメノはくしゃっと顔を歪めた。辛そうに俯いて何かを堪えていた顔は、やがて憎悪に歪んで上げられた。
僕はそれを受け止める。
身体中に苦い痺れが走っていったけれど、彼女を突き放すわけにはいかなかった。
「君は知らないから……ぼくが闇獄界でどんな目に遭ったか知らないからそんなことが言えるんだ……」
腹の奥底から絞り出すような声でエルメノは唸った。
「ぼくは君のために生まれてきたのに、切り離すんだね、ぼくを」
僕はぐっと吸い込んだ息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「互いに肩を寄せ合うのは終わりにしよう。僕らはきっともう、一人で歩いてゆける。立ち止まることなく。迷うことなく」
「裏切り者。君は二度もぼくを裏切った。一度目は闇獄界でぼくの手を離した。二度目は今だ。君とぼくの望みは同じだと思っていたのに。幸せも罪も、全て二人で背負っていくものだと思っていたのに!!」
エルメノは僕を突き放した。
でも僕はたたらを踏むことなく逆に彼女の手を引き寄せ、抱きしめていた。
好きだった。やっぱり、好きなままだった。
海姉上に焦がれた気持ちは嘘じゃない。アイカに惹かれた気持ちも嘘じゃなかったと思ってる。そして、桔梗。貴方への光の初恋も嘘じゃない。全部、本物だった。でも、どれもこれもエルメノへの永い恋慕の上に築かれた想いだった。満たされない想いを、夢を、望みを、重ねて埋め隠すように。
「エルメノ、好きだ。どうしようもないくらい、君を傷つけても忘れられないくらいエルメノのことが好きなんだ。君の手を離してしまった罪の意識がそうさせるんじゃない。長い間、身体が変わっても君への想いは途切れなかった。ああ、そうさ。望んでいたよ、二人一緒の未来を。だからこれからは二人で歩こう? 罪は僕が背負う。幸せは二人で分ければいい。二人で一人になる必要なんかないんだ。二人とも本物のままでいいんだよ。だから、二人で自分の足で歩いていこう?」
鏡の向こうに送り出す間際、見せた君の切ない表情。君にはどれだけ重いものを背負わせてしまったことだろう。闇獄十二獄主〈欺瞞〉だなどと、魂に消えない刻印を残してしまって。二人で歩こうなんて言っておいて、僕はもう世界なんてどうでもよくなっていた。僕らに必要な世界は、魔法石を持つ法王と獄炎を身に宿す闇獄主とが殺しあわずに共に手を繋いで歩いていける世界。使命も運命も関係ない。
それが、僕の新たな望み。
叶うことないと分かっていても、望まずにはいられない僕の望み。
エルメノは泣きそうな顔で僕を見つめた。
壊れていきそうなくらい、どうしようもなく切ない表情。もう、エルメノ自身どうしたらいいのか分からないんだと言いたげなくらい、何かを抱え込んで、必死で飲み下している顔。
「麗、ちゃん……」
嬉しさが声を震わせているんだと、僕には分かった。
「麗ちゃん……麗ちゃん、麗ちゃん、麗ちゃん……!!!」
エルメノは僕の肩にしがみついて、そして。
「痛っっっ」
がぶりと彼女は僕の肩口に噛みついていた。
注射なんて生易しい痛みじゃない。目の前が真っ白になって、肩から全身へと感覚が失われていく。
あまりのショックに、僕の身体は強制的に意識をシャットアウトしようとしているのが分かった。
それでも、エルメノの真意を読み取るまでは閉じられないと開けていた目に、黒い瘴気が広がりだす。
それは僕の肩口、彼女の口から吹き出しているものだった。口だけじゃない。僕からよろよろと離れていく彼女の全身が、内から燃え上がる黒い瘴気に焙られていた。
「ごめん、麗ちゃん。ぼく、幸せになれないんだ。ぼくは、自分の幸せを素直に受け取ったら滅びてしまう。だから君を麗に閉じ込めて一緒にいようと思ったのに……」
黒い炎はより一層火力を強める。もはやエルメノの姿が影にしか見えないほどに。
「痛かったでしょう? 憎んでいいよ。恨んでいいよ。ぼくのこと、嫌いになっていいよ」
「何で? 何でだよ! 何で嫌いにならなきゃならないんだよ!! どうして僕にまで自分の心を欺けなんて言うんだよ!!」
にぃ、とエルメノが笑った気がした。
「これでまた少し、寿命が延びた」
安堵とも悲しみともつかない声を残して、黒い炎ごとエルメノは消えていた。
天宮の回廊だった場所は魔法が解けてしまったように白く茫漠とした空間になってしまっていたが、エルメノが消えたとたんに天地四方が一瞬にして僕の前に迫り、八方、鏡で出来た棺の中に僕は閉じ込められていた。
僕は鏡に映った自分の姿を凝視した。
麗じゃなかった。
十二歳の木沢光。
背も低い。顔もあどけない。
こんな姿で、よくあんなプロポーズが出来たものだ。
「でも本気だった」
左肩からどくどくと脈打ちながら赤い血液が流れ出していた。
その色だけがこの狭い空間の中で鮮明に時を動かしていた。
「僕らを隔てる世界なんか滅んでしまえばいいのに」
心からそう願った。神界も人界も闇獄界も精霊界も、みんな滅んでしまえ。
何の鎖もない世界でもう一度やり直せるなら、ぼくは悪魔にでも鬼にでも魂を売ろう。
でも残念ながら僕は知っている。この世に神はいない。魂と引き換えに願いを叶えてくれる悪魔も鬼もいない。この世に、僕を助けてくれる都合のいい存在なんかいない。もしそんな存在がいるんなら、さっきエルメノが自分を押し殺す前に僕たちを助けてくれたはずだ。闇獄界から僕らを助け出す時に、エルメノも一緒に掬い上げてくれたはずだ。
神なんて、いない。
僕には僕しかいない。
ここで立ち止まるわけには行かない。僕は助けなきゃ。エルメノを獄炎の呪縛から解放してあげなくちゃ。
「離さないよ。今度は、絶対に」
鏡に映った自分に、僕は左手を伸ばした。肩に走る痛みがやけにリアルだ。
当たり前だ。これが現実なんだから。
睨みつけた僕は、鼻も低い、彫りも浅い、日本人の顔。麗は勿論、エルメノとも似ても似つかない。
これが、今の僕なんだ。
身体を嘆く気持ちは起こらなかった。拒む気持ちもない。むしろ歓迎したいくらいだ。
僕は、麗から解放されている。
この身体なら、新しい運命を掴み取りにいける。
〈予言書〉になど載っていない、新たな未来を築きにいける。
「待ってて、エルメノ」
僕と君の結末。
今は思い出さないことにする。
思い出したら、どこが前かも分からなくなって、一歩も先に進めなくなってしまうから。止まった時間を浪費する暇はない。
鏡は八面。映る僕も八人。全員がニセモノで、全員がホンモノ。
「うあぁぁぁぁっ」
僕は、唸り声を上げて正面の自分が映る鏡に拳を叩きつけた。
四方八方に走っていく黒い罅。
今度こそ、僕は真実の世界に出る。この向こうの世界を、僕の真実の世界にする。