聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 3 章  ニセモノの世界

 ○

 目が覚めたのは、夜中の二時半くらいのことだった。確か寝たのが十一時頃だったから、三時間は眠ったことになる。
 目覚ましのためにマナーモードを解除していた携帯が、起きろとばかりにけたたましい音を立てていた。
 半分しか開かない目を擦って、わたしは携帯に手を伸ばす。
 電話をかけてきたのは、名前登録のない携帯の持ち主。
 間違い電話だろうか。
 出るのを躊躇っていると、ぷつりと電話は途切れてしまった。
「目が覚めちゃったじゃない」
 上着を肩にかけて、とりあえずトイレにでも行っておこうとベッドから降りようとしたときだった。
 下の方から玄関の戸を開け閉めする音が、遠慮がちながらも低く響いてきた。
「こんな時間に?」
 わたしは携帯を上着のポケットに放り込み、電気もつけずになんとなく息を殺してカーテンを潜り、窓越しに玄関を見下ろした。
「洋海?」
 外に出て行ったのは、外着に着替えた洋海だった。洋海は、静かに玄関の策を空けて道路に出ると、なんともなしにくるりとこっちを振り返った。
「っひっ」
 思わず、わたしは窓の下に身を隠した。
 漏れた悲鳴を回収しようと必死で口元を押さえる。
 振り返ったのは、洋海じゃなかった。
 洋海の服を着て、同じような背格好をしていたけれど、こっちを見たのは黒い顔に深い皺が無数に刻まれた妖木のような顔だった。
 目は、あってないと思う。
 でも、気づかれたかどうかは分からない。
 見間違い?
 ううん、そんなわけはない。確かにうちの玄関を出て行った音も聞いたし……幽霊? お化け? 本物の洋海は?
 ばくばくと大音声を立てて胸の中で踊る心臓に苦慮していると、また携帯が鳴った。
 早く音を消したくて、わたしはかけてきた相手もわからないのに通話ボタンを押していた。
「あああ、どうしよ、消さなきゃ、消さなきゃ」
 手で携帯を弄ぶというよりかは携帯に弄ばれる格好で、お手玉のように放り上げてはキャッチし、放り投げてはキャッチしているうちに、通話口の向こうから聞き覚えのある女の子の声がしてきた。
「もし……もし?」
 恐る恐るわたしは携帯を耳にあてる。
 カーテンをはさんだ背後の部屋の入り口の向こうからは、みしりみしりと階段が軋む音が聞こえてきているような気がする。
 焦る。心臓が飛び出しそう。
『守景さん? わたし、草鈴寺です。夜中にごめんね。今、大丈夫?』
「草鈴寺、さん?」
『同じ二年A組の草鈴寺詩音です。去年も同じクラス、だったよね?』
 だったよね? と確かめられて、うんうんといくら首だけ頷いても、声が届いていないらしく、詩音さんは焦ったようにわたしとの接点とか携帯の番号を一方的に知っているのは保健委員の関係でわたしが一度教えたことがあるんだとか、早口にまくしたてはじめた。
『詩音、今それどころじゃないでしょう』
 そんな詩音さんの声の合間から、冷静な男の子の声が割り込んできた。
『守景さん』
『あ、ちょっと、維斗、電話取らないでよ!』
『詩音は黙っててください。今ピンチなんですよ?』
 携帯の向こうで始まりかけた掛け合いに耳を澄ます余裕もなく、わたしはカーテンと扉一枚向こうにまで迫った気配に息を殺す。
 携帯、切ってしまおうか。でも、まともに通話が出来なくても、切ってしまうのも心細い。
 コンコン。
 扉の向こうから、ゆっくりと扉が叩かれた。
 息が、止まる。
『守景さん、一言〈渡り〉と唱えてください。あとは僕が誘導します』
 通話口の向こうで意味不明なことを男の子が言っている。
 扉の向こうからは、もう一度ノック音。
 どうしてこんな夜中にわたしの部屋に入ってこようとするんだろう。お父さんもお母さんも寝ているよね。洋海しか、いないよね?
 金具と金具が擦れる音がして、扉は押し開かれたようだった。
「姉ちゃん、起きてるの?」
 洋海の声と足音が遠慮がちに入ってきた。
 カーテンの下で蹲っているわたしは、早くなる脈のせいで荒くなる呼吸音を押し殺すのに必死だった。
 ぱちりと音がして、不意に部屋の中が明るくなった。
 カーテン越しとはいえ、暗闇から百ワットの世界は目が眩む。
「何だ、姉ちゃん、いくら寝相が悪いからって、そんなとこで寝てると風邪引くよ」
 さっきまで探るようだった洋海の声が、急にかくれんぼで隠れている人を見つけた鬼のように優しく意地悪なものに変わった。
 ゆらりとカーテン越しに大きな洋海の影が映り、その手がカーテンの端にかけられる。
『守景さん! 早く、〈渡り〉、と!!』
 耳元から離した携帯から声が聞こえてくるのと、洋海の服を着て洋海の声で喋る蔦の絡まった古びた妖木がカーテンを引き開け、わたしを見下ろしたのはほぼ同時だった。
「姉ちゃん」
 喋る黒い妖木に顔はない。それらしき皺はあっても、人間の顔というにはあまりにお粗末過ぎる。
 いつ、変わってしまったの? 帰ってきたときに出迎えてくれたのは確かに洋海だったのに、どうして? いつの間に?
 しゅるしゅると妖木の腕らしき辺りからこげ茶色の蔦がわたしに向けて伸びてくる。
『……ゃく、〈渡り〉、と……!』
 目の前に迫り来る恐怖に、わたしのわななく唇は携帯から聞こえてくる言葉を縋るように復唱していた。
「渡……り……」
 瞬時に、迫ってきていたこげ茶色の蔦も洋海の格好をした黒い妖木も消え、明るい白い光に満ちたわたしの部屋の風景は、ホテルのルームライトのような少し暗めの明かりに照らし出されたソファとテーブルのある落ち着いたリビングのある部屋の風景に変わっていた。
 ぼんやりしているわたしを、少し離れたところから詩音さんと見覚えのない男の子とが心配そうに見守っている。
「どうやら、上手くいったようですね」
 見覚えのない男の子がほっと一息溜息をついたのをきっかけに、詩音さんが半泣きでわたしに駆け寄ってきた。
「守景さん、大丈夫だった? 怖かったでしょう? あんなものに襲われて。でももう大丈夫だからね。ここならわたしが守ってあげるから安心していいからね」
 肩を抱きしめられてできた暗がりに、目は開けたままだったのにまださっきの恐ろしい妖木姿の洋海が鮮明に浮かんできた。
「ぃやぁっ」
 思わず詩音さんを突き飛ばしてしまって、わたしは慌てて謝った。
「あ、ご、ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃなくて……」
「できた暗がりでフラッシュバックしてしまったんでしょう」
 しどろもどろに謝るわたしを弁護するように、見覚えのない男の子が腕組みをして観察するようにわたしを見ながら言った。それを聞いた詩音さんは、さらに憐れむような顔でわたしの肩に優しく触れた。
「怖かったよね? 弟さんのあんな姿見ちゃったら、ショックだよね」
 こくん、と頷いたわたしは、ふとその場にいなかった詩音さんがわたしと洋海の様子を目の前で見てきたように知っていることに気がついた。
 そういえばあの電話も見計らったかのようだったし、内容だって、わたしを助けようとするものだった。
 一体どうやって?
「詩音、とりあえずお茶でも勧めては? 用意していたでしょう?」
「あ、そうだった。守景さん、立てる? こっちに来て座ってちょうだい。紅茶は飲める? チョコチップクッキーは好き?」
 詩音さんはパジャマのままだったわたしにガウンを着せ掛けると、わたしの手を取ってふかふかのソファに座らせて、テーブルに鼻をくすぐる薫り高い紅茶の入ったポットとチョコチップクッキーのお皿を並べた。
「あ、維斗! あなたクッキーつまみ食いしたわね?」
「さぁ、なんのことでしょう?」
「ほんと、食い意地張ってる奴って嫌になるわ。あんな奴に生徒会長やらせてるんだから、うちの学校もどうかしてるわよね」
 わたしの前にかけて紅茶を注いでいた詩音さんは、大げさに見えるほど深いため息をついてみせた。
「生徒、会長?」
「そーよー、見ればわかるでしょ、あの意地の悪い顔と言ったら」
「詩音」
 心外そうに見覚えのない男の子は咳払いする。お客様の前でしょう、とでも言いたげに。
「えぇ、と……さっきからどなたかなと思ってたんだけど……うちの学校の生徒会長、なの?」
 うちの学校の生徒会長と言ったら、いかにも秀才をアピールする黒縁の眼鏡に髪は今時風紀委員でもいない、七三分け。なんていうか、地味ながらもとても個性の強い風貌をしていたかと思うんだけど……目の前の眼鏡もなく無造作に前髪を下ろしたかっこいい男の子と見比べるに、どう頑張ってもあの生徒会長と同一人物とは思えない。
 それに、目の色。ただの茶色じゃない。日本人の風貌をしているのに、金、色?
「同じクラスなのに、そんな他人行儀な。工藤維斗です。ほら、」
 うちの高等部の生徒会長の名を名乗った男の子は、楽しげに前髪を七三の位置で掻きあげ、黒縁の眼鏡をかけてみせた。
「あ……!!! ほんとだ、生徒会長だ!!! え、え、え、ほんとに? 何でいつもそんな地味な格好してるの?!」
「ははは、だって生徒会長ですから」
「馬っ鹿じゃないの? ただの目立ちたがりでしょ。守景さん、こんな奴に関わっちゃだめよ? ほんとバカなんだから」
 呆れた様子を隠しもせずに工藤君を一瞥すると、詩音さんはわたしの前に紅茶を注いだカップを差し出した。
「でも、さっきの電話で助けてもらったし……あ、そうだ、あの、助けてくれてありがとうございました」
 どうやって助けてくれたかいまいちよくわかっていなかったけれど、まだお礼もしていなかったわたしは、慌てて立ち上がって工藤君と詩音さんに頭を下げた。
「いいんですよ。あそこで捕まられるともっと厄介なことになっていたでしょうから」
「そうそう。そもそも守景さんは何も悪くないんだもの。あんな目に遭って大変だったよね」
「そのこと、なんだけど……何か、知ってるの? わたしがあのタイミングで危ないって、どうして分かったの? もしかして、わたしが何に巻き込まれてるかも知ってる? というか、ここ、どこ?」
 二人は顔を見合わせ、軽く頷きあった。
「何か知っているかと言われれば、知っています」
 おもむろに口を開いたのは工藤君だった。
「とりあえず、ここがどこかというと、維斗の……マンション? みたいなところよ。ちょっと形は変わってるけどね。ちなみにわたしがここにいるのは、」
「お付き合い、してたんですか?」
「ばっ、違うわよ! そんなわけないじゃない。どうしてこのわたしがこんな目立ちたがりの馬鹿男なんかと付き合わなきゃならないのよ!」
「それを言うならこっちこそ願い下げですね、こんな口の悪い女性なんか」
「は、はぁ」
 余計なことを言ってしまったと思いつつ、わたしは首をすくめる。
「守景さん、勘違いしないでね。わたしたちはただの親戚。しーんーせーきー、なの、分かった?」
「詩音が叔母さんで、僕が甥っ子っていうね」
「余計なこと言わなくていいっ。わたしが年さば読んでるみたいじゃない。さて、それでなんだけど……」
 詩音さんて、意外と怖い人……だったのか、な……。
「詩音、あんまりすごむから守景さんひいてますよ」
「維斗が余計なこと言うからでしょ。あ、それでね、何で樒ちゃんが危ないって分かったかっていうと、あれに書いてあってね」
「あれ?」
 詩音さんの指差す方向、さっきまで工藤君が座っていたテーブルの上には、一冊の古びた革張りの本が置かれていた。
「本?」
「そう。〈予言書〉」
 〈予言書〉。
 そう聞いた瞬間、心がざわりとさざめいた。
 なんだろう。いやだ。思い出したくない。
 思い出すよすがも何もないくせに、直感的にわたしはそれから目を背けていた。自分の膝辺りに視線を泳がせ、おそるおそる詩音さんと工藤君を見上げる。
「説明すればすっごーーーーーっく長くなるんだけど、とにかくあの本には過去から未来、全部書いてあってね、それで、守景さんが危ない目に遭うってことも書いてたの。タイミングはその横にあるほら、あの水晶、あの水晶で、悪いなとは思ったんだけど危ない目に遭いそうな時間、つまりさっき携帯に電話をかけたあたりから見てたの。ごめんね」
 監視されていたんだというショックは、詩音さんたちが危惧しているほどなかったと思う。だって、おかげで助かったんだもの。
「ううん、いいの。助けてくれて、本当にありがとう。それで……わたし、この後どうしたらいいの? 家には帰れないと思うんだけど、ずっとこのままってわけにもいかないよね? ていうか、お父さんとお母さん残してきちゃったけど大丈夫かな」
「それは……」
 二人は再び顔を見合わせ、頷くことは思いとどまったようだった。
 わたしはぐっと自分の拳を握る。
「はっきり言って?」
 夢だと言ってくれればそれでよかった。それなら、目覚める時をただ待てばいい。身体中に感じる現実感も、心の中にわだかまった不安でどこか実体がない。足がふわふわとしている気がするのは、きっとこれが夢だからなのだろう。けして、未来という大海に飛び込もうと崖の縁に立たされているからではない。
 そもそも、こんな現実があるわけがない。ここ数日間、変な女の子に付きまとわれたり、鏡から洋海と光くんを引っ張り出したり、あげく、自分が鏡の中に引っ張り込まれてもう一人の自分に取って代わられたり……そうだ、あのもう一人のわたしはどこに行ったのだろう? わたしに成り代っているなら、あの家にいたはずだよね? わたしの部屋にいたはずだよね? いなかったって、どういうことだろう。
 ああ、ほら、やっぱりこれはまだ夢の続きなんだ。あるいは、漫画の読みすぎか。
「〈予言書〉に書いてあるんでしょう? 工藤君と詩音さんはこの結末を知っている。そうでしょう?」
 ぴくり、と工藤君の眉がひそめられた。
「守景さんは〈予言書〉がどのようなものかご存知なのですか?」
 探るように、窺うように工藤君がそう言ったのは、きっと知られていては困ることだからに違いない。
「知らないよ。知らないけど、……知っている気はする」
 向かい合った鏡の中に、あの異色の瞳と髪を持つ異国の少女を見つけてしまったときも感じた。違和感と、合致感。わたしは知らないうちにパズルを組み立てていて、とても大事なピースだったのにピースの形と切り取られ方が微妙なために、そう、たとえば両目の部分だけを切り取ったピースを見ても、大切なピースだと分かってはいても目と分からずに最後まで残してしまうような、そんなもどかしさ。
 全体図が分かれば何のことはないのに、分からないから不安になる。
 知っていることなら思い出せばいいのに、思い出す術が分からないからもどかしくて仕方がなくなる。テストの時と同じだ。
「守景さん、最初に言っておきますが、ゆめゆめ、それを思い出そうと御自分に無理を強いることはやめてください」
「どうして?」
「どうして。それは、知らなくても貴女は生きていくことが出来るからです」
 金色の瞳の黒い瞳孔が、ネコ科の動物のように細く縮んだ。
 脅されている?
 思い出すことは、悪いことなの? このもどかしい感じを拭い去るには、分からないことを思い出すしかないと思うのに?
「安藤君の妹さんには思い出せって言われたよ。思い出したほうがわたしのためだって。さっきの〈渡り〉というのだって、何か意味があるんでしょう? 望んだだけで洋海と光くんを鏡から引っ張り出せたっていうのもおかしな話だし……ねぇ、わたし、どこかおかしいの?」
 どれもこれも普通の人間の出来ることじゃない。漫画やゲームの中だけの話。それが目の前で、それも自分の手によって為されている。
 思いあがりと揶揄された方がどれだけ現実的だったろう。自分だけが特別だなんて、考えるだけでも恥ずかしいと思わなきゃならないのに。
「守景さんはどこもおかしくはありませんよ。世の中には、そういう不思議な事象が起こることがままあるものなんです」
 世界の摂理を全て知り尽くした僧侶のように工藤君は説いた。
「その事象はわたしが起こしたもの? それとも、自然に引き起こされたもの?」
「〈予言書〉に記されたことが起きるのは、必然です」
「必然……」
 〈予言書〉という言葉に集約されて、どこかごまかされたような気がした。だけど、工藤君の表情はもうそれ以上答えてくれそうにはなかった。
「とりあえず、守景さんがこれからどうしたらいいのかをお話しましょう。守景さんは、今回のことが終わるまでここにいてくださればいいんです。大丈夫。あと二日もすれば御両親と本物の弟さんのいる家に帰れます」
 膝に肘をついて多少前のめりになりながら長い指を組み合わせ、工藤君はさもそれが当たり前のように言った。
「ここには本もありますし、DVDも一方揃っています。食べ物は詩音がいれば心配ありませんし、客室には寝心地のいいベッドもあります。退屈はしないと思いますよ」
 詩音さんもにこにこしたまま頷いている。
「二日間、わたしにここにいろって? 学校にも行かず? 家にも帰らず?」
 彼ら二人はわたしをこのおかしな状況から庇護してくれるといっているのだ。何を躊躇うことがあるだろう。安全なのに越したことはない。普段だって学校に行くことにそれほど執着があるわけじゃない。家がとっても恋しいという年頃でもない。
 だけど、なんだろう、この違和感。
 この二人もニセモノなんじゃないかって、わたし思いはじめてる。
 素直に信じちゃいけないって、思いはじめてる。
「ねぇ、ここ、どこ?」
 ざわつく心に比例して、沈み込むようなソファが急に居心地悪くなりはじめていた。
「僕の家ですよ」
 工藤君は淡々と答える。
「ほんとに? 住所は?」
「住所は……」
 工藤君が話し出す前に、わたしはティーカップを置き、席を立って窓に向かっていた。
 カーテンを引き明ける。
 真っ暗だった。
 街の明かりどころか、街灯も住宅の明かりすらも見えない。暗闇だけがただ茫漠と窓の向こうに広がっていた。
「どこ、ここ」
 手足が震えはじめていた。
 わたし、騙されたんじゃない? 騙されて、まだ迷路の中にいるんじゃない?
「だから維斗のマンションみたいなところよ。そんな警戒しなくてもわたしもいるし、ね?」
 ガラス越し、わたしの背後に立った詩音さんは気遣わしげな表情でわたしの肩にやさしく手を置く。
「マンションみたいなところって、マンションじゃないの?」
 困ったように詩音さんは工藤君と目を合わせている。
 その隙に、わたしは目の前の窓を両手で押し開け、ベランダに飛び出した。
 冷たい風が吹き上がって来、乾いた目に涙を誘った。それを手の甲で拭って、わたしは手すり越し、やや身を乗り出して下を覗き込む。
「嘘……」
 目も眩むような高さに、自分がいたことがわかった。
 鳥でさえもこう高いところは飛ぶまいというほどの高度から見た街の灯は砂金をいびつな黒いビロードの上にこぼしたかのように微小で、東京どころではなく宇宙から地球を睥睨しているかのような錯覚を覚えた。
「これのどこがマンション? こんな高いマンションが、あるわけない」
 震える足は寒さからか高度の恐怖からか支えを失って、膝からかっくんと折れ曲がっていた。手は震えながら手すり伝いに滑りながらも、ここから落ちてなるものかと必死で手すりの棒を握っていた。
「確かに、高層マンションというにしてもここは高すぎますね」
 へたり込んだわたしと真っ暗な空を交互に見比べて、工藤君は苦笑を浮かべた。
「東京ですよ。東京の工藤家の敷地内にある、ここは塔の最上階なんです」
「塔?」
「ラプンツェルのお話を御存知ですか?」
「ラプンツェル? 塔に閉じ込められたお姫様が髪を伸ばしてロープ代わりにして逃げ出したって言う、あの話?」
「ええ、そのお話です。この塔は、元はそういう塔です。人を閉じ込めるための塔。逃げ出されたら困るから、こんなに高い。まぁ、それだけでなく人々を監視するためにこんなに高くしていたというのもあるのでしょうが」
 人を閉じ込めるための塔。人を監視するための塔。
 こんなに高い、人工の建造物。
「そんなもの、東京にあったら観光名物になっているんじゃない?」
 少なくとも、わたしは知らない。高層ビルも、富士山さえも凌駕する高さまで聳える塔が東京にあっただなんて。もしあったとして、話題にならないわけがない。現代の人はただ空を見上げるだけじゃない。空を飛ぶ手段だって日常化されているのだから。
「その通りですね。見えていたら、きっと大騒ぎになっていることでしょう」
「見えていたら?」
「見えなくしているんですよ。ついでに、次元もずらしています。もしそのままの高さだったら、息苦しくてとても住めたものじゃありませんからね」
「そんなこと……」
「出来るんですよ、工藤家はね。人界を監視すること。それが、統仲王から与えられた使命でしたから」
「人界? 統仲、王?」
 工藤君はへたり込んだままのわたしに手を差し伸べた。
 わたしは躊躇った後、その手をとった。
 大きくて指の長い繊細な手は、思ったよりも冷たかった。
「ああ、今のは聞かなかったことにしてください。覚えていても何の役にも立たない」
 工藤君は笑いながらそう言ったけど、わたしは一つ間を置いてゆっくりと首を振った。
「知ってる……よ。わたし、統仲王を知ってる。聖の、お父さん。世界の……創造、主……」
 夢で見た、あの少女。青と黒の瞳、金と黒の髪を持つ、あの異国の少女。夢の痕跡が、こんな目の前に現れている。
 思い出そうと食い入るように見つめるわたしの目の前に、工藤君はすっと大きな手のひらを差し向けた。
「維斗……守景さんにはあくまで二日間ここにいてもらうだけだって……」
 心配と非難とをない交ぜにした詩音さんの声が、金色の瞳に見つめられて動けなくなっていたわたしの耳に入ってきた。
「ええ、勿論いてもらうだけです。何もしません。彼女が本を読んでいようと、眠っていようと」
 厳しい視線。
 やっぱり、ここに辿りついたのも罠だったんじゃないだろうか。
 早まる鼓動に、わたしはじりじりと探るように足を後退させた。が、それも二歩と下がらないうちに背中がベランダの柵にくっついてしまった。
 工藤君の手が、そっとわたしの頬を包み込む。
 わたしはその手を振り払って、思わず後ろ手にベランダの柵に飛び乗った。
 ぐらぐらする。下から風が吹き上げてくる。異次元でも風が吹くんだ、なんて考えてる余裕はない。
「守景さん!」
 上手くバランスをとっていたつもりだったのに、今度は風は、上から吹き降ろしてきた。
「あ」
 そう呟いた時には、視界は反転していたんだと思う。暗いだけで何も分かりはしなかったけれど、目の前から金色の猛禽類のような目がいなくなって、かわりに砂金のような街明かりがくるりと一回転して。
 意匠を凝らしたベランダの柵が上空へと引き上げられていって。
『守景さん!』
 工藤君と詩音さんの声がはるか高みから落ちてきていた。
(わたし、死ぬんだ)
 手足が変な方向に曲がっているような気がしたけれど、全身の感覚が麻痺しているのか何も感じなかった。風圧さえも分からない。少し上で脱げたスリッパが間抜けに漂っているのが見えたけど、それもすぐに闇の中に飲まれていった。
 目の前に浮かんだのは小学校の時になくした親友の顔だった。
(真由……)
 真由も怖かっただろうか。
 死にたいと決意して飛び降りたとしても、やっぱり落下している間は怖かったんじゃないだろうか。それとも、すぐに意識を手放したんだろうか。痛い思いもせずに、あの世にいけたんだろうか。
 わたしは、痛い思いをしなきゃならないんだろうか。
 ああ、違う。
 真由は笑っていたっけ。小学校の屋上から落ちたのに、わたしの腕の中で笑って息を引き取った。
 笑いながら? わたしの腕の中で? 真由が死んだ?
(嘘……)
 四階の高さにある屋上から落ちて、まだ意識があったの? 笑う余裕すらあったというの?
 そんなわけが、ない。
 それは、真実じゃない。
 真実じゃない? それなら一体、何が真実だというの?
 失ったと思っていた全身の感覚が、ざわめく不安に呼び覚まされていた。
『ねぇ、君はほんとに自分が守景樒だと思ってるの?』
 エメラルド色の瞳が、闇の中からのぞきこんでわたしをあざ笑う。
(鏡よ、鏡……)
 そう唱えていたのは白雪姫の継母だっけ。
 何でも真実を教えてくれるなら、教えてほしい。
(わたしは、本物ですか?)
「〈渡……り〉」
 唱えただけでどこへでも連れて行ってくれるなら連れて行ってほしい。
 今度こそ、わたしの帰る家へ。
 それなのに、わたしの頭からはあの夕焼け色の髪とエメラルド色の瞳を持つ少女の顔が離れなかった。











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