聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 3 章 ニセモノの世界○ 2 ○
頭が重い。
どうしてあんな映画みたいにヘヴィな夢、見なきゃならないんだろう。主人公が自分に重なっていたせいか、無事に目を開けてもまだ、身体は全身を病の巣にされたようにだるく、鈍痛に苛まれているようだった。
床から離れられないほど重篤な病に罹っている少女が、最後の力を振り絞って自分の治めている国を闇の手から守るために行動する夢。彼女は時間と空間を操れて、黒い竜のような炎も退けてしまった。一人の幼い女の子を犠牲にし、同じくらいの年の少女に罰といいながら生きるよすがを与えて。
すごく冷静に状況を判断していたと思う。わたしなら、きっとあの黒い炎の竜を退けるよりも幼い女の子を助けようとしただろう。人の命を切り捨てることなど思いもよらない。でも、彼女は国を背負っていた。大義名分という言葉を行使しなければならない立場にいて、それを全うするために命を一つ、さらに背負った。本当はさらに背負ったんじゃなく、はじめから国民として背負われている命だったんだろうから、事実は切り捨てただけだったのかもしれないけれど。
何にしろ、現実を遠く離れすぎている夢だった。着ていた服も、喋り言葉も、ものの考え方も立場も見た目も声も、もう何もかも、よく造りこまれた映画を見た後のようにリアルだった。
「まだ、思い出さないの?」
上半身だけ起こしていたわたしに、いつからいたのだろう、薄い紗のカーテン越しに横から呆れ苛立つ少年の声が鋭く投げつけられてきた。
「光くん……」
どうして――その理由を考える前に、頭の中には闇と光とがくっきりと分かれた眩いばかりのステージが浮かんでいた。そうだ、わたし、あのステージのマジック中に鏡の中に光くんと一緒に閉じ込められたんだ。
「ふかふかのベッド、過去夢を見やすくする香、暗闇に静寂。ここまでお膳立てしてあげたのに、どうして君はそう頑固なの?」
ベッドサイドに引かれた紗のカーテンを引き開けた光くんは、声に勝るとも劣らない嫌悪すら感じている表情でわたしを見つめた。
「かこ、む?」
わたしは意味も分からず心に引っかかった言葉を鸚鵡返しに繰り返す。
光くんは目を細めてにっこりと唇の端を吊り上げた。
「そうだよ、過去の夢だよ。守景樒、君が生まれる前の聖刻法王だった頃の夢」
「聖刻、法王!」
わたしは光君の言葉につられて、ついその名を叫んでいた。
光くんはベッドサイドに腰を下ろすと、わたしの頬に手を伸ばして意地悪げに、だけど優しく微笑んだ。
「ああ、よかった。夢は見ていたんだね。香も闇も、このふかふかのベッドも無駄じゃなかったわけだ」
「よかったって、わたしは別に何も……」
「見たんだろ? 聖の夢を。どんな夢だった? 統仲王に慈しまれて天宮の花畑で花冠を作っている夢? 次兄に恋心を抱いて延々報われない許されない想いに悩み苦しむ夢?」
「違う、そんな夢は見てない」
「じゃあ、どんな夢だった? 話して聞かせてよ。まだ覚えてるんだろう? ほら、このあたりが燻るようにじりじりと痛まない?」
頬を包み込む手とは反対の手が、わたしの胸の間をゆっくりとなぞりだす。
「やめて!」
わたしは反射的にその手を払い、光くんをベッドサイドから突いていた。押された光くんはバランスを保っていられずに、床に尻餅をついてごろりと転がる。
「痛ったぁ。このおてんば娘が。こっちは優しく思い出させてやろうとしてるのに」
跳ね起きた光くんは、その勢いで再びベッドの上に飛び乗り、わたしの両肩を掴み押し倒して言った。
「思い出せ! 思い出せよ、聖! お前は時の精霊を従えし者。過去も未来も現在でさえ思うが侭に操れるんだろう?! もう眠ってていい時間じゃないんだ。目ぇ醒ませよ!」
怖……い。
「離して! 離してよ!」
まだ中学校に上がったばかりで、身体も洋海なんかに比べればまだまだ大きい方じゃない。なのに、掴まれた肩には指が食い込み、睨みすごまれながら怒鳴られたわたしは身動き一つ出来ず、ただ恐怖に駆られて睨みながら叫ぶことしか出来なかった。
「おかしいよ、こんなの。わたしが何をしたって言うの? わたしは何も知らない。聖なんて人も、魔法も何もわたしは知らないし使えないし、あんな地位に縛られた人生なんか、二度と体験したくない」
言ってしまった後で口を噤んでも遅かった。
光くんはにやぁっと笑みを浮かべる。
わたしはその表情にぞっと鳥肌が立った。
「見たんだね、やっぱり」
「見て、ない。知らない。聖なんて人、わたしは知らない」
「神の子である法王という地位に縛られつづけた少女だよ。肌は病で青白く、瞳と髪の色が左右で違う。昨日の物理の時間も、サーカスのステージで鏡と向かい合ったときも、見ているだろう? 彼女を。彼女が聖だよ。君が見た夢の主人公だ」
「知らない! そんな人、わたしは……」
「これでも?」
意地の悪い笑みを浮かべながら光くんは、さっとわたしの前に銀の唐草に縁取られた楕円型の手鏡を差し出した。
もやもやと曇っていたその鏡の表面は風に吹き払われるように靄が晴れ、くっきりとわたしを映し出したかと思うと再び靄に包まれて物理の時間に見たあの異国の少女を映し出した。
「知ら、ない」
知っていてなるものかと心のどこかで思っていた。知らない、こんな少女。知っていちゃいけない。
思い出しちゃ、いけない。
思い出しちゃったら、何のためにわたし……何のために? わたしが? 何をしたと?
「やめてよ! もうやめて!」
わたしは再び鏡ごと光くんを突き払った。
光くんは尻餅をつき、その傍らに鏡面を上に手鏡が落ちる。
鏡面は映す対象を見失って白い靄に閉ざされたかと思うと、傍らの人物の顔を顎の方から映し出した。
鏡には光くんが映っている。
だけど、鏡から視線を転じたその先にいたのは、夕焼け色の髪を持つ少女だった。
エメラルド色の瞳が皮肉そうに歪められる。
「あーあ」
落胆の声は低く床に落ちて横たわり、鏡の中に吸い込まれていった。
「安藤君の妹さん……」
「せっかく穏便に目ぇ醒ましてもらおうと思ったのに」
「何、してるの? これもマジックの一つ? ねぇ、本物の光くんはどこ? ここは? 桔梗は? 葵は? マジックはどうなったの? わたしの、偽物もいたよね? すごく意地悪く嗤うの。あんな子がわたしと同じだと思われたらいやだよ。お願い、もうお家に帰して」
わたしよりも小さい子に、どうしてお願いなんかしなきゃならないんだろう。勝手に帰ればいいじゃない。このベッドから飛び出して、ほら、カーテンの向こうにどっしりとして重そうだけど、ちゃんと扉が見えている。あれを引き明ければきっとドームの控え室が連なる廊下に出られるはず。
帰ればいい、真っ直ぐに。
掛けられていた薄い布団の端を握りしめたものの、それでもわたしはそこから出る勢いを得られずに唇を引き結んだまま、エメラルド色の瞳の行方が定まるのを待っていた。
「ねぇ、どうして帰りたいって思うの?」
わたしに据えられたエメラルドの瞳は、口元の表情とは逆にちっとも笑ってはいなかった。
「帰るって、どこに? 人界の守景樒って人の家? どうしてそこに帰りたいって思うの?」
尻餅をついたまま、両足を前に投げ出して後ろに両腕をついて、彼女は挑むようにわたしを見た。
「帰るのは、当たり前でしょ? わたしの家によ。どうして帰りたいかって、そりゃそこがわたしの家だから」
「それは答えになってない。ぼくが聞いているのは、君にとって家とは何かと聞いているんだよ」
「家? そりゃ、お母さんがいて、洋海がいて、お父さんがいて、わたしの部屋があって、一番落ち着く場所だよ」
「それは、守景樒の家族がいる場所だよね。ねぇ、君は本当に守景樒なの? こんなこと、考えたことない? 自分は守景樒だと思っているけど、実はニセモノなんじゃないかって。本当は本物の守景樒が他にいて、自分はそのコピーでしかないんじゃないかって」
少女の低い声が耳にしみて、ぞっと肩が震えた。
「あるいは、さ。自分は守景樒だと思っているけど、本当は別の人物かもしれない。聖刻法王、聖。本当の自分は聖なのに、聖には戻りたくないから、勝手に人間の人生を横取りして生きているだけかもしれない」
「そんな、まさか、そんなわけないでしょ」
どうして声が震えるんだろう。彼女が言っているのは屁理屈だ。そんなこと言い出したら、誰も自分を本物だと確信できなくなる。
「ねぇ、君はほんとに自分が守景樒だと思ってるの?」
「……」
当たり前でしょう、と、どうして即座に頷けなかったんだろう。そんなにこの唇は重かっただろうか。そんなに、さっきの夢の主人公の視線と同化していたことに不安になっているんだろうか。わたしの意思とは関係なく与えられた台本をなぞるように勝手に喋って物語を紡いでいった聖刻法王、聖。いつも見る夢では、わたしの口はわたしのものだった。勝手に進んでいくことも多かったけど、さっきの夢のような違和感は感じたことがなかった。
そうだよ。違う人の視線と体に同化してはいたけれど、心までは同じじゃなかったから違和感があるんだよ。それはつまり、わたしは彼女じゃないということでしょう?
「ねぇ、どうして答えに詰まるの? ほんとは自分が一番疑ってるんじゃない? 自分は守景樒じゃないんじゃないかって」
「違う! わたしは守景樒だもん。それ以外に誰だって言うのよ!」
握っていた掛け布団を跳ね飛ばして、わたしは勢いよくベッドを飛び出し出口と思しき扉へと走ろうとした。
そのわたしの足を、憎いことに少女はちょっと自分の足を延ばして払った。
前のめりにわたしは倒れる。身を翻して起き上がろうとしたわたしの上に、少女は押さえつけるようにのしかかってきた。
「ぼくの持ってるあの鏡はね、映った者をコピーするほかに真実の姿を映す鏡でもあるんだ。名を〈聚映 〉。人ってのは弱い生き物でさ、人をごまかし、自分を守るためにごまかし、騙し、欺かないとまともに天寿も全うできない生き物なんだよ。君たちの住んでる世界は、いや、今の世界は闇獄界も人界も神界も、人々が歪めてきた事実の上に乗っかってる。嘘もさ、時間がたつと真実を知るものがいなくなってそれこそが真実になってしまうんだよね。もしくは忘却。自分が何者だったかを完全に忘れることで、罪悪感なく別な人間になれるってわけだ。でも、真実を枉げることは罪悪だよね? 悪いことなんだよ。だって、神様がそうお決めになったから。悪事を思いついただけでも人の心は負の感情に支配される。生まれた負の感情は世界を汚してしまうから、世界のゴミ溜めたる闇獄界に流されてくる。もともと人の意思から発生した感情だ。寄り集まってそれらも意思を持ちはじめる。これはさ、その意思の塊が器に封じられたものなんだよ。虚飾に満ちた人々の人生が生んだ負の遺産。彼はとても人を欺き騙すことが好きでね。騙された人々の悲痛に満ちた顔を見るのが好きなんだ。ああ、悲痛に満ちた顔だけじゃなく、気づかずに幸せに生きてるこっけいな姿も好きだって? まぁ、でもさ。嘘をつくためには、正しい真実を知っていなきゃならないんだよね。だからこの鏡は真実も正しく映し出すんだ。自分を偽っている奴の前に真実を突きつけて真っ青になる顔を見るのもまた楽しいらしくてね。君のように」
すっと鼻がくっついてしまうくらい近くに差し出された鏡に映った顔は、わたしではなく、異国の少女。どんなに目を凝らしても、手で鏡を撫でても、何も変わらない。
ううん、騙されちゃだめ。この鏡が魔法の鏡だっていうなら、わざと異国の少女の顔を作り出してわたしの前に映しているかもしれない。
意を決そうと口を引き結んだ時だった。鏡は異国の少女を映し出したまま、黒い光を発した。黒とはいえ、あまりの眩しさに、わたしはとっさに腕で顔を覆い、顔を背けた。
「あっはは。今自分に嘘をつこうとしただろう? 自分をごまかそうとすると黒く光るんだよ、この鏡は。自分に嘘をつこうとしたその罪を食べるために触手を伸ばすんだ。その触手が今の黒い光ってわけだ。人は誰でも嘘をつく。だからこいつが食いっぱぐれることはない。ぼくが負けることもない」
エメラルド色の瞳が覗き込んでくる。結論を聞き出そうとでもいうように。
「ねぇ、どうしてそんなに知らないって拒絶するの? 何も疚しいところがないなら、夢を見たって言えばいいじゃないか。自分とは別人の話だったんだろ? 何がそんなに君の心を固く閉ざさせているの? 何が君をそんなに警戒させているの?」
「警戒って、するのは当たり前でしょ。貴女は実は別人なんです、さあその別人のことを思い出してって、見に覚えのないこと言われたら、誰だってこの人何言ってるのって警戒するよ。変な宗教に巻き込まれるんじゃないかって思っちゃうよ」
「変な宗教、ね。昨日の朝、駅で君にした予言、覚えてる? 君は二人いる。いま、君のふりをしている君と、眠り続ける本当の君。目覚めるよ。どんなに押し殺したって、彼女は目覚める。だって、彼女はまだ死んでいないから。それから……」
「わかった! あなた、自分の言ったことを本当にするためにわたしに暗示かけて思いこませようとしているんでしょ? そんな手にのるものですか。わたしはわたしよ。守景樒だよ。ほかの誰でも、ない」
両腕でどんと少女を押しのけて、わたしは転がるように出口へと向かった。その足を少女が掴む。
「思い出さないのは自分のためにもならないと思うよ」
「まだそんな意地悪言うの?」
「忠告だよ。心外だなぁ。ぼくはただ君に思い出してもらって、ぼくを過去に連れて行ってほしいだけなんだ。ぼくの望みを叶えてほしいだけ。だから、君の命まではとろうとは思わない。望みがかなった後はぼくは現在にはいなくなるから、君の未来を害することもない。だけど他の連中はどうだろうね。忠誠心の厚い奴らほど、強力な魔力を持っている上に、君を危険視している。自分で身を守る術を知らなきゃ、君はいずれ、その知らない異国の少女のために殺されることになるよ」
冷たい汗が背筋をなぞっていったのが分かった。
なぜ、〈欺瞞〉を売りにしているこの少女が言ったことを真実だと感じたのかは分からない。ステージの鏡の裏で、光くんも同じことを言っていたからかもしれない。だけど、とにかくこのままだとわたしは自分でもよく分からないままに、またこんな目に遭わなきゃならないんじゃないかってことは、直感だけどなんとなく分かったような気がした。
でも、サーカスのステージで彼女に会ったとき、彼女は「思い出さないで」って言ってた。悲壮な顔で、思い出してほしくないのだと訴えていた。
「思い出し方が分からないのなら、ひたすら眠って夢を見ればいい。新しい生の記憶に塗り固められる前の記憶のほつれから、眠らされた記憶を手繰ることが出来るんだ」
「そんなことは聞いてないよ。わたしは絶対に思い出さない。早く光くん見つけてこんなところから出ていくんだから。教えて。どこに光くんを隠したの?」
「隠す、ねぇ。これは、ほんとに命の危険に晒されなきゃ思いださないかもしれないなぁ」
夕焼け色のふわふわとした髪とエメラルドグリーンの快活ながらも呆れた様子で、近距離からわたしを俯瞰した。
「いいよ。そんなに帰りたいなら帰してあげるよ。光を隠したのもその世界だったから、君の望みに添う形にはなるよね」
鼻の頭がくっつきそうなほど顔を近づけた少女は、ぱっと身を翻してわたしの上からいなくなった。胸の上が軽くなったことに安堵する間もなく、くるくると少女は踊りながら落ちていた手鏡を拾い上げる。
「さあ、君の帰りたかった家のある世界だよ」
手品さながらに、少女はさっきまで手鏡程度の大きさしかなかった鏡を姿見ほどに引き伸ばし、わたしに入るよう手招いた。
鏡の向こうには、すっかり夜の帳が降りた空の下、街灯に照らされてわたしの家が隣家に囲まれて建っていた。
間違いはない。わたしの家。わたしの帰りたいお家。
玄関灯が煌々とポーチを照らし、リビングから漏れでた明かりは暗く影の落ちた庭の芝生をうっすら若草色に浮き上がらせている。生活している雰囲気がしみこんだ風景。
「いい、の?」
鏡に踏み込もうと前に踏み出した足をふと止めて、わたしは少女を振り返った。
「いやならずっとここにいる? 思い出すまで」
「でも、だって光くんはどこに?」
「向こうの世界にいたよ。聞いてなかったの? ぼくが光を隠したのは向こうの世界だって、言っただろ? ついさっき」
くすくすくすと嗤う少女。
いやな感じ。何か企んでいる嗤いだ。あんなに聖のことを思い出せと執着したくせに、こんなにあっさりと帰り道をつくってくれるなんて、絶対何か罠があるに違いない。わたしの家を見せておきながら、踏み込めば実は違う魔物だらけの世界だったとか、人が根こそぎいない世界だったとか、何か自分の目的を達せられると考えがなければ、みすみすわたしを帰すわけがない。
「向こうの世界……世界が違うの?」
「君は鏡を潜り抜けてきただろう? ここは鏡の内側の世界。そう、世界が違うんだよ。ねぇ、さあ、行くの? 行かないの?」
少女は痺れを切らしたように急かしはじめる。
わたしはもう一度少女の顔を覗きこんだ。
イライラしてはいるけれど、目には癪に触るくらい楽しげな光が浮かんでいる。
きっと、この向こうの世界はただの元の世界じゃない。そんなところに一人で踏み込んで、わたしは無事でいられるんだろうか? それくらいなら、あの扉の向こうに期待したほうがましなんじゃないだろうか?
ちらりとわたしが部屋の出口を見たことに気づいたのだろう。
「帰りたいなら出口はこっちだよ」
どん、と少女はわたしの背を鏡の中に押し込んでいた。
鏡は抵抗なくわたしをのみこむ。
一歩、二歩、三歩。
足は、いつしか見慣れたアスファルトを踏みしめていた。
春らしい花の匂いを抱えた風がふわりとわたしの周りを回って吹き去っていく。
遠くの国道を走る車のエンジン音、近所から聞こえる赤ちゃんの泣き声。夜も深まった住宅街の静けさの中に、騒々しいそれらの音は別世界の出来事のように溶け込んでいた。
「あ、鞄、ない……」
どうしよう、お財布とかお気に入りのハンカチとか入ってたのに。
道の真ん中で頭を抱えてしゃがみこみかけた時、ふとスカートのポケットで何かが震えた。
携帯。
慌てて取り出すと、カラフルに色を変えながら携帯は弟・洋海からの着信を伝えていた。
「もしもし?」
『あ、姉ちゃん? 今どこ? 何回かけても通じなくて、心配したんだぞ?』
「あ……」
ほっとする聞きなれた洋海の低い声。
「今、家の前にいるよ」
そう言うなり、洋海は家から飛び出してきて、わたしの姿を見て唖然としたようだった。
「姉ちゃん、靴は? 上、ジャケットは? その格好で帰ってきたの?」
「うん、そう、なんだよね……鞄もなくしちゃったみたいで。お財布もなくなっちゃったんだ。携帯だけはポケットに入ってたから無事だったんだけど」
「うっわ、それ一大事じゃん。電車で帰ってきたんじゃないのかよ? って、その格好で電車乗ってこれるわけもないか。じゃあ、どうやって?」
「っくしゅん」
「あ……その前に、家ん中入るか」
洋海は自分が羽織っていたジャンパーをわたしの肩にかけ、あったかい家の中に通してくれた。
家の中ではお母さんと帰ってきたばかりらしいお父さんが心配そうにしていたけれど、わたしを見て安心したみたいだった。
お財布なくしたことは怒られたけど、臨時でお小遣いと定期を買うお金をもらって、お風呂に入って、わたしはゆっくりと自分のベッドの中にもぐりこんだ。
「何だ、何も怖いことなかったじゃん。用心しすぎたのかな」
そういえば、桔梗と葵に無事おうちに帰ったって連絡してなかったっけ。いっか、明日学校で会えるんだから。きっと光くんも無事だよね。……きっと。
とろとろとした眠りが意識も思考も掻き消して、わたしは夢も見ずに眠りに落ちた。