聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 3 章 ニセモノの世界◆ 1‐2 ◆
策を講じさせて何になるというんだろう。
世界は終わる。間もなく、僕らの統治してきた時代は終わるんだ。何か次善の策を立てたところで、おそらく計画の実施途中で僕らの時代は終わってしまう。この世界は中途半端に不完全な人々に引き継がれていって、人界となんら変わらぬ不完全な世界に落ちていく。
「麗ちゃん」
暖かな手が僕の両手を包み込んだ。
人の手に触れるなんて、どれくらいぶりだろう。
柔らかくて弾力があって、滑らかで、温かい。血の通う温もりが暖炉の火の温もりさえも潜り抜けて伝わってくる。
「触るなよ」
「麗ちゃん、どこが悪いの? 分かってるんでしょう、自分で」
「知らないよ」
「そんなわけない! 聖様だって病に罹ってるんだ。炎様だってどこかお悪いというお話だし……」
「炎姉上が? まさか。あの人はどこか悪くても人に悟られるようなことはしないよ」
「でも……」
もう、これ以上聞きたくない。
誰の体調が悪いとか、誰それは今どうしてるとか。
「僕が悪いのは、知ってるだろ、カルーラ。ここだよ、ここ。いや、こっちか」
僕は半開きの瞼のままカルーラを見つめ、胸を指してみせたが思い至ってこめかみの辺りに手を移動させた。
「もうずっと、僕はここが悪い」
大丈夫。カルーラと禦霊がいればこの国の民は守られる。
ああ、なんてこの眠りは抗いがたいほど安らかなんだろう。見る夢はけして優しくはないのに、眠りに落ちるときだけは甘やかなんだ。
「麗ちゃん! しっかりしてよ!! 麗ちゃんがいないとぼくは……」
縋るカルーラの表情がうざったい。
「心配ないよ。僕が死んでも、魂さえ死ななければお前の存在は保証される。世界の均衡は保たれる。そうだろ? 海姉上だって〈影〉がいなくても水を操ることができるんだ。それもこれも、どこかで綺瑪の魂が生きてるからだろ」
どこかで綺瑪が……そうだ、綺瑪はどこへ行ったのだろう。自殺した後、どこへ転生したのだろう。人の世界だろうか? それとも神界のどこかごくごく近くにいたりするのだろうか? あるいは闇獄界……?
育兄上なら知っている。すべての魂の管理者であるあの人ならば、綺瑪がどこで生まれ変わっているのかを知っている。
会いたいのか、ただ知りたいのか分からなかった。さっき、あんな文字を見てしまったから。
どうして今この時、海姉上ではなく綺瑪に心馳せているのか自分でも不思議だった。もはや海姉上のことは思い出すまいと記憶に鍵をかけているから、だから綺瑪の記憶を手繰ることで自分をごまかそうとしている……いや、違う。ぼくは海姉上を探しているんだ。あの書状を寄越した者に隠されてしまった本物の海姉上を。
夢の世界をたゆとうままに彷徨った後、僕はすり抜けようとしていたカルーラの手を掴んでいた。
「カルーラ、綺瑪はどこにいる?」
不意をつかれて驚いた表情には、未だ離れ離れになったころのエルメノを髣髴とさせる稚さが残っていた。
思わず、切なさがいつか忘れ捨てたはずの情を誘い、カルーラの腕を掴み寄せるがままに僕はその唇を強く嬲った。
「ちょっ、何の冗談っ!?」
激昂しながら腕を振り払われたことが、今更意外だった。
「ぼくはもう麗ちゃんの玩具にはならないよ! 言ったはずだよ。ぼくが麗ちゃんの側にいたら麗ちゃんを駄目にするだけだって。だからぼくは麗ちゃんとはもうこんな真似はしないって」
「忘れた」
「忘れたなんて、そんな都合いいこと……言わないでよ!」
そして僕はもう一度キスがしたくなってカルーラを引き寄せる。
「離れられないくせに。望んでるんだろ? ほんとは今でも」
「望んでなんかない! 麗ちゃんがこれ以上傷つくことなんか、これっぽっちもぼくは望んでなんか……」
「望みなよ。僕が傷つけば傷つくほどお前は幸せになる。自分が幸せになるために、望めばいいだろう? 僕の不幸を」
「そんなのはぼくの幸せなんかじゃない。麗ちゃんが傷つくことなんか……ねぇ、麗ちゃん。君はもうぼくなんか必要ないでしょう? ちゃんと一人で生きられるようになったでしょう? アイカがいるでしょう?」
「あの田舎娘が僕の何になっているって? カルーラ、教えてくれ。僕は昔と変わった? もうお前にはぼくが必要ないの?」
「困らせないで。今更君に抱かれたからって、何でもかんでも話すぼくじゃないんだ! もう、ぼくは……」
切なそうにカルーラは目を伏せ、開き潤んだ瞳で僕を見つめた。その目に浮かんでいたのが憐憫でも憤怒でもなく、まして愁嘆でもなく、愛情に見えたのは、単なる僕の願望か。
「変わらないでいてほしいものほど、一番に変わっていってしまう……」
傷ついた僕を見て、何もできないただのカルーラが僕は好きだった。求められるがままに体を投げ出すことしかできない単純なカルーラが、僕は好きだったんだ。都合のいい僕の奴隷だったカルーラが。
反抗するカルーラなら、いらない。
そう言って僕はカルーラを自由にしたんだ。僕を初めて拒んだその夜に。どうして僕を拒んだのか、カルーラは言わなかった。言えば、僕とカルーラは未だ直に肌を合わせる仲だったかもしれない。
ほんとは、疲れてたんだ。僕も、カルーラも。どんなに抱いたって、カルーラはエルメノじゃない。抱けば抱くほど、それが嫌なほどわかってしまって。だって僕は本物のエルメノを知らなかったんだから、カルーラを抱きながらエルメノの肌を、声を想像するしかなかったんだ。想像は真実じゃない。どこまでいっても偽物しか僕は抱けなかった。カルーラは僕がエルメノしか求めていないことを分かっていて僕に好きなようにさせていた。辛くなかったわけがないんだ。カルーラが僕を心から求めてくれていることは痛いほど、それこそ魔法石の内側から僕の心臓を焦がしかねないほどに伝わっていたのだから。
愛してる、などと言ったことはなかった。カルーラを愛していたことなど一度もなかったから。その代りにたくさんぶつけた憎しみの言葉は体を重ねれば重ねるほど失望と絡み合って重みを増していった。そんな言葉しかカルーラにはいてやれない自分が、大嫌いだった。
それでも僕らの関係は互いに罪を購いあうように随分と長いこと続いていたような気がする。僕が、海姉上とのことを記憶の底に封じられるようになった時まで。
「相変わらず嘘つきだね、麗ちゃんは」
抱く度に腹の底に溜まっていく闇色の澱が、今は懐かしく唇から うっすらと流れ込んできた。
闇獄界の魔物に身体を借りて甦ったカルーラ。その身体の内には神界で永い時を経た今でも負の感情が蠢いている。どんなにカルーラがそれを押さえつけようと、カルーラがその身体を捨てない限り生臭いそれは消えやしない。
捨てればいいのに。
いっそ、一度そのエルメノそっくりに造った身体を捨てて、まったく違う女の身体で僕に近づけばよかったんだ。そうすれば、もしかしたら何も知らない僕は思わず「愛してる」と言ってしまっていたかもしれない。愛されたいならそこまですればよかったんだ。
カルーラになら、僕は騙されたってよかった。むしろ、騙されたかったのかもしれない――そんなこと、当時は一度も思ったこともなかったくせに、もう戻ってこないのが分かっている今更になってそういう勝手なことを思うんだ。心から求めたわけでもないくせに、無責任に。
「一番初めに変わっちゃったのは麗ちゃんだよ。わかってるの?」
「僕はそんなに変わっちゃないよ。今でも自分勝手に生きたいがために迷子のままだ」
「昔はそんなこと気づきもしなかったくせに。気づいてても言わなかった。振り回したいだけ人のことを振り回して、人の事情なんてこれっぽっちも斟酌しなかった」
「成長したんなら誉めればいいだろ」
「誉められないよ。結局今僕にしたことは振り回すことと同じだったから。考えられても行動が伴ってなきゃ同じだ」
こつり、とカルーラはぼくの額に自分の額を軽く当てた。ほの温かなその額は懐かしい体温を思い出させる。
「熱の精霊王、カルーラ。知らないわけがないんだろ? 同じ精霊王が今どこにいるか、お前たちはちゃんと肌で分かっているんだろう? 水の精霊王がどこにいるかもちゃんと」
カルーラは目を閉じたまま口を開かない。まして、頷きも首を振りもしなかった。
「麗ちゃん、予言書にはなんて書いてあった?」
ぽつりと過去の記憶をえぐるように尋ねられた一言。その一言に引き寄せられるように分厚い予言書のページの開きゆく様が目の前によみがえる。
勝手に開いた予言書。僕に関わるページばかりを開いて見せたそれは、まるで僕を嘲笑う生き物のようだった。
「見てないから、わからない」
「ほんとに? ほんとに何のヒントも見なかったの? 海様にあれほど踊らされた君が、彼女たちに関わることで何も思い当たることがないと?」
「踊らされたなんて言い方するなよ」
「するよ。君は海様に踊らされたんだ。育様も、そして、ぼくも」
目もとが険しくなった気がしたのは、割れようとする悪夢のシャボン玉の気配を感じたから。
「誰も真実を教えてくれない。いつか麗ちゃんはそう言ったね。統仲王から事情を訊ねられて、一番真実を知っているのは渦中にいた君のはずなのに、君は君に起こった事実しか知らなかった。そして、そのまま真実を知ろうともしないで引きこもってしまった」
「やめろよ……やめろったら!」
すぅっと体中にまとわりついていたまどろむような倦怠感が弾き飛んでいた。
突き飛ばされてテーブルの下で尻もちをついているカルーラは苦笑している。
「結局、麗ちゃんは今でも聞く勇気がないんだ。麗ちゃんが知りたいって言ったことは、あの時のことと無関係じゃないのに」
「だから話せないって言うのか? 僕が意気地なしだから?」
「ぼくらは確かに君たち法王の〈影〉だよ。だけど、それ以前に精霊王なんだ。この世の秩序を守るためにぼくらは存在しているんだ」
「トップシークレットだって? あれほど巻き込んでおきながら?」
カルーラは困ったように微笑んだ。
僕はそっと溜息をつく。身体から拭い去られたかと思ったのに、あっさりと身体にはまた鉛のような錘が絡みつく。
「巻き込まれたのはこっちだよ。ぼくも、綺瑪も」
目をそらしたカルーラは、そっと苦い表情を浮かべた。それは、綺瑪の苦労を思いやるような、愛しい人の不遇を慮るような表情だった。
カルーラが何を考えてるか分からないなんて……時が経てば、離れてしまえば、たとえ魂を握っていてもまったく別の存在になってしまうものなのか。もしかしたら、ずっと一緒にいたあの日々でも初めから心など寄り添っていなかったのかもしれない。単に僕がカルーラの全てを手に入れた気になっていただけで。
「昼くらい食べていくんだろ? アイカが今腕によりをかけて作ってるから」
何も聞けないなら、自分で確かめに行くしかないのだろう。こんな、もう何千、何万年も昔のことだというのに、未だ真実から逃げ続けてきた罰とでも言えばいいのだろうか。今なら知りたいと思えるんだから。知って理解できると思えるんだから。
「今更綺瑪の行方を訪ねてどうしようというの? 麗ちゃんの見た神界の終わりはもうそこまで迫っているんだろう? 昔の君なら何の意味もないと執着しなかったはずだよ」
「何でだろうね。終りが分かっているから、足掻きたくなったのかも」
「それだけ?」
カルーラはすっとドアの向こうに思いをはせるように視線を向けた。
「麗様ー、カルーラ様ー、お昼、できましたよー」
食堂から呑気な声が聞こえてくる。
「麗ちゃん、清算するのはいいけど、守り方を間違えちゃいけないよ。アイカはあれで傷つきやすいんだから」
先に立ち上がったカルーラが僕の手を引いてソファから立たせざま、顔を近付ける。タイミングよく扉が開く。
「ちょっと、麗様! 聞こえてますか!? スープ冷めるの早いんですから早く……あら、お取り込み中でしたか。失礼しました」
失礼しましたなんて言葉だけ。じぃっと興味深げにぼくらを眺めた後、惜しそうにゆっくりとアイカは扉を閉じた。
「ちょっ、違うんだ、アイカ! カルーラ、お前わざとやったな?」
「わざとなんて人聞きの悪い」
にやにやとカルーラは僕を見つめる。
「ああっ、もうっ。いいか、カルーラ。海姉上にはこっちの氷河も融けはじめていること、水揚げされる魚の種類が変わってきていることをお前の報告通り話してくれ。それと、水海の国に行く前に禦霊に会って異変がないか聞いておけ。あとは、空だ。お前の報告はいつも下ばかり見てる。雲の動向や何やらは隣の兄上が詳しいだろうからそっちにも寄って情報を収集しとけ。いずれ、統仲王にぼくたち全員に招集をかけさせたほうがいいかもしれないな。海姉上もそう思ってるだろうから、うまくやってくれ」
呆れたカルーラの顔は見なかったことにして、僕はえんどう豆のポタージュスープの香りがくゆる廊下へと転がり出る。
「アイカ! 待て! 誤解だ誤解!」
背中はもう数歩で追いつけるほど近くを歩いているのに、どうしてこんなに遠く見えるんだろう。
「誤解?」
くるりとアイカは歩を止めて振り返る。
軽く蔑みと憤りが込められた笑顔で。
「麗様とカルーラ様のことは、世界的にも有名な伝説ですよ? 聖刻の国の東の果てに住んでいた私のような田舎娘でも当たり前のように知っているこの世で最も有名な噂話の一つですもの」
アイカめ、今、田舎娘を強調したな……。聞いてたんならもったいぶらずに昼ごはんのこと知らせてくれてもよかったものを。
「あのね、一体どれくらい前の話だと思ってるの? 人なんてすぐ死ぬくせに、そんな噂話だけは伝説なんて言っていつまでも残すんだから質が悪いよ、まったく」
謝れ。謝るんだ、僕。田舎娘でも構わないって……じゃなくて、ああ、開き直ってどうするんだ、僕……。
「あーら、麗様にとっては現在進行形のお話のようでしたけど? カルーラ様とのことも、水海法王様に手ひどく振られたことも。まぁ、私のようなすぐに死んでしまう田舎生まれのただの小娘には関係のないお話ですけど」
くるりとアイカは踵を返してすたすたと食堂へ向ってしまう。
「アイカーっ」
なんでっ、魔麗法王たるこの僕がっ、こんな小娘の背中をっ、追わなきゃならないんだっ。
やっとの思いで捕まえたアイカの手は、冷たい水仕事のせいだろう、赤ぎれてがさがさだった。それだけじゃない。みみず腫れのようなケロイドが手の甲を覆っている。
火傷の痕。
「何か?」
憮然とアイカが僕を見上げる。
「カルーラ、水海の国って、確か赤ぎれに効く保湿クリーム作ってたよね。真珠の成分だっけ?」
「ん? ああ、あったね。よく効くらしいよ、水海の国のは」
ただの通行人よろしくカルーラが僕らの横をすり抜けて食堂に入っていく。
「クリームくらい私も持っておりま……」
「お土産に買ってくるから、僕のいない間は家事なんかしなくていいよ」
唇で感じたアイカの手は見た目以上にガサガサに荒れていて、赤いかさぶたにもなりきらない傷がいくつもいくつも折り重なるようについていた。
「もっと早く気付けばよかった」
「れ、麗様……」
珍しくアイカが動揺している。そんな表情も悪くない。
「カルーラ、お昼ごはん食べたら僕も行くよ」
「え、ええっ!? 行くってどこに? どうやって?」
「水海の国に。禦霊を呼んどいて」
「はぁっ? そんな、一国の宰相をいきなり呼び出したら……」
「大丈夫。今日はあいつ、久しぶりの休日とって屋敷で読書三昧してるはずだから」
「なんでそんなこと知って……」
「宰相が休日とった時に決裁するの、誰だと思う? 禦霊が休みわざわざ取るなんて珍しいから覚えてたんだよね。私用の中身がじっくり読書なんて笑っちゃったしさ」
食堂から青い顔を覗かせたカルーラはため息とともに天を仰いだ。
「アイカ、半日で戻るから外出の準備を。僕らが出たら、お前は休みを取って、半日間、好きなことをしておいで」
「ですが、麗様、まだ今日のお掃除やメンテナンスが終わっていなくって……」
「いま必要なのはアイカの手のケアのほうだよ」
珍しく直接的な僕の好意に、アイカは口をあけたまま僕を見上げていた。
「帰ってきたら僕も掃除手伝うからさ。それに、誰もいない城にアイカ一人留守番させるのもなんだしね」
「麗様が、掃除を……するわけないじゃないですか! もう、危なくのせられてしまうところでした。もしお休みをいただけても、私の寝泊まりしているところはこのお城にあるんです。他に行くところなどございませんから、安心してお勤めに行ってくださいませ」
「それならいっそ、一緒に行こうか? 水海の国。美容にいいスパがあるって言うし、なんなら聖刻の国に里帰りしてもいいんじゃないのか? どんなに東の果てでも、禦霊の翼があればひとっ飛びだよ」
瞬く間に、アイカの表情が陰り、頭が垂れていったのを僕は目の当たりにした。
アイカは顔も上げないまま両手で僕を食堂に押しやった。
「外出の準備は整えておきますから、冷めないうちにお昼をお召し上がりください」
それは初めて聞くアイカの感情を押し殺した声だった。
そう。僕はそれまでアイカがどうしてこの北の果てに来たのかさえ知ろうとしていなかったんだ。