聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

第 3 章  ニセモノの世界

1‐1

 何故、好きになってしまったんだろう。
 いつの間に好きになってしまったんだろう。
 僕にはエルメノがいるはずなのに、どうしてエルメノ以外の人のこと、考えているんだろう。
 それも、血の繋がった自分の姉のことを――。
『麗、見て、これ。綺麗に編めたでしょう? レースのコースター。よかったら使ってくれないかしら?』
 差し出された白いレース編のコースターを手にとって、僕はしげしげとそれを眺めるふりをしながら隙間から美しい長姉の顔を見つめる。高鳴る心臓の音が聞こえなきゃいいと祈りながら、それでも彼女を見ることをやめられない。
 美しい人だった。儚げな線の細い容貌も珊瑚色の引き締まった小さな唇も、上品な小さな鼻も、美しく背を覆うほど長い黒髪も、憂いに満ちた藍玉の瞳も、ふとした瞬間に触れることを許される冷たくも柔らかな指先も、何もかもが美しくて愛おしい。
 だけど、僕は気づいていた。長姉は確かに優しい。母である愛優妃が僕からエルメノを引き離して以来、僕にとって母はいなくなったも同然だった。子供だった僕が純粋に愛情を受け入れられる人はいなくなって、それでもまだ子供らしく誰かの腕の温もりを欲していたとき、同じ匂いのそれを与えてくれたのが長姉の海姉上だった。純粋に甘えるだけで満足できていた幼い日々。それからいつのまにかカルーラを、言い寄ってくる年若い侍女たちを無感動に抱くことを覚えて、それでも海姉上は母のような存在でしかなかった。
 だって、彼女は血が繋がっているから。男の身体を持つカルーラに憎しみをぶつけがてら身体を弄べても、どんなに歳をとった老女に偽りの愛を囁けても、同じ腹から生まれた者にたいして同じ感情は抱けない。姉上と呼ぶ人を女性とは見られない。あれほど清楚で純粋で優しい人を、たとえ妄想の中だとて、穢すことは許されない。
 そう、海姉上は僕にとって聖母同然だった。愛優妃など崇めるにも値しない。だけど、僕はこの人の前になら膝を屈し、喜んで頭を垂れることが出来た。
 エルメノを引き剥がされ、母もいないものとなり、父は厳しく法王としての生き方を押しつけ、〈影〉と自称するカルーラも信じられず、周りは敵だらけだったとき、海姉上だけが僕のことを理解しようとしてくれたんだ。はじめは何も言わずにお茶やクッキーや紅葉型のつくりの凝った小さな和菓子を出してくれ、ぽつりぽつりとこぼれだした僕の本音を頷きながら聞いてくれ、一切の否定はせず、そして、必ず最後にはこう言ってくれる。
『麗、貴方は一人じゃない。私は何があっても貴方の味方よ』
 すでに二十三、四くらいの容姿で時を止めていた海姉上が、十歳前後の子供のままの僕を一人前に扱ってくれているのが嬉しかった。この人は絶対に僕を裏切らないと、子供だからこそ純粋に信じることが出来た。
 永い子供時代の身体を捨ててようやく成神したときも、それは変わらなかった。そう、いつから海を姉としてではなく女としてみるようになったのか――
『そういえば、育兄上はお元気?』
 はっとしたように上げた顔がかわいらしい。今や僕よりも背が低くなり、僕よりも力がなくなってしまった海姉上。上から覗き込む海姉上の顔は、小さい頃に思っていたよりも少女のように純真で、あどけなさが残っているように見えた。そんな発見さえもこのごろの僕には愛おしいのと同時に奪い取り破壊してしまいたいような衝動を掻き立てる。
『元気だと思うわ』
 濁しかけた言葉を唇を軽く噛んで感情のみ取り除く。
『隣国なのに連絡取ってないの?』
『必要がなければいくら隣でもとることはないわ』
『僕のところにはしょっちゅう来てくれるのに? もしかして僕がただこうやって遊びに来るのも迷惑?』
『そんなことは……ないわ!』
 必死に顔を上げたのは、僕が来ることが迷惑だと言いたいんじゃなくて、自分が長兄に連絡を取れないのは奴に対して血の繋がりを越えたやましい想いを、願いを抱えているからだということを悟られたくなかったからなのだろう。
 僕は、とっくに気づいているというのに。
『それよりも、貴方少し痩せたんじゃない?』
 育兄上の話を持ち出すと、必ず別の話題に摩り替えようとする。いまだにそれは、僕を子ども扱いしている証拠で、どう転がったって僕を男として意識してくれてないことを意味してる。
 彼女は僕の前では楚々たる聖母。だけど、あれは、そう、成神する直前のこと。天宮で育兄上と海姉上の〈影〉である綺瑪とが二人きりで話し込んでいるのを、木陰からじっと見つめる海姉上の姿を見たとき、僕は聖母の仮面の中に一体どれだけの嫉妬と失望とを包み込んできたのかを知ったんだ。彼ら二人はまるで恋人のように語らっていて、それを見つめる海姉上の表情は、神界にはあるまじき、今思えばあれこそが嫉妬にとりつかれた鬼の顔だったのだろう。その険しさは、到底普段僕らにみせる顔からは想像もつかない。一体いつから想いを募らせていたのか、想像するだけでも僕ら神の子の生きる年月を思うと言葉を絶する。
『そんなことないよ』
 ねぇ、姉上。貴女はいつまで僕の母親を気取るつもり? 母親のふりをしていれば安全だと思ってる? 息子が母親に劣情を抱くはずがないって? でも、それは違うよ。同じ想いを抱えている姉上なら分かるでしょう? 血なんて何の意味も持たないことを。お互い、血縁に惹かれあうのはもはや血の呪いとしか言いようがない。罰のように与えられた永い時の中に閉じ込められれば、刹那のものなど愛せない。大切な時間ほど瞬く間に過ぎ去って、後に残された爪痕は二度と癒えることなどなくなってしまうから。
 だから、僕らはお互いのことを必要とするのかもしれないよ。
 永遠という時に縛られた者同士、先に失われることのない存在を。
 もっと増えればいいのにね。僕らと同じ永遠の命をもつ存在が。そうすれば、僕らは同じ種と愛し合い、孤独を抱えて生きなくても済むのに――。
「麗ちゃーん? 麗ちゃーん?」
 間延びしたあの声はカルーラ。
 何だ、ようやく風呂から上がってきたのか。
「よかったー。麗ちゃん起きなかったら、僕、ここに来た意味もなく帰らなきゃならないところだった」
 紫色の瞳が間近から覗き込んでいる。僕と同じ瞳の色。その中に映る僕の姿は、成神したばかりのあの頃と変わらず、しかし、どこか表情が丸みを帯びて見えた。
「帰らなきゃならないって、さっき来たばかりだろう」
 海姉上の夢、か。
 それも、まだ自儘に自分の想いを押し付けることしか考えられなかった頃の、かなり若かった頃の夢。いつもならあの後に続く一連の出来事を思い返して具合が悪くなるところだけれど、どうしてだろう、今日は溜息一つで記憶ごと味わった辛酸も胸の奥から消えていた。
 横たわっていた薄緑色の天鵞絨のソファは、身を起こそうとした僕の身体を心地よく押し返し、掛けられていた毛布がいささか床にずり落ちてうっすらとした肌寒さを腕に感じさせた。骨身に凍みる寒さは、どれだけストーブに薪をくべようと、どれだけいい毛皮を纏おうと、防ぎきれるものじゃない。それを思うと、この国で安心して温度に身を任せられるのは、湯船に使っているときくらいのものかもしれない。
「さっきって、もう二時間くらい経ってるし」
「二時間……アイカ、お昼は何?」
「お昼はサーモンとタラコのバケットサンドです」
「いいね、僕サーモン好きだよ」
「ええ、今日は脂ののったサーモンが手に入りましたから、きっと麗様にもご満足いただけると思います」
「てわけで、カルーラ、お前も食べていけ」
 僕の言葉に、カルーラは無理やり引きとめられたような表情をして苦笑を浮かべた。
「麗ちゃん、体調悪いの?」
 心配げに――奴はいつも僕を見ると母親のように心配そうな顔をする――カルーラは僕の頬を手のひらで包み込んだ。
「悪くないよ。お前の風呂が長過ぎるから、朝も食べ終わってやることもなくて寝ちゃったんじゃないか」
 あったかいカルーラの手を引き剥がして、僕はソファから立ち上がる。
 カルーラは僕の言葉だけじゃ信用できないのか、ちらりとアイカを振り返って同意を求める。
 アイカは困ったような表情を浮かべてみせる。
「アイカ、お昼」
「はい」
 これ以上余計なことを言われる前に、僕はアイカを炊事場へ追いやった。
 あからさま過ぎていようが構うものか。カルーラには大概の隠し事は通じない。僕が語らなくても、些細な僕の様子から異変を感じ取れば、奴は自分ひとりで勝手に調べて、僕のいいようにあとは振舞うのだ。ほんと、〈影〉のように。
 体調が優れないのは、闇獄界から戻ってきたあの幼いときからずっとだ。精神だっていかれて久しい。今現在に限って具合が悪いってわけじゃないんだ。これは慢性的なもの。暇があればよく眠ってしまうのだって、眠り病にかかったわけじゃない。そんな病があるなら、僕は当に望んで罹患したことだろう。永遠に目覚めなきゃいいと願いながら。
 ただ、特にこれといって疲労するようなことがなくても、引きずり込まれるように眠っていることは多くなった気がする。
 法王は神の子だ。病になどまずかからない。仮に凶悪な風邪に冒されたとしても、二、三日もすれば熱も下がり、症状も治まる。どんなにひどい病にかかったって、僕たちは死ぬわけがないんだ。どんな病でも必ず治る。それが法王の身体である証。
 しかし――聖は違う。
 統仲王と愛優妃の第八子。僕にとって唯一の妹。左右で髪の色も瞳の色も違うイレギュラーな存在。あれは、幼い頃から繊弱だった。母の手ではなく、乳母と次兄の手で育てられたからだとは一概には言えないが、何かを恋しがって、まだ意識も芽生えないくらい幼い頃から、あれは自ら病にかかりたがっているように僕には見えた。病にかかれば大勢の人々が心配する。その心配する様を見て安心して少し元気になる。でも、意識が自分からそれればまた熱を出してみる。あれは、ずっとそんな感じで生きているように見える。そんな病にかかったふりを続けるうちに、本当に身体に病の巣を作ってしまったように、僕には見えた。
 弱い妹。
 僕はあれが一番嫌いだ。
 病にかかったふりをしているだけなのに、その度に統仲王も含めたくさんの人々の注目と同情を集められるのだ。あの妹は末っ子だというだけで。僕がひそかに心の中に魔を飼い出したことには誰も気づかなかったというのに。いや、気づいていても誰もそれをおかしいとは言わなかった。そういうものに育ったのだと思っただけのようだった。たとえ僕が熱を上げて潤んだ目で泣き喚いたところで、一体何人の人が僕のことを心配してくれただろう。いや、たくさんの人に心配されたかったんじゃない。僕も聖も、ただ一人の人に心配してもらえればよかったんだ。それなのに、僕の願いは聞き届けられなかった。
 母上。
 エルメノでも海姉上でもなく、幼い僕が期待したのは結局母の腕だった。僕が何も知らない純情無垢な頃に信じていた母上の腕。もう、どこにもそんなものはないのに、それでも熱に浮かされるたびに夢見たのは母の腕、匂いだった。愛優妃がついていてくれなかったわけじゃない。あの人はちゃんと熱を出した僕の側にいて、心配そうに何度も額のタオルを冷たいものに変えてくれた。でも、違うんだ。あの人は、結局僕に何も詫びてはくれなかった。僕からエルメノを引き離したことを心から悔いてはくれなかった。だから、そんな人が側にいても余計に苦しいばかりで、僕はどんなにうなされても寝室に誰も入れなくなってしまったんだ。どうせ、死ぬことはないのだからと悪夢の世界に入り浸っていた。
 だからといって、今の僕はその頃の僕とはまたちょっと違ってきているはずだった。アイカが魔麗城に来てからの僕は、毎日が満たされていると同時に極限まで飢えさせられていて、その切なさがまた幸福だった。アイカの腕に母の腕を重ねる気などない。ようやく、僕は僕以外のものを愛せるようになったんだ。彼女を心から困らせることは極力したくない。病にかかるなんてもってのほかだ。アイカは心配性だから、くたくたと不摂生を説教しながらも食事に気を配り、僕の看病に精を出し、むしろあいつの方が倒れかねない。そんなことになったら、この城から暖炉の火が消えてしまう。そしたら僕もアイカも凍え死ぬ。ああ、死ぬのはアイカだけか。だけど、一体、この城の外に薄着で出ればこの身体とて普通に凍傷を負うのだ。本当に法王でも死なないことなんてあるんだろうか。誰も試したことがないから、不老なだけなのに不死などと思われいてるだけじゃないだろうか、本当は。
 不老不死。それが即ち神と神の血を継ぐ者たちに与えられた永遠の命なわけだけど、僕は最近その不老に関しても怪しいものだと思っている。
 僕が最近よく眠くなる理由。思い当たるとしたら、ジリアスが診ている聖の診療に僕も参加させられるようになってからのような気がする。ジリアスは羅流伽の大公であり北方将軍だ。いくら法王の侍医とはいえ、朝から晩まで別国の患者についていられるわけがない。だからジリアスが政で手が回らない時は弟子である僕に聖を診てやってほしいと、強制的に僕はあれのもう一人の主治医にされてしまったんだ。伝染するような病じゃないとジリアスは言っていたけど、結局のところ原因は不明。分かっていたらとっくに治療薬を見出し、今頃聖は仮病さえも使えないほどに快復していることだろう。
 そう、僕らにとっては原因不明の聖の病だけど、僕はうすうす感づいているんだ。聖はその病の正体を知っている。
 それまで熱は出しても命を本格的に脅かすほどではなかったのだ。あらかたどんな病にかかっているのか診断を下せもした。なにより、どんなにだらだらと長く病と遊んでいようと、必ず小康状態が訪れたのだ。それが、どれくらい前だろう。僕らの感覚では割と最近、聖の身体は劇的に悪くなった。身体の見た目は十六歳を保っているように見えても、内臓や血液や筋肉やらが少しずつ老化を始めたのだ。何かに時を吸い取られてでもいるように、病の進行は立ち止まることを知らない。聖の側近くで看病に当たっていた侍女たちも、調べてみれば寿命短く早々に老いて死んでいた。
 ただの偶然かもしれないけど、もし聖の病が体内の時の流れを早めるものであるならば、もしそれを病と呼べるなら、聖の診療に当たった後、僕がひたすら眠りに落ちてしまうのは、削り取られた体力を回復するように時を取り戻すための神の子ならではの自衛策なのかもしれない。
「待ってよ、麗ちゃん」
 駆け寄ってきたカルーラは僕の前に一つの書状を差し出す。
 封をする蝋に押された印は、菖蒲。
 思わず、僕は顔をしかめる。
「何の悪戯だ」
「悪戯じゃないよ。正真正銘、海様から預かってきた書状だよ」
「海……姉上から? はっ、からかうにもほどがある。海姉上から僕あてに書状なんて来るわけがないだろう?」
「だから、僕が直接持ってきたんだ。他の人じゃ麗ちゃんが信じてくれないと思って」
 僕はカルーラを睨みつけた。
「お前が思ったんじゃないだろ。海姉上がお前を呼んでこれを持たせたんだな?」
「……そうだよ」
 言いにくそうにカルーラは僕から目をそらした。
「気ぃ使わなくていいよ、今更。どうせ使うなら、これをクレバスにでも放り込んできてくれればよかったんだ」
「麗ちゃん!」
 受け取るだけ受け取っては診たものの、僕は手の中でそれをもてあます。何が書いてあるのか、僕個人に関してのことじゃないことくらい分かっているのに、開けるのが躊躇われる。
 今更なんだ。今更。もう、何年前かも覚えちゃいない。ただ、遠い昔のこと。それ以来、海姉上とは行事のために天宮で顔を合わせることはあっても話すことは愚か、こんな親書をやり取りすることだってなかったのに。
「中身、なんだって? あらかた筋は聞いてきたんだろ? 僕がこれを破り捨ててしまった時のために」
「世界に関わることなんだよ。ちゃんと開いて読んでよ」
「世界に関わること? はは、どうしてそんな大きなこと、統仲王にじゃなくて僕に伝えなきゃならないんだ」
「それは……いいから開いてみてよ!」
 のせられそうになったことに気づいたカルーラは、慌てて口を噤む。
 僕は深く息を吐き出して、机の引き出しからペーパーナイフを取り出した。菖蒲の紋を二つに両断して、書状を開く。
 そこには、繊細な女文字がつらつらと並んでいた。細いながら芯は通っていて、文字の大きさも変わることなく、インクが滲みを作ることもなく、すらすらと語りかけるようによどみなく文は続く。
「これ、ほんとに海姉上が書いたの?」
 目を通し終えた僕は確認のため、いまだ僕が書状を破るんじゃないかとやきもきしているカルーラに視線を投げかけた。
「え? そうだよ。僕の目の前で書いて封をしたんだから間違いないよ」
「……ふーん……」
 僕はもう一度その親書に視線を落とす。
『この一年で潮の流れが変わってしまったようです。一時的なものと思い、何も知らせずに監視を続けてきましたが、通常、羅流伽遠海から魔麗の国近海に流れ込んでいた海流が、天龍の国と聖刻の国も越え、我が水海の国にまで流れ込んでいます。この寒流の影響で、火炎の国から流れ込んでいた暖流も押し返され、水海の国の近海に棲む魚達も多くが南へ流れるか死滅するに至りました。気温も満足に上がらない日々が続き、冷夏のせいで農作物の収穫も芳しくありません。北方で何かよくないことが起きているのではないでしょうか。異変に思い当たることがあれば教えてください。』
 なるほど。世界的な海流の流れが変わり、世界単位で気温や生物の棲み分けやらに影響が出ているわけだ。特にも暖流に守られた水海の国では気候そのものが変わりはじめている。獲れる魚が変わってしまっては、北方の漁港と出荷する魚の種類も時期もかぶってしまって、漁村も苦しい状況に置かれていることだろう。何より、水海の国沿岸の珊瑚は宝物としての価値も高く、漁村部の生計の核になっているが、それも暖海でなければ生育しない。ということは、これからさらに水海の国は経済的に窮地に立たされることになるだろう。
 だけど、僕が気にしたのはそんなことじゃなくて、親書を埋める几帳面な文字の群れの方だった。
「海姉上は、お変わりない?」
「何を今更。変わりなく元気だよ」
「そういう意味じゃなくて、誰か別な人に変わってるとか……」
「何言ってるの、麗ちゃん。そんなわけないじゃん。海様は海様だよ。今も昔も」
「なら、今まで海姉上が統仲王や他の兄弟たちに宛てて書状を書いたことは?」
 カルーラは僕の剣幕に驚いたように目を瞠り、それから記憶を探るように緩慢に首を横に傾げた。
「うーん、どうかなぁ。僕が知ってる限りではそれ以外見たことはなかったけど……何が気になったの?」
 海姉上からもらった手紙は全てあの時に焼き払ってしまった。一つくらい残しておけばよかったかもしれない。でも、あれほど楽しみに待ち焦がれていた海姉上からの手紙だ。姉上の文字は目に焼きつくほど何度も何度も読み返している。海姉上の文字は、細くて、すごく頼りないんだ。美しいけれど、儚い文字。こんなにしっかりした芯は入っていなかったはずなんだ。
「これは僕の知ってる海姉上の字じゃない」
 書状の端を握りつぶし、僕は呻くように呟いた。
 カルーラはまたまた、とからかうように暢気に笑っている。
「そんなわけないって。僕が証人だよ。僕こそ信じられないって言うかもしれないけど、それは正真正銘海様の直筆の書状だよ」
「だけど、姉上は今まで書状を書いたことはないんだろ? 親しい者なら文字の違いに気づくかもしれないから避けてきたなんてことは……」
「考えすぎだよ。執政官が代筆してることだってあるだろうしさ。でも、今回は麗ちゃんへの依頼状だもん。他の人の手は通せないと思ったんじゃない?」
「でも、この字は……」
 僕はそこまで口走って、はたと口を噤んだ。
 海姉上のこととなると、決まって僕の心はあの時のことに関連づけて考えないようにしてしまう。長い時が経っていれば、文字とて変わるものだ。昔は繊弱な文字でも、何百、何千と時を経ればしっかりとした芯が芽生えてくるものかもしれない。
 懸命に自分にそう、言い聞かせる。
 ありえない自分の推測を掻き消すために。
 けれど、目の前の文字は主張している。この字を書いたのは、とうに死んだはずの綺瑪である、と。
 海姉上の〈影〉だった女。
 次兄龍の恋人であり、育兄上からも想われていた女。
 なおかつ、長兄と末妹以外の僕ら兄弟の名付け親。
 彼女は、育兄上と海姉上が禁忌の情を交わすに至る際、〈影〉でありながら止めることをしなかったばかりか二人が逢瀬する手引きをしたとして罪を問われ、責任を感じて自ら命を断った人だった。
 海姉上の元を訪れる度、綺瑪にはいつもよくしてもらっていた。おいしいお菓子をご馳走になったり、彼女の書いた水生動物に関する書物を写本させてもらったり。そう、だから僕が綺瑪の字を見間違えるわけがないんだ。あんなに分厚い本を写す間、ずっと彼女の書いた文字に触れてきたんだから。探せばまだ奥の書棚のどこかに返しそびれた彼女の本があるんじゃないだろうか。それと照合すれば、この文字が綺瑪のものだと確信できる。
 そう、確信して。それから?
「麗ちゃん、ほんとに、これは海様が書いたものなんだよ。僕はこの書状に対する返事を海様のところに持って行かなきゃならない。もし麗ちゃんが何も押さえてないって言うなら、僕がこの一年独自に調査した結果を持って行くつもりだったけど」
「カルーラが調査した結果が僕が知っている答えのすべてだよ」
「麗ちゃん!! めんどくさがらないで……」
「だってそうだろ。僕がお前を自由にさせてる理由、分かってるんだろ?」
「それは……」
「で、お前の得た調査結果っていうのは? 海姉上より先に僕が聞くべきことだろう? お前は話す順番を間違えてる。まずは魔麗の国も含めこの辺に起きてる異常の報告、それから関連付けてこの書状を出すのが正解」
「ごめん。つい、機嫌いいうちに早く渡さなくちゃって」
「それも正解だろうけどね」
 僕は海姉上からの書状を机に投げ出し、もう一度さっき眠っていたソファに身体を横たえた。
 これからおいしい昼食だっていうのに、この身体は食欲よりも睡眠欲のほうが強くなってしまっているらしい。少し立って人と話したくらいですぐに疲れてしまうなんて、聖の病が伝染ったせいだけじゃないのかもしれない。
「麗ちゃんは気づいてた? ここ一年、魔麗の国は気温が上昇している。氷河や氷山があちこちで融けて洪水が増えたし、海面が上昇して住んでた家が水浸しになって村ごと引っ越したところもある。永久凍土も融けはじめて新しい川もできたみたいだよ」
「うん」
 海面上昇で水没した村を内陸に移して農耕の手ほどきを受けさせたのは記憶に新しい。洪水もいやに多い一年だった。新しい川の話は初めて、か。
「それもこれも、寒流が魔麗の国の近海に流れ込まずに沖合いを通り抜けていってるからじゃないかな。それと、天龍の国までしか上がってこなかった暖流が魔麗の国まで伸びてきているようだよ。沖の潮目と近海の暖流に乗ってきた魚のおかげで、魚市場の品揃えはこの一年でかなり様変わりしたね」
「ふぅん……」
「ちょっと、麗ちゃん、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる……」
 視界が白く霞がかってくる。瞼を何度も瞬かせて、それでも抗いがたい眠気が強制的に僕の意識を引き抜いていこうとする。
「禦霊に…も…伝えて……策を講じさせて……」











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