聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章  合わせ鏡

 ◇ 6‐2

「どうしたの?」
 鏡の裏側を見て立ち尽くす安藤の兄は、駆けつけた僕に鏡を指差してパクパクと酸欠の金魚のように口を開閉してみせた。
「どうした、木沢」
 おせっかいの守景洋海も異変を感じて走ってくる。
「化け……物……」
 安藤の兄はそれだけを口にすると、こみ上げてきたものを堪えるように口元を押さえた。
「化物?」
 指差す方向にいたのは、桔梗と葵お姉ちゃん、それに樒お姉ちゃん。
「どこが化物だよ。桔梗たちのこと指差して……」
 確かに樒お姉ちゃんはさっきの時点で違うものになっていたと思ったけれど……。
「あ……!」
 やられた、と思った。
 桔梗と葵お姉ちゃんの身体からもあの懐かしい魂の気配は消えていた。
 偽物だ。
 確かに本人達の格好をしているのに、もはや中身が生命力のない停滞した何かになってしまっていた。
「安藤のお兄さん、さっき、化物って言った? 人の姿じゃないものが見えてるの?」
 震える安藤の兄の肩を掴んで、僕は聞きこんだ。
 安藤の兄は真っ青な顔で、にやにやとこちらを見ている樒お姉ちゃんたちの方をもう一度ちらりと見やり、また口元を押さえた。
「あれのどこが人に見えるって言うんだ」
 ようやくそれだけを口にする。
「光くん、変なこと吹き込まれちゃ駄目よ? 私達のどこが化物ですって? 安藤君もよ。こんな年頃の女子高生をつかまえて、化物呼ばわりはないでしょう」
 口調は桔梗だ。顔も、姿も仕草も、桔梗だ。桔梗だけれど、違う。
「そうだよなぁ。あたし達のどこが化物に見えるってんだよ。化粧が濃いわけでもない、五体満足でみずみずしいこの肌が見えないのかよ」
 葵お姉ちゃんが僕と安藤の兄の前にずいっと袖捲くりした腕を差し出す。
 白く透けた腕の内側。こんなにも白かったのかと驚くほど、雪のように白く張りがあり柔らかそうで、思わず触れたくなる。葵お姉ちゃんの腕にもかかわらず。
 これが人のものでなくて何のものだというのだろう。人形だって、ここまで潤いと張りに満ちた肌は作れまい。
「ぼうず、触ってみろよ」
 無理やり掴まれた手は、無理やり葵お姉ちゃんの腕に触れさせられる。柔らかくて弾力があって、ちょっとひんやりしていて、でも、無機質なもののように全く体温がないわけでもない。脈は――探る前に手を取りのけられた。
「な? これでも違うって言うのか?」
 葵お姉ちゃんの言い方は、まるで僕を脅迫するかのようだった。そのかわり、一度も安藤の兄には視線を投げかけていない。
 本人ではないけれど、本人の思考をなぞりながら場面ごとに本人らしい対処の仕方が出来るもの。それは、本人と一体どう違うのか。他者にとっては同じじゃないのか? 及ぼされる影響は。
 麗とエルメノのようだ、と僕は思った。
 どちらが本物でも周りにとっては大した影響がない。麗であることをやめたがっていた僕には、それはとても好都合だった。自分が偽者だったらいいと何度思ったことか。なのに、最後に選んだのは本物であることだった。
 エルメノの手が、僕の手をすり抜けていく。
 愛優妃の愛情も、僕の心をすり抜けていく。
 この世界はそのうち大量の偽物でいっぱいになることだろう。もしかしたら昨日、今日会って話していたクラスメイトの中にも何人か偽物がいたのかもしれない。確かにイグレシアン・サーカスに行って来たと言う奴が何人もいたんだ。僕たちは何も気づかなかったけれど、あいつらも入れ替わってしまっていた可能性はある。そうだ、魔麗城の地下で眠らされていたあのたくさんの人々。あれはサーカスに行って帰りにこの鏡を潜り、偽物と入れ替えられた本物たちだったんじゃないだろうか。
 僕は守景洋海を振り返った。
 守景洋海も厳しい表情で僕を見下ろしていた。
 こいつも同じ結論にたどり着いている。
 エルメノ。お前は一体何を考えてる? 違うと否定されても、安藤朝来はエルメノ、お前としか思えない。転生していたのか? いや、そんなことよりも、本物になることを自ら拒んで僕を励ましつづけたお前が、どうして今更偽物を大量生産しようとする?
 何故?
「違う」
 僕は深い溜息とともに葵お姉ちゃんへの答えを吐き出した。
「安藤さん、あなたにはこの人たちどういう風に映ってるんですか?」
 じり、と、守景洋海は葵お姉ちゃん達との間合いをとるために安藤のお兄さんを後ずさりさせる。
「見えていないのか、本当に。大木に蔦が絡みついたような黒い塊だよ、あれは」
「もしかして、学校でも見かけなかった? 外歩いているときでもいいんだけど」
 僕の問いに、安藤のお兄さんはごくりと生唾を飲み込んだ。
「誰も信じてくれないと思ったんだ。だから、守景さんが鏡見ておかしなことになってるの見て、もしかしたら分かってくれるかもしれないって……」
「日本中ってのは言い過ぎかもしれないが、東京中にはこいつらが溢れはじめてるかもしれないってことだな。昨日、外国のお城の地下で見たあれが本物なら、かなりいるんじゃないか?」
 地下の広大な広間に寝かされた老若男女たくさんの人々。確か中央の穴に順番に落とされていってたと思ったけれど……関係ないといったのは僕だ。禦霊が現れても、僕には関係のない人たちだと追及しなかった。
 どうして僕と守景洋海だけがあそこで目覚め、都合よく帰ってこられたのか。僕らはサーカスの鏡を潜ったわけでもないのに、どうしてあそこで目を覚ましたのか。さっき、どうして僕だけが無事にこっちの世界に戻ってこられたのか。
「だとしたら、どうする?」
 幼いながら凛とした声が僕らの間に割って入った。
「だとしたらって、僕たちが見たあの人たちがみんな本物で、ニュースにもならないくらいこっそりと入れ替わっていたってこと?」
「そうだよ」
 僕がさも馬鹿げた持論を展開しているとでも言うように、私服に着替えた安藤朝来はせせら笑うような表情で僕を見下ろしていた。
 樒お姉ちゃんや葵お姉ちゃん、それに桔梗までもが、そんな僕を見てくすくすと笑っている。ありえない、と。
「返せ! 桔梗を返せ! 樒お姉ちゃんや葵お姉ちゃんも、返せ!!」
 どうして桔梗にあんな表情をさせるんだ。どうして、樒お姉ちゃんや葵お姉ちゃんまで巻き込むんだ。
 僕に胸倉をつかまれた安藤は、苦しげに表情を歪めながらも余裕は失わない。
「関係ないんじゃなかった? 君は自分ひとり安全ならそれでいいんだろう?」
「そんなことは言ってない!」
「言ったさ。言った。僕もそう言ったし、君もそう言った」
「僕もそう言ったし? 何だよ、それ」
「忘れたの? 僕と君は二人で一つ。同じ人間だったじゃないか、魔麗法王という、れっきとした神の子だったじゃないか」
 ぐっと僕は息を飲み込んだ。
 安藤は悪びれもせず僕を見つめている。
「確かに言ったね。昨日、君は自分は神の子なのだと」
「ああ、言ったよ。おかしいなと思っただろう? どうして神の子は自分のはずなのに、って。他の兄弟も見つかっているのに、どうして今更そんなこと言い出す奴が現れるんだろうって」
「思ったよ。思ったけど、僕も魔麗法王だというのは答えが違う。僕だけが魔麗法王であったんだ」
 苦々しく僕が言い捨てると、安藤は悲しげに顔を歪め、胸倉を掴む僕の手を見つめた。
「言ったじゃないか。僕も麗だと。僕こそ麗に相応しいと」
 エルメノ――隠す気もなくなったのか、彼女は僕の麗の記憶をつつく。
「僕に麗になれと言ったじゃないか」
「言ったよ。安藤にではなく、麗の幼馴染のエルメノに。エルメノ、お前、本物の安藤さんはどこへやった?」
 エルメノはにっこりと微笑む。
「何を言ってるの。僕が安藤朝来だよ。そうでしょ、お兄ちゃん」
 エルメノに同意を求められた安藤の兄は、何かに迷うように口ごもる。
「安藤さん、姉ちゃん達が化物に見える目を持ってるなら、こいつだって本物の妹じゃないことくらい見分けられるんじゃないか?」
 わなわなと唇を震わせながら安藤の兄は視線を斜め下へとそらす。
「妹にしか見えないんだ」
 兄は絶望の表情を、妹は勝ち誇った表情を浮かべた。
「おれには朝来は朝来にしか見えない。違和感はあっても、他に朝来がいる気配がしないんだ」
「当たり前だろう、お兄ちゃん。僕は一人しかいないんだ。お兄ちゃんの妹は一人しかいない。僕が僕にしか見えないのは当たり前。鏡を覗き込んだとき、誰もいま映っている自分が嘘の姿だなんて思わないだろう?」
 信頼と経験が僕らの真実を歪曲している。
 誰も、経験したこと以外を積極的に肯定しようとは思わない。誰も自分が信じたくないことは信じようとは思わない。
 これだけ今目の前にいる安藤朝来はあのエルメノであると印象付けられていながら、同時に安藤朝来自身であるはずがないのに否定が出来ないなんて、馬鹿げてる。
 本物も偽物も、分かるのは本人達だけ。それならば両方とも本物として肯定してやればいいのかといわれれば、それは違う。断じて正解にしちゃいけない。本物が二ついたら、アイデンティティがなくなってしまう。何より、二人生まれた時点から彼らは同じ存在を名乗りながら違う時間を過ごすことになるのだ。生まれた後も同じ本人にはならない。
 そういえば、どちらが本物の母親か、子供の手を引っ張らせて見分けた話があったっけ。本物の母親なら子供への情で先に手を引くはずだとか何とか。でも、子への憐憫よりも自分の所有欲の勝った女が本物の産みの母親である可能性も捨てきれないわけだ。結局、あの大岡裁きは子供にとって育ちやすい環境を与えてくれる母親を本物だと認定したに過ぎない。確実に本物であることを証明してはいない。
 ああ、本物かどうか分かるのは本人たちだけと言ったって、偽物も偽者の意識を植えつけられていなければ自らを偽者だなんて思わないだろう。僕が僕自身を木沢光であることを疑えないのと同様に。他に誰になれるというのだろう。自ら偽名をつけたところで、それは本物の自分に回帰することにはならない。紐解けば、人間であることさえも疑わしく、確実に言えることは自分は一個の存在であるということだけ。
 これが、死んだ人が生き返って戻ってくるというのなら正体が魔物であってもまだ感謝のされようもあったろうに、生きている人間を二人にしたって、誰も喜びやしない。生きている者が二倍になるから真偽が分かれる。生と死に分かたれていれば、ここまで苦い思いをさせられることもなかった。
「安藤朝来さん。あんたさっき自分は魔麗法王だったって言ったね」
 慎重に言葉を選びながら、何か一つでも明らかにしたいらしい守景洋海が安藤さん、もといエルメノを覗きこんだ。エルメノは臆する風もなく胸を張って頷いてみせる。
「ああ、言ったよ」
「じゃあ、魔法石、持ってるんだろう?」
「勿論さ」
 にやりと笑ったエルメノは、胸の内から紫水晶の如く妖艶な紫に透けて輝く石を取り出した。昨日の魔麗王と僕との会話から、エルメノは魔法石は持っていないと踏んでいたのだろう。守景洋海はただ呆然と輝き放つ紫の石を見つめる。
「なんなら〈紫精〉に変形してみせようか?」
 くつくつくつと人を食った笑い声をたてながら、エルメノは手のひらで紫の石を弄び、ほら、といった瞬間に長槍へと姿を変えさせ、その切っ先を守景洋海の喉元に突き当てた。
 寸止めだったとはいえ、風圧で薄皮が切れたのだろう。上げた顎の下から、うっすらと赤く血が滲みはじめる。しかし、そんなこいつはそんな脅しに屈するような奴じゃなかった。
「安藤さん、妹さんってもしかしてもう一つ名前があるんじゃないですか? 安藤朝来という名前の他に、たとえば、エルメノ・サースティン、とか」
 安藤の兄は守景洋海を見上げ、エルメノと名乗る妹を見つめ、もう一度守景洋海に視線を戻した。
「その通りだ。妹のもう一つの名前はエルメノ・サースティン。もう一つの世界での名前だ」
「お父上が心配なさってましたよ。娘が人質に囚われている、と」
 落ち着いて気を配った守景洋海の声に対し、しかし安藤の兄は俄かに激昂したようだった。
「心配していた? 朝来を? 人質にとられているから? ふざけんなっ! 自分はただ寝ているだけのくせしてこっちの世界にも来ようとしない。家族も国も見捨てているだけじゃないか!! 俺の気も知らないで勝手なことばかり押しつけて、だから朝来も引きこもっちゃったんじゃないか!!! あんな奴、父親でもなんでもないっ」
 安藤の兄が魔麗王の息子? 朝来は魔麗王の人質にされているという娘? なのに神界で暮らさずこっちでわざわざ和名を使って暮らしている?
「あんた……」
 僕は前世の記憶に振り回されている。この人たちは、詳細は分からないけれど、あの世界のせいで人生を振り回されているに違いない。
 憐れみを向けた目をねじ伏せるように僕を威嚇しながら、開き直った安藤の兄は叫んだ。
「返せ! お前はエルメノかもしれないけど、俺の知ってる朝来じゃないんだよ。お前は朝来の本物じゃないんだ。どんなにそっくりで、中身が魔物じゃなかったとしても」
「当たり前だろ。僕はエルメノなんだから。魔物なんかじゃないよ。お兄ちゃん、どうしたら僕が本物だって信じてくれる?」
 守景洋海の喉元に突きつけていた長槍を石に戻して懐に収め、エルメノは明らかに作り物めいた悲しげな表情で兄の頬に触れた。
「触るな!」
 兄はその手を反射的に振り払う。
「お兄ちゃん、誰かに振り回されていると思うのはただの被害者意識なんだよ。誰かに振り回されていると感じたら、自分が振り回し返すくらいじゃないと、世の中つまらないよ。そんなに帰りたいなら一人でお父さんのとこに戻ればいいじゃないか。中世と変わりない帝王学を学ばされる世界にさ。それとも、お母さんとぼくが心配?」
 安藤の兄は明らかに表情を揺るがした。
「俺は父さんのとこに帰りたいんじゃなくて……」
「家族みんなで一緒に暮らしたいだけなんだよね? もしそれが出来るなら、今与えられている役目も甘受できるんでしょ?」
 かぁっと一時的に頬を火照らせた安藤の兄は、わなわなと震える拳を握って唇をかんだ。
「ようやく話せるようになったと思ったら別人だなんて……」
「違うよ。これは本人の言葉だよ。気づいているよ、ちゃんと。お兄ちゃんが何を望んでいるのか。何を心配しているのか。ちゃんと、気づいていたんだよ」
 エルメノは放心状態に近づいていく安藤の兄の肩を優しく抱き寄せた。安藤の兄は目を開けたままじっとエルメノの肩を見つめる。そして、意を決したようにその肩を押し払った。
「伝えられた言葉に意味はないんだ」
 押されたエルメノはバランスを崩して尻餅をつく。
「ぼくはお兄ちゃんが望んでた妹になったのに、どうして駄目なの? 明るくてはきはきしていて、何も言わなくても兄の心を思いやれる妹がほしかったんだろう?」
「朝来を……返してくれ。お前は朝来じゃない。お前は違う。ぼくの妹じゃない……」
 力なく呻く安藤の兄を横目に、エルメノは溜息半分僕を見た。
「誰も彼も返せ、返せって……いるのにねぇ、ぼくたちが。それでもぼくに返してとせがむの? 本物を」
 僕たちを取り囲む桔梗と葵お姉ちゃんと樒お姉ちゃん。
 手が伸びてくる。白い、桔梗の手。
「帰りましょう。お母さんが心配するわ」
 冷たい手だ。そして陶器のように美しい。触れることが出来ないなら、もっと非難がましく返せと喚けたものを。どこにも彼女が偽物だという証拠がない。それでも違うのだと信じる根拠は、己の直感のみ。
「〈紫精〉」
 僕は桔梗の手を握る手と反対の手に紫精を握り、目を見開いた桔梗の胸元にそれを衝き立てた。寸止めなんかじゃなく、手に鈍い衝撃が伝わってもなおそれを押し込める。
「光くん……ひどい……どうして……?」
 断末魔の悲鳴でも撒き散らしてくれればよかったのに、桔梗は裏切られたとばかりに悲しげな表情で僕を見つめながら血を吐いた。
「桔梗!」
「桔梗!!」
 口々に叫びながら葵お姉ちゃんと樒お姉ちゃんが桔梗に駆け寄る。駆け寄っても、紫精で串刺しにされている桔梗の肩を抱き支える以外、彼女達に出来ることは何もない。
 つまりは、こういう世界にいたんだ。
 善良なものだけが住まい、神が慈しんだ箱庭。にもかかわらず、僕らはこの手を血で染めるために生まれてきた。この手に鈍く伝わる重い感触が、ゆらゆらと腹の奥底から見ないようにしてきた記憶を照らし出しはじめる。
 紫精を握る僕の手に、桔梗の胸から流れ落ちてきた血が生温かく絡みついた。どろりと赤い血液。
 次の瞬間、その血液は蔦のように僕の腕を伝い上がり、首に絡みついた。
「ぅぐっ」
「姿を現したな、化物!」
 守景洋海が啖呵を切って紫精から桔梗だったものを抜き取る。桔梗だったものはただの皺だらけの黒い塊となって葵お姉ちゃんと樒お姉ちゃんの足元に転がった。彼女達は友の変わり果てた姿を見て、本物らしく「きゃあ」と悲鳴を上げる。
 だけど僕の首を絞める黒い蔦は、力を緩めて彼女らの元に戻ろうとはしなかった。ぎりぎりと締め上げてくる。僕が呼吸が必要な生き物なんだってことをわかっていないかのように。紫精は僕の手から離れ、かわりに守景洋海が握りしめていた。
「安藤朝来―ーいや、エルメノ。どうすれば俺たちに本物を返してくれる?」
 思わぬ人物から突きつけられた槍の切っ先を見つめ、エルメノはやっと心からにやりとほくそ笑んだ。
「返してほしかったら見つければいい。簡単なことだろう?」
 指差したのは、出口を塞ぐ大判の鏡。
 あれを潜って桔梗たちの後を追え、と?
 本当にあれの先は桔梗たちのところに繋がっているのか? 昨日のあの魔麗城の地下に?
「でも、それを潜れば君たちの偽物が増えるね。君たちがこの世界からいなくなったら、僕は君たちを別の世界に閉じ込めて、こっちの世界を全て偽物で埋め尽くしてしまうことだって出来るね。君たち、僕に騙されるかもしれないよ? それでも彼女達を取り戻しに行くつもり?」
 不安を煽り立てる文句を並べるエルメノに、安藤の兄が全身でタックルをかけ、地面に押し倒し、その首に手をかけていた。
「やめろ、安藤。そいつを今殺したら、取り返せるもんも取り返せなくなる」
 大きな鏡の前にいつの間にか向かい合い、冷静に安藤の兄にそう言ったのは、スタッフのジャケットを脱いで私服に戻った夏城お兄ちゃんだった。
「この鏡、そいつの力が具現化したものだろう? 生かしておくしかねぇよ、今は」
 覚悟を決めたように静かに諭し、夏城お兄ちゃんは鏡の表面に手のひらをあてる。
「夏城さん、バイトは?」
「終わった。スタッフもここからじゃないと出られないんだとさ。ずっと公演してんのに、日雇いバイト使うなんてな。こういうことだったわけだ」
 躊躇わず、夏城お兄ちゃんは鏡の中に進んでいった。それを見た守景洋海は、すぐに後を追うかと思いきや、僕の手に紫精を返し、安藤の兄の手を引いて何も言わずに鏡の中へと入っていった。
 鏡の向こうからは、夏城お兄ちゃんと守景洋海がすっかり綺麗にコピーされた姿で現れた。なぜか安藤の兄はいつまでたっても出てこない。
「ひどい、ひどいよ……光くん、桔梗にこんなことをして……」
「そうだ、桔梗を返せ……あたし達の桔梗を……」
 ショックを怒りの糧にして、ようやく樒お姉ちゃんと葵お姉ちゃんは僕を睨みつけ、飛び掛ってきた。
 僕は身を翻しながら彼女達の動きを槍の刃で斬り止めた。
 ぱたぱたとあっけなく倒れ、赤い血を吹き散らしながらも黒い塊となって果てた二人の姿を見て、今度は守景洋海と夏城お兄ちゃんの影が僕に襲い掛かってくる。
 なんのひねりもない体当たり。一撃で彼らは黒い丸太に成り下がった。
「君の望んだ世界は、こんな下等な生き物が大手を振って歩く世界なの?」
「下等な生物? 違うよ、彼らは人間だったよ。人間は摂理からすれば他愛ない生き物だ。ねぇ、光。君は人間の木沢光であることをやめてしまったんだよ。気づいてた? 初恋の彼女に迷いなく紫精を衝き立てた時点で、君は摂理を行使する法王に戻ったんだ。――お帰り、麗。ぼくは君を歓迎する」
 大手を広げてエルメノは僕を抱きしめた。
 そして囁く。
「ゲームをしよう。ぼくの千年の退屈を明かすほど、楽しいゲームを。ぼくが賭けるのはぼくの命。君が賭けるのは、鏡を潜った人界の人々全ての命。もう何千人になったかなんてわかんないけど。麗がみんな助け出したら、そこでこのゲームは終わり。ぼくは君にぼくの魂をあげよう。但し、一人でも君が彼らの命を取りこぼしたら……そのときはぼくが君をもらう。白夜の中で明けない夢を一緒に見よう?」
 甘露な声の響きは、声だけではなく、内容も甘露だった。僕が完全に麗であったならば。
「どうしてそんなことをしなきゃならない? 今ここで決着をつけたっていいはずだ。僕がオーケーする前に、すでに消えた人々の何人かが死んでる可能性だって……」
「それはない。君は見抜いていただろう? 僕が何のために彼らを闇獄界に集めているのか。彼らの頭脳と身体がほしかったんだよ。闇獄界の新たな兵にするために。殺すわけがないだろう、ただで」
 額を押し当てて、エルメノは僕を見つめる。
「いつから僕たちは分かり合えなくなってしまったんだろうね。元は一つだったのに。麗、ぼくが今考えていることが分かる? どうしてこんなめんどくさいとしか思えないことをしたがっているのか、分かる?」
「……わからない」
「だろうね。でも、言っただろう? ぼくはとってもとっても、暇だったんだ。退屈で退屈で、君のいない千年間は生きていないも同じだった。遊んでよ、麗。昔みたいに手を繋いでは遊べないけれど、そろそろ盤面を使った遊びを覚えたっていい頃だ」
 潤んだ瞳で見つめたあげく、エルメノはとんっと僕を鏡へと突き飛ばした。
「さぁ、ゲームを始めよう。ヒントは十分だよね? 取りこぼしなく拾ってくればいいんだよ。人間の魂を」
 見送る表情はどことなく悲壮ながらも穏やかで、僕は昔のエルメノをそこに見たような気がした。肩の荷を降ろしたがっているようなエルメノの表情を。











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