聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章 合わせ鏡◇ 6‐1 ◇
「うん、ほんと、ただ通り抜けたって感じで、何もおかしなことされなかったよ」
拍子抜けするくらいに何もなかった。エルメノの仕掛けた魔法の鏡の前に立った時は戻ってこられないかもしれないと覚悟したのに、吸い込まれるように一歩踏み込んだと思った次には、僕は入った中央の鏡の一つ左側の鏡からステージの上に出てきていた。
樒お姉ちゃんも中央の鏡からちゃんと出てきている。
僕と桔梗の勘ぐりすぎだったんだろうか? いや、だって何か目論むところがなければ、どうしてわざわざあの場面で樒お姉ちゃんを連れて行く必要があったんだ?
僕は横目でこっそりと右横でにこにこと左手を振っている樒お姉ちゃんを盗み見た。見た目、特段変わったところはどこにもない。傷も負ってないみたいだし、意識もはっきりしているようだ。
「さて、これでこの鏡には何の仕掛けもないことを分かっていただけましたでしょうか? この鏡の他に、実はもう一種類、魔法の鏡がございます。その鏡は通り抜ける一瞬にあなたの未来を映し出す――興味のある方はぜひお試しください。それでは、勇気あるお二人に今一度盛大な拍手を――」 拍手喝采がドーム一杯に天まで膨らみあがっていく。その中を、僕と樒お姉ちゃんはエルメノに追い出されるようにステージから降り、客席へと戻った。
「たっだいまー」
小さな声ながら無事に戻ってこられたのが嬉しいのか、樒お姉ちゃんが陽気に葵お姉ちゃんと桔梗、それに図体ばかりがでかい実弟にひらひらと手を振りながら座席のある列に入ろうとする。
「待てよ」
思わぬ声が暗闇の中から低く響いてきたのはそのときだった。
がっしりと黒く日焼けした手が樒お姉ちゃんの肩を掴んでいる。その腕の伸びはじめ、階段の一段上に立っていたのは、ゲートキーパーのバイト員の格好をした夏城お兄ちゃんだった。
「な、な、な、何?」
どぎまぎと赤くなっているのまで見えそうなくらいオーバーに樒お姉ちゃんは悲鳴を上げて身を引いた。が、夏城お兄ちゃんは樒お姉ちゃんの肩を離さなかった。
場内にはエンディングに向けて派手な音楽が溢れかえっている。ステージでライオンに跨るエルメノがこちらに気づいた気配はない。ただ、周囲の観客達だけが好奇心たっぷりに、あるいは迷惑そうに二人を見つめていた。
僕は桔梗に視線を投げかける。桔梗は、すぐにでも飛び掛らんばかりの厳しい表情で樒お姉ちゃんを見つめていた。
もう一度、僕は樒お姉ちゃんを観察する。
髪の長さも同じだし、ちょっとふわっとした毛先のはね具合も同じだし、つけてたペンダントも服装も何も変わった様子はない。でも、確かにどこか違和感はあるような気がした。
「守景をどうした?」
低く夏城お兄ちゃんが樒お姉ちゃんに囁いた。樒お姉ちゃんは「えぇっ?」とうろたえながら首を振る。
「夏城君、わたしが守景だよ。守景樒」
笑いながらも樒お姉ちゃんは必死に言い募る。
だけど、夏城のお兄ちゃんは容赦なく切り捨てた。
「どこが?」
片方の肩を掴まれているだけなのに、樒お姉ちゃんはそれ以上身動きが出来ないらしい。懸命に夏城お兄ちゃんの手を肩から引き剥がそうとするが、とても樒お姉ちゃんの力では敵わない。
「どこが、って……それなら、夏城君はどうしてわたしが守景樒じゃないなんて言うの?」
真実を探り出すかのように、樒お姉ちゃんを見つめる夏城お兄ちゃんの目は鋭く眇められた。もはやそれは敵を睨んでいるといってもいい。
「魂はどうした?」
夏城お兄ちゃんは真顔で口走った。
「たま……しい……?」
一瞬樒お姉ちゃんはあっけにとられた顔をしたが、すぐにお腹を押さえて笑いはじめた。
「どうしたの、夏城君。なんからしくないよ。魂だなんて、夏城君の口から出てくるなんて思わなかった」
確かに笑えるけど、周りの観客も引いてるのが分かったけど、でも、それだ。夏城お兄ちゃんの言うとおり、この守景樒にはあの魔法石を持つ法王の魂の気配が全くしなかった。もしかしたら、ただの人間の魂だったら見逃していたかもしれない。その中に魂がなくなっていることを。だけど、時の精霊王の魂も宿した魔法石を持つ法王の魂は、放出するエネルギーが半端ない。樒お姉ちゃんは鈍感すぎて気づいてなかったみたいだけど、特にも聖のは法王と精霊王と二人分だけとは思えないほどの波動を周囲に撒き散らしていた。そんな激しい波動が、今の樒お姉ちゃんからは一切なくなってしまっていた。代わりに感じるのは、怖気のする後ろ暗い黒い邪気。
ライトが明るくなる。
華やかだった音楽はいつしか途絶え、ステージにも幕が下ろされていた。
「本日のご来場、誠にありがとうございました」
スピーカーから大人っぽい妖艶なアナウンスの声が響いてくる。人々は興奮冷めやらぬ思いを場内に置き去りにしたまま、各々席を立ちはじめる。やがて、ざわめきの中心は、ドーム内から次第に外の出入り口付近へと移りゆき、壁を隔てた外近くから「わぁ」とか「きゃぁ」とか感嘆に満ちた悲鳴がたくさん聞こえはじめた。おそらく、帰りにぜひお試しくださいといっていたあの魔法の鏡を試している奴らがいるんだろう。あの悲鳴なら心配するようなものじゃない。本当に魔法の鏡だったけど、僕は無事に戻ってこられたんだし。
だけど、問題はこの樒お姉ちゃんだ。
できることなら関わりあいたくないかったけど、これは見逃していい冗談じゃない。
不意に、客席からだいぶ人がいなくなったと見てとるや、葵お姉ちゃんが勢いよく席を立ち、樒お姉ちゃんの首にかかっていたペンダントを無造作に掴み引いた。
「樒、このペンダント……」
「え? ああ、そう、葵と桔梗とおそろいのだよね。先月一緒に買ったじゃん。葵は金の鎖、桔梗が銀の鎖で、わたしがピンクゴールドの鎖」
「そう、確かにその色は樒のだけど……いるかの尻尾、逆じゃないか?」
葵お姉ちゃんはそう言うなり、樒お姉ちゃんをペンダントごと掴み寄せた。
「わ、わ」
苦しげに樒お姉ちゃんが葵お姉ちゃんを押し返そうとするが、葵お姉ちゃんは手を離さなかった。
「これ、中にあたしらの写真が入ってるロケットになってたはずだよな? 表と裏なんて間違いようないだろ。鎖がよじれて左右逆になっているわけでもなさそうだし」
葵お姉ちゃんは苦しがる樒お姉ちゃんにはお構いなしに桔梗の方を振り返る。
「そういえば、さっき私たちに左手で手を振ってたわね?」
今度は容赦なく清冽な笑みを口元に刷いた桔梗が、立ち上がり、樒お姉ちゃんを正面から威圧した。
「あれは、だって、わたしだって手を振る手を決めてるわけじゃないから」
「無意識なら、わたし達により近い右手でコミュニケーションとろうとするはずだと思うんだけど」
「そんな……考えすぎだよ。わたし、無意識だったよ?」
「姉ちゃん、右利きだったよな……どうして葵さんの手掴んでるのが左手なんだ?」
左手で葵お姉ちゃんの怪力を押し留めながら、右手でひらひらと手を振って見せていた樒お姉ちゃんは、途端、実弟の訝しげな視線に凍りついた。
「そんな、利き手くらいでわたしを知ったような口利かないでよ」
泣きそうな顔をしてみせながらも、目は冷たい憤りに凝っていた。目が合ったらしい守景洋海は、信じられないとばかりに眉根を寄せる。姉がそんな表情をするわけがない、と。
「わたしが守景樒じゃないって言うなら、証明してみせてよ。わたしも誰かが化けているわけでもなく本物の樒だって証明してみせるから。何でもいいよ、小さいときのことでも、限られた秘密でも」
疑われている割に、言い募ってはみたものの必死さがどこか足りない。樒お姉ちゃんなら、ここまで前向きに挑んでくるだろうか。信じてくれないのと落ち込んで僕たちに背を向けてしまうんじゃないだろうか。
らしくない。その一言で、しかしその人を断じてしまっていいわけがない。本来ならすぐにそう気づくはずなのに、魂があるか否かを確かめる術を僕らは知らず、結局は直感に頼らざるを得なくなっている。
もし本物だったらどれだけ傷ついているかも考えられずに。
「じゃあ聞くけど、初恋の人の名前は?」
「調子に乗って聞きだそうったってそうはいかないわよ、洋海。洋海に初恋の人の名前、わたし教えた覚えないもん」
「ちっ、じゃあ、歯を磨くときはどこから磨く?」
「マニアックな質問だなぁ……」
「葵さんは黙っててください。そういう葵さんも今お風呂入ったらどこから洗うか聞こうとしかけたくせに」
「聞こえてんなら遮んなよ」
「聞こえてたから遮ったんです」
「あー、もう、歯を磨くときは下の左奥歯から。お風呂では左腕から」
呆れた樒お姉ちゃんは、守景洋海と葵お姉ちゃんの時間の潰しあいを止めるためにあっさりと即答した。おそらくそれぞれの真実を知る二人は顔を見合わせ、穴が開くほど樒お姉ちゃんを見つめる。
「葵さん……」
「正解だ。そっちは?」
「正解……です……」
そして二人ともあからさまに肩を落として溜息をついた。
「あのね、疑ってるなら本気で質問してくれないといつまでたっても疑い晴れないし、帰れないじゃない」
ちらりと携帯を確認して、さらに顔をしかめる。
「ほら、洋海、あまり遅くなると乗り換えの電車なくなっちゃうよ」
実弟に対してはしっかり者の姉になる樒お姉ちゃんの言動らしいといえば言動らしいけれど……本当に偽物なんだろうか? 確かに魂は別人のように何も感じなくなってしまったけれど、そんなの限りなくグレーだ。
「ねぇ、樒ちゃん、ちょっとこっち向いて」
守景洋海と葵お姉ちゃんの試みが挫折したところで、不意を狙うように桔梗が樒お姉ちゃんを携帯のカメラで撮影した。瞬いたフラッシュに目が潰されたのも一瞬、樒お姉ちゃんはすぐにぷんぷんと怒り出す。
「もう、いきなり撮らないでよ。桔梗らしくない。変な顔で映っちゃったんじゃない?」
守景樒も葵お姉ちゃんも、そして僕も、一斉に桔梗の携帯画面を覗き込む。もしかしたら映っていないんじゃ? ありがちな都市伝説を想像してそう思ったのに、カメラにはばっちり樒お姉ちゃんの驚いて目を見開いた顔が残っていた。
「はい、消して、消して」
強引に樒お姉ちゃんは桔梗の手から携帯を取り上げ、画像を消去する。
「わかったでしょ? もう、みんなして変な目でわたしのこと見るんだもん。すごく怖かったよ」
そそくさと自分の席からバッグを手に取り、肩にかける。一連の動作は意識したのか右手で。滑らかさに嘘はない。不便そうな素振りもない。
「まだ、疑いは晴れてないぞ」
それまでずっと守景洋海や葵お姉ちゃん達のやることの見守り役に徹していた夏城お兄ちゃんが、肩にかけたバッグの紐を握っていた樒お姉ちゃんの手首を鷲づかみに掴んだ。
「痛っ。何するの?!」
「脈がない」
夏城お兄ちゃんは表情一つ変えずに言った。樒お姉ちゃんを見る目は冷徹なまでに冷めきっていて、周りさえも脅えさせるほどだった。だけど、樒お姉ちゃんは勢いよく夏城お兄ちゃんの手を振り払い、掴まれて赤くなった手首を労わるようにもう片方の手で握った。
「脈がない? 馬鹿なこと言わないで。ちゃんと赤くなってるじゃない。血が通ってる証拠だよ!」
「樒ちゃん、私にも確かめさせて」
静かに樒お姉ちゃんの手をとろうとした桔梗の手を、おそらく反射的にだろう、樒お姉ちゃんは払い返した。
「やめてよ! どうして信じてくれないの? そんなに信じられないって言うなら……」
あろうことか、樒お姉ちゃんは自分の歯を自分の腕の内側に立てて噛み切ろうとしはじめた。
「やめろ、やめろって」
慌てて葵お姉ちゃんが止めに入るが、樒お姉ちゃんは葵お姉ちゃんを振り切ると、ぼろぼろと涙をこぼしながら自分の腕に噛みついたまま僕らを睨み渡した。
「信じてもらえないことがこんなに悲しいなんて思わなかった」
たらりと樒お姉ちゃんの犬歯の下から濃紅の血液が盛り上がったと思うと、緩慢に腕を一筋なぞりはじめていた。
「これでも、わたしが人間じゃないって言うの?」
僕たちは息詰めたまま樒お姉ちゃんの腕を流れ落ちる赤い血の行く末を見つめていた。誰も口を開こうとしない。はじめに脈がないと疑った夏城お兄ちゃんでさえ、あっけにとられて樒お姉ちゃんを見つめている。
いくら疑われているからって、自分の歯で自分の腕の肌を噛み切れるものだろうか。樒お姉ちゃんがそこまでするだろうか? せいぜい歯型がついて終わりじゃないだろうか?
「もういい。もういいよ、樒」
自分も泣きそうな顔をしながら樒お姉ちゃんの手をとり、常時携帯しているらしい絆創膏を傷口に貼りつけたのは、情にもろすぎる葵お姉ちゃん。
いいわけがない。違和感は消えてない。あれは人間の身体を持っていることは証明したかもしれないけれど、樒お姉ちゃんであることは証明していない。そして、その証明は永遠に不可能だ。麗の長兄であり命の循環を司る育が魂を見極めでもしない限り。
僕はちらりと桔梗を盗み見る。桔梗は何か考え込むように樒お姉ちゃんを見つめていたが、やがて溜息を一つついて自分の鞄を手に取った。
「桔梗?」
「帰りましょう。いつまでもここにいたら迷惑だわ。夏城君もバイト途中だったでしょう? 叱られるわよ。ね、樒ちゃん?」
「桔梗!」
「桔梗さん!」
不満交じりの僕と守景洋海の声が交差する中、桔梗は先に立って客席から通路の階段を出口に向かって上りはじめた。
「あ、待ってよ、桔梗! 葵、ばんそーこありがと。行こう」
嬉しそうに樒お姉ちゃんは葵お姉ちゃんの手を引いて桔梗の後を追いはじめる。残された僕たちは、夏城お兄ちゃんに視線を送っていた。
「夏城ー、お前そんなとこで何やってんだー? トラブルかー?」
客席の点検を始めた大学生くらいの男の人が下の方から不審そうに声を投げかけてくる。
夏城お兄ちゃんはぎりと奥歯を噛み締めると、樒お姉ちゃんの背中を一瞥して視線を下方のバイト仲間に向けた。
「いいえ、何でもありません」
「ちょっ、なんでもなくは……」
夏城お兄ちゃんの返答に焦ったのは守景洋海。縋るように夏城お兄ちゃんを見上げたが、夏城お兄ちゃんは首を振った。
「何かあったら連絡しろ」
そういい残して客席の点検に合流する。
「連絡先、知ってんの?」
取り残された僕は、仕方なしに守景洋海に尋ねた。守景洋海はこくりと頷く。
「前に交換したんだ。俺、夏城さんのファンで、岩城の高等部押しかけて話しかけたら連絡先交換してくれて……」
「ファンが高じて中学校も転校してきたわけだ」
「ん」
「あっきれた。たかだか高校生だろ? プロならまだしも、ただの高校生追っかけて学校替えるなんて馬鹿げてるよ」
「お前に俺の人生どうこういわれる筋合いはないね」
夏城お兄ちゃんの背中を見つめていた守景洋海は、ようやく思い切りをつけたように荷物を手に客席を離れた。
「でも、本当はそれだけじゃないんだろ? 転校してきた理由」
姉を心配してやまない不安げな背中に、僕はさらに言葉を投げかけた。
「しつこい男は嫌われるんじゃない? それも今度は血の繋がった姉弟ときたもんだ。未来なんかないだろう? どんなに愛したって、先は嫌なくらい見えてる」
ぴたり、と守景洋海は歩を止めた。
拳を握り締めている。肩が少し震えている。
ヴェルド。
僕の疑いはまだ晴れちゃいない。聖が次兄に御執心なのを知ってなお、最後の最後まで聖を愛し続けた馬鹿。見込みなどどこにもなかったのに、どうして今生まで側にいようとする? 馬鹿げてるよ。痛いよ、見てて。痛すぎる。それも今度は姉弟だ。そんな関係で何を望む? 聖が血に苦しめられていたのは存分に見てきたんだ。まさか今度は自分がその呪縛をかけようなどと思ってはいないだろうが、守景樒の弟というだけで、僕から見ればもう目を覆いたくなるくらいの悲劇だ。
「お前……」
くるりと振り返ると、守景洋海は僕のおでこにあろうことか強烈なでこぴんを食らわせてくれた。
「いって……」
「気色悪い想像すんな、阿呆。お前の頭ん中、どうなってんだよ。昼ドラ好きの奥様方と同じ思考回路か?」
「な……んだとぉっ?」
「だってそうじゃないか。血の繋がった姉弟はどんなに愛し合ったって先が見えてるって、母さんが今はまってる昼ドラの煽り文句と同じなんだもん。期待されてるとこ悪いけど、俺は姉ちゃんにそんな疚しい心は抱いたことも想像したこともございません。実の姉だってのはさておき、さして美人というわけでもないし、あんなに鼻低いの俺の好みじゃないし、性格ドン臭いし、頭もそんなよくないし、優しいどころか姉貴風吹かせすぎだし、桔梗さんたちと俺への態度百八十度違うし、昨日は俺のシュークリームまでとって食べたし、寝坊だし、寝癖はスーパーサイヤ人だし、胸は小さいし、腹と二の腕にぼっちゃり肉ついてるし――どうがんばったって恋なんかできないね」
実姉をこれでもかというくらい悪し様に言った守景洋海は、ふふんと自慢げに胸を張った。
僕は唖然として奴を見上げる。いくら実の姉とはいえ、そこまで他人の前で貶めるか、普通。(何だよ、寝癖はスーパーサイヤ人って。想像して頭から離れなくなっちゃったじゃないか。)
「じゃあ、どうして側にいるんだよ」
呻いた僕を、守景洋海は怪訝そうに見つめた。
「どうして? お前、誰に何を聞こうとしているの? 今の、少なくとも俺に言ったんじゃないだろ?」
嫌な奴。そうやって余裕気にはぐらかしているのが、もう普通じゃないってのに。
「お前に聞いたんだ」
「先輩をお前呼ばわりするもんじゃないよ。何より、他人の面影重ねて話しかけないでくれ」
きっぱりとした拒絶。
めげてなるものか。答えを引き出さなきゃ。
「他人? 他人なんかじゃないだろう? 同じ魂じゃないか。生きる時間が違うだけだ。記憶が塗り重ねられているだけだ」
答えを引き出して――こいつがヴェルドなのだと確信して、一体何を僕は得ようとしている? さっきの樒お姉ちゃんに対した時と同じだ。結局、前世と現世では身体 が違うのだから遺伝子の検査なんか出来ない。記憶を照合しようったって、どこかで改竄されている可能性だってある。忘れて完璧に思い出せないことだって。確かに同じ魂なのだと言い切るには、僕の目と勘だけじゃ足りないのだ。そんなあやふやな確信に基づいて、僕は一体何を得たいんだ?
「そんなにお前は仲間がほしいのか」
溜息混じりに呟かれた声には、憐憫の情が多分に含まれていたんだと思う。お前はまだそこから変われていないのか、と見限られたような気がした。お前は、まだ一人っきりなんだな、と。誰からも愛されていないんだな、と。
ヴェルドが僕を愛してくれていたわけじゃない。でも、あいつは僕が生きることに窮している時、よく側にいてくれた。一人ではないのだと、僕と対等の友として傍らに寄り添い、杯を傾けてくれた。
エルメノとは違う。カルーラとも違う。アイカとも違う。
麗とは全く異質の者。同じところが全く見当たらない者。
奴が、麗が自分の中に溺れそうになった時、唯一救いの手を差し伸べてきてくれた。
――今でも、縋ろうというのか? その手に? 僕はもう、自分達だけの世界から脱した世界にいるというのに?
「あ……」
違う。違うんだ。僕はまだ、自分だけの世界にこもったままだ。海の転生である桔梗は麗の自分の世界の延長にしか過ぎなくて、僕が悩まされる麗の記憶も名こそ違えど自分のもので、樒お姉ちゃん――聖に対する執着も自分に端を発しているもので、クリス――あのハーフの口の悪い同級生でさえ、僕は知ってる、麗の〈影〉の転生だって。
結局、僕が十二年と二ヶ月過ごしてきた世界は、前世からの人間関係だけで完結するくらい小さなもので、僕が守景洋海にヴェルドを求めようとするのもその小さな自分の世界から出たくないからなんじゃないだろうか。
あれほど、かなぐり捨ててしまいたいと思っている麗の記憶の世界に。
僕は居座り続けたいと。
予言で先を見通された己の生に固執したいと。
それが、安心だから。
突きつけられた悲劇の未来は、だけど予定通りにことが進めばいくらでも心の準備をすることが出来る。諦めることができる。今を選ぶことが出来る。そうなる、と分かっているなら安心なんだ。推理小説を最後のページから繰っていくように、解が分かっていればどんな方程式がきても怖くはないから。いや、怖いんだ。不安なんだ。何がどう定められた未来に直結するのか、歯の磨き方一つで変わってしまいそうで、もし一つでも間違えたら、予め言付けられている未来にたどり着かないのではないかと。たとえその未来が不幸なものだったとしても、幸運な未来にたどり着く保証がないのなら、思い悩まされた時点で僕は不幸になってしまうから。
僕の住んでいる世界は、エゴだけの世界だ。
正直なところ、樒お姉ちゃんが本物でも偽者でも関係ないじゃないか。過去を変える力を持たないのなら、本物であろうと偽物であろうと、僕には用はない。本物の聖がいないからといって、僕が嘆かなきゃならない道理はどこにもない。
「帰る」
僕は立ち止まり振り向いていた守景洋海を狭い階段で追い越して、このがらんとした会場に一人場違いに取り残してやろうとずんずん先へ先へと歩を進めた。
悲鳴が聞こえたのは、もう少しで桔梗たちに追いつこうかという頃だった。五列ほどもうけられた改札のような出入り口の前はすでに閑散としはじめている。改札の向こうには五列分の横幅がある巨大な鏡。あれを潜らないと外に出られないようにしてあるらしい。勿論、横には鏡を怖がり嫌がる客を通すための鏡なしの非常口もついていた。
悲鳴は、その鏡なしの非常口を潜ったらしい安藤の兄の口から発されたもののようだった。