聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章  合わせ鏡

 ● 5‐1

「聖様、澍煒しゅい様がいらっしゃっております」
 最近雇ったらしい侍女は、どうも喋り方がそっけなくていけない。
 そんなこと、前は考えもしなかったのに。
 いつの間にこんな小姑みたいなこと思うようになったんだろう。歳をとったんだろうか。身体と共に精神までだいぶ劣化してきたような気がする。
 朝からじわじわと痛みつづける頭を持ち上げて、わたしは返事を待つ侍女に軽く手を挙げて見せた。
「通してちょうだい」
 声が掠れる。喉の異物を取り除こうと反射的に軽く咳き込む。
 おかしいな。これでも何十年か前まではまだ各地の劇場で歌を届けられていたのに、こんなしゃがれ声じゃもう歌うどころか人前で喋ることも憚られる。仕方ないか。腫れた喉を空気が行き来するのさえ無理やりに押し広げられるような痛みを感じるのだ。食べ物も、もうほとんど何の味も感じない。塩気のあるスープを啜ってそれさえも吐き戻すような状態。
 死ぬのは分かっているのに、どうしてこんな身体の中にまだいなければならないのだろう。
「聖、具合はどう?」
 ノックもなく飛び込んできてベッドに腰掛けた澍煒は、すかさず私の額に手の甲を当てて顔をしかめ、張りのなくなった頬をそっと引っ張った。
「薬は効いてる? それ以前に、ちゃんとご飯食べてる? また吐き戻したらそのまま何も食べないなんてこと繰り返してるんじゃないでしょうね? いくら法王だからって、食べなきゃ死ぬわよ?」
 わたしはぼんやりと澍煒の手首を掴んだ。
 温かい。脈打つ拍動は鹿が飛び跳ねるかのよう。柔らかで張りのある白い肌は掴んでも多少赤くなる程度で、しばらく指の痕がへこんだまま残るなどということもない。
「お薬は飲んでいるわ。ご飯も食べてる」
 目を合わせないまま、少しでも心配してくれる澍煒を安心させようと私は口からでまかせを言う。
 澍煒の手を掴んでいた私の手は、すぐに力を失ってずるずると落ちていった。最近は、スープを掬うためのスプーンすら重く感じてしまうのだ。長く力を入れていようとすれば感覚がなくなってくる。スプーンすら満足に持てない上に、固形物が喉を通っていく不快感と胃に重くのしかかるあの感覚を思うと、大して味もわからないというのに無理に食べようとなど思わなくなるものなのだ。
 薬も気休めにしかならないって分かっているから、飲んでも飲まなくても同じだった。
 誰にも私の病の原因なんて分かるはずがない。いいえ、誰にも知られてはならないのだ。
 私が時の病に冒されていることは。
「本当に?」
 額をあてて覗き込んできた澍煒は、まるで私の言葉を信じていないようだった。
「本当よ」
「嘘つきは救われないわよ」
「救われる? 誰が救ってくれるというの、私を。この世に神などいないわよ。いたとしても、ここにいるのはただの復習鬼だわ」
 寝巻きの上からも分かるくらいあばらが浮き出した胸を軽く叩くと、思いがけずそれだけで私はむせてしまった。
「私がすることは、もう生きることじゃないの。残された時間、ただひたすら死ぬのを待つだけなのよ。救いなど求めていないわ」
 早く、早くと待ち焦がれるのは、この朽ちかけた身体から魂が解放される瞬間。唯一希望を託せる別な私の未来。私が待たなければならない時はまだまだ長いけれど、この身体との時間はあとわずかと思えばこそこの苦痛にも毎日耐えているのだ。
 時の規律を乱そうとした罪の購いとして。
「それで、今日はどうしたの? 毎日毎日同じ説教をしに来ているわけでもないでしょう?」
 澍煒は全て知っている。私がまだ死なないと知っているのに心配するなんて、おかしな話だ。それでも心配せずにはいられないというのが人の心というものなのかもしれないけれど。
 もし、母親がいたら。
 ふと脳裏をよぎるのは馬鹿馬鹿しいくらい大昔のコンプレックス。
 心配性な母親達の像が、ふと澍煒に重なってしまったからだろうか。それとも、対価なしに私が澍煒に甘えてしまうからか。
 澍煒にそんな顔をさせるつもりなんてなかったのに。
 今はただ、この身体が健康じゃなかったことだけが悔やまれる。おそらく、時の病を得なかったとしても、私には死というものが病によってもたらされただろう。
「説教されたくないなら、もう少し心がけをよくしなさいな。それだけで未来は変わるかもしれない」
「私の先に続いていく未来なんて、私はもう要らないの。分かるでしょう、澍煒?」
 あまりに後ろ向きな私の話に、澍煒は目を伏せて口を引き結ぶ。
 私は自分がどれだけ今どん底にいるのか、分かっているつもりだった。分かっていても、もうここからは動けない。居心地がいいわけでもないけれど、動き出すべき先を見出せないのだ。
 私が聖刻法王である限り。
 この身体は、私の唯一つの望みを実現させようとする前に理由だけで未来を断ち切ってしまう。そのくせ、欲しいと思ったこともない永遠の命と法王としての尊崇、人に領土、そんなものばかりが背後に付属してくる。私の些細な望みは叶えられる兆しもないというのに。
 ふぅっと澍煒は長く静かに息を吐き出した。
「仕事の話よ」
 切り出すと、聖刻の国の執政官の話は早い。
「何があったの?」
「首都ユガシャダの東、志賀宮との国境にドール山地帯があるでしょう。あの山間の村が二つ、それぞれ一晩で焼き払われたの。村は人も家屋も全滅よ」
「……また?」
 思わず私は顔をしかめた。
「そう、またよ」
 ここ神界は神の治める世界。憎しみも悲しみもなければ争いもない。
 そんなことを言っていられたのも、私がまだ生まれておらず、世界に人は少なく、天宮周辺だけが神界だったときの話だ。統仲王と愛優妃が造ったという「人」は、全てに優しい正の感情だけを持った者だけのはずだった。それが、自主的に増殖すればするほど様々な性格が現れ、いつの間にか溢れんばかりに世界に蔓延した負の感情を処理するために闇獄界が必要になってしまった。その都度悪いものは闇獄界へ送っていても、これほど人が増えるともはや全ての負の感情を取り除くことは難しい。
 それでも、人界の人間達に比べればまだここは平和なはずだった。闇獄界からの侵攻を防ぐために戦う以外、神界内で国同士が争ったり領地領地で領主達が争うこともない。殺人もめったに起きない。全くないと言い切れないのは、今の世界がもうかなり傾いてきている証拠だろう。
 この事件もそうだった。
 確かドール山地帯にあるジャパナ村が一晩で焼き払われたと報告があったのは、一ヶ月ほど前のことだったと思う。調査隊を派遣した時には、すでに村には家も人も家畜もなく、ただ黒焦げの岩肌と灰に埋め尽くされた大きな井戸だけが残っていたのだという。火をつけたのは、ジャパナ村のすぐ下にあるカルシュナ村と近隣にある二つの村、合わせて三村。理由は、疫病の拡大を食い止めるためとの話だった。村民全てに罰を与えるわけにもいかず、結局は聖刻の国の中でも四楔である志賀宮に守られない青海に面したハルマンに、村長たちをはじめとする村の重役達を送り、国の警備にあたらせることにした。
「今回焼き払われていたのは、例のジャパナ村を焼き滅ぼしたカルシュナ村とサワダ村。調査隊を派遣した時には、ジャパナ村同様、もう何も残っていなかったんだって」
「復讐、かしらね」
「でも、ジャパナ村の村人は全滅だった」
「大都市に出稼ぎに出ている人も多いのでしょう? その中の誰かが、村に帰って事実を知り、復讐を企てた」
「まさか。だって闇獄界人じゃない、神界人よ? 復讐だななんて、そんなこと考える人が……」
「ここはもう古きよき時代の神界じゃないわ。もしくは、そうね。闇獄界の何者かが入り込んでいるのかも」
「そうかもしれないわね。ううん、むしろそうだったらいいのに」
「それで、確かジャパナ村を焼き滅ぼしたのはカルシュナ村とサワダ村、そしてもう一つあったわね。アンジェ村だったかしら? そこはどうなったの?」
「そう、アンジェ村はまだ襲われていない。ただ、二つの村が焼き払われたことから考えても、アンジェも近いうちに同じ目に遭うでしょうね。それで、今日は貴女のところに来たのよ、聖」
 澍煒は、そこでようやく息をついた。
「行けばいいの?」
 こんな体の私に鞭打つようなことは言いにくいだろう。そう思って、私は先に口を開いた。
 澍煒は、遠慮がちにゆっくりと頷く。
「私が行ったって何の解決にもならないわよ。時の魔法なら澍煒がいれば十分でしょう? 闇獄界の大群が跋扈していたとしても、法王一人がいたからといって何かが出来るわけでもないわ」
「士気が違くなるわ」
「士気? 澍煒、疲れているんじゃない? こんな病人が人前にこの姿をさらけ出して士気を揚げられるとでも?」
「ええ、疲れてるのかもしれないわね。でも、この国の王は貴女よ、聖。私じゃないの。それに……」
「それに? 本当は容疑者が分かっているんじゃない? だから私にその人をどうしたらいいか相談しにきた。そういうこと?」
 澍煒は、頷きながらもう一度溜息を漏らした。
「罪人を裁けるのは、この世界では王と后と法王だけだから」
 天龍の国で世界で初めて殺人が起きた後、世界で初めての法律が出来た。作ったのは龍兄だったという。犯した罪とそれに応じた刑罰まで事細かに記されたその法律は各国に頒布され、今に至るまで何度となく改正を繰り返しながら運用されてきた。とはいえ、その法律にもあるとおり、人が人を裁いてはならないと決められている。人を裁くことが出来るのは、神のみであると。そして、人を裁くにあたっては、必ずその者に会い、直に話を聞いた上で量刑を定めること、と。
「この間の村長たちみたく連れて来るわけにはいかないの?」
「もしかしたら……なんだけどね。その本人が強力な炎術師の可能性があるの。そうであれば、護送車でここまで運ぶ間に何人か犠牲になるかもしれない」
「本人が炎術師、ね。澍煒がそう言うなら結界で押さえ込むことも難しいくらい強力だってことよね」
「ええ」
 あっさりと首肯した澍煒に、私は意を決めた。
「じゃあ、行くわ」
 これが最後の仕事になるかもしれない。おそらく、そうなるのだろう。この手で誰かを救うことになるのか、それとも傷つけることになるのか。〈予言書〉を見れば答えは書いているけれど、あれはもう生きているうちは開く気はなかった。
「ただし、みんなと一緒に隊列を組んでいくことは出来ないわ。〈渡り〉で一人で行って確かめる。澍煒は調査班と一緒に行動して、容疑者が特定できたら私を呼んでちょうだい。それでいい?」
「ありがとう、聖!」
 澍煒の喜びようは、近年稀に見るくらい大きなものだった。
 何か他にも理由があるのだろうか?
 微かな疑念が脳裏を掠めたけれど、それを深く考えられるほど私の体力はもう残っていなかった。
「ごめん、澍煒。もう寝かせてちょうだい。疲れたみたい」
「ああ、そうね。今日はだいぶ喋ったものね」
 澍煒はすまなそうにベッドから降りると、ふと、ナイト枕もとの小さなテーブルに置かれた籠の中身に気がついたようだった。
 白い粉の包み。
 もう二十は超えただろうか。
「聖、あんたやっぱり飲んでなかったのね」
 布団にもぐりこんだ私は、もう半分瞼が開いていなかった。
「起きたら……起きたら飲むから」
 本当は一人だったら飲むつもりはない。でも、澍煒がどうしてもとついていてくれるのなら――。
 夢を見たって寂しさが紛れるわけでもないことは分かっていた。
 目覚めて、あたりは暗く、引かれたカーテンからも日が入ってきていないことを確認すると、私はそっと溜息をついた。
 誰もいない。
 そして、今日の夕食後の薬はまたあの籠の中に入れられる。
 澍煒が直接私を迎えにきたのは、まだ話を聞いて間もないその日の夜も更けようかという頃だった。
「迎えに来たよ、聖」
 そう言って澍煒はベッドを覆う薄絹を引いて私の前に車椅子を差し出した。
 まどろんでいた私はまだぼんやりと澍煒を見返す。
 侍女たちが起きだしてこないところを見ると、澍煒は空間を渡って直接この部屋へやってきたのだろう。着替えくらい一人で出来なくはないが、今は多少身体がだるくてすぐに動き出す気にはならない。そんな私を見てとってか、澍煒は手早く着せ替え人形状態の私の服を着替えさせ、車椅子に座らせた。
「自分で歩くことも出来ないなんてね」
「やっかむんじゃないの。体力が落ちてるだけで、全く足が動かないわけじゃないんだから」
 一日の大半をベッドで過ごし、入浴の時に部屋を歩くことくらいしかしない毎日を送っていたせいか、車椅子の足台に揃えてのせられた自分の足は枯れ枝かと思うくらい細く頼りなかった。張りつく皮も黒ずみ、いくら石鹸で擦っても破れそうな痛みだけが襲ってくるだけで一向に元の白さに戻ることはなかった。こんな足、誰にも見せられやしない。ウムドゥをはいても分かるほど細くなった足を隠すように、私は膝に何枚も布を重ねさせる。
 正装に近い格好に軽く白粉をはたかれて出来上がった姿を、澍煒は姿見の前に車椅子を運んで私に確認させた。
「どう?」
 自信たっぷりに鏡越しに笑む澍煒を私はちらりと見、瞬く間だけ自分の全体像をぼんやりと視界に納めると、鏡から顔を背けた。
 ちっぽけで痩せぎすで、なんて無力感の漂う無様な姿だろう。病的に青白い顔はどんなに頬紅を刷いても美しくは仕上がらない。真っ直ぐな髪も、どんなに梳きとかしたところでもはや艶も出ない。何より、落ち窪んだ眼窩に嵌め込まれた目は、両瞳とも色が違っていたというのに今は赤黄色く脂に膿んでいた。浮かぶものといえば己を蔑むきつい光のみ。
「行きましょう」
 老いとはかくも醜いものか。それとも、醜いと感じるのは私の心が身体の年齢どおり歳を重ねていないからなのか。全てがままならなくなっていくのを仕方ないとは諦めきれず、病を得る前の少女の姿を鏡に重ね映して溜息をつくのは、健康とは言えないまでも過去にしがみつくことで老いから逃れようと――多少は快復の希望を持ちたいという願望の現われだったのかもしれない。
 澍煒が開いた扉をくぐると、春更の寒さが身を刺し貫き、同時に炎の燃え盛る轟音が耳を劈いた。僅かに混じり聞こえるのは逃げ惑う人々の悲鳴、叫び声。黒々とした夜空に舞い上がる火の粉は花火よりも妖艶で、踊り狂う炎の舌先は風に乗って次々と真暗い建物に乗り移っていく。
「逃げるように言わなかったの?」
 傍らを悲鳴を上げて走り去っていく人々を見て、私は尋ねた。
「言ったけれど、ここ以外生活する場所もないと。住む場所は自分で決めるのだとつっぱねられたわ。来るかどうかも分からない放火魔のために、長い間家を空けるわけにはいかないって。家畜たちもたくさんいたみたいだしね」
 私は溜息をつきたいのを寸でで飲み込んだ。
 人殺しは論外として、いつの間にこの世界の人々はこんなに聞き分けなくなってしまったのだろう。住む場所がなければ領主の館なり、私の城なりに移り住ませれば……ああ、一度罪を犯したものたちの肩を持つことになってしまうのか、それも。
「ねぇ、澍煒。犯人を事前に捕まえることは出来なかったの? 過去を盗み見ることくらい、出来たでしょう?」
「それで人の罪を挙げられるなら、私の言葉は全ての民を罪に堕とすことが出来る」
「……そう、ね……。それで、どこなの? その憐れむべき罪人は」
 澍煒は真っ直ぐに天を貫く炎の柱の中心を指差した。
 白い衣服に身を包んだ調査隊が取り囲んで消火にあたるも、一向に衰えようとしない火の勢いの中、小柄な人影が見え隠れしていた。
「炎術師、ね。なるほど、火の精霊に愛されているみたいね」
「それも質の悪い奴にね」
 己が身を炎で包み込み、誰も近寄らせず、見に纏った炎は触れたもの全てを焼き尽くす。こんな凶悪な炎の精霊が神界にいただなんて、どうして今まで誰も気がつかなかったんだろう。
 精霊も純粋なものばかりではなくなっている。人が病むにつれ、より人の近くにいた精霊から闇色に塗り替えられていくものも多い。そうなってしまった精霊は瘴気とともに闇獄界に送って処分していたはずなのに、やはりもうそういった世界の機構さえ上手く働かなくなっているらしい。
「さて、まずはあの暴走状態を止めなきゃいけないわけだけど……火も消えそうにないわね」
 水の精を使役する人々が雨を降らせ、火を使役する人々が火を押さえ込もうとする。が、燃え盛る火は降り来る雨粒を一瞬にして白い蒸気にして大気に帰し、押さえ込もうとする炎の精霊たちを逆に飲み込んで勢いをつける。あれでは全く歯が立っていない。これ以上調査団に被害が拡大する前に何とかしなくては。
「澍煒。調査団には消火活動はもうやめさせて。人々の避難と救護を最優先させてちょうだい」
「でもそれじゃあこの村は……」
「いっそ何もなくなったほうが復興も早いというものよ」
 一村を村民ごと焼き払った人々の大半が今も普段どおりの生活を営んでいる。もし、村に生き残った者がいたら絶対に許しはしなかっただろう。だけど、全ての人々の日常を奪ってしまえるほど、私は法に忠実ではいられなかった。法に情状酌量を加えた罰を与えることしか私には出来なかった。
 もし、この事件を起こしているのが真実、村の生き残りだとしたら、私は謝らねばならない。同時に、この神界では人々の最大幸福を最優先しなければならないのだということを説明しなければならないだろう。私はそれに基づき、三つの罪を犯した村人達を許したのだと、告げなければならない。この国の最高意思決定者の決定は、何があっても覆されてはならないのだから。
 澍煒は苦虫を噛み潰したような表情で私を見下ろした。
「元はといえば、私が疫病の発生をもっと早く知っていれば……」
「澍煒のせいじゃないわ」
 間もなく神代は終わりを告げる。これは、転落の標。必要なこと。統仲王に〈予言書〉は実現するのだと信じさせ、脅えさせるために。
 有極神の編んだ〈予言書〉は忠実に実行されていく。誰が運命の道を敷いているのかはわからないけれど、確実に記された言葉は歴史となる。
「行ってちょうだい。それと、力借りるわね」
 澍煒が調査団の元に駆けていくのを見届けると、私は自分の周りに〈障壁〉をつくり、手でゆっくりと車を押しまわしながら、炎の中に見える狂乱に舞う人影の元へと向かった。
 どす黒い息を吐き出す炎たちは、主をさらに鼓舞するように舞い狂う。それを見て、主もまたピクニックにでも来たようにスキップをしながら次々に建物や草木に触れていく。触れた指先から火がついて、その人が通ったところは炎の嘲笑に包まれていく。
「全く。炎姉様が見たらなんて言うかしら。きっとただのお仕置きじゃすまないわね。……ああ、一番恐いのはやっぱり火の精霊王の宿蓮しゅくれんか……」
 この様子を見た炎姉様と火の精霊王が一体どんな反応をするのか、想像するだけでも恐ろしかった。彼女達の辞書には容赦というものがないらしいし、ここはいずれ炎の精霊がらみで炎姉様にばれるとしても、何とか私一人で治めなければなるまい。まして厳格な宿蓮にでも知れたら……私まで二日や三日お説教されるに違いない。
 近づくにつれてただ黒かった影に二本の跳ねる三つ網がつき、少女らしい華奢な身体を包むふわりとした衣服の線が見えてきた。
 歳は私の外見と同じくらいだろう。十六、七歳くらい。赤黒い炎の灯に照らし出された顔は、聖刻の国の民らしく額はあまり張り出さず、小さな鼻にふっくらとした唇が続いた差ほど凹凸のない輪郭をしていた。
「もえろ、もえろ、どんどんもえろ」
 あどけない様子で鼻歌を歌いながら彼女は上機嫌で飛び回っている。
「ここは花畑ではないわよ」
 焼け落ちる民家と民家の狭間。昼間はおばさんたちがお喋りに花を咲かせていたであろう井戸を間に挟んで、私は彼女に声をかけた。
 しかし、彼女は振り返るどころか私に気づいた様子もなく、背を向けて炎渦巻く村の奥へと向かおうとする。
「お待ちなさい」
 私は掠れる喉をさすりながらお腹の底から声を出した。炎の唸り声を突き抜けて、その声は彼女に届いたようだった。
 自分以外の者がいることに気づいて、ようやく彼女はくるりと振り返った。ぞっとするほど無邪気な微笑を浮かべて。
 見てはいけないものを見たような気がした私は、思わず口元を押さえて目をそらす。
 確かに、彼女が浮かべていたのは赤ん坊のように無邪気な微笑だったけれど、私を見た目に光はなかった。眼球はあるものの、私の方を向きながら私に焦点があっておらず、彼女の目に映っているのは、全ての感情を圧しつくす虚無だけのようだった。
 おそらくあれは、我を忘れている。
「こんばんは。呼んだ? わたしのこと」
 にっこりと口元に笑みを刻んだ少女は、スカートの裾をつまんで丁寧にお辞儀をしてみせた。
「ええ、呼んだわ」
 できるだけ彼女と目は合わせないようにして、私は彼女に力を貸し続けているであろう火の精霊の姿を探す。これだけ力を使っているのだ。見つけられないわけがないのに、彼女の周りにはどこにも火の精霊らしき姿は見当たらない。
 とりあえず彼女をここで引き止めておかなくては。どこか別の場所に移動されたら厄介だ。
「まずは今すぐにこの炎を収束させなさい。話はそれからよ」
「い・や・よ。いーや。どうしてこの火を消さなきゃならないの? せっかく綺麗に燃えているのに、勿体無いでしょう?」
 純粋無垢な笑顔というのはこんな時でも浮かべられるものなのだと、今更ながら初めて知った。まるで花壇の花でも愛でるように、少女は噴出す炎に愛しげに指をのばす。
「それにね、わたし、貴女の話になんて興味ないわ」
 炎と指先で戯れながら笑う少女はさながら根のない綿毛のようで、捕まえておかなければどこへ飛んでいくか分からない危うさを持っている。
 私はおそらく暑さから来る頭痛を堪えながら、少女を真っ直ぐに見上げた。
「あなた、燃やしているものが何か分かっているの?」
 もしかしたらそれさえも分かっていないかもしれない。ただの愉快犯かもしれない。あるいは、闇獄界に唆されてこんなことをしているのかもしれない。
 疑い出せばきりがない。こんな私はもう、神界の住人である資格はないかもしれない。疑うことと答えを予想することが同じだなんて、そんなことがあってはいけない。いけないけれど、きれいごとが真実である時代は終わってしまった。おそらく、私が産まれ、愛優妃がこの世界を去った時から。
「アンジェ村」
 少女の答えは簡潔だった。
 それは私に向けて答えたというよりも、一人呟いたに近い。張りつめた空気が少女を覆い、少女の目は暗い過去を炎に透かし見るかのように眇められた。
「ここにはまだ人が生活していたのよ? この火事で何人が家を失ったと思う? 何人が家族を亡くしていると思う? どれだけの家畜たちが逃げられもせず息絶えていっていると思う?」
 こんな正論を投げかけたところで、少女が我に返って反省するとは思えなかった。だけど、自からこの炎を収束させてもらわないと意味がない。 自省。それがこの神界の最大の償いであるから。
「もえろ……もえろ……」
 少女は再び虚ろな瞳に戻ってくるりと私に背を向けた。
「〈障壁〉」
 私はすかさず少女の進む方向を遮る。
 行く手を阻まれた少女の背後で炎が燃え上がる。
「炎を収めなさい」
「ここは陸の孤島。どれだけ燃えたって、他の村や集落に燃え移ることはない」
 震える背中を向けたまま、少女は言った。まるで誰かの言葉をなぞるように。
「どんどん燃やしてしまえ。感染した奴はこっちに放り込め。元気な奴はあっちの納屋に閉じ込めておけ。元気でも感染してないとは言い切れないからな。ここで同じ空気を吸っている以上、こいつらはみんな死を撒き散らす病原菌だ。家畜も植物も家も土も水も、奴らが触れたものは全て燃やしてしまえ」
「そう言っていたの? この村の人たちは」
 振り返った少女は悲しげに笑んでいた。
 ああ、あれが彼女の本当の表情だ。
 今の彼女の本心からの表情だ。
「貴女のこと知っているわ。聖刻法王、聖様。ユガシャダで働いていた時に一度見かけたもの。あれはちょうどジャパナ村を焼き払った罪で、カルシュナ、サワダ、アンジェの村長たちを裁くために首都につれてきたときだった」
 少女は一歩一歩、今度は私に向かってきていた。憎しみを隠そうともせずに黒い炎で煽り立てながら。
「やっぱりジャパナ村の民ね」
「そうよ。聖刻法王、この国の人を裁けるのは貴女だけだと聞いていたわ。何故――何故、彼らを闇獄界に堕さなかったの!?」
 静かな憤りが私の空っぽの胸を貫いていった。
「何故、残したりしたのよ……みんな誰も反省なんかしてないじゃない。彼らは人を殺したのよ? その手は汚れていなくても、止めなかった村民達全てが厳罰に処されるべきだった! それとも、もうどこにもジャパナ村の民がいないと思って加減したの?」
 胸倉を掴み挙げられた私は、いいえ、と首を横に振る。
 少女は不敵な笑みを口元に刻んだ。
「私はね、彼らが大人数でやったことを一人でやっているだけよ。カルシュナもサワダも、ここアンジェも、どこもかしこも神界の民は病んでいる。全部燃やし尽くしてくれるわ。国も世界も!!!」
 車椅子に私を叩きつけ、少女は天を仰いだ。
 結界を張っていても燃え盛る暗き炎の舌は手薄な部分を狙ってちらちらと入り込んでくる。こもった熱は結界の中で私を蒸しあげる。
 窒息しそうだった。聖刻法王の結界を脅かすほど強烈な力を持つ炎の精霊が宿蓮以外にいたなんて嘘としか思えなかった。
 これは、澍煒も手を焼くわけだ。
「どうして彼らはいつもと変わらない暮らしをしているの? どうして私の家族は守ってくれなかったの? 何故? どうして? 貴女は王様でしょう? 全知全能の神の娘でしょう? どうして――ねぇ、返してよ。私の家族を……父と母と妹と弟と、祖父と祖母と伯父と叔母と……みんなに身体を返してあげてよ!! みんなずっとジャパナ村にいるのに、そこから離れられないのに、あんなひどい有様のまま身体に縛り付けられて……」
 私は張り切れそうな目で訴える少女の手に手を伸ばした。
「〈渡り〉」
 一瞬にして空気が変わった。
 ひんやりと湿った空気が肺の中に流れ込む。
 少女が身に纏っていた炎は一瞬にして引いていた。
 真っ暗な場所だった。今まで明るすぎる場所にいたせいか、手を握っているはずの少女の姿さえ闇に紛れて朧だ。
 そこは、静けさが沈鬱なまでに横たわる場所だった。月と星の灯に照らされて尚、もう二度と地上に灯が燈ることはない場所。草一本生えていない乾いた大地の上を風が撫ぜるたびに、未だ灰に絡みつく死の臭いがここまでせりあがってくる。
「っう……っ」
 少女はこみ上げる嘔吐を必死に堪えているようだった。私の手を振りほどくと、両手を口にあてたまましゃがみこむ。
 顔を上げると、慣れてきた目に井戸らしきものと遠く山の稜線が青く見えていた。視線を転じれば、遥か下方彼方に赤々とした灯火が見える。
「何日ぶり? 故郷に帰ったのは」
「あ、あ、ごめんなさい……違うの。わたしはただ薬を買いたくて……逃げたんじゃないの……だってお金がなかったから……本当よ、信じて! なんで、わたし……どうして、わたし……」
 少女は私の言葉など耳も貸さず、うわ言を言うなり井戸へと走りより、中を覗き込んだ。
「どうして、わたし、まだ生きているんだろう……」
 井戸の中に少女の独白が響きながら落ちていく。そのときだった。井戸を覗き込んでいた少女は、はっと身体をのけぞらせた。
「な……」
 それは、私も生まれて初めて見るものだった。
 あれが鬼火というものなのだろうか。青白い光の大群が井戸から闇夜へと湧き上がってきたのだ。
「蝶……?」
 手のひらに収まるほどの光の塊は、天へと向けて羽ばたきながら瑠璃色の燐光を撒き散らす。少女の上に、私の上に。息苦しくなるほどにその身から光を削り落として昇っていく。
 幻想的な光景に、私は自ずと息を飲み、見とれていた。
 大地に座り込んだ少女は、天を仰ぎながら声も上げずに静かに涙を零す。
「みんな……消えてしまえばいい。灰になってしまえばいい。人も、国も、世界も……みんな、みんな……無くなっちゃえばいいのに」
 炎の舌が少女から迸り、天と地を這い伝った。
 瑠璃色の蝶たちは赤い炎に絡まれて、光を失って落ちていく。
「いなくなってしまえばいい……わたしなんて……」
 炎立ち上がる轟音にところどころ掻き消されつつも、少女の悔恨の呟きが聞こえてくる。炎はその言葉に絡みついた負の感情を糧にいよいよ勢いを増す。
 炎の精霊の姿が見えず、炎で抑制することが出来ず、水で消すことができなかったのは、これが闇獄界の特別な炎だからだったのだ。
 しかし、神界でも燃えることができるとは、どこまでこの世界の空気は濁ってしまったのだろう。
 私は少女の頬に手を伸ばした。炎をくぐった手は障壁を張っているとはいえちりちりと熱さが滲む。
「いいの? あの青い蝶たちはあなたの大切な人たちの魂ではないの?」
 上げられた少女の顔は涙で顔中が濡れていた。不思議なことに、どんなに高温の炎を身に纏っていても少女の身体には焦げ目一つつかないどころか、涙すら蒸発する気配もない。
 獄炎は器を大切にするとは聞いていたけれど、己の行動の自由のためには己自身を御すことが出来るということか。それにしても、これほどのものを一体誰がこの世界に持ち込んだのだろう。触れるだけでも身を焼き焦がされるだろうに、別な世界に運び込み、器と見込んだものに植えつけるなんてことが出来るのは、同じく獄炎を宿した闇獄主だけなのではないだろうか。神界で獄炎が暴走すれば世界が傾く。誰でも簡単に思いつくことだろうけれど、神界ではそれほど強く負の感情を抱くような事件はそうそう起こるものではない。
 ――ならば、起こせばいいのか。
 思い至った私は、再び天を仰ぐ少女の顔を見た。
 虚ろな彼女の目には、炎に焼かれて落ちていく青い蝶たちが無数に映っている。
 止めてあげなくては。これ以上、彼女が傷つけられる前に。
「しっかりなさい。あなたが彼らを傷つけてどうするの」
 彼女の中に埋め込まれた炎は何か。
「誰もあなたを責めてはいないわ。思いだしてごらんなさい。お父様やお母様、弟さんや妹さん達、仲がよかったのでしょう? あなたは流行り病にかかったご家族に薬を買うために、ユガシャダに働きに出ていたのでしょう? あなたのご家族なら、感謝こそしてもあなたを責めることなんてしないわ」
「いいえ! いいえ……だって、みんな恨めしそうにわたしを見ていたわ。悔しいって言っていた。だって、父と母は病にかかっていなかったわ。一番下の妹も元気だったのよ。元気だったのに、あいつら、もしかしたら病原菌を保有しているかもしれないからって元気な人も小屋に閉じ込めて火をつけたのよ。病気で動けなかった弟と妹達は、動けないのをいいことにこの井戸に放り込まれて松明を落とされたわ。村のみんながそうよ。みんな、最後はこの井戸に放り込まれて燃えていった」











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