聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章  合わせ鏡

 ○ 4‐2

「今宵はイグレシアン・サーカスへようこそ。ここは現実から解き放たれた世界。今隣に誰がいようと関係はありません。楽しむのは貴方自身です。貴方の心で、今宵繰り広げられる世界を感じていただければ幸いです。さあ、それでは参りましょう。光と鏡が織り成す幻想の世界へ」
 燕尾服のメタボなおじさんに当てられていたピンスポットが消えて、ステージ全体に光が降り注ぐ。眩しいばかりの煌きは、スポットライトだけのせいじゃなかった。ステージの背景として聳える五枚の鏡。綱渡りの綱の真ん中を仕切るようにステージ中央に斜めに立つ一枚の鏡。それだけでもうこれから始まるものが普通じゃないことが分かる。
 まずは綺麗なお姉さんが中央の鏡の横に設えられた台から現れ、ロープを分断する鏡に触れて人が通れるような隙間がないことを示すと、一輪車に乗ったピエロがお姉さんに呼ばれてふらふらとロープを渡りはじめた。お姉さんはピエロがよそ見をした隙に、鏡を軽く叩いてくぐれないことをアピールする。ピエロは行きつ戻りつしながら鏡の前まで来ると、ようやく自分が正面の鏡に映っていることに気がつくけれど、お姉さんは行きなさいと手で鏡の方へと追いやる。ピエロは少しロープを戻ると、憐れみを乞うように十字を切って鏡へと向かってスピードをつけた。
 観客が息を呑むのに合わせて高まっていた音楽が絞られる。
 次の瞬間、ピエロは鏡の向こう側のロープをすいすいと走っていた。
 観客からは安堵の溜息と歓声が惜しみなく送られる。
「びっくりしたぁ。あれ、どうなってるんだろう」
「マジックミラーとかってあったよな」
「マジックミラーって、こっちからは向こうが見えないけど、向こうからはこっちが見えるっていう鏡でしょ? これ、突き抜けちゃったんだよ?」
「うーん……」
 葵が頭を抱えているうちにさっきのピエロが反対側からこちら側へ鏡をくぐって現れる。くぐり出てくる瞬間は、鏡が割れている様子もなければ、暖簾のようにいくつにも裂かれた銀幕が乱れる様子もなかった。ピエロが通過し終えた後の鏡は何食わぬ顔でピエロの丸められた背中が映し出されている。
 続いての演目は空中ブランコ。それもやっぱり中央に大きな鏡を置いたままで。今度は赤鼻のピエロがしたから鏡に向かってカラーボールを投げたけれど、鏡は当たり前のようにそれを跳ね返してしまった。必死にそのピエロが止める中、わたし達とあまり歳がかわらなそうな少年少女たちはブランコに飛び乗る。さっきの要領で、きっと無事に通過するんだろうと思っても、やっぱり勢いをつけて鏡に向かっていく瞬間は手に汗握る。一人目が無事に向こう側につくと、今度は一人がブランコで漕ぎ出し、反対側から少女が飛び降りた。鏡で少女が飛び降りた様は見えていないはずなのに、ブランコの青年は鏡の仕切りを通り抜けて少女の両手をキャッチする。ほっとしたのも束の間、さらに別の青年がブランコに乗って宙に漕ぎ出すと、青年は膝を曲げて鏡に向かっていった。潜り抜けるのだろうと思わせた瞬間、青年は膝を伸ばして鏡を蹴り、逆に勢いをつけてしまった。その勢いに乗ったまま、今度は足を伸ばしたまま、反対側から投げられたブランコに鏡など関係なく宙を泳ぐようにして飛びついた。
「心臓に……悪い」
 楽しいんだけど、思わず呟いたわたしに葵は目を輝かせて修練が足りないと背中をはたいた。
「樒は素直だから真に受けてどきどきしてんだろ? 大丈夫、大丈夫。ああいうのはちゃんとそれなりのネタ仕込んでんだから」
「でも、無事に通り抜けたと思えば足で蹴って勢いもつけられるって、どうなってるのかわたしにはさっぱり」
「何もネタ、なかったりして……」
 ぼそりと左横で洋海が腕を組みながら呟いた。
「そんなわけないでしょ。魔法なんてあるわけないし」
「いや、一概にそうとも言えないかもよ? 現に昨日、俺たちが通り抜けてきたのって、あの美術準備室の鏡だったんだろ?」
 昨日のことに関してはめっきり口の重くなっていた洋海が何か考え込むように目の前のステージを見つめていた。
「守景先輩、世の中には神隠しっていうのがあるくらいなんだから、僕らはきっとそれにあったんじゃないの? でも人に見せるサーカスではいくらなんでも神隠しに期待なんて出来ないだろうし、きっと何か仕掛けがあるんだよ」
「そうかなぁ。むしろ俺にはネタがあるって思わせたそうに見えるんだけど」
「洋海君、こういう娯楽は頭で見ちゃ駄目なのよ。目に映るものをありのままに受け止めて楽しまなきゃ損だと思わない?」
 光くんの言葉はともかく、桔梗にまでたしなめられてはさすがの洋海も大人しく首肯するしかないらしい。すみませんと桔梗に頭をかいて見せたものの、それでもやっぱり納得がいかないらしく、膝の上に頬杖をついてステージを観察しはじめた。
 ステージでは今度は中央から降りてきたロープに掴まって、赤と黒のシフォン地のドレスを着た男女が妖艶に空中を舞いはじめる。空中に棚引くドレスの裾は鏡の背景とあいまって万華鏡のように姿を変える。幻想的な世界にはロープやブランコから落ちてしまうんじゃないかっていうハラハラはどこにもなくて、むしろあの世界に一緒に溶け込んでしまいたいと思うほどわたしはいつの間にかこのサーカスに魅せられていた。
 誘惑に満ちた世界が終わると、中央のしきりになっていた鏡は取り払われ、後ろで背景に立てられていた五枚の鏡が前に押し出されてくる。中央から現れたのは、レモン色を基調にしたきらびやかながらもかわいらしい衣装に身を包んださっきの少女――安藤君の妹さんだった。
「さぁ、これよりご覧に入れますのは美少女エルメノによりますライオンたちの火の輪くぐりならぬ火の鏡くぐりでございます。七頭のライオンたちが見事鏡にはじき返されることなく潜り抜けましたら、どうぞ御喝采のほどをよろしくお願いします」
 はじめに出てきた燕尾服のメタボなおじさんが紹介するが早いか、エルメノという名で紹介された少女はライオンに飛び乗り、指を鳴らして五枚の大きな鏡の枠に火をつけて回る。
「あれが、ぼうずの同級生?」
「私達の同級生の安藤君の妹さんでもあるみたいね」
 あんぐりと口をあけた葵に、さっき安藤君と彼女が顔を合わせたときにはいなかったはずの桔梗が冷静に付け加える。
「桔梗、どうしてそれ知ってるの?」
「昨日、光くんから聞いたのよ。変わった子がいたって。安藤っていう苗字を聞いて、樒ちゃんに話しかけていたのも安藤君だったと思ったら何か予感のようなものがしてね、ちょっと調べてみたのよ」
 調べたって、この個人情報保護の厳しいご時勢に一体どんな手を使って調べたんだろう。そんな怖ろしいこと、桔梗にはつっこまないでおくのがいいのは分かってるんだけど。
「それにしても、おかしな子ねぇ。サーカスって一家で所属しているのでもなければ中学生が出られるものでもないでしょうに。それも外国から来たサーカス団よ? 一輪車が元から上手かったというなら売り込みようもまだ分かるけど、ライオンを手なずけているだけじゃなく、トリの演目を任されるだなんて、普通じゃないわよねぇ」
「やっぱり桔梗もそう思う?」
「安藤君が心配するのも分かる気がするわ。使うものも鏡みたいだし」
 思案顔で頷いた桔梗は、目ではステージの少女を追いつづける。
「安藤君はこのサーカスとは何の関係もないんだよね?」
「そうみたいよ。妹の朝来さんも一月前まではサーカスに特別な興味もなければ、むしろおうちに引きこもって学校にも来ていなかったみたいね。一昨年転校してきて卒業はさせてもらったみたいだけど、卒業式にも現れていなかったみたいだし。どちらかというと人に会うのが苦手だったそうよ」
「どうりで。僕、聞いたことなかったんだよね、初等部の時。あれだけ印象強い子なら絶対に有名だろうに、見かけたことがないどころか噂一つ聞かなかったもん」
「登校拒否ならそれはそれで噂になりそうだけど」
「全く存在感ない奴っているじゃん。クラスも端っこと端っこなら誰いるのかさっぱりわかんないことってあるし。それに、転校してきてほとんど来ない奴なんて噂立てるのも難しいんじゃない? はじめ噂になったとしてもすぐ立ち消えちゃうもんだよ」
 洋海がしたり顔で頷いている。
「何か、よっぽど性格変わるようなことがあったのかなぁ。あれじゃあ桔梗の話とは別人だもんね」
 一瞬浮かんださっきの必死な安藤君の顔を掻き消すように、ステージ上のライトまでが落とされた。ステージ上に居並ぶ七頭のライオンと一人の少女を映し出すのは、鏡を縁取る炎の輪のみ。それも両面になっている鏡同士が反射しあって、揺らめく炎は幻のように滲むような光でステージ上を浮かび上がらせている。滑らかに流れるようだったBGMにも緊迫感が増してくる。愛想を振りまいていた少女は真剣な顔になり、掛け声と共に指を鳴らした。それを合図にライオンたちは順番を守って一枚目の鏡へと走っていく。鏡を縁取る炎は鏡面さえも焼き焦がさんばかりに燃え盛っていた。その中へライオンたちは躊躇いなく飛び込んでいく。一頭目、二頭目、三頭目がつつがなく鏡を潜り抜け、先頭は二枚目、三枚目の鏡も潜り抜けていく。
 七頭が一周したところで、まずは一度目の拍手が送られる。
 少女は拍手を受け取ると、今度は一頭一頭のライオンに違う色のリボンを結びはじめた。赤、緑、青、紫、白、オレンジ、緑。そしてまた指を鳴らす。ライオンたちは再び順に一枚目の鏡に飛び込んでいったのだけれど、そこからがさっきとは異なっていた。一頭目の赤いリボンを結んだライオンはいきなり七枚目の鏡から飛び出した。二頭目の緑色のリボンを結んだライオンは、五枚目の鏡の反対側から飛び出してきた。三頭目、四頭目もそれぞれ違う鏡、ばらばらな方向から飛び出し、速さを増しながら次の鏡へと飛び込んでいく。
 揺らめく炎の中、色とりどりのリボンが瞬間移動を無限に繰り返しているようだった。
 そのうち、少女は紫色のリボンをつけたライオンに飛び乗ると、自身も鏡をくぐりはじめた。会場からは拍手が沸き起こる。少女は目を回した風もなくライオンから飛び降りると、ステージを飛び降り客席の通路を駆け上がりはじめた。きょろきょろとあたりを見渡しているのは、誰かステージにあげる人を物色でもしているのだろうか。茶目っ気たっぷりに考えたり迷ったりしながら彼女が最終的にたどり着いたのは、わたしたちが座っている列だった。
 もったいぶるように葵から桔梗まで順に見渡すと、光くんとわたしのあたりで視線を揺らし、やがて少女はにっこり笑んでわたしの前に手を差し出した。
 エメラルド色の瞳は暗闇の中でも猫のように輝き、わたしの意志を拘束していく。
 行っちゃいけない。この手をとってはいけない。
 心の中で警告が鳴り響く。
「エルメノは観客の皆様にもこの鏡の不思議を体験していただきたいということですが、いかがでしょう? そこの貴女、ステージに上がってはくださいませんか?」
 さっきの燕尾服のメタボなおじさんがどこからともなくマイクで会場を煽りはじめる。それに乗って急かすように拍手が鳴り響く。
 昨日、確かにこの少女は予言した。わたしが別のわたしに出会うと。その予言を聞いていい感じがしなかったのは確か。予言が嫌な思いをしなくてもすむようにしてくれるものだというなら、わたしは何があってもあのステージの上に行くわけにはいかない。
「樒、めったに経験できることじゃないんだからさ、行って来いよ」
 葵はわたしが立ちやすいように席を立ってわたしの肩を押す。
「で、でもわたし……」
「姉ちゃんが嫌なら俺が!!」
 張り切った洋海がわたしを押しのけて少女の手をとろうとするも、少女は笑顔はそのままに手を振り上げてしまった。そして、その手は再びわたしの前に差し出され、しっかりとわたしの手首を握ってしまった。
 エメラルド色の瞳が逃がさないとばかりにわたしの視線を絡めとる。
「どうして……わたし……?」
 震える声でわたしは問い返す。
「知りたいだろう? 理由を。教えてあげるよ。さあ、おいで」
 それ以上有無を言わせず、少女はわたしの手を引いて階段を下りだした。わたしは振り向いて葵たちに助けを求める。葵は暢気に手を振っていたけれど、桔梗は何か真面目に光くんに耳打ちをし、頷いた光くんはさっと階段を飛び降りてわたしの手を握った。
「ぼーくもっ。入れてくれるだろ、安藤?」
 わたしの手を引いていた少女の足が止まる。止まりきれないわたしの身長など及ばないところで、少女と光くんは視線を交わしたようだった。
「いいよ」
 少女はあっさり光くんの参加も認めると、わたし達をステージの上へ引っ張り上げた。
 わたしは引っ張り出されたステージで所在なく視線を彷徨わせる。ステージの上はライトに照らし出されて思ったよりもかなり暑く、立ちくらみしそうなくらい光の泡が渦巻いていた。目の前の暗闇にはうっすらとしか顔の見えない観客達。わたしの知らない人たち。わたしを知らない人たち。光と闇の境が余りに露で、息がつまりそうだ。
「樒お姉ちゃん、心配要らないよ。ほら、前向いて。恥ずかしがってたって仕方ない。しゃんと顔を上げて。でないとあとで桔梗に何言われるかわかんないよ」
 茶目っ気たっぷりに光くんが耳打ちする。
 そりゃあとで桔梗からちくりとされるのは怖いけど、でも、この光の海の中に一人立っていると溺れてしまいそうだった。間近に恐怖が迫っているのに、逃げ出せないもどかしさが胸を苦しくする。こんなに広いドームなのに、とても小さな檻に入れられてしまったような気がした。
「それでは、実際に観客のお二方にも鏡を通り抜けていただきましょう」
 メタボなおじさんが華やかに謳いあげると、エメラルド色の瞳の少女はわたしを試すように真っ直ぐ見つめ、さぁ、と火の消えた中央の四枚目の鏡の前に誘った。
 誘われるがまま、操り人形のようにわたしはおそるおそる見上げるほど大きな鏡の前に立った。これから来るであろう恐怖に、脅えきって唇を引き結んだわたしの全身が歪みなく映し出される。
「そんなに脅えることないだろ? ここに映るものは何があっても自分だけなんだから」
 それがわたしには怖いのに。
 わたしだと思っていないものが映っても、あなたはそれもわたしの姿なのだと言いたいんでしょう?
 鏡にはまだわたしが映っている。
 少女はその鏡に手を当て、わたしと光くんにもあてるように促した。
 ステージ脇の大画面に映し出すための黒い無人カメラがぐっと距離を縮めてくる。
 わたしは俯きぎゅっと目を瞑ったまま、右手をゆっくり鏡に近づけていった。
「っ」
 冷やりとした感覚が人差し指と中指の先から伝わってくる。柔らかさはない。もっと押し込もうとしても鏡は強固でわたしの間接の方が先に曲がってしまった。
「これって他のところも硬いの?」
 興味をそそられたらしい光くんが好奇心たっぷりに少女に尋ねている。
「触ってみなよ。くまなく。これはただの鏡だから」
「さっきのライオンたちって動きがすごく速かったけど、鏡を通過すると見せかけて一度ステージの下をくぐってまた現れてたりとかしてるんじゃない?」
「なるほど。でも、そんな大変な仕掛けなんかないんだよ」
 少女はひとしきり感心していたけれど、すぐに否定した。
 硬い鏡には、わたしと光くん、それに華やかな化粧をした少女が当たり前のように映っている。背後にはたくさんの証明が詰め込まれ、両脇には別の鏡を縁取る炎が映りこんでいた。
「さぁ、教えて。この鏡、普通と違うところがあった?」
 マイクを入れたのか、別のスピーカーからすぐ側の少女の声が聞こえてきた。
 わたしはとりあえず軽く首を振る。
「鏡には違いありませーん」
 陽気に手を挙げて光くんが答えてみせる。
 少女は口元に笑みを浮かべたようだった。
「それでは、もう一度鏡に触れていただきましょう。エルメノ、鏡に魔法をかけなさい」
 再び分け入ってきたメタボのおじさんの声を受けて、少女は指揮者のように片手で何かの図柄を宙に描くと、とんっと鏡の表面に触れた。瞬間、鏡の表面が波打ったようにオーロラ色の輝きを放っていった。
 ごくりとわたしは生唾を飲み込む。
 そこに、わたしはいなかった。
 映っていたものは、さっきまで当たり前に映っていた十六歳の日本人少女ではなく、昨日の朝見た左右の髪と瞳の色が違う西洋人形のような少女の姿だった。
 慌ててわたしは隣の光くんを鏡の中に探す。
 光くんの姿もどこにもなかった。
 いたのは、プラチナブロンドでとてもハンサムだけれどどこか擦れた感じのする背の高い青年だった。
「光……くん……いる? ちゃんととなりに、いる?」
「いるよ、樒お姉ちゃん。どうしたの? 何か変なものでも見えるの?」
 何事もないように言ってはいるけど、光くんの声もどこかこわばっていた。
「……わたしが映ってないの。光くんも映ってない。これってわたしの目の錯覚?」
「おやおや、何をおかしなことを言ってるの? ちゃんと映ってるじゃないか、君たち自身の姿が。ほら、上の大画面にもちゃんと映ってるよ」
 指し示されるがまま、鏡から離れてステージ際で上を見上げると、確かに正面の鏡には上を見上げるわたしの姿が映っていた。光くんもちゃんと映っている。
 だけど、正面を向けば、わたしではない少女が確かにわたしを静かに見つめていた。
「見る者によって、己の真実とは違うもの。もし、今この鏡に映るものが自分じゃないなら、君は偽者ということになるね。何せ、この鏡は真実を映す鏡だから」
 わたしはよろよろと外国人の少女が映る鏡に手を伸ばした。少女もおそるおそる手を差し伸べてくる。指先が、くっつく。冷たい鏡面越しに。
 音が、消えた。
 それまでドーム中に響いていたBGMも、観客達の息遣いも、光くんの動き回る音も、少女の呼吸音も。
 真白い光の中、炎だけがゆらゆらと揺らめき、それらに埋もれながら外国人の少女はわたしを見つめていた。その目に敵意はない。どこか同情したような色が浮かんでいる。
「貴女が……わたし?」
 少女はじっとわたしを見つめ、力なく首を振った。
「まさか。そうだよね?」
 そんなわけはない。目の前に映っている少女は明らかにわたしが十六年親しんできた姿とは違っている。
「思い、ださなくていい……」
 少女はガラスを弾いたような透明な声で、泣きそうな顔をしながら囁いた。
「思い出さないで……」
 悲壮な顔をしてもう一度囁く。
「思い出さないで? 何を? 貴女のことを?」
 指先から、堰を切って流れ込みそうな何かが伝わってきていた。
「何? 何があるっていうの?」
 わたしは本当に何か大切なことを忘れているんじゃないだろうか?
 忘れてはいけないとても大切なこと。一つだけじゃない。もっとたくさんの大切な記憶があったはずじゃ……?
 鏡という仕切りにもどかしさを感じて、わたしは彼女の指先から流れ込もうとする何かを手繰り寄せようと鏡に触れる指に力を込めた。
 瞬間、ぐらりと身体が傾いだ。
 冷たくも温かくもないもやもやとしたものの中に身体が埋まりこんでいく。顔を上げたそこには鏡に映っていた異国の少女はおらず、わたしの姿もなく、身体の下半分だけが別世界に置き去りになっているような心細さを覚えたものの、すぐに足もバランスをとるためにこっちに踏み込んできた。
「危ないよ」
 傾いだ上半身を、はっしと細い腕が抱きとめる。
「わた……し?」
「そう、わたし」
 わたしの顔をした白い腕の主はにっこりと笑った。
 背景は白。音もなければ何の目印になるようなものもない。ただ、白一色の世界が広がっている。昨日鏡に映し出された、洋海と光くんが歩いていた世界にとてもよく似ていた。
「どこ、ここ」
「鏡の国」
 わたしの顔をした少女は、左手でわたしの胸倉を掴むと、引き寄せてじっと顔を覗き込んだ。
「どう、そっくり?」
 うっとりするようにわたしの顔をした少女は言う。
「そっくりだけど……」
 どこか違和感があった。
 あれ、わたしの頬の小さな黒子、こっち側だっただろうか。反対側だったんじゃなかっただろうか。それに、この子どう見ても左利きみたいだし。
「当たり前よね。わたしは鏡に映ったあなたなんだから」
 わたしの違和感など気遣いもせず、わたしの顔をした少女は掴んでいた胸倉から手を離し、下に叩きつけるように押しやった。
「鏡の、国……?」
 尻餅をついたわたしは、何テンポも遅れてわたしそっくりな子の言葉を繰り返した。わたしそっくりな子は、にっこり笑って「見て」と自分の背後、わたしの正面を指さした。
 鏡があったはずの場所。そこには何か壁があって然るべきだったのに、何の仕切りもなく眩しいステージの向こう薄暗い観客席が広がっていた。
 BGMが戻ってくる。人々の息遣いが密やかに聞こえてくる。エメラルド色の瞳が、じっとわたしを見つめている。
 ステージの上、わたしは座り込んだまま茫然と場内を見回す。
 鏡がない。
 わたしそっくりな子はまだ傍らに立っている。
 でも、誰も騒いでいない。
 なんだろう、この違和感。どうして誰もおかしいと思わないの? 私が二人いるのに。
「お帰り。どうだった、鏡の向こう側に行った気分は」
 エメラルド色の瞳は、すっとわたしからわたしそっくりな子の方に焦点を定め、わたしではなくその子に、鏡の向こうに行った感想を尋ねた。
「行くまでは怖かったけど、ただ潜るって感じ? 行ってみたら息も出来るし、ガラス越しにこっちの光景も見えるし、何も怖いことなんかなかったかな。もちろん、トリックも何もなかったよ。わたし、やっぱりこっちの方からは見えなくなってたの?」
 わたしそっくりな子がよどみなく感想を口にする。エメラルド色の瞳の少女は、うんうんと頷きながら、今度は少し後れて出てきた光くんに顔を向けた。
「君は、どうだった?」
「うん、ほんと、ただ通り抜けたって感じで、何もおかしなことされなかったよ」
 明るく光くんが証言する。その背後で、茫然と自分の背中を見上げているもう一人の光くんがいた。
「何もおかしなことされなかった……? 嘘。嘘よ、それ。だって、じゃあどうして光くんも二人いるの?」
 声をあげたわたしに気づいて、光くんが駆け寄ってくる。
「樒お姉ちゃん、僕たち閉じ込められたんだよ!!」
 青ざめた光くんが、わたしの目の前で何もない空間を叩いた。そこは鏡があったと思しき位置。殴られて歪む様も光を妙に反射させる様も見えなかったけれど、光くんは叩きつけた拳を痛そうにさすった。
「ほんとに……?」
 未だ信じられない思いでわたしも前面に腕を伸ばす。伸ばした指は、途中で見えない何かに硬く押し返された。
 みんながいるステージの方には進めない。それなら、背後は? と後ろを振り向いたけど、後ろは相も変わらず茫漠とした白い空間が広がるばかりだった。
「さて、これでこの鏡には何の仕掛けもないことを分かっていただけましたでしょうか? これと同じ鏡を出入り口付近に設置しておりますので、お帰りの際に皆様もぜひお試しください。それでは、勇気あるお二人に今一度盛大な拍手を――」
 ライトと拍手とを浴びて、偽物のわたしと光くんがさっきまでわたし達が座っていた席へと戻っていく。
「それでは、再び夢と幻の世界へ」
 エメラルド色の瞳の少女は、下がらせていたライオンたちを呼び出すと、再び一頭に跨り、鏡抜けをはじめた。だけど、必ずといっていいほどわたし達が閉じ込められている中央の鏡には入ってこない。ここから出ることもない。
「どうしよう、光くん」
 年下の子に聞くのもどうかと思わなくもなかったけれど、不安が先に立ってわたしの口から滑り出ていた。
「エルメノの奴……」
 歯軋りしそうな苦い声で光くんがまばゆいライトの下にいる少女を睨みつけている。
「ねぇ、もしかして帰りにお試しくださいって言ってた鏡もわたし達みたいに偽物を作ってこっちに閉じ込めるものなんじゃ? だとしたら、ここにいる人たちみんな偽者になっちゃうよ」
「樒お姉ちゃん、昨日僕たちを鏡の世界から導き出した時、どうしてた?」
「え? どうって、桔梗に言われたとおりにしただけだよ。二人が歩いてる道がこっちに繋がりますようにって、思っただけ」
 ちっと光くんは舌打ちした。
「樒お姉ちゃんがこっちにいたんじゃ、このままだと僕らは帰れないってことか」
「わたしがこっちにいたんじゃ駄目なの?」
「エルメノは帰さないつもりで樒お姉ちゃんをこっちの世界に閉じ込めたんだよ。今の樒お姉ちゃんじゃ自分から帰ることなんてできないから」
 視線と声とに棘がこもっているように思えたのは、ただのわたしの被害妄想だろうか。
「そもそも、昨日洋海と光くんが帰ってきたのも、わたし、何もできてなかったと思うんだけど……ただ、帰ってきてって願っただけで」
「それだよ。樒お姉ちゃんが願ったから時の精霊たちは動いたんだ」
「時の、精霊?」
 気の抜けた声でわたしは問い返していた。
 光くんはじろりとわたしを見上げる。
「やっぱり思い出してよ、聖。何も出来ないままじゃ、君自身が一番危険だ。桔梗は時が来れば自然に目覚めるって言ってたけど、今がそのときじゃないの? いつまでも自分ばかり普通でいようなんて思わないほうがいいよ」
 意味の分からない言葉は、毒ばかりを帯びてわたしの身体に付着していく。
「どうしたの、光くん? 何、言ってるの?」
「どうしたのはこっちの台詞だよ。いつまで鈍感なふり続けるつもりだよ。見てるだろう? 自分の本当の姿。昨日の物理の時間も、さっき向こう側からこの鏡と対面したときも、左右色の違う髪と瞳を持つ女の子が目の前にいただろう?」
 わたしは、一歩光くんから離れた。
 なぜか、危険な気がした。これ以上聞いちゃいけない気がした。
「何で知ってるの? 昨日の物理の時間のこと、何で光くんが? もしかして、桔梗?」
「そうだよ、桔梗だよ。桔梗が見たって言ってたんだよ。物理で配られた鏡に、樒お姉ちゃんじゃなく聖が映ってるのを見たって」
「あはは、光くん、変なとこに閉じ込められちゃったからって、どうしたの。さっきから時の精霊とか聖とか、わけわかんないこと言っちゃって。落ち着いて考えようよ。どうやったらここから出られるか。そもそも魔法なんてあるわけないんだし、どっかに出口くらいあるよ」
 口から漏れ出た笑いには潤いなどなく、空気に触れるなりひび割れて粉々になった。せわしなく頭の奥で耳鳴りがしている。いつからだろう。今始まったわけじゃない。昨日……の朝から……? 無意識に聞こえないふりをしようとしていたのだろうか。止めることなどできない。止めてはいけない。これは、危険が去るまでおさまることのない警鐘だから。
 口の中が干からびていく。後退ったわたしの背中は見えない壁にぴったりとくっついた。
 光くんはじりじりとわたしににじり寄ってくる。前は視線はわたしよりもそうと分かるくらい下だったのに、いつの間にか同じくらいになっている。ううん、この威圧感は少し上から見られているから感じるものなんだろうか。
「ねぇ、どうしたら思い出してくれる?」
 光くんはいつの間にか両手に押し抱くように拳ほどの紫水晶を持っていた。それはただの石とは思えないほど、内側からゆらゆらと魅惑的な光を放っていた。
 どくり、と胸の奥が強く衝かれた気がした。
「あ……」
 何かわたしとは別の生き物が胸の奥で蠢いている。
 気持ちが悪い。
 出ようともがいている。わたしの中から? 何が?
 両手わたしは胸をかきむしりはじめていた。少しでもこの痒いような滲むような鈍い痛みから逃れたくて、着ていたブラウスの胸元を、首元を掴んでこぶしごと自分に強く押しつけた。転がりだしたいのを堪えながら、何度も、何度も。
「どうしてそんなに苦しむの? 魔法石は身体に害なすものじゃない。痛くなんかないんだよ。拒まないで。ほら、君の魔法石は出たがっているじゃないか。出してあげようよ、その身体から。君の過去の記憶も、いつまでも封じておいていいものじゃない。思い出しなよ、聖刻法王、聖。人界の創造主、統仲王と愛優妃の娘よ」
 うっすらと涙の滲む顔でわたしは光くんを見上げた。
 なぜか、その顔は今まさにステージの上で喝采を浴びているはずのエメラルド色の瞳を持つ少女と重なって見えた。











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