聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章  合わせ鏡

 ○ 4‐1

 ドームの中は、白い天井から暮れかけの茜色の光が忍び入り、霧のように白くけぶった場内をさらにうっすら赤く染めていた。開演間近の場内は人々のお喋りのざわめきで絶えず空気が揺れているようだった。これだけ広い場内ではあちこちでお喋りがされていようと遠い雑音のようにしか聞こえない。中央に設えられた黄金色のステージ。中央に垂れ下がるロープ、ステージの端と橋に聳えるタワーに張られた二本のロープと緑色のセーフティネット。これからどんな世界が展開されるのか、想像しただけでわくわくしてしまう。
 昨日は変なこと続きだったけれど、今日はごくごく平穏に一日が過ぎていってくれていた。金曜日の夜。明日は土曜でお休みだし、明後日もお休み。はじめはサーカスなんて気乗りがしなかったけれど、来てみればもしかしたら一番楽しみにしているかもしれない。
 まあ、横から桔梗、光くん、洋海、わたし、葵というちょっと微妙な席位置でさえなければもっとよかったんだろうけど。
「それにしても、何であんたまでここに座ってるのよ」
 わたしは上機嫌でわたしの横に陣取った洋海をじろりと見つめた。
「何でって、俺の席の番号がたまたまここだったからでしょ。ほら、何度もみせてるけどこのチケットの席、ここでしょ?」
 洋海はひらひらとわたしに自分のチケットの半券を揺らして見せた。
「新聞屋さんのペアチケット二枚あたったって言ったけれど、それぞれ別の新聞屋さんからあたったのよね。出来るだけ近い席にしてくださいとは言ったんだけど、すごい偶然よねぇ」
 桔梗が他人事のようにふふふと微笑んでいる。
 何が悲しくて自分の弟の隣でサーカスを見なきゃならないんだろう。同級生はどうしたのよ、同級生は。ううん、これはもう、はじめからいないものと思えばいいのかしら。現に右横には葵がいるわけだし。
「あ、樒。サーカス始まる前にさ、食い物買ってこない? サーカスの緊迫したところでぐうなんていったら目も当てらんないからさ」
 お財布を取り出した葵は、わたしの返事を聞く前にもう席を立っている。
「行く行く。桔梗、光くん、何か買ってきてほしいものある?」
「姉ちゃん、俺を無視しないで。俺、コーラとフライドポテト」
「何言ってんの、洋海。あんたは荷物持ち。もちろん一緒に来るわよね?」
「うわ。姉ちゃん横暴。独裁者」
「フライドポテトのLおごってあげようと思ったんだけど……」
「行きます」
「よろしい」
 粛然と立ち上がった洋海を見て、桔梗は楽しそうに笑っている。(光くんはにやにやと洋海を見てたけど。)
「じゃあ、私はウーロン茶とオニオンリングがいいわ」
「僕はねー、ハンバーガー。チーズの入ったやつね。それからメロンソーダ」
「うわ、お子様だねぇ、木沢君」
「黙れ、でか物」
「うわ、お前絶対俺のこと先輩だと思ってないだろ? 何? あんだけ助けてやったってのに、物扱い?」
 見かねた桔梗がやんわりたしなめる。
「光くん、少し口が過ぎるんじゃない?」
「そうだそうだ」
 ったく、洋海はすぐに増長するんだから。
「洋海、年下に食ってかかるのはやめなさい。みっともない」
「姉ちゃん、でもこいつ、ほんとひどいんだよ?」
「あんたが子供だってからかうからでしょ。ほら、行くよ」
 お腹がすいてイライラしはじめた葵は、もう客席の階段を上って売店へ向かおうとしている。
 はぐれないように、わたしも葵の後を追う。
「ん、あれ?」
 階段を駆け上がったところで、会場内から外へのゲート脇に立っている人に、わたしは思わず目を留めた。
「どうしたの、姉ちゃん。急に止まって」
「あ……あの人、なんか……」
「夏城さんじゃない? もしかして」
「やっぱりそう見える?」
「見えるっていうか、あの不機嫌そうな顔はそうとしか見えないというか」
「デートかな」
 うっかり弟に向かって邪推を口にしてしまって、わたしはあわてて何か繕う言葉を探す。
 だけど、洋海は別に気には留めなかったらしい。
「違うんじゃない? あの着ている黒Tシャツ、スタッフのだもん。腕章もしてるし」
「バイト、かな」
「岩城って、バイト大丈夫なの?」
「許可があればいいみたいだよ」
「へぇ~、そうなんだ~。俺もやろうかな、何かバイト」
「高等部からね、そういう許可あるのは」
「何だ。ちぇ~。それにしても、ラッキー。こんな近くで夏城さん見れるなんて」
 ラッキー、じゃないわよ。
 わたしなんか心臓がバクバク言ってそれどころじゃないっていうのに。
 自然、身体は夏城君のいるゲートではない方へと翻される。
「あ、姉ちゃん、どっち行ってんだよ」
 洋海の声が追いかけてくるけれど、無視無視。
 別なゲートから出たわたしは、きょろきょろと首をめぐらして葵を探した。
「あ、いたいた、葵ー……」
「あの、守景さん、こんばんはっ」
 挙げかけた手を中途半端なところで止めて、わたしは名前を呼ばれた方を振り返った。
「安藤君」
 とっさに呟いた声にぎこちなさが宿ってしまったのに気づいたのか、安藤君はわたしと目が合った瞬間にさっと顔を伏せてしまった。
「ご、ごめん。見かけたらつい、声かけちゃって」
 昨日の物理の後から、忘れてくれと言いつつ、何度となく話しかけたそうにしていたのは知ってたけれど、半分は自分から思いとどまり、もう半分は葵や桔梗が折りよくわたしに話しかけるものだから微妙そうな視線を送ってくるに留まっていた。
「安藤君も来てたんだ、今日」
「ああ、うん。そうなんだ。妹……がチケットをくれてさ」
「へぇ、妹さんがいたんだね。何歳なの?」
「今年中等部に入ったばかりなんだけど……」
 そこまで言って安藤君は口を閉ざしてしまった。気難しげな顔で斜め下を睨み見たまま動かない。かと思いきや、いきなり顔をあげた安藤君は、わたしの肩を掴んだ。
「教えてくれないか。昨日、本当に何もおかしなこと、なかった?」
 わたしは即座に頷くこともできず、かといって首を振ることもできずに安藤君を見つめていた。
「見たんだよ、おれ。一ヶ月くらい前になるんだけど、誕生日に妹がくれた鏡で、もう一人のおれだけどおれじゃない奴。それ以来、妹からもらった鏡は見ないようにしているんだけど、思えばあの頃からうちの妹、ちょっとおかしくて……何でもいいんだ! おれだけなのか、それとも他にもいるのか……」
「安藤、うちの樒に何か用?」
 必死に言い募っていた安藤君の言葉を遮って、葵がわたしの肩を引き寄せた。
「葵……、大丈夫だよ。そんなに心配しなくても。安藤君、何か困ってることがあるみたいで、それで昨日のこと聞きたかったみたい」
 葵はしかめっ面で安藤君を見つめた。
 安藤君は息詰めた表情のまま後退りかけるのを踏みとどまっている。
「忘れてくれって言っといて、また樒困らせるって、それはないんじゃない?」
「だけど、やっぱりほんの少しのヒントでもいいからほしかったんだよ」
「何のために?」
 安藤君は言おうか言うまいか迷うように唇を噛み締め、ちらりとわたしを見てから葵を見上げた。
「妹を助けるために」
 明らかな逡巡が安藤君の顔には表れていて、葵は胡散臭いとばかりに鼻を鳴らした。
「人助けたいなら、警察に行くのがいいんじゃないの? 様子がおかしいってなら、病院だろ。樒の経験と共通点見出して、自分一人でどうこうできることなの、それ?」
「おれが何とかするしかないんだよ。警察も病院も子供の言うことなんて信じちゃくれない。大体、相談できるようなことじゃないんだよ」
「ご両親は、気づいてるの?」
 子供に何かあったら、普通は一番心配するのは親のはずだ。そりゃ、兄弟だって気はもむかもしれないけれど、その前に親がどうにかしてくれるものだ。
 安藤君は自嘲っぽい笑みを口元に浮かべた。
「親? 親は気づいててもどうにも出来ないんだよ」
「どうにも出来ない? なんだよ、それ」
 葵が顔をしかめた時だった。
「あ、お兄ちゃん、来てくれたんだ」
 幼くも明るくしっかりした声が背後から聞こえた。
 振り返ったそこにいたのは、夕焼け色のふわふわとした髪を持つ小さな女の子。明るい緑の瞳が好奇心に大きく見開き、わたしたちを眺め渡す。
 お兄ちゃんと呼ばれた安藤君は、一瞬妹を見るというよりは敵でも見るかのように警戒心もあらわに少女を睨んだ。
 わたしは、といえば、心臓に突き刺さるような痛みと戦っていた。
 昨日の朝、駅構内でおかしなことを話しかけていった少女だった。
『明日、君は眩しい異世界にいるだろう。そこでは揺らめく炎が映る鏡が君を手招いている。君は、もう一人の君と出会うよ。その鏡は真実を映す鏡』
 明日、っていうのは、今日のことだ。おそらく今日、これからの――。
 少女は中に着ているきらびやかな衣装を隠すような黒いローブを纏っていた。まさか、ステージに立つわけじゃ、ないよね?
 少女はわたしのことは一瞥するに留め、努めて妹らしい表情で安藤君に話しかけた。
「お兄ちゃん、ぼくの出番、最後の方だから。ちゃんと見ててよ? 失敗しないようにさ」
「あ、ああ」
「何心配してんのさ。別に綱渡りするわけじゃないし、危険なことはしないから大丈夫だよ」
「本当、だな?」
 妹に向けるとは思えない目で、安藤君は少女を睨みつけた。
 少女は怯むどころか唇にどこか意味深な笑みさえ浮かべてその視線を跳ね返す。
「当たり前だろ。するわけないじゃないか。間違ってもライオンに手を食わせるなんてしないから、さ。安心してよ」
 冗談にしてもぞっとしないことを言って、少女はわたし達に愛想を振りまくと踵を返した。その少女と鉢合わせするように人ごみを縫って光くんが現れる。
「あ、いたいたー。何だよ、遅いから探しに来ちゃったじゃないか……って、エ……安藤、じゃん」
「あ、木沢君も来てくれたんだ。わぁ、ありがとう。知ってる人いっぱいだからがんばんなくっちゃね」
「がんばんなくっちゃって……え、まさかサーカス出るの?」
「そう、そのまさか」
 え、やっぱり出るの? と喉まででかかった言葉を飲み込んで、わたしは黒いローブにくるまれた小さな背中を見つめた。昨日の朝は確かに制服を着て見た目だけは普通の子のようだったのに、一体どうやってサーカスに入ったのだろう。安藤君のお家がサーカスやってるって話は聞いたことないし、団員だったら妹からチケットもらったなんて言うわけはないし。
 安藤君が妹がおかしい、と言うのと何か関係があるのかな。
「皆さんを鏡の国へご招待します」
 振り向いた少女はにこりと笑って手振りも滑らかに一礼した。
 嫌な予感がしなかったわけじゃない。でも、帰ると言い出すには理由が曖昧だったし、何より、もう会場を見て、これから始まる世界に期待してしまっていたのだ。ここから出る気にはならない。
 周りでは、開演を五分前に控えてスタッフ達が中に入るよう声をかけはじめていた。
「楽しみにしていて、光」
 少女は光くんの耳に口を近づけると踊るように走り去っていった。
 囁かれた光くんも不安げな顔で少女の背中を見送る。
「何だよ、光。安藤の妹と知り合いなのか?」
 重苦しい沈黙を破ったのは、そもそもいやな予感さえも感じていなかったらしい葵だった。
「クラスメイトなんだ。昨日会ったばかりなんだけどね。ふぅん、お兄さんいたんだ」
 光君は意外そうに安藤君を見上げると、ぺこりと小さく会釈した。
 安藤君は藁をも掴むような顔で光くんの前に進み出る。
「妹はクラスでどうだった? 何かおかしなことを言ってなかった?」
「言ってたよ。自分は虚言癖があるって思われるけど、言ってることは全部本当のことなんだって」
 歯に衣着せぬ言い方で光くんはまっすぐに安藤君に答えた。
「何か、ありそうだね。僕でよかったら協力しようか」
 しばらく安藤君の顔を見つめていた光くんは神妙な顔のまま、さらに安藤君を覗き込んだ。
「おーい、始まるぞー。今入らないとは入れなくなるぞー」
 いつの間にか両手いっぱいに食糧と飲み物を抱えた洋海が、ゲート付近で手を振る。
「じゃあ、また後で。今はサーカスを楽しんで。守景さん、呼び止めてごめんね」
 決意を込めた返事を光くんにすると、安藤君はちらりとわたしを見て別のゲートへと走り去って行った。
「あっちってVIP席だよな。いいなぁ、安藤。今日の面白かったら、チケットとってもらえるように頼んでみようかな」
「気が早いよ、葵」
 葵はもう安藤君のことなど忘れて、ゲートから見える暗くなりはじめた会場の様子に胸を躍らせているようだった。
 わたしは、珍しく自分から協力しようかなどと言っていた光くんが意外でならない。
「光くん、安藤君に協力するって言ってたけど……」
「心配するようなことはないよ。多分、クラスでの彼女の様子を知りたいだけなんだと思うし」
「でも……」
 安藤君が知りたいことは、この世界では普通ではないことなのだ。もし、このまま光くんがまた変なことに巻き込まれたら……。
「昨日のようなことにはならないようにするから。ほんと、昨日のあれ、なんだったんだろうね」
 昨日、帰りに葵と桔梗と三人で光くんと洋海を尋問(あれは尋問だったと思う。目の前にシフォンケーキを置いて喋るまで食べちゃ駄目っていう、桔梗たちのあれは)したんだけど、結局二人とも「なんかよくわかんないところふらふら歩いてたらあそこに出た」って言うだけで、詳しいことは何も分からなかったのだ。あの真っ正直さが売りのような洋海でさえも首を傾げて「なんだったんだろうなぁ、あれ」とすっとぼける始末。日が暮れてしまって仕方なくケーキを食べて帰ったけれど、家に帰ってからも洋海は何があったのか一言も言わなかった。もちろん、お父さんもお母さんも洋海が一時行方不明になってたことなど知らない。今朝も普通にわたしより早起きして朝練へ行っていたみたいだし、普段と変わった素振りなどどこにもなかった。
 桔梗によると光くんもそうだったらしい。心配をかけた分いつもよりはいい子にしていたみたいだけど、どんなところだったのか聞いてもさあ、ととぼけるだけだったという。
「ねぇ、樒おねえちゃん。駄目だよ? これ以上首つっこまない方がいいことだからね。これは」
 わたしがまだ心配しているのを見てとったのだろう。光くんはわざと線を引くようにわたしに言った。
「わたしが首つっこんじゃいけないことなら、光くんもそうでしょう?」
 負けじとわたしも言い返すと、光くんは困った顔をしてちらりと洋海のほうを見やった。何気に耳を済ませていたらしい洋海はあからさまに光くんから顔を背け、席で待っていた桔梗に頼まれていたオニオンリングを渡しはじめる。
「過保護な弟さんが心配してるから、樒おねえちゃんは駄目だよ」
 光くんはからかうように笑って桔梗の横に収まってしまったけれど、そんなの、わたしにとっては適当な理由をつけて仲間外れにされたような気分だった。
 わたしだって、知りたかった。
 昨日、朝と昼と鏡に映ったあの異国の少女が誰なのか。何故、物理に時間に鏡に映ったわたしはあんなことを言い出したのか。あれは、探られたくもないわたしの本音だ。人には聞かなかったことにしてしまう自分の本音がいくらでもある。聞かなかったふりをして封じ込めておかないと、自分がすごく嫌な奴に思えてしまうから。自己嫌悪だけじゃ生きていけないもの。もしまた鏡に映った自分が不意に喋りはじめたら。あのいやらしい本音が周りの人にも聞こえてしまったら――そう思うと、心が冷えるような気がした。
 所詮、わたしが気にしているのは世間体なのかもしれない。自分がよく思われていたいと思っているから。人の目を気にせずに生きられるほど、わたしは強くない。
 自分の本当の影に脅かされて生きるくらいなら、首をつっこんじゃいけないくらい怖ろしいことが待っていても早く原因を突き止めてあの影を殺してしまわなければ、安心して生きていくことも出来ない。
 ――自分を殺す?
 影とはいえ、自分の本心を代弁するものは最も自分に近いはずなのに、殺すなどという発想が出てきた自分に、わたしは自分で驚いてしまった。一体、本心を失った自分は自分足りえるのだろうか?
「レディース、エーン、ジェントルメーン」
 会場中の照明が一瞬にして落とされる。
 暗闇と同時に落とされた静寂の中、よく通る張りのあるバリトンが胸の奥に眠っていた幼い期待をくすぐるように響き渡った。











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