聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章  合わせ鏡

 ○

 心臓が止まるかと思った。
 弟の洋海が目の前で大きな氷の塊の中に飲み込まれていったのだ。氷の中に消えていく時は、感情もなくただ鮮明な映像を目で追うだけだった。消えてしまってしばらくしてから初めて、心臓が突き上げられるように飛び跳ねた。
 何が起こったのかと辺りを見回したら茫然と立ち尽くしている桔梗がいて、そりゃ桔梗を追って来たんだから当たり前だったのかもしれないけど、その姿を見つけただけでわたしは心の底から安堵していた。ついさっき桔梗に持った僅かな不信感などすっかり忘れ、わたしは彼女に頼りきっていることにすら気づかずに彼女に縋るような視線を投げかけた。
「樒ちゃん……」
 わたしの視線に気づいた桔梗は、わたしに困惑した視線を投げかけたのも束の間、すぐにいつもの頼れる桔梗の顔に戻っていた。その間、二秒もなかったと思う。
「大丈夫よ」
 反射的に笑顔を造った桔梗は、片手では画板を握りしめながらもう片方の手でわたしの肩を叩く。だけど、わたしは凍りついた表情のまま桔梗を見つめ返していた。
 気づいてしまったのだ。笑顔に戻る一瞬に自らを叱咤した桔梗の表情に。桔梗だって同じ十六歳の人間だったってことに。
 パーフェクトな人間なんているはずがない。でもわたしはいつも思っていた。桔梗は完璧な人間だって。あら捜しなんて思いもよらない。完璧でいてほしかった、桔梗には。わたしが思っていることは何でも通じて、先を見越して導いてくれる存在であってほしかった。だから、さっき物理の時間に何が見えてたのかと改めて問われた時、嫌だったんだ。そんな桔梗は、わたしがイメージする桔梗じゃなかったから。
 なんて我が儘なんだろう、わたし。
 桔梗はいつだって桔梗でいるだけなのに。
「大丈夫、必ず戻ってくるから」
 桔梗は根拠のない慰めは言わない。今だって、自分に言い聞かせているようにはとても聞こえなかった。どこへ行ったのか知っているかのように、自信たっぷりに微笑んでいる。
 桔梗がそう言うなら必ず戻ってくるのだろう。
 大丈夫。
 言い聞かせて思わず笑みそうになった自分に気づいて、わたしは一瞬ぞっとした。
 どうして微笑めるだろう。弟が目の前で氷の塊の中に飲み込まれていったというのに。明らかに尋常じゃない。名も知らぬ知り合というわけじゃない。血を分けた弟がいなくなったのだ。そして、話したことのある小さな後輩も。
 それ以前に、どうして学校の昇降口の前に、人二人を飲み込んで余りある氷の塊が転がっている、もとい聳え立っているんだろう。
 おかしい、よね?
 この状況、全然ちっとも大丈夫なんかじゃ、ないよね?
「洋海? 洋海?! 聞こえないの、洋海! ふざけてないで出てきなさいよ!」
 衝動的に叩きつけた拳は、ぶつけるごとに手痛く弾き返された。削れた痕もなければ、融けた痕もない。それどころか、氷は向こうのざわめき始めた薄暗い昇降口を透かし映し、この中には誰もいないと主張する。
 真昼からお前は夢でも見たんじゃないかと、あざ笑いながら明瞭な事実を突きつける。
「樒ちゃん」
 昇降口から溢れ出してきた中等部の生徒たちを気にしながら、桔梗がわたしの手首を捕まえた。
「離れましょう。ここにいたって仕方ないわ」
「離れる? どうして? だって、洋海捜さなきゃ。光くんだってこの中に吸い込まれていったじゃない。見たでしょ、桔梗も」
 「見たわ。そうね。きっと待っていればここから帰ってくるに違いないわ」。その一言が聞きたくて桔梗を振り返ったはずなのに、わたしは答えを待つことなくその華奢な肩を掴んで揺さぶっていた。
「樒ちゃん」
 桔梗は心配そうな色は浮かべたものの口元の笑みは崩さず、わたしの手を引っ張った。
「校舎に戻りましょう。そろそろ集合時間だわ」
 昇降口から出てきた生徒が巨大な氷の塊に気づいて、歓声を上げながら駆けてくる。
「待って! 待ってよ、桔梗!!」
 わたしはぐっと奥歯を噛みしめると、わたしの手を掴んでいた桔梗の手を思い切り振り払った。
 桔梗はしばし茫然と振り払われた自分の手のひらを見つめる。それから、やおらきっぱりと彼女は顔を上げた。
「出来ないわよ。私達には、何も出来ないわよ」
「出来ない? 洋海たちを捜すことくらいできるよ」
「あれだけ間近であの氷を見て気づかなかったの? 中には何もなかった。あの氷は樒ちゃんのことは吸い込もうとしなかった。二人の後を追って探そうというなら、あの中に入れることが大前提でしょう? それとも別な場所に適当に見当をつけて捜すつもり?」
「決めつけないでよ! 待ってれば出てくるかもしれない」
「授業すっぽかして出てくるかどうかも分からないものを待ち続けるの? そんなことよりも、先生にお話ししに行くほうが常識的な対応なんじゃない?」
「先生に話したって、あんなこと信じてくれるはず……」
「ないでしょうけれどね」
「だったら尚更……!!」
「尚更、あそこで待つのはわたし達が何かしたという疑いをかけられる可能性があるわ。もしくは嘘つきにされるかもしれない」
「じゃあどうすればいいの?!」
「だから言ってるでしょう。私達に出来ることは何もないって。何も考えずに感情だけで何かしようとしても、それはただの自己満足だわ」
 桔梗からの予想外に厳しい言葉に、煮えたぎっていたわたしの全身は一瞬にして冷や水を浴びせられたかのように冷え切った。
 どうしてそこまで言うの?
 わたし、何かおかしいこと言ってる? 言ってないよね? だって、目の前で弟が消えたんだよ? 捜すよね? 心配するよね? 慌てるよね?
「何かわたし、おかしいの?」
 自らに問いかけながら、桔梗を責めながら、どこかで自分がおかしいんだと思い込もうとしていた。桔梗が間違ったことを言うはずがないから。
 でも、理解できない。
 桔梗の言っていることは、桔梗が正しいと信じようとしているから正しそうに聞こえるだけ?
 正しいのは桔梗? それともわたし?
 答えは?
「大丈夫って言ったでしょう? 桔梗、さっき大丈夫だって言った……」
「言ったわよ。いいのよ、あの氷から離れたって。入り口と出口が同じとは限らないから」
「じゃあどこから出てくるって言うの?」
 勢い込んで尋ねるのとほぼ同時に、高等部の方から葵の呼び声がした。
「お前ら、どこ行ってんのかと思ったら中等部かよ。ほら、時間だってさ。戻るよ……って、なんじゃ、ありゃ」
 桔梗とわたしの手をとった葵は、ようやく背後で繰り広げられている喧騒の中心にあるものに気がついたようだった。
「なに……? あれ……」
 放心した葵が桔梗に答えを求めようと目を泳がせた時だった。
 薄いガラスが割れるような音がして、氷の塊が弾け散った。
「え……?」
 驚くのも束の間、わたしは反射的に葵の手さえも振り切って喧騒の只中へと突っ込んでいた。
 だって、あれがないと洋海も光くんも帰ってこられないんじゃない? 桔梗は入り口と出口が同じとは限らないなんて言ってたけど、それは何の確証もあるわけじゃない。
 冷たさもないキラキラときらめく氷の破片が降ってくる。それは時間が経つにつれて冷たい霧となり、雫となって虹を描いた。
 アーチの下、見えるのはただの中等部の校舎だけ。
「い……や……」
 言葉が掠れながら口から迸る。
 その瞬間だった。
 虹は消え、雨が降り、太陽光にダイヤモンドダストのようにきらめく破片が宙を舞い、再び、あの大きな氷の塊が目の前に構えていた。
 あたりは静まり返る。
 そして、皆一様に目を擦る。首を振っては目の前の氷の塊を注視し、そしてまた目を擦る。
「ほら、まだ生きてる。生きたいと言ってる」
 傍らを見下ろすと、今朝見たふわりとした夕焼け色の髪の少女がわたしをエメラルドグリーンの瞳で見上げていた。
 マジックでも見せられた気分のわたしは、吸い込まれるようにその瞳の奥深く、深くを見つめ、答えを探す。
「知っている気がするだろう?」
 その少女は岩城の制服を着て、さしたる違和感も感じさせず帰りがけの中学生たちの中に混じっていた。
 わたしの肩はぞっとそびやかされた。
 見つめれば見つめるほど、彼女にわたしというものを探られる気がした。まるでわたしさえ知らないものを見つけ出して、その人にわたしを食わせてしまおうとでもしているよう。
「行きましょう、樒ちゃん」
 静かながら明らかに怒気を孕んだ声がして、わたしは桔梗に腕を掴まれて引っ張られた。今度ばかりは問答無用だった。どんなにわたしが喚こうがもがこうが、桔梗は一つもわたしを見ず、言葉すらかけずに高等部の校舎へと向かっていく。
「葵、葵からも何とか言ってよ。洋海と光くんが消えちゃったんだよ? どうして平気でいられるの……」
「洋海と光……? ああ、それなら大丈夫だろ」
 後ろからついてきていた葵は、まだ半分さっきの氷のマジックの余韻が抜けないらしく、上の空で答える。
「何を根拠に大丈夫だなんて……」
「それよか、お前らのほうが大丈夫じゃなさそうだぞ」
 他人事といわんばかりに、葵はクラスの人たちが集まっている高等部の昇降口前を顎でしゃくって見せた。
「どこまで行ってたんだー?」
 六コマ目終了のチャイムがなっている中、クラスメイト達は放課後の予定に向けてどこかぴりぴりし始めていて、そんな緊張感の漂う中を担任であり美術教師の片山先生のどこかのんびりとした声がふわりと飛んできた。
「すみません。桜がきれいで、つい中等部の方まで」
 桔梗はわたしからぱっと手を離すと軽く頭を下げた。わたしも慌ててそれに倣う。
「まあ、絵なんてもんは心動かされないと描く気にはならないもんだからなぁ。今度からはあまり集合時間に遅れないようにな。よし、それじゃ今日はここまで」
 明るい片山先生の声に続いて、若干イライラが混じった日直の声が授業を締めた。
「ああ、そうそう。藤坂と守景、デッサン出すついでに今集めたこの絵、美術室に運ぶの手伝ってくれないか?」
 片山先生は邪気ない笑顔でわたしと桔梗の前に三十三人分の画用紙の山を差し出した。
 わたしはちらりと桔梗の顔を窺う。
「それくらい、お安い御用です」
 桔梗は私に目配せすることもなく、にっこりと片山先生に微笑んだ。
「ね、樒ちゃん?」
 そして、うんともすんとも言わないわたしを見かねたのか、画用紙の山の一つを受け取りながらわたしの方を振り返る。
「う、うん……」
 圧されるようにわたしは頷き、片山先生から画用紙のもう一山を受け取った。
 わたし、いつの間に桔梗の同意がなければ先生への返事一つ出来なくなってしまったんだろう。
「守景、どうした? そんなにその画用紙重いか?」
 俯いたわたしは友達ではなく先生に対しているというのに、無言のままただ首を振っていた。
「あ、ごめんなさい。大丈夫です。これくらい、鞄より軽いですから」
 これをもって美術室なんかに足を伸ばしてる場合じゃないのに。一秒でも早くあの氷のところに行って、洋海たちを見つけ出す方法を試してみなきゃいけないのに。
「樒、あたしも手伝うよ」
 葵が気遣わしげにわたしの抱える画用紙の三分の一を取り上げた。
「あら、じゃあ私の分も少しお願い」
「うわ、図々しいな、お前って女は」
「いいじゃない、どうせ私のも手伝ってくれるつもりだったんでしょう? それに全部とは言ってないわよ。少しって言ったでしょう?」
 葵ははぁ、と一息ついて、桔梗の画用紙も少しだけ手に取った。
 昇降口で中履きに履き替えて四階の美術準備室に行くと、片山先生が鍵を片手にわたしたちを待っていた。
「悪いな、こっちに置いてくれ」
 窓際のごちゃごちゃと物の乗った長机の上を片山先生は指差した。彫りかけのりんごらしき石膏の白い塊、ヴィーナスの上半身の石膏像、造りかけらしい精緻な銅板数枚、描きかけのラフデッサン――長机の上はそれらが所越せましと存在感を主張していて、とてもこの大判の画用紙を乗せる隙間はない。
 指をさしておいて、はたとそのことに気づいたらしい片山先生は慌てて掃き散らすように机の上の物を寄せはじめる。焦ったせいか、不恰好な白いりんごは転がりだし、薄い紙に描かれたラフデッサンは窓から吹き込んできたいたずらな風に舞い上げられる。
「ちょっと、先生、しっかりしなよ」
 葵が苦笑いしながら舞い上がったラフを片手で集めだす。
 わたしはといえば両手がふさがっていて、白いりんごが長机から転がり落ちるのを止めることもできなかった。
「りんごが……」
 知らせようとした声は力なく口の中でくぐもり、白いりんごはごんとありきたりな鈍い音を立てて二つに割れた。
「あああっ、俺の白雪姫の伝説が!!!」
 両手を万歳した片山先生は、慌てて割れたりんごの元にしゃがみこんだ。
 わたしは空いたスペースに画用紙をおいて、欠片を集めようと片山先生の向かいにしゃがみこむ。
「すみません」
「何で守景が謝るんだ。俺が不注意だったんだよ」
 生徒を励まそうとつくった笑みが悲しみに崩れている。
「そうだよ、もう少し片付けてりゃこんなことにならなかったのに。ま、ヴィーナスは無事だったんだからさ」
 葵、何も追い討ちかけなくてもいいだろうに。人の手から成ったものは、二度と同じものは作れないんだから。
 苦笑しながらりんごの片割れを拾い上げると、中には小さな手鏡が斜めに埋め込まれていた。
「あれ、先生、これ……」
「りんごと鏡をあわせたモチーフを作ろうと思ってな。白雪姫の継母は『鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだぁれ?』って言うだろう? 鏡がなければ彼女は自分の美しさを知ることもなく、白雪姫を毒殺するっていう罪を犯すこともなかった。鏡はまさに毒りんごの種なんだよ」
 熱く語る先生をよそに、わたしは三分の一ほどが石膏に埋没した鏡を引き寄せられるように見つめていた。
 覗き見るのは怖いくせに、姿が映るものを見つけると探さずにはいられない自分の顔。今だってそうだった。ついつい鏡を正面に構え、まさか映らないわけはないだろうと覗き込んだのに、鏡が映し出したのはわたしではなかった。
「洋海……」
 黒とも白ともつかない、ごくたまに虹色の光が煌く壁を背景に、洋海はきょろきょろと辺りを見回しながら歩いているようだった。
「樒ちゃん?」
 突然弟の名を呟いたわたしを、桔梗が心配そうに覗き込む。
「見て! 洋海がいる!! この中、洋海がいるよ!」
 一瞬顔をしかめはしたものの、桔梗はわたしが差し出したりんごに突き刺さった手鏡を覗き込んで息をのんだようだった。
「光くんもいるわね。でも、道に迷ってるみたい」
 考え込むように手を顎にあてた桔梗は、きょろきょろと辺りを見回す。
「いるって、その中に洋海とあの坊主がいるって? んな馬鹿な」
 一笑に付そうとした葵に桔梗が鏡を差し出す。
「さっきから人の作品覗き込んで何を……え゛……?」
 葵の横から鏡を覗き込んだ片山先生も絶句する。
「なんだい、これは……」
「説明は後です。先生、ここで一番大きな鏡はどこですか? できれば姿見とかがいいんですけど、その鏡以外他に鏡はありませんか?」
 口早に桔梗が片山先生を急かしたてる。
 桔梗の気迫にのまれた片山先生はもはや抱いた疑問も忘れて、古ぼけたベージュ色のカーテンの裏から多少埃をかぶった細長い姿見を引っ張り出してきた。
「これでいいか?」
「ありがとうございます。十分です」
 形ばかりの礼をした桔梗は、焦るばかりで何も出来ずにいたわたしの腕を引っ張り上げて鏡の前に立たせた。
「樒ちゃん。洋海君に帰って来てほしい?」
「え? あ、あたりまえでしょう?」
「じゃあ、光くんは?」
「もちろんだよ」
 合格とばかりに桔梗は頷く。
「それならこの鏡に触れて、繋がれ、と念じて」
「念……じる?」
「考えないで。呟いても叫んでもいいから、早く! 見失わないうちに」
 わたしは桔梗に渡されるがままに左手に彷徨う洋海たちを映し出した鏡を持ち、言われるがままに片手を伸ばして鏡に触れた。
 ざらりとした埃独特の感触が指先から手のひら全体に張りついていく。
 この姿見には洋海の姿も光くんの姿も映ってはいない。それでも、帰ってくるんだろうか? わたしが「繋がれ」と念じれば?
 心から信じるというよりも、今騙されておかなければ二度と洋海たちに会えない気がした。
 帰って来てほしいなら、桔梗の言うことを信じるしかない。何せ、あの桔梗がこんな突拍子もないことを言い出したのだ。やって無駄になることは、桔梗はしない。失敗して馬鹿にされるようなことも、おそらくいくら光くんの命がかかっていてもしないだろう。
 できるのだ、わたしには。きっと。
 わたしはもう一度左手の鏡に映し出された洋海と光くんの姿を確認した。
(彼らの辿る道の先がここに繋がりますように)
 ――帰ってきて、二人とも。
 念じるというよりは願い、祈りに近かったかもしれない。これを何度も繰り返せばいいのだろうか? そう思った直後だった。
 姿見は一瞬雷光を受けたかのように閃いた。
「な、なんだ?」
 姿見を支えていた片山先生が片手で眇めた目を擦る。
 驚いたわたしも手を離して逃げ出しかけたけれど、桔梗は逆にわたしの背中を押した。手は鏡に触れたまま。だけどさっきまで感じていた埃のざらつきはもうない。ぬるま湯の中のように心地よい揺らぎが手のひらを包み込む。
 自分の手元で一体何が起きているんだろう?
 安らぐような感覚と共に理由の分からない恐ろしさが胸に去来する。
 怖い。
 再度手を引っ込めようとした瞬間、何か大きな手がわたしの手を掴んだ。
「な、なに?!」
 わたしは恐ろしさにぎゅっと目をつぶる。
「樒ちゃん、目を開けて!」
 でも、などと躊躇っている場合じゃなかった。これがもし洋海の手なら、離すわけにはいかない。
 おそるおそる目を見開いたその先、混沌とした鏡面に映っていたのは、
「洋海!!」
 わたしは左手に持っていたりんごも放り出して両手で洋海の手を掴み、引っ張り出した。
「よ、姉ちゃん、久しぶり」
 引っ張り出されるがままに姿見の下にうつ伏せに伸びた洋海は、苦笑を浮かべて顔を上げた。
「久しぶり、じゃないわよ……」
 ほっとして力抜けた膝からわたしは床にへたり込む。
「そうそう、木沢光って奴も一緒だったはずなんだけど……うっ、ぐへっ」
「光くん!!」
「桔梗!!」
 まだ立ち上がっていない洋海の上に降り立った光くんは、広げられた桔梗の腕の中にためらいなく飛び込んだ。そのワンステップで踏み台替わりにされた洋海は再び床に顔を埋める。
「ちょっと、俺、一応先輩なんだけど……」
 くぐもった洋海の恨み節もどこ吹く風、光くんは桔梗の腕の中で最大限甘えた顔をしている。
「桔梗、怖かったよぉ~」
「よく帰って来てくれたわね。怪我はない? 一体どうしてこんなことになったの?」
 桔梗にしては珍しくお母さんのように光くんを質問攻めにしている。
「姉ちゃん、俺怪我した」
 恨みがましそうに桔梗と光くんを見上げていた洋海は、床にはいつくばったままわたしに視線を投げかけた。
「えっ、怪我? どこ? 何か危ない目に遭ったの?」
「うん。今、あのちっこい怪獣に踏まれて潰された」
「……」
 甘えようとしているんだろうけど、そんな大きな図体でいわれてももうちっともかわいくはない。これでも小学校二年生くらいまではわたしの後ばかりついてきておままごととか一緒にやったりするような小さくてかわいい弟だったのに。
「どこも怪我ないんだね。よかった」
 さっきまでの心配もどこへやら。戻ってくれば戻ってきたで喪失感などすぐに薄れてしまうものなんだろうか。
「何だよ。もちっと心配してくれてもいいじゃんか。桔梗さんのようにさぁ」
「わたしにあんたを抱きしめろと? そんなでかい図体してんのにお断りよ」
「ちぇぇ」
 後を引く言い方で洋海は舌打ちし、よっこらせと言いつつ身軽に立ち上がる。
「樒……お前、弟にはツンデレだったんだな」
 見守っていた葵が呆れたようにわたしを見やった。
「ツンデレ? そんなんじゃないよ」
「だって、さっきまであんなに心配してたのに、帰ってきた途端その冷たい態度って……」
「え、姉ちゃん心配してくれてたの?」
 嬉しそうに洋海がわたしを覗き込んでくる。
「そう、もう大変だったんだから。授業中だってのに吸い込まれた氷の前から動こうとしないわ、桔梗が融……っとと、ま、とにかく、樒がいなきゃお前達帰って来られなかったぞ」
 一瞬洋海は気難しげに眉根を寄せ掛けたが、すぐにいつもの能天気な笑顔でわたしの肩を叩いた。
「ありがと、姉ちゃん。姉ちゃんは命の恩人だ」
「命の恩人って、大袈裟ね。わたしはただ桔梗に言われたとおり、その鏡に触って繋がれって念じただけだよ」
 洋海は、もう一度はっきりと眉根を寄せた。やっぱりすぐに解いたけれど、何か気にくわないとでもいうように、あるいはさらに説明を求めるように葵を見る。
「樒の言ったとおりだよ。すごいよな。ただ念じただけで鏡の中からお前ら引っ張り出すなんて」
 へらへらと笑って見せる葵と洋海との間に、心なしか緊張の糸が走ったように見えた。
 何か、知っているんだろうか?
 知っているなら、そうしろと言った桔梗が一番知っているに違いない。
「桔梗」
 わたしは気合を入れてまだ光くんと再開の喜びを分かち合っている桔梗を呼んだ。
 桔梗はあからさまに肩をそびやかす。
「桔梗、さっきのどういう……」
「先生、」
 桔梗はわたしの言葉を遮ってくるりと振り向いた。
「帰りのホームルーム、そういえばまだでしたね」
 片山先生が青くなったのを見て、桔梗は光くんと手を繋いで美術準備室を走り出ていった。
「あ、樒おねえちゃん、助けてくれてありがとう」
 思い出したように扉越しに中を覗き込んで光くんはまた足音も高く走っていってしまった。
 わたしは釈然としないまま葵を見、洋海を見る。
「行こっか。聞きたいことは放課後、ドトールにでも引っ張り込んで聞けばいいさ」
 葵はするりとわたしの視線を交わして一足早く廊下に出る。
 仕方なくわたしは洋海にどこに行っていたのか、どうやって帰ってきたのか聞こうとしたけれど、洋海は足音も立てずに消えていた。
 取り残されたのは、知らないうちに魔術師に仕立てられたわたしと観客にさせられた片山先生だけ。
 わたしたちはゆっくりとお互いの顔を見合った。
 今年、クラスの担任になった三十五歳、どうやら独身。子供も家庭もないせいか、歳を聞かなければまだ大学を出たばかりの新米教師に見えなくもないくらい容姿の年齢は不詳。よく言えば柳、悪くいえばもやしのような細い体つきと、神経質そうな手先の割りに、ハンサムと言えばハンサムなのかもしれない顔にはいつものほほんとした表情を浮かべている。去年の美術の時からお世話になってはいたはずだけれど、二週間に一回くらいしか会わなかったせいか、担任の名前が発表になってもすぐには顔が浮かばなかったくらい、わたしにとっての印象は薄い。
「とりあえず、教室戻るか」
 片山先生は後ろの壁掛け時計を振り返って、困ったように乾いた笑いを漏らした。
「先生……今の……」
「世の中には不思議なことがあるもんだな。本やテレビでやってる不思議体験ってのは、あながち嘘じゃないのかもしれない」
 うんうんと自分で頷いて片山先生は先に廊下へ出、わたしにも出るように鍵を見せて促した。
「守景、何かあったら俺に愚痴れよ? さっきのも何が起こったのかすごく気になるけど、守景か藤坂が話してくれるまで聞く気はないから。もちろん、誰にも言わない。だから……」
「先生、わたし、普通ですよね?」
 思わずわたしの口からは今日一番の不安が飛び出していた。
「わたし、変じゃないですよね? おかしくなんか……」
「守景は普通の生徒だと思うよ」
 間髪をいれずに返してきた片山先生の言葉に裏などは感じなかった。見つめたわたしを、先生は優しくいたわるように見つめ返す。わたしがその言葉を消化するのを待つように。
 わたしは、ゆっくりとその言葉を噛み砕いて胸に大切にしまいこんだ。
「行こうか」
「はい」
 窓からはいつの間にか傾いた西日が影長く差し込んでいた。











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