聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 2 章  合わせ鏡

 ◇

 先導する老婆の背中には、なぜか見覚えがあった。顔に刻まれた皺の割りにしゃんと伸びた背筋。足音は消しているが、足を踏み出すときの足運びとか、ちょっとだけ爪先が内側を向いているところとか、片方の羽だけ小さくて片方の足だけがやたらと長い不恰好なエプロンの蝶々結びとか。
 見上げた背中に、愛しさが甦る。
 抑えきれない愛しさが胸から溢れ出して手足を震わせる。
「どうぞ」
 階段を上って突き当たりの部屋に彼女は僕たちを招き入れた。
 つけられていないか外を確認して扉を閉めた彼女の老いた顔を、僕は改めてまじまじと見つめる。
 美しくない。
 見つめれば見つめるほど、僕の目にはただの老婆にしか映らなくなっていく。麗の愛したあの面差しはもっとふっくらとした艶やかな頬の上にのっていたのに。
 人違い、だろうか。
 だって、アイカには不老不死の実を与えたんだ。アイカの同意も得ず、聖のところから盗み出してきた実を風邪薬に混ぜて勝手に飲ませたんだ。生きているなら、まだ十六の少女のままのはずだ。
 去来したのは、安堵ではなく落胆と苛立ち。
 我が儘にもほどがある。あれほど彼女が普通の人生を歩んでくれてればいいと、せめて安らかな死さえ手に入れてくれていればいいと願っていたじゃないか。
 どうして、こんなにも苛立つんだ?
 僕は、麗じゃなくて光なのに。今僕が好きなのは桔梗だけなのに。
 僕は、まだたったの十二歳だ。仮にアイカが十六のままだったとしても、やっぱり並んで歩くには無理がある。
 浮かんだ妄想を掻き消して、僕は室内をぐるりと見回した。
 これまた見覚えのある部屋。藤をかたどった魔麗法王の紋章を壁紙にあしらい、天井からは豪奢な飾り照明が垂れている。中央の暖炉では薪がはぜ火が赤々と燃え上がり、二間続きの開け放たれた寝室へも熱を送っている。手前には簡易な応接セット、奥にはどっしりと構える木製の机が一つ。その周りには二つほど本棚が並んでいる。
 あの頃と変わらない配置だ。
「クワトの麗の私室じゃないか」
 思わず溢れ出た僕の呟きに、老侍女は恭しく頭を下げた。
 守景洋海は一通り首をめぐらして部屋の中を観察したあと唖然として呟いていた。
「すげぇ……タダで海外旅行来ちまった……」
「……あのねぇ、あんた、どうしてそんなに庶民なんだよ。もう少し雰囲気に浸らせてくれたっていいじゃないか」
 呆れた僕は、助けられたことも忘れて思わず非難の目を向ける。
「だって俺庶民だもーん。姉ちゃん見てたって分かるだろ。うわ、すげぇ、これ何語だろう」
 開き直ったかと思いきや目を輝かせた守景洋海は、一番奥の書棚を開けて勝手に本を取り出してめくりはじめている。
 何語だろうって、本当に分からないんだろうか。僕の読み違いか?
 西の将軍、ヴェルドだと思ったのに。
 落ち着きかけた心がまたふわりと不安に浮き上がる。
 何故こうも不安になるのかは分からない。麗の時は……あの時は生きている間中こんな感じだっただろうか。
「あの」
 老婆が遠慮がちに僕の顔を見つめていた。
「ああ、僕は木沢光。あっちは守景洋海。助けてくれてありがとう」
 当たり障りない挨拶をして老婆の様子を窺う。
「木沢、光……様……」
 老婆の容姿は、とうに僕の二人のおばあちゃんのそれぞれの年を凌駕しているように見えた。顔全体に深く刻まれた皺には過去の苦労が垣間見え、口元に刻まれた笑いじわにはどれだけ彼女が朗らかな人物かが窺える。
 でも、この人はアイカじゃない。アイカであっちゃいけない。
 何を期待していたんだ、僕は。
 死んでいるなら諦めもつく。若いままなら、あの時の時間の続きを望むことだって出来た。この身体はまだ小さいけれど、いずれ十年も経てば何もおかしくはなくなる。でも、この老婆がアイカなら、僕は何も望めない。何も期待できない。そんな中途半端なこと、許さない。
「おばあちゃんは名前なんて言うの?」
 苛立つあまり拳さえ握っていた僕に比して、守景洋海は何のわだかまりもなくあっけらかんと老婆に名を聞いた。
 老婆は恭しくお辞儀をすると、皺の集まった口元を開こうとする。
「やめろ、聞きたくない」
 その口からしわがれた声が押し出される前に、僕は低く呻くように呟いていた。
 老婆の顔など見ていないからどんな顔をしたのなんか分からない。きっと、驚いていたに違いない。助けた人の名前を聞きたくないと自己紹介を遮るなんて、無礼にもほどがある。
 たとえば、考えてみればいいんだ。彼女は確かにアイカに似ている。だけど、アイカ本人じゃない。アイカの子孫で、たまたまこんな年齢になったときに僕がここに戻ってきた。アイカはとうに死んでいる。それなら、この胸のもやもやも収まりがつくというものだ。
「わたくしは……」
 おずおずというよりも何か考えるように、そして穏やかに、老婆は口を開いた。
「わたくしは、ここクワト城で魔麗王様にお仕えしております者でございます。この通り、老体ですので出来ることも廊下や庭の掃除など限られておりますが、ご厚意で禄を食ませていただいております」
 ちらりと見ると、老婆はにっこりと微笑んでいた。それがまたアイカの面影と重なる。
 苛立つくらいなら、確かめればいい。
 でも、確かめなくてもこの老婆は自分の名を名乗らなかった。僕が失望すると思ったからに違いない。
 老婆は、間違いなくアイカなんだ。
「そんなことより、帰る方法教えてよ。こんなところに匿うくらいなんだから、知ってるんだろ? 僕らが元の世界に帰る方法」
「えー、ちょっと待ってよ。その前にさっきのあれ、何だったのか教えてもらうの先じゃん。俺ら被害者だよ? それにあそこにまだまだ人残ってたし、ざーって下に落とされたあとどうなるのとか……そのままほっといて帰るわけにもいかないだろ? せめて警察呼ぶにしても住所わかんねぇといたずら電話だと思われちまうし」
「いいんだよ! そんなことどうだって!! とにかく僕は帰りたいんだ!」
「よくねぇよ! いいわけないだろうが!! 何ご機嫌な斜めってんだよ」
「じゃあ何? せっかく逃げられたのに、また危険に晒されに行くっていうの? 冗っ談じゃない。一人でやれば? 僕はまっぴらごめんだね」
「でもお前、さっきの奴と知り合いだったろ?」
 僕はぎろりと守景洋海を睨み上げた。
 守景洋海はちっとも動じず僕を見下ろした。
「止めなくていいのかよ」
 真摯な目はどう見ても僕を咎めていた。
 部下をあんなにしたのはお前の責任だろう、と。
 責めるなよ。詰るなよ。誰もお前みたいに潔癖に人格出来てんじゃないんだよ。
「知らないよ」
 知るか、あんな奴。
 麗の精霊獣でありながら主に刃を向けるたんだ。そんな奴が道踏み外そうが、悪いことしようが僕は知らない。
 大体、僕はもう麗じゃない。僕はもう精霊を守護してもいなければ、精霊王を従わせる立場にもない。
『貴方の探し続けてきたエルメノ様ですよ』
 ついさっき聞いた禦霊の言葉が耳から離れない。
 エルメノが生きている。
 精霊獣が真に従うのは精霊王。その精霊王が法王に魂を縛られているから彼らも法王に従っているだけ。もしその精霊王が主を裏切っても、精霊獣はそれに異を唱える立場にはない。
 エルメノがいる。どこかに。
「僕にはあいつは止められない」
 どこかにと言いつつ、僕はあの転校生のエルメノを思い浮かべている。おかしなことばかり言ってるけど、あれは本物のエルメノだと思う。苛立つのは、わざと初対面を気取っているから。守景洋海もそうだ。知っているはずなのに知らないふりをしてくれるから、僕は一人だけ中途半端な世界に閉じ込められたような気にさせられるんだ。何一つ自分の考えに真実が与えられないから、真とも偽とも測りかねる世界に僕は閉じ込められたまま。
 守景洋海は僕を厳しく一瞥したあと、姉によく似たふわりとした笑顔で老婆を振り返った。
「いやぁ、悪いね。この子頑固で。それでおばあちゃん、帰る方法なんかも知ってたりする?」
 おばあちゃん、おばあちゃん言うなよ。
 心の中で崩れそうになる何かを必死に支えながら僕が守景洋海を睨んでいると、奥の寝室から何かが起き上がるような気配がした。
「それは、私から案内しよう」
 寝室から出てきたのは寝巻きのままの魔麗人――白金の髪に白い肌を持つ人界でいう北欧系の顔立ちをした壮年の男だった。
「王様、お起きになってよろしいのですか?」
 老婆は気遣わしげに男に走りより、その折れそうな肩を大柄な男の手元に差し出す。
「心配いらないよ、ルーチェス。私がお前の肩に手をのせたら、それだけで折れてしまいそうじゃないか」
 ルー……チェス……?
「それより、ご苦労だったね。よく、救い出してくれた」
「いいえ、わたくしはただ、自らの力で逃げ出してきたこの方達に運よく出会うことが出来ただけでございます」
「その運も手柄のうちだよ」
「もったいないことでございます」
 低身低頭という態度の老婆を、王と呼ばれた魔麗人は実母でも見るように穏やかに見つめている。
 かと思えば、守景洋海は外人俳優でもみるような目でその男を見つめていた。
「うわー、かっこいー……」
 うん。一瞬でも、こいつがヴェルドだと思った僕が馬鹿だった。
 何もかもそうかもしれない。前世で誰だったかなんてどうだっていいじゃないか。僕だってもう新しい名を手にしている。その名で生きるなら、前世の人脈なんて必要ない。いちいちそんな見方をして測りかねて疲れるくらいなら、過去など見ようとしなければいい。
 忘れてしまえばいい。エルメノのことも、アイカのことも。
 それなのに、今目の前にある部屋の景色は夢のように儚い記憶の奥底に刻まれたものと寸分変わりなく存在している。まるで僕の記憶をわざと鮮明になぞったかのように。
 嫌でも意識せずにはいられない。この部屋で過ごした数えるほどしかない日々を。
 仕事が辛かったわけじゃない。それはまた別の問題だ。同じ形式の中に収められた案件を裁いていくのは楽でもなければ面白くもなかったが、辛くはなかった。何かに没頭していれば、僕は僕であることを忘れられたから。
 この部屋があるクワトに来る時は、いつも魔麗城の毎日に倦んだ時。何の起伏もない毎日に嫌気がさして、少しでも人が多く、政という変化がある場所に来て呼吸をすると、少しは新鮮な空気を吸った気分になった。そんな時ほど、精神的には理由もなく落ち込んでいることが多い。一人にしてほしい反面、そのままじゃいけないと足掻いている自分がいる。正気を保とうと足掻けば足掻くほど、どんどん心のキャパシティは一杯になっていく。
 諦めるか、それとも足掻きつづけるか。
 正気が残っている自分を呪いながら、僕はまた机の上の書類に没頭していく。どんなに国民の生活を守ろうとしたって、終わりは確実にやってくる。それを分かっていながら問題を解決しなければならないのは、僕にとっては〈予言書〉に記された未来からの唯一の逃避法だったのかもしれない。
 見回せば、あの机に座っている自分が見えるようだった。
 顔立ちこそ涼しげなくせに、ピンボケした草原の写真のようにもやもやとした心に縛られて不機嫌そうに口を引き結び、頬杖をついている自分。永遠の時間など持っていないと分かっているのに、無為に過ごす時間は永遠に続くかのように永い。
 望んだのは僕だ。過去にでも行って、確かに麗が生きていた証拠を見たいと望んだのは、僕だ。今、ここには麗はいない。この部屋に重ねて見ている麗の姿は、単なる僕の妄想かもしれない。
 生まれたときから、僕は妄想にとりつかれていただけだったのかもしれない。
 異常なんだ、僕は。――きっと。
「はじめまして」
 魔麗王は改まった声で話しかけてきた。
「この度は大変申し訳ございませんでした。私の力が及ばぬばかりにこのようなことになってしまいました」
 重々しく下げられた頭は心なしか僕に向けられ、深い謝意に沈んでいた。
 僕はそれを正面から見ていられなくて、ふと視線をそらせた。
 代わりに守景洋海が口を開く。
「頭を上げてください。――王様、なんですよね?」
「はい。第五十三代魔麗王、ロシュフォーリオ・サースティンと申します。こちらはアイカ・ルーチェス」
 少なくとも、僕はもう一度顔を上げて老婆を見つめた。目は見開いていたかもしれない。
 アイカ。
 同じ名前だからっていって、あのアイカとは限らない。限らないけど、でも……
「アイカ・ロムスタンじゃないのか?」
 思わず僕は口走っていた。
「違うのか? お前はアイカ・ロムスタンじゃ……ないのか?」
 どっちを期待しただろう。
 違うと言われるのと、そうだと言われるのと。
 アイカ・ルーチェスはまじまじと僕を見つめていた。
「アイカ・ルーチェスでございます」
 笑顔で告げられたその名に、張り裂けそうだった僕の胸は一瞬にして見事に萎んでいった。
「違うのか? 本当に違うのか?」
 しつこいくらいに僕は彼女に詰め寄っていた。
「はい」
 彼女の答えはあくまで簡潔。笑顔なのに鉄壁のように冷たい。
「わたくしは、アイカ・ロムスタンではございません。木沢光様」
 僕を避けようとしている素振りはない。しつこく詰め寄った僕に冷たい視線を向けるわけでもない。にこにこと人のいい笑顔にはあのアイカの面影があるというのに、それなのに彼女は違うと言う。
「なら、先祖か誰かにいなかったか? その昔魔麗法王に仕えたアイカ・ロムスタンという女性が……」
「いいえ、おりません」
「それなら、そういう名の女性に会ったことは……」
「いいえ」
 アイカ・ルーチェスは穏やかに首を振った。
 どこに……行ったんだ、アイカ。
 どこかでまだ生きているとずっと思っていたのに。
 僕は心配げに僕を見やっている魔麗王を見上げる。
「残念ながら、私も存じ上げません」
 魔麗城に置いて来たままになっていたんだ。麗の戦死を聞いた後、彼女はどうしたんだろう。歳をとらない自分とどう時間を重ねていったんだろう。いや、もしかしたらあの実は未完熟で普通の人と同じようにあのあとすぐに死んでしまったのかもしれない。
 魔麗城を任せてきた禦霊なら、あるいはその行方を知っていたかもしれないけれど、あの様子じゃ教えてくれるわけもない。まして、当代の魔麗王すら知らないというのなら、人知れずひっそりと死んだと考えるのが自然――。
 都合の悪い事実ほど受け入れがたいこともない。
「木沢」
 守景洋海が憐れみのこもった目で僕を見つめていた。
「お前、こっちに知り合いがいるのか? すごいな」
 かと思ったら、目を輝かせて僕の手をとっていた。
「外人に知り合いいるなんてすごいって! さっきの奴も知り合いだったみたいだし、他にもいるのか?!」
 驚くところ、違うだろう。そもそもここ、海外じゃないし。
「他には――」
 鉱の息子の錬はまだ生きてるんじゃないだろうか。あいつは母親こそ人だが、父親は法王だ。成長も法王と同じく遅かった。成神までは見届けていないから分からないが、おそらくは父親の血の方を色濃く受け継いでいたに違いない。幼いながら鉱に似て顔も濃いめだったし。
 そういえば、もし、こいつがヴェルドだったら錬は甥にあたるんだ――そんなこと言っても仕方ないことだろうけど。
「知らないよ。知り合いなんて、もう誰もいない」
 一秒前でさえ遠い過去なんだ。手を伸ばすことさえできない場所にいってしまう。千年なんて、もう遠い遠い昔だ。
「魔麗王、人界に帰る方法、あるんだろ? 今すぐ僕らを帰してよ」
 こんなとこ、長居したって仕方ない。誰も知る人のいない世界なんて、これ以上孤独な世界もない。
「あ、ちょっと待て。その前に、俺ら一体何に巻き込まれたか教えてもらわないと! 地下にまだたくさん日本人らしき人たちいたし、その人たちだって助けないといけないしさ、警察に届けるにしたってただの子供のたわごとで済まされないためにもちゃんと話聞いてかないと……」
 僕は守景洋海の言うことなど無視して部屋の中を歩き回った。
 あったはずだ。この部屋のどこかに、八方を鏡で覆いつくした隠し部屋が。その鏡を使って、麗は魔麗城とクワト、天宮を行き来していた。
 一度闇に堕ちた僕に、時の精霊たちは冷たかった。僕は鏡という媒介を使わねば、僕は天宮に行くことも魔麗城とクワトを往復することも出来なかった。自国内か天宮を起点としている〈渡り〉なら、言葉にして時の精霊に頼むだけで法王なら誰もが使うことが出来たのに。
 ずかずかと寝室に入り込んでいった僕を、魔麗王は止めなかった。
「おい、木沢、そっちは寝室だって! そういうプライベートな場所はまずいって」
 守景洋海だけがしつこく追いかけてくる。
 かまわず、僕はきちんと三つに畳まれた布団がのってるベッドの頭側を斜めにずらし、そっと壁を押した。
 壁は音もなく押し開かれ、寝室の薄明かりを間接的にうけた鏡が潤んだ光を放った。
 守景洋海の息を呑む音が聞こえる。
「魔麗法王」
 背後で改まった魔麗王の声が響いた。
 中に入ろうとしていた僕は仕方なく足を止める。
「お力をお貸し願えませんか」
 背後に大の大人が跪く気配がした。
 続いて老婆が横に並んで膝を折ったようだった。
「禦霊が裏切ってこの城に闇獄界への扉を開いてしまった。人界から攫ってきた人間達は、差し詰め知能ある中級兵士にでもするつもりかな。闇獄界の下級兵士は完全に獣だからね。敵を恐れず向かっていくところは使いやすいけど、奴らは大雑把な戦術の中で数で押し切ることくらいにしか使えない。第三次神闇戦争が終結して千年が経とうとしている今、愛優妃と統仲王の約定も期限切れは目の前だ。統仲王は完全に眠りにつき、愛優妃擁する闇獄界は第九子と称する法王が統率しているらしいけど、おそらく、そいつは統仲王が目覚める前に少しでも兵力増強を図って決着をつける準備をしておきたいんだろうね」
 感嘆の溜息なんて漏らされたって、一つも嬉しくはない。
 第三次神闇戦争の終結は、麗が死んだあとのことだ。今言ったことは全て、一番上の姉・海であった桔梗の受け売り。
「でも、僕は知らないよ。言っておくけど、僕はもう魔麗法王なんて名前じゃない。ただの人間だ。寿命も短ければ何の力もない、ただの人間なんだ。記憶が残っているからって、そんなのなんの役に立つ? 思い出話が出来る相手がいるわけでなし、それほど楽しい思い出があるわけでなし。そんな引きこもりっぱなしの偏屈野郎に戻れって言うの?」
 振り返り様、僕は紫精を魔麗王に突きつけていた。
「この国は君の先祖に預けたはずだ。君はその使命も含めてその名を継承したんだろう? 第五十三代魔麗王、ロシュフォーリオ・サースティン」
「それは重々……」
「分かっているなら、寝てばかりいないで外に出なよ。あの地下室から裏切り者を追い出すべく近衛でもなんでも出せばいいじゃないか」
「お言葉ながら魔麗法王、ロシュフォーリオ様はお体も弱く、病がちで、何より今はご家族を人質にとられており、その心労も祟って食べ物さえろくに喉を通らない状況なのです。何しろ相手は精霊獣の禦霊様。いかに法王の血と精霊王の血の守護を受けようと、人に一体何が出来ましょう?」
 顔を上げた老婆はきつい視線で僕を睨みつけていた。
 彼女がアイカじゃなくて誰がアイカだと言うのだろう。
「言い訳くらい自分でしなよ、魔麗王。どうして人質をとられるに至ったのか――自分の手抜かりだろ、それは。禦霊を闇獄界と内通させたのだから」
「……騙されたのです」
 魔麗王は震える拳を握り続けながらようやくの思いで口に言い訳を上らせたようだった。
「ちょうど一年前、魔麗法王だという方が現れ、それは見事に熱を操って氷河を北へ返し、南部では上がりすぎた気温を抑制して凍土が溶け出す速さを遅くしてくださいました。それだけではございません。流行り病で苦しんだ者たちも元通りの生活に戻ることができたのです。禦霊様も何の疑いも持たずに喜んでお仕えしておりました。疑う余地など、どこにもなかったのでございます」
「だけど人質がとられていたってことは、気づかなかったのは君だけだったっていうことだよね」
「この神界において最も恥ずべき行為は人を疑うこと。信じることだけを知っていればよい世界なのです。疑うなど、思いもよりませんでした」
「なら、僕も魔麗法王の偽物かもしれない。いいの? これ以上ややこしいことになっても」
「いいえ、貴方は間違いなく魔麗法王です。その紫の光放つ槍が魔法石をお持ちになっているという何よりの証拠」
「どうして偽者の僕には魔法石を出させなかったのさ」
「それは……傷つけるべき相手もないのに武器を出す者はいないと諭されたのです」
「ふぅん。どっちかっていうと、そっちの方が法王として本物っぽいこと言ってるじゃないか。現に僕は今君を傷つけてもいいと思ってこれを突きつけているしね」
「木沢」
 見かねたのか、守景洋海が紫精の切っ先を握った。
「何の話してるのかもわかってないくせに、妙な正義感見せるなよ、この偽善者」
 浴びせた罵倒にも守景洋海は動じない。
「偽か否か、決めるのは自分だ。他の誰かじゃない」
 堂々と言い放って僕の紫精を払いのけると、守景洋海は魔麗王の前にしゃがみこんだ。
「人質にされているって言うのは誰? その人が解放されれば、心置きなくあいつらに立ち向かえるんだろ?」
 その声は真夏の太陽のように明るく力強い。魔麗王も思わず勇気づけられたのだろう。唇を引き締めて決意を固めると口を開いた。
「娘のエルメノです」
 飛び出してきた単語に、とっさに僕は苦笑いを送った。
「エルメノ? そりゃまたずいぶん珍しい名前をつけたもんだね。昔を知っている者なら、絶対につけないよ。そんな名前」
 はは、と呆れ笑った僕に、老婆が挑むように視線を投げつける。
「エルメノという名は、その昔魔麗法王の命を救った少女の名と伺っております。身体も強く、知恵も回る才媛だったとか。恥ずべき意味は何も持ってはおりません」
 きっぱりと言い放ったその様は、まるで僕のエルメノを知っているかのような口ぶりだった。
 ああ、確かに知っているのか。その知恵も回る才媛にしてやられたのだから。
「それで? 人質にされてるなら助ける努力はしたの? まさかただ言いなりになってただけじゃないだろうね?」
 魔麗王はまだ若い顔に渋い表情を浮かべて唇を噛みしめる。齢四十間近の男が、たった十二歳の小僧に馬鹿にされているのだからさもありなん。僕が魔麗法王じゃなかったら、いくら病弱だろうが気弱だろうがけして大人しく頭を垂れてはいなかっただろう。
「ただ蹲ってるだけなら誰にだって出来るんだよ。それを一国の王ともあろう奴が娘一人救えなくて国民守っていけると思ってるの?」
「目を瞑ればこの国の者には手は一切出さないと……」
「それは守ったとは言わないんだよ。裏切り者の王を戴く国民は、知らなかったとはいえ神界からすれば裏切り者になるんだ。お前はそういう汚名を国民に着せたんだよ」
「木沢、いい加減にしろ!」
 たまりかねた守景洋海が嫌悪もあらわに僕を睨み、ついに払うだけじゃ飽き足らず紫精を奪い取った。握る手から力を抜いていたつもりはないのに、紫精はするりと僕の手を離れていく。
 体格差? 年齢差?
「返せよ」
 ――奴はいつでも僕の欲しいものを全て持っていた。
「詰って傷つけたって何の解決にもならないだろ。この人はお前じゃないんだ」
 世界を真正面から受け止められるだけの器も、目が眩まんばかりの明るさも、正義感も、人の後ろ暗いところを見抜いても嫌がることなく、むしろ率先して光の下へ導こうとする優しさも。全て、全て、僕が失った……いや、持ち得なかったもの全てをはじめから持っていた。天性でなければ、どうして歳経て尚、純粋なままであり続けられるものか。
「蹲って嵐が過ぎ去るのを待とうとしていたのはお前だろう?」
 濁りないエメラルド・グリーンの瞳が太陽のように一閃、輝いたのが見えるようだった。
 ああ、そうだよ。僕だ、麗だ。
 氷の城に閉じこもって、生ある時間が早く費えてくれますようにと蹲っていたのは僕だよ。
 そんな僕の元に、ヴェルドは何度氷を溶かそうとやって来たことか。奴が来る度、氷で作った壁が融けてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。そうでなくても僕には眩しすぎて、奴が帰ったあとはしばらく城の中を歩くことさえ辛かった。
 憧れていたなど、口が裂けても言うものか。そうなれたらいいのにと思ったことがあるなどと、誰が言うものか。僕が躓いた石を、あたかもそこには石がなかったかのように軽く飛び越え、先へ先へと進むだけじゃ飽き足らず、望みが天上にあると知れば空さえも飛びはじめる。どこからそんな力がわきあがってくるのか、どこにそんな力が潜んでいるのか。身体はただの人だったのに。
「なら、たとえば僕がここに来なかったら、君は一生国民を裏切り続けるつもりだったの? 娘も助けられず、国民に汚名を着せ……そのまま生きつづけるつもりだったの? 長いよ。人生って意外と、辛い時ほど時が過ぎるのが遅いんだ。そんな気、しない?」
 僕の問いに、魔麗王ははっとしたように顔を上げていた。でも、すぐに思いとどまるように顔を伏せてしまった。
 僕は魔麗王を一瞥すると、守景洋海から紫精を取り返し魔法石に戻し、その足で彼らに背を向けて奥の鏡に歩み寄る。
 この部屋にある鏡は、天宮と魔麗城、そして人界にそれぞれ繋がっている。向かって右側にある人界への扉は、精霊たちが精霊界と人界とを行き来するためにいつも開け放たれている。そのせいか、さっきからずっとこの空間には勢いよく押し出されてきた爽やかな気流と、疲れて戻ってきたような力ない気流とが緩やかに渦巻いていた。
「守景先輩、ここからなら多分帰れると思うよ。どこに出るかは分からないけど」
 呼ばれた守景洋海は、迷うようにうなだれたままの魔麗王と人界へ繋がる鏡とを見比べた。
「迷う必要なんてないでしょ。ここのことは僕らには関係ないことなんだよ。むしろ僕らは被害者。巻き込んだ責任を追及してやろうところを、目をつぶってやろうって言ってるんだ。それとも、守景先輩はそれじゃ不満?」
「不満だよ。ああ、不満だね。俺には地下に残された人々を見殺しにすることなんて出来ない。なぁ、王様。俺達は一体どうやってここに運ばれてきた? あの人たちはどうやってここに来た? 魔麗法王って奴を騙って現れた奴の本当の名前は?」
 守景洋海は、帰ろうとした僕の手首をがっちりと握って離さない。
「エルメノだよ」
 完全にこっちに向けられた守景洋海の刈り上げられた後頭部に向けて、僕はひとりごちるように言った。
「それは王様の娘の名前だろ?」
「だから僕は呆れたんだ。エルメノは闇獄十二獄主の一人、〈欺瞞〉の宿主の名だ。昔はそれこそ身体も強く、知恵も勇気もあったけど、闇に堕ちて変わってしまったんだよ」
 僕は吐き捨てるように言っていた。自分でも驚くくらい、エルメノを罵っていた。さっきまであれほど懐かしく焦がれていたというのに。
 ううん、今だって焦がれている。神界で共に過ごしたエルメノが、僕のエルメノの全てだ。だからエルメノは死んだんだ、あの時に。
 エルメノはもういない。僕のエルメノは、もうどこにもいない。
 ずっと思い出の中だけで息づいていてくれればよかったのに。どうしてまた僕の前に現れようとするんだ。今のお前はもう、僕の半身でもなんでもないというのに。ただ、僕の罪を知らしめるかのようにお前は黒い翼を僕の前ではためかせて見せるんだ。
 お前があの時手を離しさえしなければ、この翼は未だ純白であったろうに、と。
「それは、まだ朝が来ていないだけかもしれません」
 どこか思いに耽るように老婆が口を挟んだ。
「朝が来れば、きっとまたお変わりになります」
 さらに、確信めいた口調で言い切る。
「なら、君たちで変えてやってよ。僕はこれ以上関わりたくなんかない」
 自分の犯した罪の結果を目の前に突きつけられるなんてまっぴらだ。
 これ以上、誰が傷つこうが、僕だけが助かればいい。そうだ、僕さえ無事に生きていられればいい。この手はもう誰にも差し伸べない。差し伸べたって、魔が差せば僕は手を離してしまうかもしれない。裏切られたと思われるよりも、はじめから頼りにされないほうがいい。
 僕は守景洋海に手首を掴まれたまま、人界へ繋がる鏡の中へと強硬に踏み出した。
「待てよ、おい、待てったら」
「あんたが傷つく必要なんてないよ。王があれじゃあ、あの世界も長くないかもしれない」
 いっそ、滅ぼされてしまえばいいんだ。守るべきものが何か分からない王がいるよりも、空間でも人でも、欲する者の手にあった方が国民もまだ呼吸は楽だろう。
 引きずられた守景洋海ごと、僕は身体を精霊たちの流れの中に任せた。
 ぬるま湯をたゆとうような感覚の中で、僕はママの顔を思い浮かべ、まだ見ぬ妹の顔を思い浮かべてみた。
 そして桔梗の顔を思い浮かべ――
「光くん!!」
 本物の桔梗が両腕を広げて僕を待っていた。











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