聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

第 2 章  合わせ鏡



 どんなに見たくても、見ることの出来ない夢がある。
 どんなに逢いたくても、二度と顔を合わせることなど出来ない人がいる。
 だからせめて今どうしているのか、生真面目に引き伸ばされた寿命を全うしているのか、それとも当の昔に自らの手で終わらせてしまったのか、知りたくて知りたくて、眠りにつく前にその人の今の姿を見せてくれと願う。
 甘苦い過去の夢などいらない。
 あれは、何度見たところで自分が犯した罪は変わらない。いつでも、何度でも、過去の結末は変えることなどできないのだ。
 麗の記憶は全て持っている。
 生まれて自我が芽生える前から、僕は自分が光なのか麗なのかわからない。
 エルメノが側にいた頃はよかった。あの頃は、目の前にもう一人、ちゃんと僕が存在してたんだ。名に応じて人格を分ける必要などなかった。鏡など持ち歩かなくても僕はいつも二人いて、自分だけの世界に安穏と閉じこもっていることが出来た。
 今はそうはいかない。
 僕はこの身体一つで、光であり、麗なのだ。
 なのに、喋って考えているのは僕一人しかいない。誰も僕に異を唱える者はいないし、誰も僕のことをわかってくれない。助けてくれない。
 ――アイカ。
 久しぶりに君の夢を見た。
 久しぶり?
 いや、初めてかもしれない。
 君は、僕の夢にも出てきてくれないほど僕を蔑み嫌っているのかと、ずっと考え続けていた。
 君は僕にとって、僕の目に映る限り最初で最後の他者だった。
 どんなに身体を重ね合わせようが、心を寄り添わせようが、君だけはけして僕のものにならない。僕には染まらない。
 だから、僕が見失うこともない。
 永年を生きながらえながら、僕は君に出会ってようやく未来の道しるべを見つけたんだ。この身は衰えることなくとも、確かに過去は蓄積され、その先には未来があるのだということを実感することが出来たんだ。
 アイカ。
 君はまだ生きているかな。
 僕との約束を律儀に守っているんだろうか。
 あんな約束、勝手に反故にしてくれて構わないんだよ?
 僕になど縛られない君のことだから、とうに脱出してくれていることを願うばかりだけれど、どうしてだろう。君の魂の行方を捜すのが怖い。あの寒さしか取り柄のない城に一人で暮らしている可能性だってあるんだと思うと、僕は僕の犯した罪と正面から向き合うのが怖くて仕方ないんだ。
 どこを探せば君に逢えるだろう。
 本当はこの鏡の向こう、僕には見えていないだけで、君はすぐ向こうにいるのかもしれない。
 どうしてだろう。
 今朝は、久しぶりにそんな温もりを感じた。
「今、朝……?」
「お、起きたか」
 覗き込んでたのは見慣れない顔。
 誰、だっけ?
 分からないまま見上げた天井は一面の鏡張り。まだ眠たそうな僕の顔がくっきりとドーム型の天井に映っている。
「寒い……」
 天井に映った自分より、壁際でところどころに蝋燭の炎が揺れていることより何より、僕が最初に思ったのはそれだった。
「なんだよ、ここ! 冬に逆戻り? 冬休みに行った長野のスキー場より寒くない?」
 起き上がった拍子に、上にかけられていたらしい黒いものが重そうな音を立てて落ちた。
「ほんとだよなぁ。やっぱ氷の中だからこんなに寒いのかな」
 さっきまで僕を覗き込んでた奴が半袖のシャツ一枚でわざとらしく震えてみせた。
 僕は落ちたものを取り上げる。
 紺色のブレザー。左胸のネームプレートには守景洋海の文字。
「思い出した? 俺達一緒に氷ん中に引っ張り込まれちゃったみたいなんだけど、これもマジックなら帰れるんだろ?」
 楽天的な笑顔で守景洋海は言った。
 僕はもう一度辺りを見回す。
「これはマジックじゃない。僕はこんな場所知らない」
 起き上がっているのは僕たちだけのようだった。僕たちの周りには他に何百、もしかしたら千人単位の人々が仰向けに横たわっていた。昔映画で見たようなさなぎみたいなものに包まれているわけでもなければ、何か管に繋がれているわけでもない。ただ、大人しく胸の上で手を組んで眠っている。こんな寒いとこで眠ってたら風邪引くだろうに。
「え? 知らないの? でも、ここにいる人たち、大方日本人みたいだけど? ほら、背広着てるサラリーマンぽい人とかOLぽいお姉さんとか、家族連れとか小学生ぽいのとかも混じってるみたいだけど……」
「知らない」
 不気味に声が壁に反響している。それでも彼らは目覚める様子はない。
「あー、そ……っくしょーいっ」
 残念そうに相槌を打った守景洋海は、続けて品のないくしゃみをした。
「ああ、これ。ありがとうございます」
 僕はあまりの音の大きさにびっくりしながらも守景洋海の肩に借りていたブレザーを返してやった。
「起きないな」
「え?」
「今のくしゃみで起きたっていいはずなのに、もぞとも動かないな、この人たち」
「……そう、だね」
 守景洋海の言うとおりだった。誰も動かない。死んだように眠ってる。
「もしかして、死んでる?」
「いや、脈はあった。あったけど、触っても起きなかったんだ」
 左側に眠っている中年のちょっと疲れた顔をした男性の顔を覗き込んで、守景洋海は心配そうに言った。
「お前もだよ。もう少し待って起きなかったら、先に出口探そうと思ってたんだ」
「はぁ? かわいい後輩おいていく気だったの?」
「かわいい後輩って、お前、今日会ったばかりのくせにやけに図々しい奴だな。待とうと思ったのは、お前が起きれば出方知ってんじゃないかと思って。お前のマジック道具に吸い込まれたわけだし? でも、目ぇ覚まさなかったら、遠慮なくおいてく気だった。だって、すげぇやな感じしない?」
 守景洋海が辺りを見回すまでもない。さっきから鳥肌が立っているのは、何もこの窓一つない空間が寒すぎるからというだけではない。それとはもっと別の感覚が肌を粟立たせているとしか思えなかった。
 やはり鏡張りの壁はドーム型の天井にあわせてか丸く空間を形作っている。その中心と思しきところには、紫色の液体を中に湛えた巨大なフラスコのような筒が天井近くまで聳えている。その先からはやはり巨大なガラス管が四方に突き出し、尖った口を開けている。
「なんかの実験室みたいだね」
「実験室にしては出口が見当たらないんだよ。研究員らしき人もいないし? それより何より、さっきからこぽこぽ言ってるあのフラスコ、そろそろ噴出しそうじゃね?」
 中心に設えられたフラスコの中では、紫色の液体が沸騰しているかのように次第に気泡が上がる間隔が速くなっていた。
「ハンカチ、持ってるか?」
「うん、あるよ、ハンカチくらい」
 僕がそう答えたときだった。
 蒸気機関車のような音を立てて、ガラス管から薄紫色の気体が一斉に吐き出された。吐き出された気体は密閉された空間の天井から埋め尽くし、ゆっくりとベールをかけるように落ちてくる。
「吸うなよ」
「分かってるよ」
 僕たちは慌ててハンカチで口を押さえながら身体を丸めて顔を膝の中に埋めた。それでも、ハンカチ越しにうっとりするような甘く濃厚な香りが鼻腔をくすぐりはじめる。もっとかぎたくなってしまうような香りに思わず息を吸い込むと、ねっとりとした香りは鼻腔を濡らして吸気に乗って肺の奥深くまで入り込み、血液に乗って頭をくらりと惑わせた。
 途端、抗いがたい眠気が襲ってくる。
 閉じた瞼の裏にはただの闇でなく、何故かさっき夢で見たばかりのアイカの顔が浮かび上がる。胸の中心には、アイカの笑顔に感化されたのか温かな幸福感が宿っていた。
 このままこの香りに誘われてもいいんじゃないだろうか?
『そうそう、麗様、海様より親書が届いていますよ。カルーラ様がお持ちになったんです』
『その田舎臭いニコニコを僕にまでふりまかないでくれないか? ドン臭さが移る』
『あら、やだ。どうして私が田舎育ちって分かるんです?』
『その顔見れば誰だってそう思うだろ。ほっぺた赤いし』
『そうかなぁ』と鏡の前でいろいろと表情を変えはじめたアイカの手から、親書とやらを抜き取って、僕は手近にあったゴミ箱に放り込む。
『あっ、まだ読んでないじゃないですか! もう、いくら失恋したからって一体何千年前の話なんです? いい加減諦めたらいかがです」
『…………』
 ゴミ箱をあさりだすアイカの背中を、僕は遠慮なく睨みつけた。この視線で串刺しにでもなってしまえとばかりに。
 実の姉、海に僕が想いをかけていたことは、神界中でとうに有名だ。だが、あの時以来、僕が海への思いを遂げようとしたあの事件以来、神界で僕と海姉上の間にあったことを口にする奴は一人もいなかった。だからといって、数千年どころでなく、数万年単位で昔になった今でも、こんな田舎娘が知っているくらいなのだから、まことしやかに噂は語り継がれてきたに違いない。
『もう、睨んだって無駄ですよ。カルーラ様からちゃんと読ませるようにおおせつかってるんですから――さて、どれどれ、と』
『お前の主は僕か? カルーラか?』
『何言ってるんです。麗様に決まってるじゃありませんか。たとえカルーラ様に雇われていたとしても、カルーラ様の主は麗様なのですから同じことです。えっと、どれどれ……親愛なるお・と・う・と、麗へ……あらら、まぁ』
 憐れみのこもった目で見るメイドから、僕は手紙をひったくる。
『文字くらい読める!』
『ふーん、そうですか?』
『……お前な、いちいちそういう態度をとるなら今すぐ追い出したって……』
『私は別に構わないんですけどね。でも、私がいなくなったら誰が麗様のお食事を作ったり、お城を掃除したり、お洗濯したりするんですか?』
 もちろん、本気で追い出す気なんかない。
 手放せるものか。
『大体、こんな北の最果てで氷河に囲まれた獄寒の地に、物好きでもなきゃメイドなんかしに来ませんよ。この間メイドさんふやそうと思って募集かけましたけど、かれこれ半年、何の音沙汰もありませんしね。それに、麗様のその性格がより輪っかをかけて人手不足に拍車をかけてます』
『この城にだって常備軍くらいいるだろ。大変なら彼らに手伝わせればいい』
『お馬鹿さんですか、あなたは。闇獄界がいつ攻め込んでくるとも知れないこのご時勢ですから、各城に常備軍が置かれたって民草百章は文句は言えません。けど、その常備軍は、元はといえば働き盛りの男達を徴兵しているんです。それを自分の身辺の世話に使ったとなれば、彼らはどう思うとお考えですか? 彼らは魔麗の国の兵として、一兵卒から将に至るまであなたにお仕えしているという誇りと引き換えに自らの命をとしているのです。その誇りを、あなたは踏みにじっても構わない、と?』
 深い青の瞳で睨まれると継ぐ言葉はもうない。
『法王に向かってお馬鹿さんとは何だ、お馬鹿さんとは!』
『自覚ないんですか? 重症ですよ、それは』
 アイカの言うことはいつも理に適っている。というか、僕が理不尽すぎることを平気で言っているのかもしれないけれど、アイカが来るまでは僕がいくら理不尽なことを言っても正面切って正論を返してくるような奴はいなかった。
 はじめこそこの田舎臭い笑顔とあいまって、アイカの存在は癪に障ることこの上なかった。たかが十六年しか生きていない小娘にそんな分かりきったことを理路整然と説かれたら、僕じゃなくたってむっとするに違いない。
 だけど、幸いに僕は気づくことが出来た。
 ようやく僕は僕の良心の代弁者を得たのだ、と。
 どんな我が儘を言っても、彼女はちゃんと諌めてくれる。おかしいと言ってくれる。
『とにかく。この広いお城にわたし一人、麗様一人でこっちはとっても忙しいんです。なんなら、城の外の雪かきくらいやってください。このままじゃ雪に埋まって外に出られなくなりますよ』
 どこから取り出したのか、アイカは雪かき用のスコップを僕の手に握らせた。
『僕に、何をしろ、と?』
『雪かき、です』
 さすがに驚いて問い返した僕に、アイカはさも当たり前といわんばかりに真顔で答えた。
『何も今すぐに、とは言ってませんよ。さすがに法王様でも風邪はお召しになるようですし? ああ、そうだ。ついでに外に行ったら薪割りもやっといてくださいね。もう薪ないんです。麗様がやってくださらなきゃ、今晩わたしと麗様、それにカルーラ様、三人揃って凍死ですよ。その前に、お返事もしたためてもらわなきゃなりませんけど。さて、わたしはそら豆の皮をむかなくちゃ』
 人使いの荒いアイカ。たとえそれが雇い主だろうが、法王だろうが関係ない。ここで働き手はアイカの他には僕しかいない。カルーラにはあとでたっぷりと雪かきをやらせるとして、とりあえず凍死だけは免れなくては。
 この不便な生活が僕の性格に由来しているというのなら、それくらいはしなくちゃいけないんだろう。
「木沢! 木沢! おい、起きてるか、木沢!」
 やかましさはアイカ並みの奴が僕の肩を揺らしている。
「この馬鹿、吸うなって言っただろうが」
「馬鹿って言うな!」
「お、帰ってきたか」
「帰ってきたって……」
 周りは薄暗闇。寝息一つ立てないほど深く眠り込んだ人々が相変わらず仰向けのまま横たわっている。
 短い白昼夢。
 だけど、愛しい日常生活の断片。
 ずっと、あの中で暮らせたらよかったのに。その先が望ましくないものだったとしても、夢の中でくらい変えられるかもしれない。いつまでもあそこで暮らすという夢の幸せな続きを叶えられるかもしれない。
 鼻の中にはまだかすかにあの甘くねっとりとした香りがこびりついている。それはふわりと頭の中を刺激して、もう一度僕の瞼に重石をつけようとした。
「騙されんなって!」
 かくりと力の抜けた僕の頭を、守景洋海はあろうことか軽く殴りつけた。
「いったぁ……何すんだよ!」
「なんの夢見てたか知らねぇけど、それは現実じゃない。もしもの世界だ」
「はぁ? あんたに何が分かるんだよ」
「見なかったか? 自分に都合のいい夢」
「……あれは夢じゃない。ほんとにあったことだよ」
「それでも、都合のいいところだけだっただろ?」
 思い返して、僕は唇を尖らせる。
「騙すって、誰が騙すんだよ」
「誰かはわかんねぇけど、あの煙が出てきたら気持ちよくなっただろ? おそらく、ここに運び込まれた時点で一度かがされてるな」
「自分だっていい思いしたんじゃないか」
 そう言うと、守景洋海はいかにも苦々しげに笑った。
「いいことばかりじゃなかったけどな。ともかく、今のうちにここから出よう。もう一度あれかがされたら、二度と自力で目ぇ覚ませる気がしない」
 軽くはねるように立ち上がった守景洋海は、しかし、一度だけ僅かに後ろにバランスを崩した。
 僕はとっさにその背中に腕を伸ばす。
「ああ、サンキュ」
「あんたも結構身体にきてんじゃん」
「な」
 あはは、と笑った守景洋海は、次の瞬間、表情を硬くした。
 がたん、と床が音を立てて揺れた。
「え? 地震?」
「違う! 床が抜けてる……!」
 守景洋海の叫びに自分の足元を覗き見るが、足元ではどっしりと灰色い床が足の裏を押し上げている。
「どこ?」
「あっちだよ」
 顔を背けたそうに守景洋海が指差した先、紫色の液体をたたえたフラスコの周りを取り囲むように、部屋の半ばから床が斜めに落ちていた。
「うそ……人、いたよね?」
「滑り落ちてった」
 さすがの僕も絶句する。
 開いた穴からは黒い瘴気がもうもうと立ち上がる。悲鳴はいっさい聞こえない。ただ、不気味な獣の唸り声が奥底から響きあがってきた。
「闇獄界……?」
 身体中が凍りついたように動かなくなっていた。
 また、落ちるのか? 僕は。
 今度は愛優妃はいない。誰も助けてはくれない。
 麗がまだ小さい頃、あの時は温かな澱の中に浸りながら窒息しても構わないと思っていた。エルメノが一緒なら、もう神界に戻らなくたっていいと思っていた。でも、それでもやっぱり最後には怖くなった。怖くなって、愛優妃の手に一人で掴まった末、エルメノを置いて来てしまった。あの茫漠たる永遠の闇の中に。
「うぁあ……」
 僕はとっさに壁に張りついていた。冷たい鏡が惨めな麗の顔を映し出す。こんな自分、嫌だ。こんなの、僕なんかじゃない。
「出して! 出してくれ!! ここから、誰か出してくれ!」
 叩いても叩いても鏡は割れない。滑らかな鏡面は冷たいまま僕からさらに体温を奪おうとする。
 そんな僕の足元では再び重々しい音がして中央部の床が塞がれ、かわりに今僕たちが立っている床が中央部へとスライドしていった。
「ここにいたってことは、どっかに出入り口があるはずだ。まさかあの穴から入ってきたなんてことはないだろうし」
「あんた、何でそんなに冷静なんだよ! 次は自分があの穴に落ちるかもしれないんだぞ? あそこに落ちたらもう二度とこっちには戻れないんだぞ?」
「詳しいじゃないか、坊主」
「坊主じゃない! お前、何様のつもりだよ」
「先輩様。少しは口の利き方に気をつけなさい、木沢君」
「うっわ、むかつく」
 胸をそらして見せた守景洋海に、ついさっきまで夢に見ていたアイカの姿が重なったなんて、そんなわけがない。
「それより、木沢、お前さっき霜やら氷の壁やら出していたよな。その要領であの紫色の液体、凍らせちまえない?」
 未だ肩の震えが止まらない僕を覗き込んで、守景洋海はにんまりと笑った。
 気のせいだろうか? 僕はこいつを知っているような気がする。すごく昔から、こんな奴が側にいたような気がする。たかが人のくせに法王に言いたい放題言って、神界のためなら諫言も厭わなかった奴。アイカじゃない。アイカが現れるよりももっと昔から、麗の唯一の、といってもいい存在だったそいつは――
「西方将軍、ヴェルド・アミル」
 僕は守景洋海をじっと見据えた末、試すように呟いた。
 守景洋海はにやりともしなかった。涼しげな顔のまま僕を見つめつづけたあげく、溜息をつく。
「お前、ゲームやりすぎだろ。ったく、最近の子はさぁ、外で遊ぶ楽しみを知らないんだ。ああ、嘆かわしいことだねぇ」
 嘘だ。絶対嘘だ。今絶対、話すりかえた。
「っんだよ、そんな不満そうな顔すんじゃねぇよ。分かったよ、付き合ってやるよ、RPGごっこ。で、西方将軍様、あれ、凍らせられるの?」
「っ! 僕は西方将軍じゃない!! 誰があんな奴と同じなもんか。心外もいいところだよ」
「心外って、お前……んじゃあ、何役? 氷の魔法が得意な黒魔導師?」
 必死に宥めようとする守景洋海を尻目に、僕は口を引き結んで中央の紫色の液体を湛えたフラスコに向き合った。
 フラスコの中では相変わらずこぽこぽと透明な気泡が湧き上がっては消えていく。僕らの周りには、眠り続ける人々。まるで大きな古墳の中にでも閉じ込められた気分だ。
『止まれ 熱の精霊たちよ
 汝らを閉じ込めしものから 全ての熱を奪い取れ』
 小声で唱えるや否や、フラスコの周りには白い霜が張っていく。透き通っていた中身も白く凝っていく。
 だが、次の瞬間、それらの霜や氷は全て融かされていた。
「とんだ客がいたもんだ」
 フラスコの上から響いてきた声は低く年を重ねた渋みはあったが、いささか軽薄さを含んでいた。
「城主は上にいるし、するってぇと誰かね。人界に精霊を従えられる者がいるとも思えないし」
 現れた男は茶色の毛皮のコートに身をくるみ、長く伸びた黒髪を左肩口で緩く結わえている。瞳の色も黒く見えるが、日本人の顔立ちとはどう見てもかけ離れている。
「ああ、なるほど、麗様か。エルメノ様もお人が悪い。何食わぬ顔をしてここに入れておくなんて」
 僕を見たその男は、再会を喜ぶというよりはこれからの企みか何かに対して満足げに笑んだ。
「お知り合い?」
 若干腰が引けている守景洋海が囁く。
「あんな邪悪な笑い方する奴は知らないよ」
 即座に僕は答えてやった。
「そりゃまあ、なんて言い草。誰のおかげで永い神代、自由を満喫できたと思っているんだか。人のことはクワトにやっておいて、自分はセロの氷の城で欲望の限り好き放題。ようやくまともになりかけたと思ったらあっさりおっ死んでくれやがりまして。そんな主に仕えていれば、微笑なんていくらでも歪むでしょうよ」
「お前、恨み買ってんなぁ」
 男の言葉を真に受けて、守景洋海は遠巻きに僕を見やった。
「僕じゃないよ! 僕じゃない別の人だって!」
 思わず僕は叫ぶ。
「都合のいい解釈も相変わらず。麗様の魔法石の力を使っておきながら、自分じゃないとは、生まれ変わってもそういうところ、変わりませんね。〈欺瞞〉とはまさに、あなたのためにあるようなものだ」
「〈欺瞞〉……?」
「ここにいる人々も皆そうです。本当はもっとできるのに。こんなのは自分の人生じゃない。そう、今生きている世界は偽者の世界なんだ。目が覚めれば、自分が望むとおりの人生がそこにある。そう信じている人々が、今ここでこうして本当の自分を手に入れるために修行に入っているのです。まぁ、修行を終える人なんていませんけどね」
「修行って……」
「木沢、あいつやばくない? ここ、なんかの宗教の施設かなんかなんじゃない? 本当に心当たりないのかよ?」
 この場所に心当たりなんて、ない。ないけど、だけど、あいつがいるってことは神界なんだろうか? それとも、単にあいつが人界にきているだけ?
 ああ、でも、あいつが存在しているってことは、僕の記憶は間違いなく現実のものだったんだ。
「守景先輩、これ、夢じゃないですよね?」
「何だよ、いきなり改まって。まあ、俺としては起きてるつもりではいるけどね。これ以上あまり現実離れした話されると寝ちまうかも」
「寝ないでよ! もう」
「で、現実だったとして、ここの出方は分かるのか?」
「分からないね。でも、分からない時は分かる人に聞けばいいって、今日入学式で校長先生も言ってたし――〈紫精〉」
 守景洋海が見ていようと関係ない。僕は右手に紫精を握った。
禦霊ぎょれい! ここにも出口あるんだろう? 教えてちょうだいよ。僕、明日も学校あるんだよね。帰んないとママも心配するし」
 魔麗法王の守護獣だった禦霊。その夜の帳よりも深い漆黒の翼に、麗は何度助けられたことだろう。天宮との往復然り、首都セロと副首都クワトの往復然り、神闇戦争然り。騎獣としてだけでなく、一国を治めるのにもかなり貢献してくれた。彼がいなかったら、今頃魔麗の国はおろか、守護の弱った国から闇獄界が攻め込んで神界すら危うくなっていたことだろう。
 その禦霊がどうして僕に対峙しているのか。
 偽物か? 禦霊という人格を写し取った別の者か? でも、さっき確かに僕の氷を融かしていた。いくら並みの精霊に祝福を受けたものだって、精霊王の命に反してまでは動けない。
 それなら答えは一つ。本物だ。
 人々の間を縫って対岸までは行かない位置にいる禦霊の喉元に紫精を突きつける。禦霊はびくりともせず、冷静に僕を見下ろした。
「ずいぶんとまぁ……小さくなられましたなぁ……」
「馬鹿にしてんの?」
「とーんでもない。人生やり直すには最適でしょう」
「最適って、このまま小さいわけじゃないんだからね!」
「どうでしょう。貴方の覗いた〈予言書〉にはどう書いてありましたか?」
 ぴくりと紫精の先が震えた。その隙に、禦霊は僕の紫精の先を握る。
「人生をやり直すには、麗様の記憶は不要でしたね」
 憐れみのこもった目で禦霊は僕を見る。
「しかし、エルメノ様にとっては幸いなことこの上ない。心置きなく貴方に想いをぶつけられる」
「お前、誰の味方だ?」
「貴方の味方のように見えますか?」
「見えたらこんなことしてないね」
 禦霊の握力は子供の力じゃ敵わない。仕方なく、僕は紫精の端に全体重をのせて撓ませ、さらにその上に飛び乗った。その反動で紫精は自ら禦霊の手を振り払う。
 禦霊は振り払われた手をそっと撫でながら、心の中を見透かすように僕に言った。
「木沢光、とおっしゃるそうですね。今生の名を。貴方は、今の人生に満足していらっしゃいますか? 本当に今ご自分が辿られている時間が本物だと思っていますか? 育命の国の輪生環さえちゃんと働いていれば、貴方は魔麗法王の記憶になど縛られずに無邪気に小学校時代をすごし、これから先も学生生活を終えて社会に出てからも、何一つ苦悩することなく過ごせていたはず。考えたことはありませんか? もし、自分がただの木沢光だったら、と」
 目眩がするほど禦霊の言葉は僕の心に染み入ってきた。どうして分かるんだと叫びたくなるくらい、その通りだった。目から零れ落ちる涙を拭う余裕もないほど、裸にされたように僕は無防備になっていた。
「木沢! 口元塞げ! 紫のやつが出てる!」
 守景洋海の怒鳴り声も雑音にしか聞こえない。
 もっと、甘い言葉がほしい。
 僕の心の中をかわりに吐き出してほしい。
「っんっ……んーんーんーっ」
 そんな僕の気など知らず、守景洋海はぼんやりつっ立っていた僕の口をハンカチで塞ぐと、強引に禦霊から引き離した。
 僕は身体中を襲う倦怠感に身を任せ、四方にある鏡に映る自分を見つめていた。
 映っているのは確かに僕、木沢光の小さな身体なのに、一体誰が想像するだろう? この中に数えることさえ倦むような時を生きてきた法王の記憶が息づいていると。
 誰も気づかないだろう?
 思いもしないはずだ。母さんも、父さんも、クリスも、誰一人として僕が別の誰かの記憶とともに生きているだなんて、想像さえしないはずだ!!
 ――誰か、気づいて。
 このまま眠ってしまえば、僕は望むとおりただの木沢光としての人生を送れるんだろうか? 普通の小学生のように他愛ないことで笑って、他愛ないことを疑問に思って、好きになる人だってもっとその辺にいる同い年のかわいい子だったりしたんだろうか。
「しっかりしろ、木沢光! お前がここで寝こけちまったら、明日から誰が学校行くってんだよ。おふくろさんだって心配するだろ? よく考えろよ!」
「うるさい……いいんだよ、僕はいなくならない……」
「ええ、それに関しては心配ございません。ちゃんと鏡で映し取った 〈似影〉が彼らのかわりに現実の世界で生活しますから」
「ほら、心配ないって……」
「あほか、お前は! 他の誰かが身代わりになったって、本人に敵うわけがないじゃないか!」
「! ……」
 守景洋海のその言葉は、うるさいというだけでなく僕の鼓膜を強かに打った。
『海、姉上……身代わりでもいいんです。僕じゃ、だめですか?』
 嘘だった。身代わりでもいいなんて、嘘だった。僕も、海姉上も、身代わりなんかじゃだめだった。
 どうして、こんな時にこんな記憶が開こうとするんだ。
 やめてくれ。これ以上僕を侮辱しないでくれ。
 僕を、否定しないでくれ。
「木沢、これ借りるぞ」
 僕を小脇に抱えたまま、守景洋海はあろうことか僕の紫精を握ると、手当たり次第に壁に張りついた鏡を割りはじめた。
 ガラスが無惨に砕ける音に混じって、禦霊の舌打ちが聞こえる。
「余計な人が側にいたようだ」
 その間に、守景洋海は禦霊のいる場所と正反対の位置に出口を見出していたようだった。体当たりで光のない湿った昇り階段への入り口をこじ開ける。
 僕は守景洋海に抱えられたまま、禦霊に言った。
「禦霊! さっきからエルメノ様って言ってたけど、そのエルメノ様ってもしかして……」
「貴方の探し続けてきたエルメノ様、ですよ」
 どこか切なげな声が響く。
 その声も、二度目の床が抜ける音で掻き消えていった。
 そして僕たちは――
「こちらでございます」
 階段上で箒を持って廊下を掃いていた年老いた老婆に匿われていた。











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