聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 1 章 歪みゆく時◆ 6 ◆
「麗様! 麗様! 目を覚ましなされませ、麗様!!」
「う……うるさい……うるさい、うるさい、うるさい……っっっ」
無意識に投げた枕が手を離れていく感触で、僕は目を開いた。
眠っていたのか起きていたのか、分からない。いや、目を開けたということは目を閉じていたのだから、何より知らぬ間に窓から光が入ってきているのだから……眠っていたのか。
結論に辿り着いたものの、あまりの頭の悪さにげんなりする。
「相っ変わらず寝起き最悪ですね。いつになったら直るんですか? その子供みたいな起き方」
「うるさい」
「麗様! 朝起きたら、まずはおはようございますでしょう!?」
最早反射的になっている言葉に、この女もよく毎日目くじらを立てられるものだ。思い切り投げ返された枕を顔面に受けて、僕はそのまま後ろに倒れこむ。
「こらっ。まさか二度寝する気じゃないでしょうね!」
「おはよう。うるさい。おやすみ」
毛布をかけなおす気にもなれず、せっかく貪りかけられた眠りを取り戻しに目を閉じる。
換気ーと叫んで開け放たれた窓から入ってくる雪が首筋に冷たいが、どうせ僕は死ぬことはない。風邪を引いたってかまうものか。生きる時間など無限にある。それよりも、手に入りかけた泥のような眠りの方が僕には貴重だ。
「……麗様、凍死したいんですか?」
主人が寝ているというのに、ばたくたと掃除を始めたメイドは、うっすら僕の顔に雪が積もりかけたところで呆れ果てた声をあげた。
目を開けると、睫から雪がさらさらと流れ落ち、冷えきった頬を温める。
視界には杏仁型の大きな黒い瞳、こじんまりとした鼻。ふっくらとした珊瑚色の唇はまあいいとして、そばかすだらけのほっぺたはいただけない。
「……アイカ、お腹空いた」
手を伸ばしかけてはみたものの、こいつ相手じゃやっぱりそんな気にもなれなくて、僕は無造作に流れ落ちていたはねまくりの黒髪を一房掴んで引っ張った。
アイカは顔を赤らめることなく、髪を掴む僕の手を流し落とす。
「はいはい。とりあえずお湯沸かしてますから身体あっためてきてくださいな」
「やだ、ごはん」
ごろりと寝返ってアイカに背を向けると、うっすら凍りはじめているシーツが冷たく膝をぬらした。
「そのがちがちいってる手でフォークが持てるなら、今すぐここにお持ちしますよ。冷製スープかけたカキ氷をね」
どっちが意地が悪いかって、そりゃあの女の方だろう。恐れ多くも奴よりウン万年は生きてるこの僕に向かって、ぎゃーぎゃーと小うるさい母親のように説教を垂れるのだから。てか、絶対あいつ、僕が法王だってこと知らないに違いない。見てくれからして鳥頭なんだから、雇って三日でそんなこと都合よくきれいさっぱり忘れ果てたんだろう。今確かめれば、そんなこと聞いたこともありません、といけしゃあしゃあ言ってのけるに違いない。
「っくしゃん」
「あらあら、かわいいくしゃみだこと」
嫌味と共に投げつけられた乾いたバスタオルに、僕は顔を埋める。ふんわりと柔らかくてあったかい。これなら立ったまま眠れるかもしれない。
「馬鹿なこと考えてないで、ほら、さっさとお風呂行きなさい」
「……うるさいよ」
換気のせいで白く曇った鏡に、年頃の娘と少年とも青年ともつかない僕の姿が映っている。
姿だけ見れば仲睦まじい恋人……に見えても嫌だな。
「口答えばっかりする癖、いい加減に直しなさい!」
誰だよ、この無遠慮にも程がある母親気取りの女連れてきたのは。
ぼやきかけて、黒い瞳に凄まれて口を噤む。
「あー、うるさ」
そうだ。そうなのだ。何も言えないから、とりあえずうるさいと言って抵抗は試みているのだ。そんなの、火に油を注ぐだけで意味がないって分かっているけど。
部屋を出ると、殺風景な廊下のほうがまだ暖かかった。
あいつ、あのまま部屋掃除してたら風邪引くんじゃないの? なんて心配、誰がしてやるものか。
とにかく、あいつがいない場所はかくも静かで……そう、朝だというのに鳥の囀り一つ聞こえないほど静かで、窓に突撃してくる氷の礫の自爆音だけが時を動かしている。
――嫌な場所。
他にこの城には誰もいない。
魔麗城は大きさからして、あの小娘一人で切り盛りできる大きさではないのだが、その辺は使うところと使わないところをばっさり切り分けて、使うところだけを掃除したり手入れしたりしているらしい。まぁ、この厳寒の冬、極寒の地にわざわざ訪ねてくる奴なんてまずいない。謁見の間なんてそのうち取り壊して、もっと質素な館に造り替えたっていいかもしれない。
どうせ魔麗の国の政治の中枢はここより大分南、リゴー湾にも近く、風環の国の首都アンクリュッセルからの行程にも苦労しないミスピル湖西岸のクワトにある。あそこなら人の居住もここより厳しくはないし、商人も出入りしやすい位置にある。街もこの田舎町のセロとは比べ物になりやしない。政治は禦霊にやらせとけば間違いないし、何もこんな神界最北端の城で寒い、寒いと呻吟しながら政をすることもない。せいぜい商売繁盛させて、他の貧しい都市を潤せるだけの財を蓄えられれば問題ない。
そもそも、どうしてこんな誰も踏み込みたくもないような氷山の一角に城を構えたのかと問われれば、単にその頃の僕は人との接触を避けて一人閉じこもりたかっただけだ、と答えるしかない。預けられた領民のことも、役目のことも、何もかも考えられるような僕じゃなかった。
エルメノを失ったばかりの頃の僕は。
それでも、統仲王は好きな地を選べ、そしてその地に住む領民の安泰を保証しろ、と命令した。だから、僕は一番人の少なそうなこの北の地――切り分けられた領土の中でも最北端の地を選んだのだ。城が大きいのは、法王の居城なのだから仕方がない。国の中枢としてそれなりの象徴が必要だと説かれたからだ。その中枢の象徴も、結局は厳しい気候に人々が負けて、ここより人口も多いクワトに僕の守護獣である禦霊をつけて中枢組織を移したときから、ただの僕の意地の象徴になった。
容易に窓も開けられやしないこの城で、楽しみなどどこにもない。グルメならばミスピル湖で獲れた塩湖の珍しい魚や黒洋で獲れた脂の乗った魚もおいしいおいしいと食べられるんだろうが、残念ながら僕は肉魚の類はあまりおいしいと思わない。かといって菜食主義なのかと問われれば、そんなことはない。時を繋ぐために仕方なく口にしているだけだ。永遠に生きられるといわれているのに、腹は減るのだ。もしかしたら、相当根気強く飢餓に耐えさえすれば、僕は永遠から逃れることが出来るのかもしれない。
試したことがないわけではない。エルメノを闇獄界に残してきた日から一週間か、一月か、何も食べなかった。食べちゃいけないと思ったんだ。エルメノはお腹一杯食べることも出来ずにいるに違いない。あるいは、もう食べることも出来なくなってしまっているかもしれない。 はっきりこの目で彼女の死を確認できなかった僕は、そう、未だに全てに満足することが出来ずにひたすら毎日飢えたまま暮らしている。
それは食だけに限らなくて、例えば夜なんかはエルメノに似た子がいれば抱いてみることもあったけど、結局違うと飽きて放り出した。どこが違うって、似ている似ていると思い込もうとするほどに全く違うものに思えてくるのだ。何より、彼女たちは僕が法王だからってんで大人しくされるがままになっているか、気に入られようと色目を使うかどちらかだった。そのうち女はみんな同じに感じるようになって、男にも手を出してはみたけれど、別に楽しくもなんともなかった。
当たり前だ。僕はエルメノしか求めていなかったのだから。
こんなに長いこと生きているというのに不器用なことだ。もっと簡単に彼女のことを忘れられれば、今頃僕はこんな氷山を刳り貫いて造ったような硝子の城なんかじゃなく、クワトの程よく暖房が効果を発揮する城で悠然と椅子にふんぞり返って、あれこれ禦霊に指図してこの国を掌で転がしていたことだろう。例えば、隣国の兄のように。
記憶を忘れる方法がなかったわけじゃない。今でも、ないわけではない。末妹の聖にでも頼めばいくらでも魔法で何とかしてくれることだろう。あるいは、聖刻城の禁断の庭に生るという記憶の実を一口齧ることさえ出来れば、その直前のことまですっかり忘れられるという。別に僕にはエルメノの記憶以外大切な記憶など何一つないから、直前のことまで忘れてしまったって、たとえ自分の名すら忘れてしまったところで、何も悔やむことはない。だけど、やっぱり僕にはエルメノとの日々を消すことなどできないのだ。これだけ月日を重ねて尚、僕の中では彼女と共にあった数年だけが色鮮やかに脳裏に刻まれているのだ。
病だ。完全に。とり憑かれていると言われても仕方ない。
窓の向こうは果てしなく白が続く。雲と氷地の境も微妙な灰色の違いだけでは見分けがつかない。吹雪いていれば尚更。外を見ることも無意味で、全ての窓をカーテンで覆ってしまいたくなる。
この景色が、ほんの一瞬だけ色を取り戻しかけたこともあったけど、それも今となっては運よく掴めた眠りのおまけだったのではないかと思う。
現実、その人と私的な交信が途絶えたのはその時からなのだから、あまりにも幼い衝動を恥じて、勝手に夢にしてしまいたいと僕が思っているからなのだろうけど。
白い息を吐きながら短い廊下を渡り、脱衣所で鳥肌を立てながら服を脱ぎ、唯一温もりのある湯気に全身を撫でられて浴槽に浸かる。ほっと吐いた息は白い湯気をゆっくりと散らすから、結局ここでも吐息は白く見える。
無彩色の空間。
ほんとは誰かがいつか連れ出してくれると思ってた。
わがままで甘えん坊の僕は、人一倍、いや、百倍千倍プライドも高くて、意地を張ることでしか自分を主張できなかった。人に甘えることが出来なかった。「そんなことが通ると思っているのか!」と一喝されたくて、一喝されるタイミングすらなくなってしまって、僕は結局まだこんなところで悶々と燻っている。
叱ってくれるなら、エルメノじゃなくてもよかったはずなんだ。
なのに、闇獄界から戻った僕はよほど憔悴していたのだろう。あらゆる奴らから同情ばかりを恩着せがましく寄せられて、誰も本当の僕の望みに気づいてくれやしなかった。
僕は、僕と対等な者がほしかったんだ。
例えば、すぐ上の兄と姉のように。あるいは、主従の関係でありながら、忌憚無く物を言い合う一番上の兄と影のように。
エルメノが僕の影だったと聞かされたのは、闇獄界から引き戻された直後、明るく差し込む日差しが眩しい庭でのことだった。
『でも、心配ないわ。貴方にはこの子がいるから』
愛優妃は、よりによってエルメノの代わりに助かった奴を笑顔で迎え入れようとした。
闇獄界で見た時は薄暗かったから気づかなかったが、光の下で見たそいつは、エルメノとは似ても似つかぬ真っ黒い肌に、口惜しいことに僕と同じ黒紫の瞳を持っていた。
『カルーラ、記憶は戻った? 貴方とエルメノは双子の姉弟だった。でも、エルメノに封じられていたのよね? 貴方の方が、麗の本当の影だったから』
愛優妃、何を言っているの?
僕の優しい母上。誰も傷つけない微笑と言葉を持つ、この世の聖母。
その母上が、どうしてそんなことを言うの?
まるで、エルメノの善悪をはじめから全て見抜いていたかのように。
見抜いていた? エルメノが弟の魂を自分の身体の中に封じていたことも?
だとしたら、ねぇ母上。
僕らが時空の狭間に落ちることもご存知だったのではありませんか?
むしろ、分かった上で本物の僕の〈影〉を引っ張り出すために、僕らを闇獄界に堕とし、エルメノだけを都合よく残したまま時空の穴を閉じたのではありませんか?
「母上……」
そう気づいたときから、僕に母はいなくなった。
ただ、厳然たるこの世の女神が存在するだけになった。
この世は黒白だけの世界に変わった。
カルーラの姿はとても都合がよかった。たとえ僕が見る世界の色が全てあせてしまっても、カルーラの姿はそもそも黒い肌と白い髪。何も変わらず景色に溶け込むようにそこに存在している。気に入らないのは、最早黒白でしか見えなくなってしまったこの世界で、唯一感じる色彩が奴の瞳の色だったこと。
『僕は君。君は僕』
そう約束したのはエルメノだったのだ。瞳の色の違うエルメノ。なのに、エルメノの代わりに救われてしまったこいつが、どうして僕と同じ瞳の色を持っているんだ?
鏡を覗き込んだように、奴の目を覗きこむと憎しみが募った。
その憎しみを僕は構わず奴にぶつけつづけた。お前のせいで僕とエルメノは別々になってしまった、と。どうしてお前がこの世界で僕の前でのうのうと息をしているのか、と。その辺のすぐに死んでしまう人という近くて遠い生き物に興味がなくなってからというもの、夜伽は専ら奴の仕事になった。奴を抱いている時だけは、僕は実は刹那的な快楽を得ていたかもしれない。愛するのでもなく、慈しむのでもなく、ただ憎しみだけを奴の中に放り込んで奴の全てを踏みにじって、僕は満足だった。
だって、奴の瞳の色は僕と同じだったから。
誰も僕のことを罰してくれないから、僕が罰してやったんだ。
怯えと恐怖で彩られた黒紫の瞳に映る僕の顔は、それはそれは惨めなものだった。
そんな関係も、今はない。
思えば、あいつは僕の失恋の慰みに、暫く身体を与えていただけだったのかも知れない。一瞬だけ色を取り戻しかけた僕が、自ら壊した世界。残された世界で色を持っていたのは奴の瞳だけだと僕が言ったから。
あいつは今では気ままに各国を歩き回り、年に一度ご機嫌伺いにこの城を訪ねるだけだ。あとはそもそも魔麗の国自体に滞在しようとしないらしい。奴の身体は南の火炎の国あたりが性に合うという話だから。
「麗様ー、いつまで入ってる気ですー? 茹で上がりますよー?」
あっという間に温くなりはじめた湯に一度頭の天辺まで潜り込む。
このままずっとこの中にいられたらいいのに。そのためなら魚になってしまったってかまわない。
「麗様ー? あら、もしかして溺れてるんじゃないかしら? いいえ、もしかしたら床で足を滑らせて後頭部を打って……死……? 麗様! 開けますよー!」
「この妄想メイド。そんなに僕の裸が見たいの?」
がらりと開けられる前に、扉を開いて鳥頭の横をすり抜け様毒を吐く。
言っておくけど、アイカは烏の行水もいいところらしいけど? 僕は長風呂が好きなのだ。浴槽に浸かって毎日毎晩詮無いことばかりを考える。他にやらなければならないことなんて大してないから、僕はそうやって時間を潰している。それなのに、アイカときたら自分と比べてあまりにも長いものだから、暇があれば妙な心配、もとい妄想をして、遠慮なく風呂の扉を開けるのだ。
でもって、僕の裸を見ても顔色一つ変えやしない。
「そんな貧弱な身体見て誰が喜びますか。いいから、ほら、早く身体拭いてください。ご自分で出来ないなら拭いて差し上げましょうか?」
「貧弱ってねぇ! 僕はこれでも槍使いの権威なんだよ?」
「まあ、冬で誰にもお会いにならない間にちょっとお肉ついてきたんじゃないですか? 秋ごろはもう少し引き締まってましたよね? あら、これは大変。もっとメニューを工夫しなくちゃ」
「誰か……誰かこの女をここからつまみ出してくれ……」
「えー、でも麗ちゃんは一人じゃ何にも出来ないじゃん。それなのにわがままばっか言ってみんな困らせて、代々お世話してくれてたみんな追い出しちゃってさー。麗ちゃんにはこれくらい骨のある子じゃなきゃ続かないと思って連れて来てあげたのに」
いつものアイカは「はいはい」と流すだけなのに、今日は内容はともあれ、別の反応が返ってきた。
「アイカ?」
「私じゃございませんよ」
睨みつけると、怯えた風もなくアイカは答えた。仕方なく、僕は他にいるはずもない人影を求めて視線を彷徨わせる。
「じゃあ、誰が他に……」
半開きになったままの脱衣所の柱に、見覚えのある奴が背を預けて立っていた。
「カルーラ」
さて、何年ぶりになるものか。
前にあったのはこの女を置いていった時だから……一年、二年、三年?
「麗様、カルーラ様がお見えになっておられますからお早くお上がりください、と言おうと思って来たんですけどねぇ」
「妄想のあまり当初の目的忘れたな?」
「えへ」
「えへ、じゃない、この鳥頭がっ」
「いいじゃありませんか。別に気を使う仲でもなし。あ、カルーラ様、身体お冷えになっているんじゃありませんか? よろしければ麗様とお入りになって名実ともに旧交をお温めになったら? その間にお食事のほうもご用意させていただきますから」
しれっと言ってのけたアイカに、僕は思わずカルーラのほうに視線を投げる。
カルーラは嬉しげに声をたて、腹まで抱えて笑っていた。
「カルーラ? お前、主に久々にご機嫌伺いに来て挨拶もなしか?」
「麗ちゃん、楽しそうだねぇ。アイカ連れて来てほんとよかったよ。アイカの方も楽しそうだし?」
「お前、だから挨拶……」
「裸の王様に跪く者はいないよ? とりあえず風邪引かないくらい着込んでからまた会おう? 僕は君が朝食摂り終るまで、アイカの言うとおりお湯をもらうからさ」
会うたびに顔の皮を一枚ずつ分厚くしていくカルーラは、最早主を主とも思わない暴言を残し、さっさと衣服を脱いで風呂場へと行ってしまった。
「あ、アイカ、お前タオルは渡した?」
「ええ、先ほどいらした時にとうにお渡ししておきました」
くすくすと笑っているのは、僕がいらぬ気を回したからだろう。
「ちっ。何であんな奴、門前で追い返さなかったんだよ」
「門番を解雇したのは麗様じゃありませんか」
「だってあれはあんなとこに一日中三百六十五日立ってたら、いくら健康だって言っても風邪を引くじゃないか。クワトでの仕事だってつけてやったし」
「お優しいですよねぇ」
「違う! 見てるこっちが寒いんだ。ったく、門でなくても玄関で追い返せばよかったものを」
「……多分、あまり良くない知らせをお持ちになったと思います」
僕は、表情に影をおとして見せたアイカの鳥頭を手荒に撫でた。
「あいつが持ってくるのはいつも厄介なものばかりだ」
「あら、私もですか?」
「その最たるものだろう?」
寒い廊下を並んで歩きながら、ふふ、とアイカは僕の気持ちを知ってか知らずか小さく笑った。彼女にしては何かを含んだ小さな笑い方だった。
「アイカ」
足を止めて呼びかけてみる。
数歩前で止まったアイカは、「なんでしょう」と振り向く。
笑んだふっくらとした唇が珊瑚色に見えはじめたのはいつのことからだったろう。
僕は知ってるんだ。
もうこの身体の命が長くないことを。
この時代が終末に向かって相当転がり落ちてきてしまっていることを。
魔麗城はこんなに寒い。だけど、この百年で海面は一メートルほど上昇していた。それに気がついたのも、その原因がセロや羅流伽の一部を包む黒海の氷が解けはじめたからだと気づいたのも、神界中を歩き回っているカルーラだった。
今日カルーラが来たのは、言われるまでもない。
氷が解けている原因を突き止めたのだろう。おそらく。
僕が幼い頃覗いてしまった〈予言書〉は、確実に文字を現実にしている。僕らの今過ごしているこの時代、後に神代と呼ばれるこの時代も、間もなく終焉を迎える。
「今朝も僕はうなされていた?」
アイカ、僕はね、〈予言書〉が現実になって一つだけ嬉しいことがあったんだ。
「……ええ」
この命の終わり、君に出会えたことだけが、本当に僕の唯一の救いだった。
「エルメノ様の夢をご覧になっているようでした」
待っていたんだ。きっとそんな日は来ないと暗黒の底を這う思いを抱えたまま、何年も、何百年も、何千年も。
ただもう、僕はエルメノの悪夢から解放されたかった。
お腹一杯おいしいものを食べたかった。心から愛する人に愛を注いでみたかった。注がれてみたかった。甘えてわがままを言って、それを寛容しながらも駄目なところは駄目だと、釘をさして僕を真っ直ぐ支えてくれる人がほしかった。僕の横を一歩下がってではなく、堂々と並んで歩いてくれる人を。臆面なく正面から僕を見つめてくれる人を。
「アイカ」
だけど、並んで歩いていても彼女は人だ。僕にとってはほんの目を瞑った瞬間に老いて儚くなってしまう人だ。
――どうして、もっと早く出会えなかったのだろう。
「麗様、早く食堂へ参りましょう。湯冷めしてしまいます」
先に視線を逸らせたのはアイカの方。
もう、いいじゃないか。十分に僕は待ったよ。お前の気持ちが解けるのを、二年、三年ひたすら待ったじゃないか。いつもの僕にしては有り得ないくらい気の長い話だと思わない?
今すぐその手を引いて後ろから抱きすくめたい。その珊瑚色の唇から僕に色を分けてくれ。
「麗様! ほら、いつまでぼんやりなさってますの! カルーラ様が上がってきてしまいますよ」
「うるさい。カルーラは僕と同じで長風呂が好きなんだよ。いいからゆっくり浸からせてやれ」
あれほど望んでいた終わりを、いつの間にか僕は望まなくなっていた。
この生活がずっと続けばいいと思うようになっていた。アイカと一緒なら、たった二人きりでこの氷の地に閉じ込められても飽きることはない。いや、もし望まれるなら、このセロを後にしてクワトの椅子にふんぞり返りに行ってもいい。アイカが一緒なら。
だけど、あの手をとれないのは、あくまでこの対等 な関係が、主従関係という立派な建前を前提に成り立っていると分かっているから。
一度僕がアイカを抱きしめてしまったら、アイカを死ぬまで離せなくなる。永遠を今更望む僕は、本気でアイカに永遠を与えようとするだろう。
鉱が己の妻になぜ永遠の命を与えなかったのか、僕は今でも理解できない。妻とするからには、僕は命ある限り共にいたいと思う。自分より先に老いて死んでいく姿など見たくない。
自分と同じじゃなきゃ嫌なのだ。
生まれた時間は仕方ないとしても、せめて僕が死ぬまでは。
「アイカ。アイカは長生きしたいと思う?」
再び並んで歩きはじめた僕を、アイカは悪ガキの思考を読み取ろうとするかのように不審そうな顔で見上げた。
「そりゃ……、長生きはしたいですね。長生きするって約束してしまいましたし……」
「約束?」
「あ、いいえ。なんでもございません。あの、私、先に行って、もう一度スープ温めなおしてますね」
咄嗟に掴もうと伸ばした僕の手の間をすり抜けて、アイカは軽やかに駆け去っていってしまった。
ほら、また僕より先に行こうとする。
人なんて、嫌いだ。
アイカも、このままではいずれ僕よりも早く死ぬ。〈予言書〉が狂ってでもくれない限り。
そうだ。
僕にはもう、時間がない。