聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 1 章 歪みゆく時○ 4 ○
お昼を食べたあとの五時間目っていうのは、どうしてこんなに眠いんだろう。消化のために交感神経が鈍って、かわりに副交感神経が活発に働くからとか、そんな生物で習った理屈を覚えていたところで、眠くなるのを止められるわけでもない。新しいクラスメイトの見慣れない頭の山脈の向こうに見えるアルファベットと数字の塊は、後ろの方からは霞のようにしか見えない。高等部になると先生達も個性が強いから、黒板の字も見えやすさよりも先生本人にすら分かるかどうか怪しいような象形文字が並ぶことが多くなってくる。自分で書いたミミズ文字を見るのと同じで、ああいう理解不能なうねる線を見せられれば、否が応でも眠くなる。
居眠りしそうな自分を正当化するわけじゃないけれど、せっかく物理実験室にいるのにひたすら喋り続けられてもつまらない。
そもそも、物理なんてわたしが聞いたって分かるものでもない。実験は面白いと思うけど、サイン、コサインが出てきた時点で頭が拒否反応を起こしはじめる。二年の一学期までは文系でも理系でも、同じクラスなら同じカリキュラムで授業を受けることになる。せめてもの基礎知識を身につけろと言わんばかりに得手不得手関係なく授業には出る羽目になるわけだけど、先生達は生徒の事情などお構いなしに自分の世界だけにこもって授業を進めていく。
少なくともわたしがそう思うのは、何とか高等部から入ってはみたものの、すでについていけない授業が出はじめているからなのかもしれない。数学がさっぱり分からないだけで、昔は楽しいと思った理科まで理解不能になってしまうのはちょっと悲しい。
分かれば、面白いはずなのにな。
分かれば。
ああ、だめだよ、樒。寝ちゃだめ。身体が揺れてたら一発で分かっちゃうでしょ。いくら一番後ろだからって、通路を挟んだ横には……
わたしは軸を失いかける身体を一生懸命真っ直ぐ伸ばしながら、ちらと左横を盗み見た。
頬杖をつきながらぼんやり黒板の方を見やっている人。
背もたれのない丸いスチールの椅子は彼の身長には小さすぎるみたいで、居心地悪そうにちょっと背中を丸めて机に肘をついている。ノートは開かれてはいるけれど、熱心にメモを取るわけでもなく、黒いシャーペンが白紙の上に無造作に転がされている。たまに窓から差し込む午後の春の日差しに目を眇めたりしているけど、居眠りするでもなく、内職をするでもなく、ただ先生のお経のような解説を聞いている。
夏城君。
視線に気づかれそうになる度、慌ててわたしは顔を俯ける。
おかしいんだ、わたし。
額に落ちかかった薄茶色の髪が柔らかな日差しを透かしとおす度、すごく胸の中心が痛くなる。痛いのに、いつまでも見つめていたくなってしまう。
傘、借りただけなのにな。
わたしが初めて彼に会ったのは、中学三年の夏休み。塾の帰りに夕立に遭って雨宿りしていたら、彼が傘を貸してくれた。背が高くてむすっとした表情に似合わず、彼が貸してくれた傘は大柄な赤い花模様が散らばった女性ものの傘だった。
名前を告げられたわけじゃない。岩城学園中等部の制服を着ていたことくらいしかわたしには分からなかった。でも、その直後にわたし達の様子を見ていた桔梗が現れて、名前を教えてくれたんだ。そして、岩城に入れば傘を返す機会もできるかもしれない、と。
あの日、わたしの運命は動いた。
桔梗がただの塾の廊下ですれ違ったことのある人から知人になり、誘われるがままに岩城学園に入ろうと決心した。
念願叶って岩城学園に入学したものの、でもその先までとんとん拍子に進んでくれるわけもなくて。結局、去年一年同じクラスだったにもかかわらず、わたしは未だに夏城君にあの傘を返せずにいる。あの時、何故女性ものの傘を持っていたのかなんて、なおさら聞けるわけもない。
ずっと、自分の中で話しかけてみようと思ったり、止めたりの押し問答が続いていて、いつの間にか見つめるのが癖になっていた。見つめながら傘を返さなきゃって思うことよりも、何を考えてるのかなとか、どうしていつもむすっとしてるのかなとか、夏城君のことを考えている時間の方が多くなっていた。
何故だろう。去年の夏ごろから、そんなことが増えた気がする。ついつい見つめてしまって、何故見つめてしまうのかさえ分からず目で追ってしまう自分がいて、振り向きそうになると慌てて視線をそらせる。顔が赤くなっていないか心配しながら。そのせいかは分からないけど、夏城君とは目が合うことはほとんどない。夏城君はいつもどこか遠くを眺めていて、近くのものになんか興味がない感じ。わたしなんか、きっと視界に入っていてもただの風景になってしまっているんだろう。二年前の夕立の時、傘を貸したことさえ覚えていないに違いない。
自分でも勇気がなさ過ぎるとは思うんだ。他の子達は気になった人がいればすぐにメアドを聞いて、すぐに仲良くなってしまう。でも、夏城君はそういうのがどこか嫌いそうな感じがするし、何より、部活にすごく熱心だから余計なことでわずらわせたくないっていうか……メールするにしても、同じクラスなんだもん。何話したらいいかわかんないよ。それ以前に、夏城君が携帯使っているところ見たことないんだよね。
何かをやろうとしてもわたしは不安が先に立ってしまって、出てくるのは出来ない言い訳ばかり。自分でもいやになってしまう。
こんなに気になってしまうくらいなら、いっそ嫌いになってしまえればいいのに。
ほうっと小さく溜息をついたわたしの前に、すっと手のひら大の鏡が二枚滑り込んできた。
映った自分の顔をまじまじと見るまもなく、わたしは退屈な先生のお経は終わってしまったのかと顔を上げる。
もしかして、寝てないつもりでも寝てしまっていたんだろうか。
先生は相変わらず黒板の前で忙しげに口を動かしていたが、いまは物理の公式だのなんだのの呪文じゃない。各班に鏡はいきわたったか、とか、カラー下敷きはいきわたったかとか確認したり足りないものを渡したりしている。
鏡に続いて渡されたのは、半円に近いものをケーキを切るみたいに十度ずつに分けて色分けしたものが描かれた下敷きだった。黒、灰色、ピンク、赤、オレンジ、青、水色、黄色、黄緑、緑。見るだけで目が回りそうな色をしている。その両端にはそれぞれ赤と青の長方形がくっついている。
「ではこれから、合わせた鏡の角度によって間に置いた物体がいくつ見えるのかを実際に数えてもらう。まずは九十度から」
中学校でも似たようなことをしたような気もするけれど、高校レベルになると入射角と反射角は同じだね、で終わるのではなく、小難しい数式や作図が入ってくるらしい。なにはともあれ、お経のような授業を聞くよりは、こっちの方が眠気も紛れる。
そう思って覗き込んだ合わせ鏡の中は、挟まれたカラーチャートのような部分が互いに映りあって、ぐるりと円を描いていた。先生の指示で角度を変えていくと、見える模様も少しずつ変わってくる。きれいに左右対称な模様になったり、ちょっと不恰好な配色になったり。整った配色ばかりじゃないあたりが、万華鏡を覗くのとはまた違う面白さを味わわせてくれる。
「樒ちゃん、合わせ鏡で見える像の数っていくつか知ってる?」
同じ班で隣に座っていた去年も同じクラスだった詩音さんが、先生の指示にはお構いなく鏡の角度を動かしながら囁いてきた。
「んー、前にテレビでやってたような気もするんだけど……いくつだっけ?」
「テレビでやってたときは四十二だったってね」
「四十二……無限ってわけでもないんだね」
「鏡の表面の滑らかさとか、光が空気に邪魔されずに直進できる状態なら無限に見えるらしいけどね。現実には無限に見えることを証明するには無限の時間が必要になるんだって」
「へぇ、なるほどねぇ。詩音さん、予習でもしてきたの?」
「ちがうちがう。昨日鏡見てたらいと……こがさ、物知り気に小難しい話しはじめてさ」
詩音さんが一瞬ちらりと視線を走らせたのは、斜め右の別の班のテーブルで真っ直ぐに背筋を伸ばし、厚めの眼鏡越しに特にこれといった表情もなく淡々と観察と作図を続けている生徒会長の工藤君の方だった。去年は学級委員長で収まっていたものが、長がつく役職が好きなのか、冬の生徒会選挙で会長に立候補して当時一年生ながら見事当選してしまった。見た目、七三分けに黒い縁の眼鏡、ネクタイはちゃんと締めてるし、シャツもきちんとスラックスの中に入れてるし、中身だって常に学年トップ。これ以上、つまらないくらいに生徒の鏡を体現した人もいるまい。生徒会役員の人と一緒にいるところは見たことがあるけれど、それ以外で誰かと一緒にいるところは、少なくともわたしは見たことがない。そんな生徒会長が詩音さんの従兄だという噂を聞いたことがあるけれど、今の詩音さんの視線からしてまんざら嘘でもないのかもしれない。
「んじゃぁさ、守景、夜中の十二時に合わせ鏡を見ていると小人が見えるって知ってるか?」
「え? 小人?」
向かいのほうから身を乗り出してきたのは三井君。
とっても陽気な人で、この人の周りにはいつも明るい雰囲気が漂ってる。入学式早々、外部の女の子全員をお茶に誘い、ことごとく振られたんだとか(わたしの場合は問答無用で桔梗が返り討ちにしていたけど)。そんな伝説があっても、くじけない、めげない、へこまないの三拍子で、わたしにとっても珍しく男子なのに普通の友達のように話すことが出来る人だった。夏城君とは同じサッカー部で、クラスでもいつも仲良さげなんだけど、さすがに傘の話はからかわれそうで、相談は愚か、打ち明けたこともない。ほんとは三井君に聞いてみるのが早いのかな、とも思うんだけど。
「そう、小人! あとは、角が生えた自分が見えるっていう説もあるな」
「ほ、本当?」
「夜中の十二時じゃなくても、合わせ鏡ってどっか不吉な感じがするだろ? たとえば、ほら、覗き込んでみろよ。もしかして違う自分の姿が映っているかも……」
三井君にのせられたわけじゃなかった。
たまたまわたしの手が滑って、鏡が二枚、重なり合いながら鏡面を上に向けて倒れたのだ。
二枚の鏡には、それぞれわたしが映っていた。
驚いたような顔をしたわたしが、斜めに重なり合った二枚の鏡の中に二人存在している。そのうちの一人と目が合った瞬間、わたしの周りの音は小さく収束し、遠ざかっていった。
わたしはにっこりとわたしに笑いかけていた。
よく見ると、目の色が違う。
左が青で、右が黒。
見つめれば見つめるほどに、髪は伸び、色も左から右に金髪から黒へと染め分けられていく。
今朝、鏡を見たときに感じた違和感の正体。
異国の少女がそこにいた。
肌は透き通るように白く、鼻も小さいながら筋が通りわたしなんかよりよっぽど高い。桜色の唇は若干血色が悪くみえるせいかどこか薄幸そうに見えたけど、美人さんには変わりない。
今や、わたしではない人が鏡の中に映っていた。
もう一枚の鏡には茫然としたわたしの顔が映っているというのに。
少女はわたしを見つめたまま他人のように微笑みつづけている。何を訴えかけるでもなく、ただじっとわたしを見つめつづけている。
誰?
そう問いかける余裕はなかった。
鏡にまつわる都市伝説ならわたしも一つ聞いたことがある。夜中の十二時に暗いところで鏡を覗くと死ぬ時の自分の顔が見えるって。
でも今はお昼だし、どう考えたって目の色が変わるなんてありえない。カラーコンタクトを入れて髪を染めたって、そもそもどう見ても顔の骨格が違いすぎる。
わたしじゃない。
それは確か。けれど、わたし以外その鏡に映っているはずもない。
だけど、どうしてだろう。鏡の中のその子はとても身近な存在だったような気がする。その昔、毎日顔を合わせていたような懐かしささえ感じる。
見つめあい続けるわたし達の時間に終止符を打つように、やがて鏡の中の少女は困ったように微笑みながらゆっくりと首を左右に振った。
唇が開く。
思い、出さない、で――?
しゃぼん玉が割れるような音を立てて、教室のざわめきが蘇った。
「守景? 大丈夫か、守景?」
わたしは鏡を見つめたまま、眠るでもなく、倒れるでもなく、ただ目を見開いて動かなくなっていたらしい。まばたきをすると乾いた目に潤いが行き届いて鼻がむずむずした。
「樒ちゃん、どうしたの?」
心配げに覗き込む三井君と詩音さん。それに、まだ顔と名前が正確に一致していない同じ班の人たち。彼らは心配と不安とがない交ぜになった表情でわたしを見つめていた。
「あ、ああ、大丈夫」
軽く笑って見せて、無意識にわたしは夏城君の背中を探していた。
夏城君もぼんやり鏡を見つめるわたしに気づいただろうか。ナルシストとか思われてたらどうしよう。三井君が部活の時に余計なこと言っちゃうかもしれないし。
そんな心配も虚しく、わたしはこちらを見つめている夏城君と目があってしまった。
目が合った瞬間に、慌てて夏城君からそらす。
深く、心の中まで探られそうな気がしたのは、わたしが意識しすぎているせい?
でも、お願い。見ないで。見たなら忘れて。わたしが今鏡を見ながら惚けていたことも、今視線があったことも。
『嘘つき』
どこからともなく声が聞こえたような気がした。
『本当は気にかけてほしい、心配してほしいって思ってるくせに』
その声は、どこかで聞き覚えのある声。でも、今現在、この教室内で口を開いている人は誰もいなかった。先生さえ口を噤んでわたしの様子を窺っている。
『いいじゃない。好きなんだから。好きなんでしょう? 夏城君のこと』
わたしははっと気づいて鏡の中を覗き込んだ。
重なり合う奥の鏡にもわたしの顔、上の鏡にも不審そうに覗き込んでいるわたしの顔が映っている。だけど、上の鏡のわたしは、一瞬わたしを真似しただけで、すぐにどこか意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
『鏡は真実を映すもの。わたしには嘘はつけないよ? だって、わたしはあなただもの』
鏡の中のわたしは、くっくっくっくっと楽しそうに喉を鳴らしてわたしを見上げた。
『どうしても認めたくないっていうなら、わたしが代わりに伝えてあげようか? 勇気のないあなたに代わって、わたしがあなたの憧れの人を手に入れてあげる』
彼女の視線を気にしながらも、思わずもう一度夏城君の方に視線を滑らせてしまったのは、今のが聞こえていないかどうかを確かめるため。
夏城君はもうわたしのほうを向いてはいなかった。中断した授業の合間に、周りなどお構いなしに教科書に視線を落としている。
『そんなにがっかりしなくたっていいじゃない』
鏡の中のわたしは隠しもせずに嘲笑う。
「違っ……」
思わず叫びかけて、わたしは慌てて両手で自分の口を塞いだ。が、すでに遅い。
「守景、具合が悪いなら保健室行っていいぞ」
物理の先生が無表情のままわたしを覗き込んでいた。
どうしよう。まだ今年始まったばかりなのに目をつけられちゃったかも?
わたしは俯いたまま鏡の中のわたしを睨みつけた。
『おおー、怖っ』
わたしはこんな風におどけて肩をすくめながら飄々とした表情をすることがあっただろうか。確かに鏡に映っているのはわたしの顔だけど、この人はわたしじゃない。全然違う人。
ぱたん、とわたしは鏡を裏返した。
「樒ちゃん……?」
再び心配げに詩音さんが囁く。遠くから桔梗と葵も心配そうにわたしを見ている。
「すみません。もう大丈夫なので授業を続けてください」
わたしは努めてにっこりと先生に笑いかけた。
先生は怪訝そうにわたしを見下ろしたが、やがて何事もなかったかのように授業を再開した。
「ごめんな。俺様がおかしな話したばっかりに」
申し訳なさそうに三井君が囁いた。
「違うの。気にしないで」
わたしは首を振りながらも、裏返した鏡をじっと見つめていた。目を話したらさっきのわたしが鏡をひっくり返して出てくるような気がしたから。そんなことありえないって分かっているけど、でも真昼間からあんな不可思議なものを見せられたのでは敏感になってしまっても仕方ない。
授業ではそれ以上鏡を使うことはなく、各自プリントに見えた像を書き写して提出して終わりになった。
「樒、お前、さっきどうしたんだよ。菅野の奴、珍しく生徒に話しかけちゃってたじゃんか」
「うっ。やっぱり覚えられちゃったかなぁ」
「名前呼んでいたし、覚えはしたんじゃないかしら?」
教科書とルーズリーフを抱きしめて廊下を歩きながら、まだ心配そうな葵に対し、桔梗は意地悪を言った。
「どうしよう、桔梗……」
物理の授業の準備を手伝いに行っていたくらいだ。何とか桔梗から先生に……。
「私は日直だったからお手伝いに呼ばれただけよ」
「そんなぁ」
そっぽを向きながらも桔梗は笑っている。
「一週間に数えるくらいしか会わない物理の先生よりも、クラスのみんなの方を気にした方がいいんじゃない?」
優しげに笑いながら、口は容赦ない。
わたしは思わず口を噤み、俯いた。
今日は変な日なんだ。朝から変な子に声をかけられて、変な予言されて、揚句授業では都市伝説も白雪姫の魔女もびっくりの鏡の怪。まだ一年は始まったばかりなのに、去年同じクラスで知っている人もいるとはいえ、これじゃあおかしな子のレッテルを貼られかねない。
「気にしなくていいわよ。わたしは何があっても樒ちゃんの味方だから」
「え……」
落ち込みスパイラルに入り込もうとしたわたしを、桔梗はあっさり慈愛深い微笑で掬い取った。
「ああっ、ずるいぞ、桔梗ばっかおいしいとこ持っていきやがって。一度落として拾い上げるって、どれだけ樒に恩売りたいんだよ」
「やぁね、葵ちゃん。最近とみに口が悪くなってない? 私がそんなあくどいこと考えると思って?」
「自分で考えてないとでも思ってるのか?」
「あ、あの……」
「買いかぶりすぎよ、葵ちゃん。私、そんな悪人じゃないわ。鬼だって逃げ出すくらい心清らかなのに」
「鬼が虞をなすほど腹黒いんだろ」
「付き合いが長くなるほど、私ったら葵ちゃんの信頼失ってくのね。悲しいわぁ」
「あ、あの!!」
桔梗と葵の舌戦に何とか割り込もうとしていたのは、わたしじゃない。
その人は、さっきからわたし達の背後をつけるように歩いてきていたのは気づいていたんだけど――
「安藤君、だったよね」
まさかわたしたちに話しかけてくるとは思わなかったから、わたしは気づかないふりをしていた。桔梗も葵もそれは同じだったらしく、意外そうに後ろを振り返った。
「守景さん、さっき鏡に何が映ってたんですか?」
安藤君は単刀直入にぎゅっと目を瞑って言い放った。
桔梗と葵はニヤニヤとわたしと安藤君の間で視線を行き来させている。
わたしは頭ひとつ分だけ背の高い安藤君を見上げた。
普段の席は離れているけど、さっきの物理の時は同じ班だった人だ。今年初めて同じクラスになったからよく分からないけど、あまり印象が濃くは残らない方なんじゃないだろうか。
「鏡に映ってたもの?」
もしかして、何か見られたんだろうか?
助け舟を出してくれないか桔梗と葵を見上げたけれど、二人とも興味深々で安藤君を見守っているだけだ。
「わたしが映ってただけだよ」
崩れそうになる作り笑いを何とか立て直しながら、わたしは安藤君に答えた。
「本当に? 本当に守景さんが映ってただけ?」
「他に何も映るわけないじゃん」
「そう……だけど……たとえばそれが勝手に喋りかけてきたりとか……」
言いにくそうに例をあげた安藤君を、思わずわたしは凝視した。
もしかして、安藤君も同じような体験をした、とか?
「ご、誤解しないでくれよ? おれ、そういうオカルティックな話が好きとかそういうわけじゃないから。ただ……」
「ただ?」
言い募っておきながら口ごもった安藤君に、わたしは答えを促す。
けれど、安藤君は俯いて拳を軽く握ると、「ごめん、忘れてくれ」と言い残してわたしたちを置いていってしまった。
「なんだ? あれ」
呆気にとられた顔で葵が呟く。
「何かしら、ねぇ」
桔梗にいたっては、さっさと忘れてしまいましょうと言わんばかりに安藤君の背中から視線をわたしに戻した。
「それで、樒ちゃん。ほんとのところは何が見えてたの?」
思わず桔梗を見上げてしまって、わたしの視線は完全に色深く底の見えない桔梗の瞳に捕らわれる。
もう物理の時間のことはこれでおしまいだと思ったのに。
わたしは、目の前によみがえった鏡に映った自分の顔を掻き消そうと必死に視線を左右上下と彷徨わせる。
「だから、わたしが映ってただけだってば」
これ以上心の中を見透かされないうちに、わたしは桔梗の視線を振り切って一歩先に歩きはじめた。
「それは本当に樒ちゃんだった?」
何気ない風を装って問いかけてきた桔梗の問いに、わたしの心臓はどきりと跳ねる。
「私たちに隠し事なんてしなくていいのよ? 樒ちゃんが嘘つくなんて思わないもの。私たちは樒ちゃんの言うことを信じるだけよ?」
わたしはくるりと振り返った。
「わたしが、映ってただけだよ」
それだけを告げて、わたしはまた二人に背を向けた。
信じてくれると言うのなら、突っ込まずに信じてくれればいいのに。
ちり、とささくれのような苛立ちが心の中に小さくめくれ上がっていた。名づけるならば、これが不信感というものなんだろうか。桔梗に対して? わたしが不信感を?
「友達だもん」
今日は、ちょっと神経が昂っているだけだ。過敏になっているだけ。新学期が始まったばかりで、まだ体が春休みから目覚めてないだけ。
わたしは嘘は言ってない。鏡に映ったあれは、確かにわたしの顔をしていた。その前に映った顔は別な少女のものだったけれど、時が経ってみれば、あれはただわたしの目がちょっと曇ったり霞んだりしていただけかもしれないとも思えてくる。
「わたしは、嘘なんかついてない」
一人ごちて一歩踏み入れた2‐A の教室は、六時間目の美術の準備で慌しくクラスメイト達がロッカーと机との間を歩き回っていた。こうしてみると、まだ知らない人のほうが多いクラスの様子は風景画も同じ。その中にかろうじて確保されているわたしの席 に、わたしは溜息とともに身体を沈めた。