聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 1 章  歪みゆく時

 ◇

 春の桜が花開く頃は、どうしてこう眠いんだろう。やっぱりあの植物達が一斉に芽吹く青く甘い香りが眠気を誘っているとしか思えない。
 入学式のあとのホームルームも終わり、教科書が配布され、購買で三年生や高等部の人たちに体格差で泣かされながらも昼食のパンを買い求め、一息つけるかと思いきや、午後は校舎案内。第一理科室と第二理科室、音楽室に美術室、生徒会室に校長室、体育館と武道場、校庭に面した保健室。保健室の白いシーツに包まれたベッドはこの上なく魅力的だったけど、三十四人が見ている前で潜り込む勇気もない。心の中で涙しながら別れを告げて戻ったクラスは、出たときと同じ様子で僕たちを迎え入れた。
「ねぇ、光。もう部活決めた? 僕、サッカー部にしようかなぁ。光も一緒に入ろうよ」
 廊下中に所狭しと張られた部活の勧誘の張り紙を見てすっかりその気になっているクリスの目は、キラキラと眩しすぎるくらいに輝いている。
「どうしてよりによってサッカー部なんだよ。僕はやだね。ああいう汗臭くなるスポーツは僕の趣味じゃない」
「えー、なんでだよ。せっかく中学生になったんだよ? クラブって言うより、部活って名前がついてるところの方がかっこよくない? 中学生っぽくない?」
 クールな見た目の癖にこういうところ、こいつはちっとも成長しない。
「それにさ、汗臭くなるのが嫌なら、剣道部入ってる桔梗さんはどうなんだよ。あれ、面とか試合のあと結構やばくなるらしいじゃん」
「桔梗だから大丈夫なんだよ、そういうのは」
 勢いづいて桔梗のことまで持ち出してきたクリスを冷たい目で睨んでやると、クリスは一瞬茫然として、すぐにかみ殺しながらも腹を抱えて笑い出した。
「光にとって桔梗さんってお姫様とかアイドルとかなんだね」
「はぁ? なんだよ、それ」
「桔梗さんに相手にされないわけだ。光は桔梗さんのこと、人間だと思ってないんだもんね」
 笑いながらクリスは口を滑らせる。さらに、口が滑ったことにも気づかず笑いつづける。
「誰が相手にされてないって?」
「光がだよ」
「僕だって、大人になれば四歳差くらい跳ね返せるよ」
 憮然として言った僕を、クリスは面白いものでも見るようにじっと見つめた。
「問題は年齢差じゃないって思ったんだけど、やっぱり光って意外と幼いんだね」
 悪びれずにクリスが言った言葉は、思いのほか胸の奥に突き刺さった。
 僕は口を引き結んだまま黒板のほうに向き直った。
 幼い? 僕が?
 そんなわけあるものか。麗の記憶とともに育ったこの僕が幼いだなんてそんなこと、あるものか。自分が経験してないことまで知っているんだぞ? このクラスの誰よりも、僕には知識がある。神の子として蓄積されたこの世の摂理についての知識が。僕は、幼くなんかない。もし僕が幼かったのなら、もっとうまく……もっとうまく甘えられたはずなんだ。ママとか、パパとか、桔梗とか。
 前世の記憶は執拗に僕の生活を邪魔してくる。気を抜いて木沢光をやっていると、紅茶を注いでくれるママを見ただけで愛優妃と重なってしまって、思わず「母上様」と呼びかけそうになるんだ。いや、一度六歳くらいに本当にそう呼んでしまって、ママにびっくりされたことがあったっけ。あの時は幼等部で流行っているんだって言ってごまかしたけど。ふとした瞬間に記憶がリンクしてしまうから、呼吸一つするのでも、空を見上げるのでも、僕は気を張りつめていなきゃならない。それでも今朝のように一人きりだとつい麗になってしまうことだってある。パパやママにうまく甘えられないのだって、どこかで他人だと思ってしまっているからなのだろう。他人じゃないのに。ちゃんと血が繋がっているのに。
 僕は、あの人たちを家族だと思いたがっている。
 血が繋がっていて、同じ家に暮らしていて(パパは海外赴任中だけど)、一緒に朝ごはんを食べて、夕飯を食べて、同じテレビを見て、同じお風呂に入ってお休みなさいを言って。どこからどう見たって、僕とママは家族だよ。毎晩『光、元気か?』って電話くれるパパだって、ちゃんと家族だよ。これ以上ないくらいに僕たちは家族なのに、どうしてだろう。僕には悲しいことに家族ごっこをやっているようにしか思えないんだ。
 ママのお腹にいる僕の弟か妹に対してだって、僕はちゃんとしたお兄ちゃんにはなれないかもしれない。そのうち、僕を除いたパパとママと弟か妹の三人だけがちゃんとした家族に見えてきて、僕は忘れられてしまうかもしれない。
 早く、家を出よう。
 ママのお腹に新しい命が宿った時からそればかりが頭の中でちらついている。そのたびに、僕は鏡に映った自分の姿に落胆する。どうして僕の身体はこんなに小さいんだろう、って。どうして僕は、まだ十二歳なんだろうって。僕はもう一人で十分生きていけるのに。大人たちと肩を並べて働くことだって、麗の知識さえあれば出来るのに、って。
 一人になれない自分が歯がゆかった。
 日本という国の社会制度が窮屈で仕方なかった。
「それなら、どうして日本ここに残ったの? 中等部になんかこないで、父親のいるアメリカにでも行けばよかったじゃないか」
 明らかに人の思考を辿ったとしか思えない問いが上からふわりと舞い降りてきた。
「エ……安藤さん……、僕、何か言ってた?」
 ゆっくりと顔を上げて、僕は夕焼け色の髪の少女を他人を見るように見つめた。
 エメラルドグリーンの瞳がすっと細められる。
「ううん、何も。ただ、なんかそう問いかけてほしそうだったから」
 謎だらけの少女も他人行儀にそう答える。
「ごめん、やっぱ今の嘘。聞こえたんだ、木沢君の声」
 破顔した少女はちょっと困ったように目を伏せる。
「そっちのほうが嘘っぽいよ」
 そういえば、朝も言っていたっけ。他人の心が読めるって。あながち、嘘じゃないのか。今朝だって当たっていたわけだし。
「そう? それより、今他のみんなも誘ってたんだけどさ、サーカス、来ない?」
 取り消そうかと口を開きかけた僕に、安藤さんは無邪気に笑いかけてきた。
 エルメノにしか見えない。見えないけど、エルメノがあんな嘘、つくはずがない。
『ぼく、前世で神様の子供だったんだ』
 エルメノが、そんなこと言うはずない。
 だって、エルメノは最後まで麗に成り代って神界で生きることを拒みつづけたんだから。それに、人の心が読めると言うなら、僕が全ての答えを知っているとわかっているのにわざわざそんな嘘をつく意味が分からない。
 安藤さんは僕たちの前世とは何も関係のない人。ただ、別の世界を妄想してしまっているんだ。
「ねぇ、普通なんてどこにあるの? 誰が基準? 君の常識を外れるものは普通じゃない人扱いになっちゃうの?」
 ようやく安堵できる答えを導き出したと言うのに、安藤さんは傷ついた表情で僕を見下ろしていた。
 やっぱり、聞こえている?
 問い直した瞬間、ぞっと身体中に寒気が走った。一日中、それこそトイレにこもっている時のことまで見透かされていそうで、僕は思わず安藤さんから視線をそらせた。
「それなら、言っていい? 家族ごっこが辛いなら、今晩にでも家を出ればいい。行き先がないなら僕が泊めてあげるよ。一週間くらい、なんとでもなるから。うち、母親毎晩遅いから。お兄ちゃんもぼくには無関心だから何にも言わないだろうし。それがいやなら、ぼくお小遣い結構あるからどこにでも泊まれるよ?」
「な、何言ってるんだよ……!」
 正直なところ、どうしてこんな無謀な話に心がぐらついたのか自分でもわからなかった。
「そうだよ、光に変なこと吹き込まないでよ!」
 僕を怒らせたことを内省し終わったらしいクリスが横から口を挟む。
 そのクリスを、安藤さんは一瞬ぞっとするような目で睨みつけた。睨まれてクリスが怯んだ隙に、安藤さんは僕の机に頬杖をついて間近から僕を覗き込んだ。
「一緒にいこうよ、光」
 その声は催眠でもかけるように僕の中に甘く溶け込んでいった。
 深く、安心を誘う声。全てがうまくいくと信じ込ませるような希望に満ちた声。
 たぶらかされたつもりはなかった。
 現に、僕はその時確かに拒んだんだ。
「何……言ってるのさ。勘違いしないでくれる? 僕はそんなに短絡的じゃないし、同じクラスとはいえ、今日会ったばかりの人とどこかに一緒に行くような人間でもない」
「でも、ぼくがエルメノだったら考えただろう?」
 どこまでも人の思考を読んだ台詞に、僕はかっとなって教室の外へと飛び出した。
「あ、光、待って! まだ終わりのホームルームやってないよ!」
 腕をひき掴んだクリスを振り払って、僕は廊下を突っ走った。
 何ガキくさいことしてるんだろうって、思わないでもなかったけど、もう一分一秒でもあの子と同じ空間にいたくなかった。これ以上一緒にいたら、僕がいなくなってしまう。僕を丸ごと麗にされてしまう。そんな気がして。
「木沢?」
 担任の浅木が横をすり抜けていった僕を見て慌てて振り返る。
「何だ、腹でも壊したのか? 大事にしろよー」
「ごめん、なさい」
 のほほんと見送ってる浅木を視界の端から追い出して、僕は昇降口へと向かった。青い空を透かした窓が焦る僕の無様な横顔を映している。
 帰るつもりだった? 鞄も持たず? 財布と携帯ならあるけどさ、ほんとに僕はうちに帰りたいの?
 立ち止まった。
 行く場所が、見つからない。
 どこなら僕は僕でいられる?
 嘘偽ることなく、僕は木沢光でいられる?
 そもそも、僕はなんなんだ? 結局、僕は誰なんだ? 麗じゃないのか? 麗じゃだめなのか? 木沢光は麗。それじゃ、だめなのか?
「お前、誰だよ……」
 昇降口。下駄箱の対面に張られた鏡には紺のブレザーに臙脂のネクタイを締めたまだ顔の輪郭にも体の線にもあどけなさの残る僕がいる。とても十九歳で成長を止めた麗にはかなわない。身長も、体つきも、顔も!
 なのに、目だけはいやにぎらついていた。
 己の正体を見極めようと、自分で自分を睨みつけていた。
 己を映す鏡に爪を立てる。叩き壊したくなるのを精一杯堪える。この鏡を叩き壊したところで、僕の姿にもひびが入るわけじゃない。僕の姿にひびが入ったところで、僕が木沢光でなくなるわけじゃない。麗の記憶を失えるわけじゃない。
 感情が昂るがままに学校の備品を壊して何になる。そんな悪目立ちするようなこと、してたまるか。
 だけど、どうすれば僕は救われる?
 いつになれば僕は救われる?
 いっそ、麗に会って文句でも言ってくれば僕はすっきりできる? 麗も僕が産まれても眠ったままでいてくれる?
 いっそ、あの男の記憶が僕の妄想の産物であると証明されてしまえばいいのに。何かの間違いで僕が作り出したもう一つの人格だと証明できてしまえばいいのに。
 過去の扉は、僕の手では開くことができない。
 いつだってそうだ。僕には必要ないものばかりが備えられていて、必要なものは何一つ与えられていない。過去を変えたいと思うのに、僕にはそんな力は授けられなかった。
「聖……お前がいれば……」
 呟いた僕は、思わず目を瞠って鏡の中の自分を見つめた。
 そうだ。
 聖に開かせればいい。
 持っている者は、持たないものを助けなければならない。それが、精霊王を使役する者の務め。己が力で救える者が目の前にいるのなら、救いなさいと、愛優妃も言っていた。
 麗のたった一人の妹、聖。
 病弱なその妹は、産み落とされてすぐに母親である愛優妃が闇に去り、次兄である龍の元で育てられた。幼い頃の発熱は、小さい子どもにはよくあること。それを差し引いても聖はよく体調を崩していたものだったけど、成人してしばらく経った頃、そう、もう神代も終焉を迎えようかという頃、聖の体調は呪いでもうけたかのように急激に悪くなっていった。外見は十六のままだというのに、内腑から血管から驚くほどに働きが鈍くなりはじめたのだ。長姉、海の治癒でさえ効果はなく、聖は次第に寝台から起き上がることも出来なくなっていった。
 そう。あれはもう麗の記憶も途切れようかという頃、麗は、北方将軍として闇獄界との境界線を守りに赴いた聖の主治医ジリアス・ルーリアンの代わりに、聖の延命治療を任された。
 正直、僕は聖があまり好きじゃなかった。好きじゃないなんてもんじゃない。あれは、生理的嫌悪という奴だ。
『麗兄様。麗兄様、私のこと嫌いでしょう?』
 仕方なく訪れた聖刻城で、聖は病床に横たわったまま苦笑と共に僕を自室に迎え入れた。その顔はすでに死神にとりつかれたかのように青白く、目の周りも落ち窪みはじめていた。
 あの様子じゃ、ジリアスが僕に伝え残していったよりも相当悪化している。そんなことは誰の目にも分かるけど、問題は病状の悪化の原因が何なのかがいまだに判然としないことだった。
『無理しなくていいのよ。どうせ、どうしたって私の身体は治らないわ。私なんかの命を延ばすくらいなら、もっと他の、本当に生きたいと思っている人たちの手当てをしてあげて』
 よく覚えている。あの人懐こい聖が、僕にだけはどこか距離をとって接そうとしていた。血が繋がっていのかさえ疑わしいほどに、聖と麗との接点はこの最期の時に限られる。
 さっそく薬湯を作りはじめた僕など気にも留めずに、聖は窓の外を飛ぶ鳥の影を追いかけながら呟いた。
 生薬の根をすりつぶして作った粉末に湯を混ぜた途端、何度かいでも鼻を突き刺す独特の香りが部屋中に立ちのぼった。
 軽く顔をしかめて、僕はそれを聖の前に突き出す。
『飲みなよ』
 聖は一度は受け取ろうとしたくせに、湯気が顔にかかると顔をしかめて手を引っ込めた。
『いやよ。私、この薬嫌いなの』
『好きな薬だけで生きられると思ってるのかよ』
『だから私は、別にもう生きてなんていたくないのよ。いいのよ。ジリアスだって匙を投げたんですもの。私のことなんか放っておいてちょうだい』
 いいたいことだけ言ってしまうと、あとはぎゅっと口を引き結んで、聖は再び窓の外に視線を移した。
 僕はそんな聖の顔の前に、薬湯を突き出してやる。
『やだね。そんなこと出来ないよ』
『どうして?』
 苛立たしげに聖は僕を振り返る。
『どうして? 僕だってね、死にたいと思ってる奴に関わってられるほど暇じゃないんだよ。でも、これはジリアスの頼みだからね』
 どうしてこうも患者ってのは卑屈なことばかり言うんだろう。僕だって好きで聖の面倒を見に来たわけじゃない。聖だって僕になんか面倒見てほしくなんかないだろう。それでもこうやって北の城を開けてのこのここっちまでやって来たのは、ひとえにジリアスが前線に旅立つ日の前日まで聖の体のことを気にしていたから。あの北の戦況じゃ、僕だって遅かれ早かれ戻らなきゃならなくなるだろう。むしろ、今城をあけてはいけないような気さえしているんだ。それでも嫌な予感を押し切ってここまで来てやったんじゃないか。
 言っても、きっと聖は理解しないに違いない。
 ぎり、と聖を睨んだところで、聖はどれだけ僕の気持ちを理解しているものやら。期待するだけ無駄というものだろうが。
『教えてやろうか、聖。僕には嫌いなタイプが二人いる。一人は死にたい死にたい言っててなかなか死なない、自分に嘘つきの奴』
『私のこと?』
『もう一人は……』
 おどけたように問いかける聖を無視して僕が続けようとした時、聖の病室を訪ねるノックが響いた。
『どなた?』
『天龍法王からお見舞いの品が届いております』
 ドア越しに聞こえるその声に、ぱっと聖の表情は輝いた。かけられた毛布をはね飛ばしてドアに駆け寄ろうとする聖の背中に、僕は溜息をつく。
『もう一人は、治る見込みのない恋わずらいに冒されてる奴だよ』
 哀れとしか形容しようのないその姿は、過去の自分の姿と重なる。見込みのない恋に胸を焦がし、どんなに些細なことにでも希望を見出そうと必死になってしがみついていた過去の自分に。
 痛すぎるんだよ。あいつの次兄を想う姿は。
 何があったって、僕たち兄弟は将来の約束なんか交わせない。唯一永遠を生きる者同士であるというのに、僕たちは一人きりで生きていくしかないんだ。時に欺きあいながら、ね。
 聖が次兄の龍を好きなのは幼い頃から有名だ。その想いは成神してなおも募り募っている。それに反比例するように、龍は聖を避けはじめた。今じゃ執務と戦役に追われていることを理由に病床に見舞いに来ることもない。遠ざけるなら遠ざけるで、見舞いの品など贈らなければいいのに、こうやって時たま気まぐれに聖の心をかき乱すことをする。
 ドアを開けようとしたものの、立っていられなくなった聖はその場にゆっくりと崩れた。
『馬鹿じゃない? あんなこと言ってて、敵だったらどうするつもりだよ。ドア開けた途端に殺されるぞ』
 鉱の人間の妻が殺されたように。
『いいから、早く開けて』
『僕は巻き添いなんて食いたくないんだよ。開けたければ自分で開ければ?』
 聖は僕の言葉など聞こえていないかのように、青ざめながらも期待に満ちた顔でドアノブを回した。
 ドア向こうにいたのは、何のことはない。聖刻城に仕える下働きの女。そばかすの散らばった頬は、立っていた僕を見て一瞬赤らんだが、聖から胸に抱えていた小箱を奪い取られたことで我に返ったようだった。
『先方、翡瑞様がいらっしゃりまして、それをお届けくださいました』
『何か、何か龍兄から伝言は預かっていなかった?』
 何を期待しているんだろう。期待したって何もないって、分かってるんだろう?
『あ……いいえ、私はただこれを聖様に渡してくれと頼まれただけですので。――失礼いたします』
 静かに閉じられたドアの前で、聖の表情は灯が消えたように虚ろになった。
 無様だね。
 いやだ、いやだ。そんな姿を、いくら兄弟だからって他人の前に晒すなよ。
『なんだろう、今日は……』
 メッセージもなく贈りつけられてくる次兄からの贈り物が、枕元に並べられつづける日々。
『見て、麗兄様! かわいらしいオルゴールよ』
 出てきたのは陶器で出来たオルゴール。白馬と馬車とが上下しながら回り、美しい北国のメロディを奏でる。聖はそれを愛しげに胸に押し抱いた。
 馬鹿だよ、お前は。
 もう、いい加減にしてくれ。
 そう言いたいのを、何度麗は我慢してきたことだろう。いや、もう何度かは言った後だったか。それでも、聖の心は揺らがない。ただ一人、次兄だけを追って治らぬ病の迷宮に入り込んでしまっていた。
「お前……何やってるんだ?」
 さっきまで静まり返っていたはずの廊下が、教室のあるとうの方から俄かに騒がしくなっていた。たくさんの足音がこちらに向かって様々なメロディを刻んでる。
「何って、……別になんでもないよ」
 話しかけてきたのは全く面識のない奴。やけに図体はでかいけど――ああ、内履きのラインが赤だから三年生か。
「さっきから一分以上ずっと握りこぶしで鏡睨んでて、何にもないわけないんじゃないのか?」
 はたと気づいて、僕は硬くなっていた身体をほぐすように鏡に背を預けた。
「一分間もずっと声もかけずに見ていたの?」
「まあ」
「……なんて暇な」
「っんだよ。こっちは心配してたってのに」
「なら、早く声かけてくれればいいのに」
 上級生といえば上級生なんだろうけど、こんな人、中等部にいただろうか。初等部から上がる人が多いから、大概の人は知っているつもりだけどこのお節介は見たことがない。
 ネームプレートには守景洋海の文字。
 うん、やっぱり知らない。
 こいつは知らないけど、守景ってもしかして桔梗の友達のあの守景樒の弟か何かだろうか?
「いや、何か始まるのかとちょっと期待しちゃってたから」
 悪びれなくあっさりと言ってのけた守景洋海は、軽く手を挙げて僕に背を向けて下駄箱の方へ行こうとした。
「ちょっと待って!」
「あ? なんだよ」
「もしかして樒お姉ちゃんの……弟さん?」
 もしかしてと言いつつ、僕は確信を持って彼に尋ねた。
「そう、だけど――なんで姉の名前知ってるの?」
 不意を衝かれたような表情に、僕は心の中でしたりと笑んだ。
「僕、桔梗の隣に住んでてさ、樒お姉ちゃんにも何回か会ったことがあるんだ。へぇ、奇遇な。ねぇ、よかったら僕も一緒に帰っていい? 一度お話してみたいと思ってたんだ」
 胸の奥に黒いものが渦巻きはじめる。これが沸きあがってくると、僕はいくらでも悪いことが出来る。良心も見得も何もかも放り出して、自分の欲望を叶えるためだけに突っ走ることが出来る。
 不審げに僕を見ていた樒おねえちゃんの弟は、すぐに軽く首を振った。
「だめだめ。俺、これから部活あんだよ。真っ直ぐ帰るわけじゃないの。部室いくとこなの。誰かと話しながら帰りたきゃ、桔梗さん終わるの待ってれば?」
 何かを察したのか、樒お姉ちゃんの弟はさっさと僕に背を向けて外に行こうとする。
 逃がすか。
「ねぇ、一緒に帰ろうってば」
 僕は、そう呟くと同時に彼の足元を見つめて小さく付け足した。
『集え 熱奪う氷の精よ』
「〈氷霜〉」
 呪文は不完全。だけど、樒お姉ちゃんの弟の足を止めさせるには、ちょっとした霜程度で事足りた。
 下に落とした外履きに足を差し入れようとしていた樒お姉ちゃんの弟は、霜に持ち上げられた革靴にぎょっとしたように肩をそびやかす。
「お前……?」
 呆れた顔に、僕はしらっと微笑んで答える。
「待ってって言ったじゃん」
 樒お姉ちゃんの弟は訝しげに僕を頭の天辺から爪先まで観察し、はっとしたように指差した。
「分かった! お前、覚えたてのマジック見せたくて仕方ないんだな!!」
「な……はぁっ? 違うって……!」
 どういうボケだよ、それ。そんなわけないじゃん。何だよ、覚えたてのマジックって。そもそも、こんなマジックがあるか。
「なんだ、ちがうの。じゃ、そういうことで」
 飄々と言うと、樒お姉ちゃんの弟は霜を踏みしめて外へ飛び出した。
 時の扉を開かせたい。過去への扉が開いたら、麗に直接会って文句を言って、未来を教えて、こうならないように変えてもらうんだ。そのためには、聖に記憶を取り戻してもらわなきゃ。
 弟の命が危険に晒されたら、頑なに眠ってる記憶も戻るんじゃない?
 だって、そうでしょ。何も思い出す気配がないのなんて、樒お姉ちゃんだけなんだもん。それ以外はみんな、少なくとも違和感くらいは覚えているはずだよ。今の自分に。
「〈氷壁〉」
 凍えた風が昇降口から吹き込み、樒お姉ちゃんの弟の前に白い壁となって聳え立った。駆け出していた樒お姉ちゃんの弟は見事にその壁に顔からつっこむ。
「あのさ、マジックなら他の奴に見せてやれよ。俺、もう忙しいから」
 鼻の頭を赤くし、ほとほと嫌気の差した顔で樒お姉ちゃんの弟は振り返った。
「他の奴に見せても意味がないんだよ」
 僕は下駄箱から自分の靴を取り出し、息を詰めてじっと様子を窺っている樒お姉ちゃんの弟の前で履き替えた。
「意味わかんねぇ。俺のことなんかさっきまで知らなかったくせに。姉ちゃんに見せたきゃ桔梗さんも誘って見せてやればいいじゃないか」
「それじゃ意味ないって言ってるだろ。本人に直接見せても、おそらく何も望めない」
「大丈夫だって。今朝はイグレシアンサーカスの話には気乗りしてなかったみたいだけど、そもそもこういう奇術とか大好きだから。機嫌よければ単純に喜んでくれるって」
「喜ばせるために見せたいんじゃないんだよ」
 襟ぐりに掴みかかったものの、今の僕じゃどう足掻いても背丈が足りない。こいつが腕を一振りすれば、僕は簡単に弾き飛ばされる。
 馬鹿げてるって分かってる。
 たとえこいつを人質に出来たからって、どこで待つ?
 樒お姉ちゃんを呼び出せたからって、記憶が――力が戻る確証なんてどこにある?
 短絡的だ。あまりにも、無意味だ。
 こんなことしたって、僕には何も残らない。罪だけが僕に重なる。
「やめよ」
 頭の中だけじゃ止められない。ちゃんと口に出して音にしなきゃ、こうなった自分は止められない。
 力を抜くんだ。深呼吸して、手から力を抜いて、ごめんなさいと謝ろう。桔梗にばれて嫌われるかもしれないけど、嫌われるかも……知れないけれど……。
「あら、光くん、何やってるの? 今帰り?」
「桔梗……何で……?」
 僕は掴んだ手を離せないまま声のしたほうを振り向いた。
「何でって、今美術で写生やっていたの。桜がきれいだから、つい中等部こっちまで来ちゃったのよ」
 桔梗はにこにこと僕を見つめていたが、すぐに樒お姉ちゃんの弟とその背後に聳えるものに気がついたようだった。
 僕は、頭の中が真っ白になる。
 嫌だ。桔梗に嫌われるのは、嫌だ。
 嫌なら早くこの手を離してしまえばいいのに、震えるばかりで思うままにならない。
「桔梗さん、お久しぶりっす」
 明朗な声が頭上を飛びこしていった。同時に、やんわりと僕の手を下ろさせる。
「写生ですか? いいですね。春の日差しを受けながら桜の下で一眠り」
「やぁね。一眠りはだめよ。授業中だもの。あ、樒ちゃーん、こっちこっち」
 相変わらずどんくさい走り方で画板を持った樒お姉ちゃんが走ってくる。
「今のうちに解け、あれ」
 春の日差しにすっかり飽和状態になっていた僕の耳に、樒お姉ちゃんの弟は低く囁いた。
「あ、ああ……」
 今更解いたってもう桔梗にはばれている。
 帰ってから怒られるだろうか。それとも、もう二度と口を利いてくれないかもしれない。
『ね、光くん。この力は私と光くんだけの秘密にしましょう? 前世の記憶のことも』
 何も知らずにに生きてこられたら良かったのに。
 生まれ変わったからには小さいときくらいそうでありたかった。何も知らずに綺麗なものだけを見て、大人への道を歩んでみたかった。
 この記憶を手放す機会はなかったのかといわれれば、もしかしたらあったのかもしれない。だけど、そのときにはもう桔梗に出会ってしまっていたんだ。
 手放したら、彼女が二度と話してくれなくなるような気がして、僕は繋ぎとめた。
 彼女の関心を。僕に。
 どれだけ無駄なことだったのか、分かってきたのはごく最近。むしろ何も知らない振りをしていた方が、彼女はもっと優しかったかもしれない。
 約束を破って、桔梗以外の人間の前で僕は力を使ってしまった。
 どうして、こんなことで聖の力を自分のものにできると思ったんだろう。あのどんくさい走り方をしているのを見たって分かるのに。
 聖は目覚める気なんかないって。
 でも、それじゃあ僕はどうしたらいい?
 今までどおり知ってること全部隠して、馬鹿みたいにへらへら笑いながら人の間を渡り歩いて……僕は桔梗ほど大人でもなければ、我慢強くもないんだ。
 エルメノさえ現れなければ。あいつが僕の心を見透かしたりなんかしなければ、まだ僕だって逃げようがあったのに。
「おい、早く解けよ。はじめっからマジックネタばれしてちゃ面白くないだろ」
「……庇うなよ」
「は?」
「僕のことなんか庇うな! おかしいって言えばいいだろ? 言えよ、変だって! おかしいって!!」
 何で、僕こんなこと言い出してるの?
 樒お姉ちゃんの弟の言うとおりじゃん。さっさとこの氷の壁の魔法解いちゃわないと、樒お姉ちゃんにも怪しまれる。昇降口から出てこようとしてる奴らにも、教室や職員室の窓からも、見られているかもしれないのに。
「構わないでくれ。頼むから、見捨ててくれ……」
 ふらふらとよろめいた先、手をついた氷の壁は冷たい。この春の日和に汗すらかかず、白い冷気を吐き出しながら僕の手を吸いつける。
「え?」
 手がくっついた。
 そう気づいた瞬間、氷壁を見つめた僕の顔は邪悪に微笑む麗の顔と重なって見えた。
 そのまま僕の手は肘まで飲み込まれる。一息に。
「なっ、おまっ、マジックにもほどがあるぞっ」
 樒お姉ちゃんの弟が飲み込まれていないほうの僕の手を掴む。
 だけど、氷が僕を飲み込む力は抗いがたいほどに強く、僕の身体はすでに半分が氷の中に消えていた。
 不思議と冷たさは感じない。かわりに、真冬に戻ったかのように厳しい寒さが肌を刺す。
 おかしい。
 僕の造った氷壁だぞ? 精霊たちが反抗した? いや、それなら身体中が冷たくなっていくはずだ。氷の中に閉じ込められているというのなら。
 これは違う。
 違う世界に攫われる感覚。
「離して! お前まで連れて行かれる!」
「離せるかっ、後輩が危ないことに巻き込まれようとしてるってのに」
 必死に僕を引き戻そうとする樒お姉ちゃんの弟は、身体を支えようと氷壁に片手をついた。氷壁はその手さえもあっという間にのみこんでいく。
「光くん!? 洋海君?!」
 桔梗が悲鳴を上げる。
 樒お姉ちゃんが、呆気にとられて弟の背中を見つめている。
 僕は、全身から力を抜いた。
 何、やってるんだろう、僕――。











←第1章(4)  聖封伝  管理人室  第1章(6)→