聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 1 章 歪みゆく時○ 3 ○
朝起きて、髪をとかすために向かい合った鏡の中の自分が、今日はなんだか特別に見えた。
睡眠時間たっぷりでお肌がつやつやしているわけじゃない。気になるところににきびが出来ているわけでもない。もちろん、顔かたちが変わったわけでもない。
目の前にいるのは守景樒、十六歳。
三月にようやく十六になったばかりだけれど、昨日から高校二年生に進級した。
昨日の今頃はクラス替えで誰と一緒になるかどきどきしていたけれど、そんな小さな恐れや期待は昨日だけのもの。桔梗や葵と同じクラスだって分かっている今朝は、鏡に映る自分が特別に思える理由は特に思い浮かばない。
そう。
これは誰か別の人を見ているような感覚。
映っているのは確かにわたしなのに、もう一人、誰かが重なって見えているかのような錯覚。それは、わたしの目に見えそうで見えてはこない。蜃気楼のような淡く透明な影をまとって巧妙に身を隠している。そのくせ見つけてほしいとわたしとともに映りこんでいる。
心霊写真?
一瞬ぞっとしないものに連想が飛んで、わたしは慌てて首を振った。
「朝っぱらから何考えてるんだろ、わたし」
鏡から目をそらし、ブラシを置いて制服に袖を通すために鏡に背を向ける。
魔の宿った鏡は人を引き込むとか言ってたのはどこの誰だっけ。
思い出せない。
とりあえず、早く家を出なくっちゃ。
「姉ちゃーん! 遅刻すんぞーっ」
「今行くー」
階下から階段を駆け上がり、ドアすらもぶち破る大声を発したのは、昨日からわたしと同じ岩城学園の生徒になった弟の洋海 。わたしとは違って、中等部三年からの岩城学園転入になる。なんでも、高等部に憧れのサッカー選手がいて、来年同じチームでプレーできることを期待してるんだとか何とか。運動神経しか取り柄がなかったはずなのに、気がついたら岩城学園中等部編入学の合格通知を手にしていたんだから、わが弟ながら侮れない。あの要領のよさは本当に兄弟かと疑いたくなる。
「姉ちゃん、俺先行くからなー」
あきらめたような声がして、階下で玄関が閉まる音がした。
「……小学生じゃないんだもん。一緒になんか行けないよ……」
姉の心弟知らずとでもいえばいいんだろうか。
あんな大きな身体で横歩かれたら、どう見たって弟だとは思ってくれないよ。
制服に袖を通し終えて、鞄の中身を確認し、部屋を出る前にもう一度鏡を確認する。
何も、ない。
ちゃんとわたしが映っていた。
制服のモス・グリーンのネクタイも歪んでいない。寝癖もちゃんとまっすぐに伸ばしてあるし、口元を引き上げればちゃんと笑顔になる。
わたしだ。紛れもなく、守景樒一人。
背後には部屋の白い壁とくまのぬいぐるみが映り、わたしと鏡の間には遮るものは何もない。鏡は左右対称に、だけど嘘偽りなく忠実にわたしの背後の情景だけを映し出している。
「なら、さっきのはなんだったんだろう」
鏡に触れようと指先を伸ばす。
引き込まれないように、そっと用心深く近づけていく。
「こらっ、樒っ! いつまで寝てんのっ」
「ひゃっ」
がちゃん。
ノックなく突然ドアを開け放ち怒鳴り込んだお母さんに驚いて、わたしはもう少しで触れそうになっていた指はそのままに肩だけそびやかして固まった。
「お、起きてまーす」
油の切れたブリキのきこりのようにぎこちなく首をめぐらせながら、間抜けな返事だけをお母さんに返す。
お母さんは完全に呆れ果てた顔をしてわたしを見ていた。
「洋海、先に行っちゃったわよ。お姉ちゃんなんだから、慣れるまではちゃんと学校までの道案内してあげないとだめじゃない」
お姉ちゃんだから、ね……。
「昨日したもん」
昨日一緒に学校に行ったけど、洋海は意気揚々とわたしの先に立って歩いてたくらいだ。そもそも受験で一度は辿りついてるし、駅で電車に乗り間違えなければ何も道に迷う要素なんかない。
頬を膨らませてそっぽを向いたわたしに、お母さんはため息も漏らさずドアを閉めた。
せめて、弁解の余地くらい与えてくれてもよさそうなものなのに、登校前の母というのは子供以上に学校に遅刻させてはなるものかとぴりぴりしているものなのかもしれない。
だけど、そんな朝のはじまりは特に珍しいことじゃない。
鏡の中の自分に違和感を覚えたことを除いては。
カリカリのトーストを牛乳で飲み込んで家を飛び出すと、春らしい透き通った温もりを持つ日差しが降り注いでいた。眩しさに目を眇めたのも一瞬。ここから猛ダッシュして、五百メートル先の駅ホームまで七分以内に辿りつかなきゃならない。鞄が重たいとか、新調したての靴が合わないとか言い訳してる暇はない。五十メートル十二秒という足の遅さと春休み中のたるんだ生活による体力の低下という基本的なハンデを訴えたところで、担任の片山先生が遅刻をなしにしてくれる保証はない。何より、遅刻するとクラスの人たちの注目を浴びちゃうじゃない。そんなのは絶対に――
「いやぁぁぁぁぁ」
住宅街の坂を一気に駆け下りる。この坂がこんなに急でなければ自転車でもいいんだけど、帰りに押して登らなきゃならないことを考えると、あまり使う気にはなれない。それに、この余裕ない状況で自転車でここを駆け下りたとしても、下で止まれるかどうか自信がないんだよね。
住宅街の坂の次は駅のエスカレーターを駆け上がる。
あちこちの制服に身を包んだ学生や仕事に行くおじさんやお姉さん達でごった返す構内は、外の光とは打って変わってごたごたとしていてなにやら暗い靄さえ漂っているような気がする。
四月だもん。いろんな思いの人がいるよね。
環境が変われば慣れるまでは必死だ。去年のわたしもそうだったもん。
でも、今年はクラスに知っている面子が多かったせいか、というか桔梗と葵とまた同じクラスだったっていうのが大きいんだけど、先行きを心配する要素は今のところ特にない。
むしろ、クラスに、その……ちょっと気になる人がいて、心配といえばわたしがその人の前で挙動不審になっていないかどうかということがあるといえばあるんだけれど……。
「六分三十秒。ぎりぎりだったな、姉ちゃん」
肩で息をつきながらもちょっと妄想しちゃっていたわたしは、でこぼこした黄色い線のぎりぎり内側で軽く背中を叩かれて、危うく外側に飛び出しそうになった。
「なんだ、洋海か。先に行ったんじゃなかったの?」
「先には出たけどさ、ぎりぎりまで姉ちゃん来るの待とうと思って」
「なんで」
「なんでって、僕たちこの世で二人きりの姉弟だよ。大切なお姉様が不審者にさらわれたらって思うともう、僕、心配で心配で」
「僕って気持ち悪いからやめて。キャラじゃないでしょ、キャラじゃ」
苛立つと呼吸がなかなか整わない。
大体、去年の半ばまでは普通に姉弟げんかしてたんだよ? シュークリーム争奪戦とか、アイス争奪戦とか、とにかく我と我がぶつかるような激しい戦いを繰り広げていたっていうのに、去年の暮れくらいから洋海は急に悟りを開いたように妙な優しさを見せるようになっちゃってさ。そりゃ、お菓子の取り合いはまだするけど、結局は半分こに落ち着くようになったし、お風呂の順番とかはあっさり譲られるようになったし。悟りを開いたっていうか、シスコンになったような気がしないでもないんだよね。お母さんは彼女でも出来て女の子の気持ちを考えるようになったんじゃない? って言うけど、このサッカー馬鹿にグラウンド外のものが見えているとは思えないし。
「なんだよー。心配して待っててやったってのに」
「わたしの方が年上でしょ!」
通りすがりの人が笑いを噛みしめて通り過ぎていく。
違うわよ。違うんだってば。
「洋海、あんまり近づかないでよね」
きつめの言葉に洋海は軽く顔をしかめる。
レールからは電車が近づいてる音が響いてくる。
「姉ちゃん、俺、昨日転校したばかりで今すっごくデリケートなんだよ? その言い草はあんまりだろ」
「あんたのことだから、どうせもうとうにクラスでも馴染んでんじゃない? 去年から一緒だったみたーい、とか言われて」
「お、なんで分かるの? 俺、姉ちゃんに昨日その話しもした? もしかして姉ちゃん、透視能力に目覚めた?」
わたしにはしてないけど、リビングでお母さんに話してるのがお風呂上りに聞こえたのよ。
「馬鹿なこと言ってないで。ほら、電車来たよ」
ぎゅうぎゅうになっている電車の扉が開いて雪崩のように人が流れ出てくる。それでも並んでいる人の数には到底及ばない。わたしと洋海は追い立てられるようにして満員電車の中に押し込まれた。
「姉ちゃん、毎日こんな電車に乗って通ってたの?」
「そうだけど?」
息を吐くのもやっとの狭さの中で、わたしはそっけなく答える。
酸素を求めて上を見上げると、吊り下げられた車両広告が目に入った。
「ああ、イグレシアン・サーカス。今朝のおはようでも特集されてたよね。って、姉ちゃん寝ぼってみてないか。こう、きらびやかで華やかでさ、幻影的なのなんのって。チケット一枚で異世界を体験できるってね」
「サーカスって、テントの中で空中ブランコしたり、一輪車に乗った女の子達が走り回ったり、ライオンが火の輪をくぐったり……だっけ」
一度だけ連れて行ってもらったことがある。六歳かそれくらいのとき。テントの天辺の暗さばかり印象に残ってて、実はあまりよく内容は覚えていない。植えつけられたイメージは自分が直接見たものじゃなく、テレビや雑誌から取り入れられたものだ。
「そうそう。でも、ここのサーカスは大掛かりなマジックもやるんだ。脱出マジックとか、剣で串刺しとか、あとは、鏡を使ったミラージュ。これがすごくてさ、俺より小さな子がライオン従えて鏡の中を行ったり来たりするんだよ」
「ふうん、ごちゃ混ぜなんだね」
空調に揺られている広告には、青いライトの中、赤みがかったオレンジ色の髪のまだ幼い異国の少女がライオンを従えて、屏風のように広げられた鏡の前に立っている様子が写っていた。
こんな小さな子が、大変だなぁ。
完璧なまでに作りこまれた笑顔に思わず溜息が出るのは、わたしがバイトすらしたことがないからなのか。ああいうメディアに載る世界はわたしにとってはほんとに存在するのかどうかさえ怪しい異世界に思えてしまう。
「なんだよ。行ってみたーい、とか思わないの?」
薄い反応しか返さなかったわたしを、洋海は不満げに覗き見た。
また身長、伸びたんじゃないだろうか。追い越されたのは中学校三年の時だったから今更悔しくはないけれど、あまり急いで成長するとこの先伸びなくなるんじゃないかって妙な心配をしてしまう。それでも、すでに百七十三はあるからいいのかもしれないけれど。
「ニュースで取り上げられてるくらいだもん。もうチケット完売してるんでしょ?」
「それがさ、うちのクラスにサーカスの関係者がいてさ、俺、昨日チケットもらっちゃったんだよね。」
どうだ、羨ましかろうと胸を張る弟は、身体は大きくてもやっぱりまだ中学生だ。
「明日なんだけどさ、姉ちゃんも行く? 行くなら俺、チケットもらってくるけど」
わたしはゆっくりと首を振った。
「同級生と行くんでしょ? わたしはいいよ」
「そんな人見知りしないでさ。きっと楽しいよ」
「いいってば」
人見知りなのは生まれつき。ストレスたまるようなことは出来るだけしたくない。洋海も洋海よ。中学三年の男の子が姉同伴でサーカス見に行ってどうするのよ。クラスメイトに妙なレッテル貼られたらどうするんだか。
洋海はきっとそんなことは考えてない。洋海は「こういう人間だから」って型にはめられたことがないのだろう。もしくは、型にはまらない性格をしているから、型にはめようがないんだ。洋海にとっては、未来は必ずあるもので、必ず思い描いたものを手に出来る時なのだ。今を迷うことはない。
なんて大きな力なんだろう。
どうして弟に嫉妬してしまうのか分からないけれど、洋海が中等部に転入が決まった時から、わたしはずっと胸の奥で何か燻るものを感じていた。
降車駅は幼等部から大学まである学園の最寄り駅だけあって、制服を着た人々で家近くの駅よりもごった返していた。年齢も身長もみんなばらばら。すっかり同じ人なんてありえない。いるわけがない。たとえ世界に自分とそっくりな人が三人いると言われても、こんな身近で出会えるわけはない。
会いたいとも、あまり思わないけれど。
改札を抜けた先にあるカフェの窓ガラスに通りがかる自分の姿が映っていた。
鏡は苦手じゃない。四六時中眺めていても飽きないほど好きって意味じゃなくて、避けたくなるようなことはないという意味。低い鼻と、ちょっと大きい方かなって思う二重の目。眉の濃さと口の形も、こんなものだろう。
不思議なもので、ショーウィンドウに映る自分を思わず見てしまうとき、いつも鏡の中の自分と目が合う。それはきっと、こういう場所だからこそ自分の関心が身体全体よりも顔に向いてしまうからなのだろう。自分は今どんな表情をしているんだろうとか、周りの人と比べて浮いていないだろうかとか、ついいつも確認せずにはいられない。
違う、か。
そんな劣等感から窓を振り向いてしまうんじゃない。
この人ごみに埋もれてしまわないために自分のいいところ、抜きん出たところを探したくてつい見てしまうんだ。
いやな子。
世界に同じ人がいても会いたくないのは、その人がわたしよりすごい人だったら嫌だから。同じ顔かたちしているのに能力で差をつけられたら、何もないわたしの立つ瀬はない。わたしなんかいらない人間になってしまう。
きっと洋海への嫉妬も同じだ。
そりゃ、顔かたちとかぜんぜん違うし、体つきも違うけれど、洋海はわたしが奮起してから半年以上努力して得たものを、さしてそんな素振りもないままに勝ち取ってきてしまった。
同じ姉弟なのに。
わたしの方が、お姉ちゃんなのに。
「予言、してあげようか」
不意に、わたしの前にはひとりの少女がいた。
よく晴れた日の夕焼けをそのまま流し込んだような髪の色と、エメラルドを思わせる緑色の瞳。
どこかで見たことが、ある。
「予言?」
こういう手合いには構っちゃいけないのに、思わずわたしは言葉を返してしまっていた。
「そう、予言。知りたくない? 自分の未来」
今までうるさいほどだった雑踏の音が急に遠ざかり、凛とした少女の声だけがはっきりと聞こえてくる。まるで二人きりで教室にでも閉じ込められてしまったかのように。
「結構……です」
こんな場面はとかく逃げにくい。
でも、頷いたら後でどれだけ高額な請求されるか分からない。
ああ、洋海はどこに行ってしまったんだろう。こういうときに側にいてくれたら心強いのに。
少女の脇をすり抜けていく自分をイメージする。
イメージどおりに動ければ、何も問題はない。
一歩、踏み出せればいい。一度捉えたら離さない強い力を持つエメラルドグリーンの瞳から目をそらせて、何も言わずに一歩踏み出せれば。
悪いことするわけじゃないんだもん。無視するのは可哀相かもしれないけど、学校が始まるまでもういくらもないし、こんな怪しい言動に引っかかっている場合じゃない。
「そんなこと言わないでさ」
一歩踏み出そうとした方へ、先に少女が踏み出してきた。
わたしはまた少女を見てしまい、視線を絡めとられる。エメラルドグリーンの瞳に吸いつかれて、呼吸ごと動きが止まる。
不思議な子。
こんなにきれいな色の瞳をしてるのに、見つめれば見つめるほど混沌とした色に見えてくる。空も大地も引っ掻き回したようなそこにあるのは、悪意?
「君は二人いる。いま、君のふりをしている君と、眠り続ける本当の君」
少女が口を開いた瞬間、聞かないようにとわたしは目を閉じて顔を背けた。けれど背けた耳から少女の声は這うように脳へと侵入し、今朝、鏡に映った別の人間とも思える自分の顔を眼裏に映し出していた。
「や……」
映った映像を振り払おうと目を開ける。じっとりとしたものを背中に感じて一つ肩を震わせる。
「目覚めるよ。どんなに押し殺したって、彼女は目覚める。だって、彼女はまだ死んでいないから」
魚眼レンズを覗き込むように少女の顔が近づいてきて、わたしの耳にささやいた。
ぞわっと身体中の皮膚という皮膚が粟立ったのは、わたしが何かを感じたからに違いない。この少女にか、あるいは、少女の言う彼女にか。
何に恐怖を覚えたのかなど、わたしには分からなかった。
ただ、怖い。
このまま少女の言葉を耳に入れていては、わたし自身がどこか遠くに閉じ込められてしまいそうな気がする。
「いた! 姉ちゃん!」
息することも忘れて少女と見つめ合っていたこの空間に、ひびを入れるように洋海の声が響いた。はっと行きかう人々の足音や息遣い、携帯で話す女子高生の甲高い声やなんかが戻ってきて、わたしを現実の世界に閉じ込めなおす。
それでもエメラルドグリーンの瞳の少女はまだ目の前にいた。
「君は知っている。本当はもう一人の自分を知っている。知っていて知らない振りするのは残酷だよ? まだ生きているのに」
洋海の足音がやけに大きな音を立てて近づいてくる。
「明日、君は眩しい異世界にいるだろう。そこでは揺らめく炎が映る鏡が君を手招いている。君は、もう一人の君と出会うよ。その鏡は真実を映す鏡。鏡の中の君はいっさい口は開かないだろう。ただ、悲しげに君を見つめるだけだ。ぼくには見えるよ。君が息をのんでくいいるように自分を見つめている姿が。懸命に、どうして自分がそんな顔をしているのか考えている姿が。そして、君は会いに来る。ぼくに答えを聞くために」
「姉ちゃん!」
洋海の声がして肩を掴まれた瞬間、目の前からエメラルドグリーンの瞳の少女は消えていた。はっとして顔を上げると、学校へと向かう駅の出口を駆け抜けていく夕焼け色の髪が雑踏に紛れていくのが見えた。
「いまの奴、誰だ?」
「……知ら、ない……」
「ったく。姉ちゃんぽやっとしてるから、ああいう変なのに絡まれるんだよ。大丈夫かよ。なんか変なこと言われたのか?」
「……ううん、別に」
わたしは、洋海をおいて歩きはじめていた。
何か晴れない靄のようなものがわたしを包み込んでいる。頭の中では、さっきの少女の言葉が何回もリピートされていた。嫌だって言っても、何度も何度も少女のあの混沌とした瞳が目に灼きついてしまったかのように現れてきては口を開く。
明日、どこかへ出かけるのはやめよう。
学校が終わったらすぐお家に戻って、テレビでも見ておとなしくしていよう。
「ね、樒ちゃん、いいでしょう?」
だから、お昼時に桔梗が言ったことも、聞き流そうと思ったんだ。本当は。
「……え……?」
物思いから覚めるようにわたしは顔を上げた。
目の前には食べかけのお弁当。教室中にはお喋りの声と自分もご飯を食べていなければ気持ち悪くなるんじゃないかっていうくらいしょうゆ系から柑橘系までくゆりたつ種種雑多なご飯の香り。
「いいって、何が?」
今年も同じクラスになった桔梗と葵がわたしを覗き込んで呆れた顔をしている。
「樒、お前今なーんにも聞いてなかっただろ?」
「そ、そんなことないよ。サーカスがどうたらこうたらって」
「聞いていなかったのね、樒ちゃん」
「ご、ごめん」
桔梗は向けられたものにしか分からない凄みのある微笑を浮かべて、もう一度、さっき話してくれていたのだろう話を繰り返してくれた。
「イグレシアン・サーカスの東京公演のペアチケットを2枚、新聞屋さんからもらったのよ。昨日も特番をやっていたけど、今すごく人気でしょう? サーカスだけど鏡のイリュージョンなんかの大掛かりなマジックもあって、見ていて飽きないらしいの。だから、樒ちゃんも一緒にどうかと思って」
さっきから耳には入っていたサーカスという単語が、どうも桔梗にはそぐわない気がして、わたしはまじまじと桔梗を見つめ返した。春休み中に何かあったんだろうか? そういうものが好きになるようなこと――たとえば、ついにマンションのお隣の年下の子に押し切られて付き合いはじめたとか。
「な? 樒も行くだろ?」
いかにもそういうのが大好きそうな葵は、わたしの感じた違和感になどはじめから眼中にないらしく、明日のサーカスを思い描いてか目をきらきらと輝かせている。
「桔梗と、サーカス……」
窺うようにわたしはもう一度桔梗を見上げる。
その一方で、桔梗たちがこの話をしはじめたときから警告のように鳴り響く鼓動が止まらなくなっていく。
『輝かしい異世界』って、サーカスなんかまさにそういうところじゃない?
「私がサーカスに樒ちゃんを誘うのはおかしいかしら?」
「え? ううん。おかしくないよ。おかしくないけど……桔梗でもサーカスの無料招待になんて応募するんだなぁって」
曖昧に笑ってみせると、桔梗はにぃっこりと微笑んだ。
「樒ちゃんは私に何か偏見でも持っているのかしら? 私だって一般的な女子高生ですもの。樒ちゃんのように甘いものも好きだし、人気のサーカスが来るってわかったら、何とかして見にいけないかしらって新聞屋さんにお願いもするわよ?」
「そうそう、桔梗だって人間なんだからさー。物だって食うし、眠けりゃ寝るし、出すときは出すっ」
「葵ちゃん。気のせいかしら。葵ちゃんも私のこと、何か違う生物だって勘違いしてない?」
「してないしてない。馬鹿なこと言えば笑顔だけで人凍りつかせられる雪女だなんて思ってない、思ってない」
「そう。葵ちゃんもそんな風に私のこと思ってたのね」
「ま、待って! わたしは別に桔梗のこと雪女だなんて思ってないって! それだけは訂正させて! ……あ……」
桔梗と葵のやり取りに飲まれて、わたしは思わず余計なことを言っていた。
「それだけは訂正って……どういうことかしら、樒ちゃん? 冷たい雪女だとは思っていないけれど? ほんとはなんて思っているのかしら?」
コロッケに箸をのばしたまま、わたしは軽く凍りつく。
「き、桔梗、明日の夜、暇だよ。うん。すっごく暇でどうしようかなーって思ってたとこだったんだ。サーカス、桔梗と見に行きたいなぁ」
これ以上墓穴を掘る前に、わたしは話を強引にもどした。
「そう。樒ちゃんも来てくれるのね。嬉しいわ。日経新聞まで契約した甲斐があったわ」
ふわりと桔梗の強硬な雰囲気がやわらぐ。
それにほっとして、わたしは息を吐き出しつつ、ようやく肩から力を抜いた。
「あ、樒。桔梗んちの隣の坊主も一緒だからな」
「え? 隣の坊主?」
桔梗がすっかり忘れているらしいと見て取ったのか、葵が小さく付け足した。
「桔梗のストーカーになりつつあるマンションの隣の坊主だよ。今年から中等部に上がるらしくてさ。制服着た途端、大人にでもなったつもりかねぇ、ありゃ。今朝も生意気に輪をかけて……」
「光くんも誘ったのよ。私と樒ちゃんと葵ちゃんと光くんと、四人で。だめ、かしら?」
小首を傾げてはいるけれど、葵を遮って問いかけた桔梗にはだめとは言わせない雰囲気があった。
「あのガキさ、大昔から桔梗のこと好きだろ? 中等部上がってちょっと舞い上がってるみたいだったからさ、くれぐれも桔梗とガキ二人っきりにしないようにしような? 樒も協力してくれるだろ?」
「え……うん」
ひそひそと囁く葵に生返事を返して、わたしは桔梗を窺い見た。
「でも、付き合いが長くて桔梗が自分からその子誘ったんなら、別に心配することもないんじゃないの?」
「分かってないなぁ。中学生ってのは一番無謀な時期なんだよ。分かるだろ?」
分かるだろっていわれても……少なくともわたしは中学校時代に無謀と呼ばれそうなことをした覚えはない。――岩城の高等部の受験は別として。
「とにかく、そういうことだから。明日の夜はちゃんと空けておいてね」
桔梗は上機嫌でそう言うと、折りたたんだコーヒーの紙パックをコンビニの袋に滑り込ませて席を立った。
「あれ、何か用事?」
「ええ、ちょっと先生から次の物理の準備の手伝い頼まれていて。先に行くわね」
肩から垂れた三つ編みがくるりと踵を返すのにあわせてゆらりと波打った。
桔梗の背中は、どことなく消え入りそうな存在の薄さを感じさせる。そばにいる時は軽く威圧すら感じるほどなのに、興味がないものにはその慈悲は一滴たりとも零れ落ちてはこない。そんな冷たさが、特に最近は顕著になってきているような気がする。話していても、同級生と話しているというよりかは年上のお姉さんと話しているみたいだし。
「桔梗、大人っぽくなったのかな」
「そうかぁ? サーカスなんて言い出すあたり、むしろ退行したんじゃないの?」
「サーカスって大人の人も来るじゃん。でも、意外だよね」
「だな。ま、あたしもイグレシアンは見たいと思ってたし、ちょうどよかったけど。でも、なーんか引っかかるっちゃ引っかかるんだよな」
頭の後ろで腕組みしたまま椅子を傾かせて胸をそらせた葵は、原因を探るように白い天井を見上げた。
「うーん。でもやっぱ桔梗のことは深く探らないに限る、か」
だけど、結局葵はそう言ってお弁当をしまいはじめてしまった。
わたしは、本当は明日は出かけたくないんだなどとは結局言い出せず、もちろん、今朝あったことも話すことなく、もやもやしたままお弁当の蓋を閉じた。