聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 1 章 歪みゆく時◇ 2 ◇
クリスは今日もにこやかに笑っていた。
穏やかで、どこかこの世界を達観したような微笑は桔梗に似ていなくもない。
少なくとも、同級生の友人が校舎手前の道で立ち止まってぼうっとしながら誰かの名前を呟いていたって、周りの目を気にせず声をかけるくらいの度量は持っている。
「どうしたの、光。ぼんやりしちゃって。らしくないんじゃない? 寝不足?」
覗きこんできたクリスを見つめ返す。
ちり、と苛立ちが胸の中で燻った。
どうしてだろう。今までクリスの顔を見たってなんとも思ったことなかったのに。
アングロ・サクソン系の端正な顔に、今更嫉妬する覚えもない。
「なんでもないよ」
「ほんとに?」
去年の夏の終わり、両親の仕事の都合で日本に来てからまだ一年経っていないにもかかわらず、クリスの日本語の発音は完璧だ。ふとした拍子に英語が出ることもない。母親が日本人だからだってクリスは言うけど、長い間イギリスで暮らしてたんなら独り言くらい英語になりそうなものなのに。
「ほんと。ちょっと懐かしい人を見つけたような気がしたんだけど、気のせい……」
桜の花びらが風に吹かれて降り注ぐ。
薄紅色の花びらが吹きつけられたクリスの顔が、一瞬、エルメノの顔と重なって僕は目を瞠った。
「エル、メノ?」
思わず呟いてから、しまったと口を押さえる。
クリスは苦笑しながら顔に張りついた花びらをはがしはじめた。
「なんだ、やっぱりまだ起きてないんじゃないか。今日は何の夢を見たんだい?」
からかいを帯びたクリスの声に、僕はむっとして脇をすり抜けて校舎へと向かう。
「僕はそんなに毎日クリスに見た夢の話ばかりしてる?」
慌ててる様子もなく、大股一歩で横に並んでしまったクリスは笑いながら首を振る。
「そんなことはないけどさ。でも、僕が覚えてるのは光の夢の話が多いから」
「どれだけ昔の夢だよ」
「まだ半年くらい前の夢、かな」
クリスが僕に纏わりつくようになってしばらくたってからのこと。あまりにショックを受けたもので、ついうっかり僕は側にいたクリスに前の晩見た夢の話をしてしまったことがある。他愛のない、つまらない奴を思い出した夢の話。
「忘れてよ、そんな話」
「どうして? だって、忘れられるわけがないじゃないか。光がゲ……」
「ゲ――なんだって?」
睨みつけた僕に、クリスはあははと笑ってみせた。
僕が聖だったら、こいつの記憶を消してしまうことも出来るのに。時を遡ってあの日うっかり開いてしまった僕の口を塞ぐことだって出来るのに。
麗が、時を司る精霊と契約していたなら。
「いいじゃん。どうせ夢なんだから。光がほんとにゲイなわけでもないんでしょ?」
言ったな、こいつ。さらっと言ってのけたな。
「誰がゲイだ。あんな気持ち悪いこと、誰がするか」
「だめだめ、光。そんな考え方は世界を狭く捉えている証拠だよ。男性同士が愛し合って何が悪い? 性行為だけを想像してしまうのは思春期だから仕方ないかもしれないけど、愛に基づく行為に性別など関係ないよ」
誰か人類皆兄弟的なこいつの頭を何とかしてくれ。
「思春期だからって、クリスも同い年だろ。ったく、そもそもクリスってらしくないんだよ。僕たちはまだ十二歳なんだから、ちゃんと子供らしくしてなくちゃ」
言い聞かせてしまったのは、クリスに対してというより、クリスと一緒にいて良い子の仮面がはがれていってしまうような気がする自分に対して。
老いたことがないというだけで、僕は大人の世界くらい知っている。ママには絶対知られたくないようなことだって知っている。大人が隠そうとする夜のことも、人間はいい人間ばかりじゃないってことも、結局人生は一人きりなのだということも。
「そうだね。じゃあ、先ずはその子供の振りをするっていうひねくれた考えから、根本的にピュアにしていかないといけないんじゃない?」
「……揚げ足取るなよ」
「とってないさ。そもそも、僕は、光も僕も十分にまだまだ子供だと思うけどね」
クリスはそう言うけど、僕はもう昇降口に張り出されたクラス分けにどきどきすることもない。誰と同じクラスになっても、誰と離れても、僕の中では大差ない。
「わぁ! 光、僕たちまた一緒のクラスだね!」
感激もあらわに喜んでいるクリスは、本人が言うとおりお子様を続けているんだろうけど。
なれないクラスに集まった男子生徒の顔も、まだまだ初心な小学生のままだ。大人びた制服に着られて居心地悪く座っているようにしか見えない。それに比べれば、本人はどう言おうとクリスの顔は系統もあるんだろうけど、僕の目から見てもすでに数週間前までランドセルを背負っていた面影など消えている。クリスの場合はランドセル自体、去年転校してきたときから似合っていなかったけど。
「愛に基づく行為だったら、まだ理解も出来たかもしれないけどさ」
揚げ足を取られた仕返しになどならないことを、僕は悔し紛れに呟いてやった。
今思い出すだけでも気持ちが悪い。
麗の記憶をすべて持っていると自負しても、見たくない記憶をわざわざ開けてみる奴なんかいない。出来るだけあの頃のことは蓋をしておいていたのに、あの夢のせいで僕は一時期相当ナーバスになってしまった。
夢は、麗の過去だけを見るわけじゃない。
僕自身の無意識に潜む欲望やストレスなんかも投影されているはずなんだ。学校に遅刻する夢を見ることもあるし、桔梗の部屋が火事になる夢を見たこともある。海辺で大きな船を見送る夢を見たことも。
僕は麗だけで出来ているわけじゃないって、そんな夢を見たとき、どんなに夢が最悪な内容でも目が醒めれば拳を握って喜んでいる自分がいる。
でも、その時僕が見た夢は、はじめは僕の世界で僕が主人公だったのに、いつの間にか赤々と燃える暖炉のある部屋で、吹雪が窓を揺らす音と二人の乱れた息遣いが絡まりあっていた。下に見えるのは初恋の子と同じ顔かたちをしていながら、肌の色も髪も目の色も、性別さえ違う僕の〈影〉。
僕の心にあるのはたまりたまった憎しみと閉塞感。その全てを、元凶だと詰り倒した人間の身体の中に吐き出していた。
何も言わずにされるがままに耐えるだけのあいつに、僕の怒りは増すばかりで、どんどんひどいことをするようになっていった。
壊してしまえば、エルメノが戻ってくるんじゃないかって思ったんだ。
本物の〈影〉が壊れてしまえば、偽物でもエルメノが闇獄界から呼び戻されるんじゃないかって本気で思ってた。
人として生きる権利をすべて剥奪して支配下において実験動物扱いしても、それでも奴はしぶとく生きつづけた。
麗が奴を解放したのは、奴をいびることに音をあげたからじゃない。
飽きたんだ。
何をしても、あいつは歯を食いしばって受け入れるだけだったから。どんな仕打ちをしようと、あいつは僕の〈影〉であることを変えるつもりはないと分かったから。
何も変わらなかった。何も変えられなかった。
麗の心も何も晴れなかった。
僕は、僕を失ったままだった。
「つまらないことを思い出させないでくれよ。窒息しそうになったじゃないか」
頭を振って悪夢の記憶を振り払い、何度となく大きく吸い込んでは吐き出す。
そして顔を上げたときだった。
僕は思わず大げさに息を吸い込むのを止めた。
自分の目を疑った。
「エルメノ……」
広いとはいえない教室の窓際。頬杖をついて物思いに沈むように外を見つめる夕焼け色の髪の少女がいた。
「嘘……だろう? なんで……だって、どうしてここに……いるわけないじゃないか……」
「何が、いるわけないんだ?」
「クリス、あの子! あの子誰? 僕知らないんだけど、あんな色の髪の子、初等部の時いた?」
胸倉を掴まれてまくし立てられたクリスは、軽く動揺しながらも窓際の席を見た。
「あ、ああ、あの子? いまどき珍しくないじゃん。外人なんて。僕だってイギリスから来た転校生だったし」
「そうじゃなくて」
「中学生になれば外部もまた増えるだろ。んな、いちいち気にしてたら……」
僕らが騒いでいるのに気づいたんだろうか。夕焼け色の髪の少女はちらとこちらを振り返った。
大きな明緑色の瞳が愛想を浮かべて軽く伏せられる。
それを見たクリスは、一瞬息を呑むと、なぜか好戦的とも思える微笑をうっすらと口元に浮かべた。
「クリス?」
「あの子、確か初等部の時はいなかったよ。あの髪の色だもん。いたら分からないわけがない」
明らかに変わった雰囲気に、僕はクリスの中で何が起こったんだろうといぶかしむ。
まさか、一目ぼれしたんじゃないだろうな?
冗談まじりに聞いてしまえればよかったのに、ためらった隙に先生がやってきて、僕たちは入学式会場の講堂へと連れて行かれた。
吹奏楽部の生演奏に合わせて入場して、入学許可の一言をもらい、長い学園長の話を聞いて、生徒会長から祝福の言葉を受けて学年トップの奴が抱負を述べて。
こんな他愛ない式を、あともう何度か経験しなきゃならないなんてちょっと微妙。でも、ママが後ろの家族席で見てるから、パイプ椅子に座って人に紛れていても背中から気は抜けない。
だけど、後ろに気は使いながらも、僕はほとんど校長や先輩や同級生の話なんか聞いていなかった。
斜め前方に座っている夕焼け色の髪の少女のことで頭がいっぱいだった。
さっきクラス替えの張り紙を見たとき、僕のクラスにはクリス以外外人ぽい名前はなかった。エルメノなんて文字は、どこにもなかった。
そう、どこにも。じゃあ、あの子は日本人? 名前はなんていうの?
「光、式終わったよ」
考えごとは居眠りよりもたちが悪い。
あの子の名前が知りたい。
ずっとそればかりを考えていたから、廊下で列がぐちゃぐちゃになった途端、僕は新しいクラスメイトの脇をすり抜けて、一人前を向いて歩いていく夕焼け色の髪の少女に話しかけていた。
「待って。同じA組だよね。僕は木沢光。君は?」
冷静な時の自分なら笑ってしまうような台詞も、熱に浮かされて喋るうわ言のようにためらいなく口から滑り出ていた。
少女は一息間を置いて僕を見た。
目線は同じくらい。
猫のように丸く大きいながらちょっと釣り目の二重も、明緑色の意思強い瞳も、桜色の唇も、まだかわいらしい鼻も、何も変わっていない。あの時のエルメノのままだ。八歳の時、別れたままのエルメノと同じ顔。彫り深いロシア系のつくりのせいか、はたまた日本人の顔が幼すぎるのか、十二歳の僕たちと一緒にいても違和感はない。
エルメノと同じ顔ということは、とりもなおさず麗とも瓜二つということなんだけれど、過去の自分を見ているような気はしなかった。僕にとってエルメノは、この赤々と暮れなずむ太陽の色の髪と、邪を撥ね退ける明るい緑色の瞳で出来ているから。
「ぼくは安藤朝来」
警戒したようにじっと見つめていた瞳がふっと和らいだ。
「驚いた? こんな見かけなのに名前は日本人で」
「……驚いた」
僕はしばし目を瞠った後、正直に頷いた。
「ハーフなの? それともクォーター?」
「おじいちゃんがロシア人だったんだって。僕が生まれる前に死んじゃったから分からないけど。家族のみんなはぼく以外日本人ぽい顔立ちしてるんだけどね、なんかぼくだけ先祖返りみたいなことになっちゃったみたい」
「へぇ、そうなんだ」
いとも簡単に家族の話をされて、僕は心なしかどこかでがっかりしていた。
名前がエルメノじゃないことは分かっていたけど、だけど、どこかでエルメノに繋がるんじゃないかって連想させてくれるような曖昧な出自を期待していたのに。
「ぼく、誰かに似てる?」
口を閉ざしてしまった僕の心を見透かすように、安藤はにっこり笑って上目遣いに僕を見た。
僕は言おうか言うまいか、二、三度口を開閉させる。
「顔に書いてる。すごく似てたのに、ぜんぜん関係なさそうですげぇがっかり、って」
「な、そんなことは……」
「思ってる、思ってる。ぼく、直感強いんだよ。人の心もなんとなく分かる」
ぐっと僕は口を噤んだ。
安藤は歩きながら気を悪くした風もなくからから笑っている。
「木沢君が探しているのは、エルメノって子なんでしょ? その子、そんなにぼくに似てる?」
骨格が同じなら声も同じって言うけれど、安藤の声もエルメノとすっかり同じトーンだった。エルメノが日本語を喋っているっていう違和感はあるけど、そんなに他人行儀にエルメノのことを聞かれると、僕は彼女に話しかけなきゃよかったという気持ちの方が膨らんできてしまう。
大体、僕には桔梗がいるのに、どうして今更目の前にエルメノそっくりな人が現れたからって舞い上がったりへこんだりしなきゃならないんだ。
そうだ。これは僕の人生なんだから麗のために生きてたまるか。
いや、でも麗の神生の清算をするために僕は……違う。そのために僕は僕らしく生きるのが一番なんじゃないかとも思うんだ。
「あれ、ぼく、木沢君を困らせるような質問しちゃった?」
はっと気づいて僕は安藤に首を振って見せる。
「ううん、困ってたわけじゃないんだ」
「じゃあ、迷ってた、が正解かな」
ずばりと当てられて、僕は安藤を思わず凝視した。
「心を読めるって、本当?」
「信じてくれないかもしれないけど、ぼく、前世で神様の子供だったんだ。だから、かもしれない」
言った瞬間、安藤ははっとしたように僕から目をそらして俯いた。
「ごめん、ひいた?」
悪戯っぽく笑いかけた安藤は、今すぐに首を振ってやらなきゃもう二度と心を開いてはくれないような気がして、僕は慌てて否定した。
「あはは、よかった。ぼく、いつもやっちゃうんだよね。話しかけられると嬉しくて、ついつい余計なことまで喋ってひかれちゃうの。前いた小学校でも虚言癖があるって言われちゃったことがあってさ」
笑っていながらも、強かったはずの明緑色の瞳には過去を思い出したのか影が落ちている。
「分かるよ。僕も前、それで失敗しかけたことがあるから」
やっぱり、似てるかもしれない。
そう思ったのは、ただ僕がそうありたいと願ったからだろうか。
「いくら本当のことでも、言っていいこととやめといた方がいいこと、言う人を選んだ方がいいことってのがあるんだよね。言っちゃってから後悔しても、音は回収できないし」
「そうそう。でもさ、本当のこと言ってるのに嘘ついてるって後ろ指差されるのって辛いよね。ひどいよね」
「本当のことって、安藤さんの場合、前世が神様の子供だったってこと?」
「……やっぱり、信じてくれない?」
エルメノそっくりな顔で安藤は僕を見つめ返した。
普通に考えれば、そう、あくまで普通に考えれば、こんなこと口走っているのは危ない奴の何者でもない。信仰に関わる部分にはできるだけ触れないようにする日本人の血を引いてる僕としても、これ以上は首を突っ込まないほうがいいような気がしてくる。たとえ、その台詞が僕にも当てはまるものだったとしても。
「そんなことないよ」
無難と思われる返事を返して、僕は教室へと入った。
窓の外は桜が満開だ。
今朝、彼女をエルメノと勘違いしたのは、あの桜吹雪が為せるマジックだったのかもしれない。
安藤は、エルメノじゃない。エルメノは、こんな風に自分の立場が悪くなるようなことは口にしない。
それに前世が神様の子供だって言うけど、少なくとも僕の見た〈予言書〉には安藤朝来として転生している麗の兄弟はいない。
じゃあ、結局安藤は嘘をついていることになる。虚言癖と言われても無実を訴えているにもかかわらず、彼女はすでに嘘をついている。
「気にしないで。すぐに、信じたくなるよ」
安藤は僕の机の脇を通り抜けざま、にっこりと言い置いて自分の席に戻っていった。
「光、彼女、なんだって?」
少し離れたところから僕らを見守っていたらしいクリスが、やや心配げに僕に囁いてきた。
「なにも。安藤朝来って言うんだって。あの顔で日本人の名前って、やっぱ違和感あるよね」
「顔と名前は選べないからねぇ。それだけじゃないんだろ? 話してたこと」
「別に、クリスに全部話さなきゃならない義理もないでしょ。いいんだよ。僕が思ってた人とは違った。それだけ」
クリスとの会話を放棄した僕は、ちらと安藤の席のほうを見やった。
安藤はその目立つ外見ゆえか、いつの間にかクラスの女子達に囲まれて楽しげに笑いはじめている。余計なこと言わなきゃいいなって思うのは、僕が単にお節介なだけなんだろう。虚言癖なんてレッテル、この学校で一度でも貼られたら、せっかく大学までエスカレーターの学園なのに、ぬくぬくとしていられなくなってしまう。それくらい、安藤も分かっているだろうけど。
担任はまだ来ない。
そうこうしているうちに、安藤は自らのかばんからトランプのようなものを取り出していた。取り囲む女子達は、さっきよりも熱心な声でキャーキャー騒いでいる。そのなかで、安藤は手早くカードを切り、正面の女生徒に一枚カードを選ばせた。
「それが今日の佐々木さんの運命だよ。星のカードだ。きっと希望を持って一日を過ごすことができるよ」
「すごーい、ほんとに? 今日初日だもんね。確かにすごく楽しみにして来たんだ」
「このカードはぼくが佐々木さんのために引いたんじゃない。佐々木さんが自分で選び取った未来だよ」
安藤に穏やかにそう言われて、佐々木は嬉しそうに顔を上気させている。周りの女子たち四人ほども、次々に些細な悩みごとを当てられて歓声を上げている。
「よし、全員席につけー。待たせしてしまったが、これからホームルームをはじめる。俺は浅木禎彦 。二十六歳。担当教科は理科。陸上部の顧問もやってるから希望者、放課後にでも声かけてくれよな。というわけで、一年間よろしく。さて、出席番号一番から順に自己紹介してもらおうか。名前とあとは特技のある奴は特技披露してもいいし何か一言喋ってもいいし、特にない奴は誠心誠意一礼して席に着け。じゃ、出席番号一番、藍澤榛名!」
新しいA組の担任は、入ってくるなり陽気な大音声で自己紹介し、名簿も見ないで出席番号一番を名指しで指名した。
はじかれるように、入学式では堂々と新入生代表の挨拶もした藍澤が緊張した面持ちで席を立ち、その場で明朗快活とは程遠い表情と声で自分の名前だけを告げて席に着いた。特技の披露もなければ、誠心誠意の一礼とも思えるものもついていない。柔軟性がない奴か事なかれ主義、もしくはクラスごときで目立っても仕方ないと思っている奴なんだろうと僕は思ったけれど、教壇の脇に降りていた浅木先生は、腕組みしながら大きく頷いただけだった。その反応に安心したのか、クラス中から緊張感が消える。
「よし、次。安藤朝来!」
そんな雰囲気を引き締めるような声で浅木先生は次を指名する。
安藤は藍澤とは対照的な表情で席を立つと、あろうことか教壇に上がった。
クラス中が低くどよめく。
その様を軽く睥睨して、安藤は口を開いた。
「おはようございます。ぼくは安藤朝来。見たとおり、日本人離れした外見をしていますが、これは父方のおじいちゃんがロシア人だったからそれが色濃く出ちゃっただけ。名前のとおり、生粋の日本人です」
明緑色の瞳がクラス中を見回してきらりと光る。
「好きなことはお喋り。最近はまっているのはこれ、タロット占い。いまから、このクラスの一年を占ってみたいと思います」
取り出したのは、さっき女生徒を集めてやっていたタロットカード。
トランプと同じような大きさのそれをよくきったり、混ぜたり集めたりしながら、十二枚を上から選ん丸く並べ、最後の一枚を中央に置く。
「……」
安藤は、教壇の上に展開されたタロットカードを眺めて俯いてしまった。
「安藤、どうしたんだ? 結果は? あまりよくないのか?」
「先生、否定の意味を持つ言葉は出来るだけ使わないことをおすすめします。カードの結果というのは、よくないと思えばそう見えてくるものだし、いい結果と思えばそういう解釈も可能になる」
浅木先生は、ほう、とばかりに安藤を見つめた。僕らと十三、四しか変わらないくせに、ずいぶん余裕気に見せている。
安藤は浅木先生の様子など気にも留めず、もう一枚だけカードを引くと、深く息を吸い込んで真っ直ぐ顔を上げた。
「四月、死神の正位置。死神って聞くと悪い意味を想像しちゃうけど、これは今まで引き継いできたものが悪いものであれば、それを断ち切って新たな出発を迎えるという意味にも捉えることができる。このクラスは、一度何かを失ってまた新たなものを手に入れて生まれ変わることになるよ。五月、勢いがつきすぎてしまうかも。六月もだ。みんながみんな、調和を心がけてコントロールすることが大事。七月は水泳大会とかかな。何かを手に入れられるかも。八月は気をつけたほうがいい。でも九月には審判が出ているから、きっと一度崩れたものでも復活させることが出来るよ。十月、平穏だ。十一月、十二月、またちょっと波が荒くなる。でも、夏ほどじゃない。夏が乗り切れたなら、十一月と十二月を乗り切れないわけがないんだ。ただちょっと、いっぱいいっぱいになった結果、何かが見えなくなるだけ。一月、二月はとてもいいね。傲慢にならず、冷静になることが大切だ。三月には一年の実りが期待できるだろう。最終結果、恋人の逆位置。選択を誤ってはいけない。ちゃんと自分達の考えで未来の選択肢を選び取っていくんだ。そうすれば何も怖いことはない。後悔しない未来にたどり着くことが出来る。たとえ運命の逆境にあったとしても」
未来を語り終えて吐き出された息もまた深かった。
クラス一同は、気難しげになったり安心したりする安藤の表情に魅せられたまま、誰一人として動かない。
大した演技力だった。顔の表情ひとつで三十五人の生徒と一人の先生を魅了してしまった。結果はあまりよくないものだったのだろうが、彼女の表情や言葉が大丈夫だと過度にならない程度に励ましてくれたおかげで、安心な未来が保証されているようにさえ思えてくる。
「あまり深く考えすぎないでください。占いなんてものは、たいてい一日が終わる頃にはそんなことをしたことすら忘れているものです。結果まで覚えている人は稀でしょう。フォーチュンテリングというその言葉通り、何かくじけそうなことがあったときにだけ思い出せればいいんです。どんな結果が出ても、過去になるまではそれは最終結果にはならないのだから」
安藤はそう言ってまた少しだけ沈思して、にっこりと笑った。
「何かあったらお気軽に声かけてくださいね。占い、はまっている間なら喜んで占わせていただきます。ただし、ど素人だということを忘れずに話三分の一くらいに聞いといてください」
教壇から降りて席についた後も、まだ新しいクラスメイトを迎え入れる拍手は沸き起こらなかった。安藤の作り出した不思議な空気がクラスを異世界のようにしてしまっていた。
浅木先生でさえ、まだ茫然と安藤と教壇を見つめている。
かく言う僕でさえ、うっかり彼女の世界に引き込まれていた。
我に返った浅木先生がようやく手を打ちはじめたのは、安藤が席についておよそ三十秒ほど経った後だった。
「ありがとう、安藤。将来は占い師でも目指しているのか?」
理科専門な上に体育会系。こういう話は飲み込まれそうになった分、頭ごなしに否定するのかと思いきや、浅木は藍澤を見るのと同じ普通の子どもを見る目で安藤を見ていた。
「さぁ。まだ先のことなんか分かりません。ぼく、飽きやすいんです。だから、一週間もしたらまた別の趣味になっているかもしれません」
安藤はどこか大人びた表情で笑ってみせた。
エルメノじゃ、ないのか?
あれだけ否定しておきながら、重なった幻影に、僕はまだどこかで彼女がエルメノであることを期待していた。