窓鏡越しに見つめ合うその二人を、僕はそっと後方から見つめていた。
高校に入って初めての夏期講習。
退屈そうに頬杖をついて窓の外を眺めるふりをしながら、窓に映るあいつの姿を盗み見る彼女。それに気づいて見つめ返すあいつ。
彼らが密かに互いの姿を盗み見しあっていることを、僕だけが知っていた。
彼も彼女も、お互いが惹かれ合っていることに気づいていない。自分の片想いだと思っている。だから彼が彼女を、彼女が彼を見つめるときの、狂おしい想いを目の奥に閉じ込めようと伏せられる睫毛が、哀愁を帯びて切な毛に瞬かれる瞬間に魅入っている僕のことなど、誰も気がついていないに違いない。
逸らしたくても逸らせず窓鏡越しに横たわった奇妙な沈黙が、授業に集中している生真面目な生徒たちの列を超えて僕のところまで伝わってくる。
彼らはお互い好きあっているのに、まだ手を繋いだこともない。
それを知っているのは僕だけだ。
クラスの奴らは、いや、学年中が、彼らはとっくの昔に告白しあい付き合っているものだと思っているようだが、そんなことはない。男子たちは妄想の羽を広げてあれやこれやと面白がって僕に聞き出そうとしてくるが、はぐらかす僕の言葉を信じている奴は一人もいない。勝手に噂だけが独り歩きしている。
僕は彼女の双子の弟だった。
物心ついた時は一緒に遊んでいたものの、小学校も高学年になると食卓についても会話することはなくなり、中学校に入ると顔を合わせればすれ違いざまに挨拶をかわす程度、高校入学後に至っては部活の関係で全く生活サイクルが合わなくなり、家でも滅多に顔を合わせることがなくなった。
それでも、僕は密かに小さい頃からずっと彼女を観察してきた。
彼女が日々成長していく様は、幼虫が脱皮していく様に似ていた。次々と僕の知る皮を脱ぎ捨て、僕とは違う色、違う形に変わっていく。
胸も、手足の丸みも、お尻も、顔も、髪の色も。
はじめから僕とは双子と思えないほど外見も中身も似ても似つかなかったが、成長するにつれ、彼女は次第に全く僕の知らないものになっていった。
女友達も男友達も、磨かれていく処世術も屈託のない明るさも、昔僕と分け合っていた頃のものとは全く違う。この世で最も近しい遺伝子を受け継いでいるはずなのに、彼女はすでに僕とは違う世界の人のようだった。僕らに世の人たちが双子に期待する共通性は何もなく、共通の知人もいない。
あいつを除いて。
図書委員だったあいつは、部活代わりに図書室を居場所にしていた僕とよく顔を合わせていた。どちらかというと大人しい方ではないあいつが図書委員をやっているというのはおかしな話だったが、それでも真面目に当番の日は仕事をしに来ていた。
「生瀬さんの弟さん?」
はじめて声をかけられたのは、何度か本の貸し借りで図書カードをやり取りした後だった。蒸し暑い初夏の日、外は梅雨空の切れ間から覗く夕焼けが眩しく暗い室内に入り込んでいた。
はたと顔を上げた僕は、当時姉と同じクラスだったそいつの顔をはじめて正面から見た。
夕焼けの朱金の光を浴びて眩しげに僕を見上げていた。その表情には好奇心と僅かながら好意が見え隠れしている。
「個人情報」
同学年の奴にそんなことを言ってもいずれ知れることだと分かっていたが、自分からは言いたくないということと不快だということを伝えるために僕はすっと目を逸らして呟いた。
「そう。あまり似てないね」
僕の言葉などはじめから無視して、そいつは爽やかな笑顔とともに貸出カードを僕に返した。
それからはそいつが当番の時に図書室に行くのはやめるようにした。
水曜日の昼と金曜日の放課後。それがあいつの一学期の当番日程だった。
学校の図書室に寄れない分、放課後に公立図書室で活字中毒の飢えを癒す。
周到に避けていたつもりだったが、うっかり夏休みに鉢合わせしてしまったことがあった。先輩と当番をかわったのだというそいつは、馴れ馴れしくも「久しぶりじゃん。おれがいるとき、さっぱり来てくれなかったから寂しかったよ」とのたまい、僕の手から貸出カードを抜き取り確認済みの判子を押した。
以来、そいつは何度か僕が図書室に行く日に代打を引き受けて当番席に座っているようになった。
僕はもう避けるのもばからしく、公立図書室に通うのもそうそう近いわけではないので、あいつがいることは気にしないことにした。そのうち帰る時間が同じになったり、帰り道、その辺のコンビニで買ったアイスを差し出されたりするようになった。
でも、あいつは姉の前では絶対に僕に話しかけない。姉も僕を見えないものとして振舞う。そんな姉とあいつはいつ何時でも顔を合わせれば仲睦まじく爆笑しあい、くすぐったい雰囲気を醸し出している。
姉は仲良しグループにあいつが入っているとき、家では見たこともないような笑顔を見せる。ほんのり頬を上気させ、目元が潤う。全身の周りを覆っていた空気がふわりとやわらぎ、あいつの纏う空気と溶け合う。
好きなのだな、と誰が見てもにやけたに違いない。
あいつだって姉と肩をくつけて笑いあっているときの無邪気さと言ったらなかった。
これでもかというほど見せつけられる仲の良さ。
「付き合っちゃえばいいのに」
「何言ってるの、もう付き合ってるに決まってるでしょ」
女子が廊下で憧れの視線を向けながら腕をつつきあう姿を何度見たことか。
でも、僕は知っている。
姉とあいつがまだ一線どころか想いさえ告げあっていないことを。
想いなど告げなくても、あいつならふとした瞬間にキスくらいしてしまいそうな器用さがあると思うのだが、どうもそうはなっていないらしい。ああ見えて姉が隙を作らないのか、隙を見せないのか、単にあいつが正攻法で攻め落としたいだけなのか。
夏が行き、秋が駆けて冬も立ち去り、高校に入って二年目の春の桜もとうに散って雨雲が台頭するじめじめとした季節。
「なかなか、ね、二人きりになるチャンスが少ないんだ」
二年になってもまた図書委員に立候補したらしいそいつは、本の貸出カードに確認印をつきながらぼそっと呟いた。外はやっぱり梅雨の雲の切れ間から眩しく虹色を帯びた夕焼けの光が建物の表と裏にコントラストをつけていた。
「それは僕に相談してるの?」
「未来の弟じゃないか」
正直ぞっとした。こんな明るい奴が家に転がり込んできたら、姉だけでも目が当てられないのに、僕は眩しくて干からびてしまう。
「冗談だよ」
無言で目を剥いた僕にあいつは苦笑した。はじめて見る弱気な笑顔だった。
「好きな人がいるみたいなんだ」
それはお前だろう、とつっこみかけたが、「はぁ?」と愛想悪く続きを促すにとどめる。
「夏くんは優しいね。迷惑そうにしながらも聞いてくれるもの。それに比べて春香さんときたら」
さめざめと泣くふりまではじめられて、僕はげっそりとした目でそいつを見下ろした。
「おれの方が双子の弟みたいだって言ったんだ」
見上げてきた目が、僕に挑みかかるようだった。
僕は一瞬心臓が縮み上がるように跳ねたが、聞かなかったことにした。
胸の奥に封じ込めてきた何かが底の方でずり、と首をもたげようと蠢いた気がした。
きっと、姉が僕の話を誰かにしたことが意外だったからだろう。
期待とか希望とか、そういうきらきらしたものには物心ついてから無縁だ。期待せずとも事態は時とともにうつろうものだし、希望など持たなくても着実に努力していれば結果にたどり着く。けして、何かを望んだわけではない。
「夏くんはどっちがよかった? 双子の弟と、彼氏と」
何を言っているんだろう、こいつは。
蒸し暑さに頭をやられたんだろうか。それとも暇つぶしに読んでいる本の影響か?
ちらりと傍らに置かれた文庫のタイトルを見る。
『エレクトラ』。
おおよそこいつが手に取るとは思えないタイトルの本がそこには置かれていた。
「気味の悪い妄想、しないでくれないかな」
確認印をつき終えた貸出カードを奪い取り、僕はそいつに背を向ける。
「告白しちゃうよ?」
背中にダイレクトに突き刺された声は思いのほか大きく図書室中に響き渡る。
他に生徒はいなかっただろうかときょろきょろ見回すが、幸い、晴れているうちに帰りたい生徒が大半のこの高校の図書室は毎日が閑古鳥だ。
「すれば?」
建てつけの悪い木製扉を開けて、僕は図書室の外に出る。
窓のない薄暗い廊下にまでは夕焼けの光は差し込んでこない。
ほっとしたその暗闇の中に、しかし、見知った女生徒の影が佇んでいた。
「春香」
思わずその名を呟いてしまう。家でだって大概呼ぶこともなかった名前だ。
彼女は思いつめているのか表情を硬くしたまま、僕を見ることなく図書室の中に入っていった。
つまり、こういうことだ。
あいつは弟の僕に了解を取り付けてから姉に告白しようと姉を図書室前に呼び出していた。姉には、僕が図書室から出てきたら入ってくるように言ってあったのだろう。
振り返ると、他に誰もいないはずの図書室の扉はゆっくりと姉を夕焼け色に染まった空間に誘っていき、ガチャリと音を立ててしまった扉には「休館」の看板がぶら下がっていた。はじめからかかっていたのに僕が気づかずに入ってしまったのか、それとも僕が中に入るのを見計らってあとから来たあいつが表裏ひっくり返したのか。あるいは姉がひっくり返していたのか。
真偽のほどはわからない。
あの梅雨の半ば、わずかに雨雲の切れ間から覗く夕焼けの光が目裏に焼きついて離れなくなった日、しかし、帰ってきて僕と入れ違いに食卓の椅子に掛けた姉の表情は思いのほか芳しくはなかった。
わかるのは、あいつの告白は上手くいかなかったということ。
一年越しのあいつの告白は、どうやら実らなかったらしい。
ふられてしょげかえるあいつの姿が目に浮かんだ。
つづいて、自分も何かにうっすらと失望していることに気がついた。
「春香、断ったの?」
食事を口に運ぼうとしていた姉の手が止まる。窺うようにおそるおそる彼女は僕を見上げた。
「告白、されたんでしょ?」
「あんたには……関係ない」
怒ったように押し殺した答えが返ってきた。
ここ数年、挨拶すらまともに交わしていなかったから答えが返ってきただけ驚きだ。
着替えたばかりの半袖シャツから伸びた腕がやけに印象的に白く目に焼きついた。
中学校の時の直線的で日に焼けていた腕は丸みを帯び、触れたくなるような柔らかさと儚さを併せ持っている。肩も顔立ちもふわふわとした丸みを帯び、胸もまたいくらか膨らんだようだ。でも、それはまださなぎになる前の幼虫と同じだ。幼さやあどけない雰囲気、外の世界に対する恐れのようなものがまだ彼女の周りに纏わりついている。
「好きだったんじゃないの?」
「うるさい」
一刀両断して箸でご飯を口に運んだ彼女は、一人で何かに耐えているようだった。
「母さん、パートだって」
「知ってる」
今にも堰を切って泣き出すんじゃないかという張りつめた目に、僕はただならぬものを感じ取った。
「春香」
いつもなら見て見ぬふりをして食卓を離れ自分の部屋に逃げ込むのに、この時はなぜかそうする気にはなれなかった。食卓テーブルの場所まで戻り、彼女の前に立つ。
思わぬ僕の行動に驚いたのだろう、彼女は僕を見上げ、何かを言いかけ、睨みつけた。
その目に恐慌が宿っている。
こんな時、どうしてやればいいんだろう。仲がよければ年頃の姉弟でも肩を貸してやったりするんだろうか。でも、彼女は明らかに僕を拒んでいる。そう、父さんが死んだ小六の夏からずっと。こんなに近くにいるのに僕たちはずいぶんと疎遠になってしまった。手を伸ばしたくても拒まれることが恐くて何も差し伸べることができない。
「キスでもされた?」
むしろ傷つけそうな言葉ばかり浮かび、口から出てしまう。
「セクハラ」
「あいつ、春香のこと好きだよ。僕を懐柔するために今年もまた図書委員なんかになって。でも、いい奴だと思う。春香だってあいつといる時……」
投げつけられた箸置きを、とっさに持っていた本で防いだ。ペーパークラフトの箸置きがごとりと床に落ち、ごろりと転がっていびつな形に割れた。
「何で捕らないのよ! 割れちゃったじゃない!」
薄暗い図書室の隅っこがお気に入りの僕に、ずいぶんとハイレベルな無茶を言う。投げたのは自分だろうに。
ぱっくりと二つに割れた箸置きを拾い上げながら、ふと思い出す。
春香はあいつに、あいつの方がよほど双子の弟みたいだ、と言ったのだ。
恋愛感情、じゃなかったんだろうか。
去年の夏期講習の時、窓鏡越しにあいつを見つめる春香は、明らかに恋する何とやらの目をしていた。それなのに、今はこの世の終わりのような顔で外の世界を遠ざけようとさなぎの中に引きこもってしまっている。まるで少女から女になるのを拒んでいるかのようだ。
割れたペーパークラフトの箸置きに込められていたのは星の砂。父さんが事故で亡くなる前に家族四人で旅行した先でみんなで作った箸置きだった。僕はとうに使っていない。母もきっと食器棚の引き出しにしまいこんだままだ。春香だけが、まだこれを使っていた。
「懐かしいね。沖縄に行った時の」
春香の前に拾った箸置きを置く。
そういえば、あいつが今日読んでいたのはエレクトラだった。殺された父親に想いを寄せ、弟とともに母と義父に復讐する女性の話。
あいつは薄々気づいていたのだろう。彼女が何を見ているか。何に惹かれたままだったのか。何に囚われ続けているのか。少しでも理解したくて、あんな本を読んでいたのだろうか。
けれど、春香はそんなに父さんのことが好きだっただろうか? 父さんが生きているとき、僕たちは普通の家族だった。少なくとも僕は何の疑いもなくそう思っていた。僕の鈍さや思い込みやいろんなものをひっくるめたって、十二歳の春香が父さんをそういう目で見ていたとは考えにくい。もしそうだとしたら一番側近くで観察してきた僕が気づかないわけがない。あの屈託のない明るさや人を引き付ける強い笑顔の下に、そんな後ろ暗いものは決してなかった。
父さんが死んだのは家族で沖縄旅行をして帰ってきてすぐのことだった。事故なんていうのはあっけなく人の命を奪う。旅行の楽しさを噛みしめる前に僕たちは玄関に新盆の灯篭を灯し、母は失意を引きずりながら警察や裁判所やらに呼び出され、あっという間に十歳は老けてしまった。若作りが自慢なのにと力なく笑う母が、市販の白髪染めで髪を染めるのを何度か僕も手伝った。
あの頃、春香はどうしていたっけ。
頑張って笑顔で母を励ましていた。春香も母の白髪を染めるのを手伝っていた。母がパートを始めて忙しくなった時には夕飯も作るようになった。
でも、その前。
新盆の灯篭を灯す前。お葬式が終わり、それでもなお警察や裁判所に呼び出されて母がいなかった夜の食卓。
張りつめた目をしていた。
どうしようと混乱もあらわに目が恐れと戸惑いに満ちていた。
突如として幸福を奪い去られた者の、何か縋りつくものを求める目。
『大丈夫だよ。僕がいる』
あの時、確かそう言ったんだっけ。
いつも強い輝きを放つのは春香の方なのに、あんまり心もとない目をして僕を見るから、静まり返ったダイニングで俯く春香に僕はそう言った。僕に何ができるわけでもないことを、僕自身がよく知っていたけれど、時には気休めでも言葉が力になることを僕は小学校の図書室で読んだばかりの本で知っていた。
ひ弱で暗くていじめられっこの僕を春香が疎んでいたことは知っている。
それでも、一人で耐え続けさせるには酷だと思うほど、あの時の春香は思いつめていた。
「優しくしないで」
思いつめた声でそう言った春香の手は、いつの間にか僕のコットンシャツの裾を握っていた。きつく、きつく、握りしめられている。
僕はその柔らかそうなラインを描く手を見下ろし、瞼を伏せ、前を見る。
その手を握り返すわけにはいかなかった。
僕にとって春香が特別な女の子であるように、春香も僕を特別な男の子だと思ってくれたことがあったんだろうか。
そんなわけは、ないけど。
僕がこの手を握ったら、彼女はさなぎの中から出てきてくれるだろうか。美しい蝶となって、僕にこの世で最も輝かしい笑顔を見せてくれるだろうか。
いつまでも続くわけはないけど。
僕たちが、実はステップファミリーで、お互い父さんと母さんの連れ子で……そんな馬鹿な妄想を一度ならず二度三度したことならある。でも、浮かぶたびにすぐにその妄想は箱に入れて心の海の底に重石をつけて沈めてやる。
それは僕にとっては幸せかもしれないけれど、彼女にとっての幸せではないから。
何より、父と母に失礼じゃないか。
そう、言い聞かせる。
今も、そう。
彼女は、たまたまちょっと心が弱っていて、弟の僕に弱っているところを見られてしまっただけなのだ。この手は、立ちくらみを起こし一時的にテーブルや戸棚の縁を支えにしているのと同じだ。目が見えるようになれば、また彼女は一人でしゃんとして歩いていけるだろう。
「離して」
低く、諌めるように声を絞り出した。
視界の端、彼女の肩は震えた。
おそるおそる僕のシャツの裾を掴む自分の手を見つめ、一本一本指を離していく。
無意識だったんだろうか。
そうかもしれない。意識しているわけがない。僕が、意識されているわけがない。
「嫌いじゃないんでしょう? あいつならきっと大切にしてくれるよ」
双子の弟よりも。
そんな皮肉は付け加えなかった。
大丈夫だよ。僕がいる。
もう、あんな無邪気な言葉を無防備には吐けない。
吐いたが最後、僕は君の手を掴み、望むがままにしてしまうだろう。
僕らの身体はいつの間にか女性と男性に分かれ、僕の背は君を遥かに越してしまった。図書館にばかり籠ってひょろひょろと青白い僕でも、きっともう今は、腕相撲をすれば余裕で勝ててしまうことだろう。
僕じゃ君を大切にはできない。
君のそれも、僕のそれも、究極の自己愛にしか過ぎないんだよ。
だから、少なくとも君は外に目を向けなくてはならない。君だけはこのさなぎの中から飛び出して、美しい蝶となって花の蜜を求め、しかるべきつがいとなるものを見つけ幸せにならなければならない。
しゃっくりは聞こえないふりをした。
さなぎの中ではどんなに美しい蝶も態をなさないどろどろの本性のままだから。
高校に入って二度目の夏期講習。
あいつは窓に映る彼女の姿をぼんやりと眺めていた。
彼女もそれに気づき、柔らかく微笑む。
あいつは安心したように照れた笑いを返し、勉強ができるふりでもしようときりっとした顔を作って前を向く。
と、彼女の視線と僕の視線がぶつかった。
見られていると思っていなかった僕は一度心臓が跳ね上がり、けれど逸らすこともできずに彼女を見つめる。
窓に映った虚像を見つめているだけなのに、直接見つめられるよりも緊張するのはなぜだろう。本当は視線などあっていないかもしれない、と思うからだろうか。光のなせるまやかしだ、と。
あいつに微笑み返したときには柔らかかった目元に、今は切なくなるほどの哀愁が宿っていた。狂おしいほどの想いを封じ込めようと、長い睫毛が伏せられる。
その隙に、僕は目を逸らした。
前を向く。
古典の授業は相変わらずさっきから同じところをぐるぐると堂々めぐりしている。
あいつと彼女は、この夏から付き合いはじめたばかりだ。