琥珀に眠る

 エレクトラの本を見つけたのはあいつの本棚からだった。
 祖父から引き継いだ本棚には古めかしい本がたくさん並んでいて、あたしなど埃とかび臭くてとても手を伸ばしたくはないのだが、あいつは好んでこれらの本を手に取り、場合によっては枕にして熟睡している。
 祖父が読むような大人の本を、果たしてあたしたちみたいな子供が分かるものなのか。
 わずかな好奇心に駆られて、あいつがいない隙に祖父の本棚に手を伸ばした。
 偶然手に取ったのがギリシア悲劇のエレクトラだった。
 全然意味が分からなかった。
 まずは人の名前が入ってこない。「ああ、なんたらかんたら」という感嘆詞と呼びかける名前ばかりで、肝心の話の筋が見えてこない。「弟よ、父の仇を討ちましょう」そのセリフだけはようやく頭に入ってきた。あらすじを読む。父を殺されて、母と義父に復讐しようと弟と手に手を取って邁進する話だった。
 暗い。ありえない。気持ち悪い。
 無造作に本を棚に戻した。
 もう、二度と開くもんかと思った。
 あいつはこんな本を読んでどこがおもしろいのか、さっぱり理解不能だった。
 学校でもひ弱でダサくていじめられっこのあいつ。
 休み時間は逃げるように教室から出て図書館の隅っこで活字にかじりついている。
 かっこ悪い。
 小学生のくせに分厚くなっていく近視の眼鏡もかっこ悪い。もっとおしゃれな縁のものを選べばいいのに。
 それでもあいつはあたしたちの家族の一員だった。構成上、あたしはあいつの双子の姉であり、あいつはあたしの双子の弟。まるで一緒に母の胎内にいたとは思えないほど、似ても似つかないあたしとあいつ。学校ではできる限り他人を装うけれど、家の中ではそうはいかない。あたしは父と母の期待に応えるべく、できる限りあいつを差別しないように気を付けた。
 小六の夏、沖縄に旅行に家族で行った時も、あたしはダサくて鈍で全くもって不器用なあいつの世話を、父母からの点数稼ぎのために表面上器用にしてやっていた。
 対人関係にぎこちないあいつは、けれど手先は器用だった。
 ひ弱で小さめの身体のくせに、気づくとはっとするほど身体に似つかわしくない大きな手で、あいつは器用にペーパークラフトの型の中に星の砂や小さな白い貝をちらし、色のついた液を流し込んでいた。
「あたしのも!」
 傲慢に差し出したあたしの箸置きの型にも、珍しくにこにことしながら「どんな色がいい?」と聞きながら星の砂を撒き、赤い色を入れていく。
「どう、こんな感じで」
 出来上がった箸置きは、八重に花弁を開いた紅蓮の華の上空に白い星がきらきらと瞬いていた。
 ちなみにあいつが自分に作った箸置きは星の砂の浜に青い海が波寄せていた。
 それぞれに世界が凝縮されていて、綺麗だった。
「すごいね、夏也」
 素直に誉めると、あいつは嬉しそうにはにかんだ。
 旅行から帰ってすぐ、父が事故で亡くなった。
 たくさんの見知らぬ人に翻弄されたお葬式が終わっても、母はまだ忙しく警察や裁判所に通わなければならなかった。あいつと二人きりの夕食が増えた。
 あたしもあいつも、母が作っていった夕食を温めて、黙々と食べるだけ。学校と同じだ。あたしは一人。あいつも一人。たまたま向かい合って食事しているだけ。
 不意にあたしは胸を締めつけられるような寂しさに襲われた。今だったらあれが孤独というものだったとわかる。
 目の前に悲しさを分かち合う者がいながら、あたしは拒み続けなければならない。決してあんななまっちろいひ弱でいじめられっこの弟に、弱みを見せてはいけない。自分とあたしが同じだと思われてはいけない。あたしは一人だ。一人なのだ。
「大丈夫だよ。僕がいる」
 気づくと、遠慮がちにあの大きな手があたしの手に添えられていた。
 あたしは目を見張る。
 今まで一度だって自分からあたしに歩み寄ることのなかったあいつが、あたしの手に触れている。それも、力強い言葉と、いつもは消え入りそうなくらい弱々しい光しか灯っていない目に強い光を浮かべて。
 何があっても僕が君を守る。
 それはあたしがあいつの目から感じた意志だったのか、それとも本当にあいつの口から添えられた言葉だったのか。
「うん」
 あたしは泣かなかった。添えられた手にこそばゆさを感じながら、頷いた。
 恐れが引いていく。
 あたしにはそれで十分だった。
 中学に入って、あいつはひょろひょろとしたかんぴょうみたいな体格のまま、まず背だけが急激に伸びた。前から四番目だった並び順が、あっという間に後ろから四番目になっていた。それでも対外的にはおどおどとしてコミュニケーションがうまく取れないことを苦にしたままだったが、一部の女子の間では背が高くて眼鏡で物腰が柔らかくておとなしくて優しい本好きの男の子として一目置かれているようだった。あいつは全くそんな目で自分が見られているとは思っていなかっただろうけど。いつの間にか体育も目立たない程度に人並みにこなすようにはなっている。
 あたしの知っているひ弱で鈍くさくてダサい男の子は、あの眼鏡と黒い学ランの下で着実に変化していた。
 手が大きいと背がよく伸びるのよ、とあいつの手をほめていた母が嬉しそうにあいつを見上げている。夫を亡くして数年。成長期に入った息子に頼もしさを感じているのだろう。
 高校受験の頃には、かんぴょうのようにひょろひょろとしていた胸板に厚みが出て、肩もがっちりとし、それなりに見栄えがするようになっていた。
 バレンタインには一個、女の子からチョコレートをもらってきた。しかし、あいつは相変わらず自分を鈍でひ弱で暗い男の子だと思っているようで、彼女の心に応えるなど思いもよらなかったに違いない。あっさりと母に手作りと思しきそのチョコをあげてしまった。
「まあ」
 呆れながらもちょっと嬉しそうな母の顔が忘れられない。
 そして、あたしも心の底でほっとしていたことに気付いたのだ。
 それは単に、暗くてひ弱で鈍くさい双子の弟の方が先にモテたのが悔しかったからではなく、気のある女の子がいないというそのことに安堵したのだ。
 高校に入って、仲のいい男の子ができた。
 彼とは話も合うし、馬も合う。同じところで笑いあえるし、何も言わなくてもあたしの気持ちを分かってくれる。まるで彼の方が一緒に生まれ育った双子の弟のようだった。
 うすうす、向けられる好意にも気づいていた。
 夏期講習のうだうだと長い現代文の解説を耳で聞き流しながら、あたしは窓に映る彼を見つめる。
 彼ならきっとあたしのことを大切にしてくれるだろう。あたしもきっとすごく楽しく毎日を送れる。
 彼にさえ恋ができれば。
 あたしの視線に気づいて、彼があたしを見つめ微笑む。
 あたしになつく犬のようだ。かわいい。愛おしい。
 でも、それだけだ。
 この胸の奥に疼くものほど、あたしの心を焦がしてはくれない。
 彼の視線を受け止めながら、同じ窓に映るもっと廊下側のあいつの姿を探す。視線が合わないようにぼんやりと、視界に入れるだけだ。
 あいつも窓の外を見ているようだった。
 祖父の本棚の本を愛読するあいつのことだ。現代文の授業など、聞くだけきっとつまらないことだろう。
 彼の視線が外れて、視界の中のあいつが窓辺から練習問題を解くために机に顔を俯けたのを確認して、あたしはそっとあいつの姿を盗み見る。
 背がまた大きくなった。机と椅子の間で目立たぬよう背中を丸め小さい自分を装っているが、周りからはもうそうは見えない。眼鏡はまた厚くなったらしい。すっと伸びた鼻筋と高い鼻、端の引き締まった唇。
 父に似ている。
 母がそう言っていたが、あたしもそう思う。小さい頃は何とも思わなかったけれど、仏壇に飾られた写真の中の父は、確かに女性が好みそうな顔立ちをしていた。眼鏡さえかけなければもっと女子から人気が出ただろうが、コンタクトというものがあるということなど、絶対に教えてやるつもりはない。本を抱えたまま居間のソファで寝てしまった時のずれた眼鏡の隙間から覗く寝顔も、お風呂上りにハーフパンツとTシャツ一枚で眼鏡をかけずに冷蔵庫からミネラルウォーターをがぶ飲みする姿も、全部あたしだけのものだ。
 何より、あの大きな手はあたしだけのものなのだ。
 あの手はあたしを守るためだけにあって、あたしを支えるためだけにある。
 あいつはあたしのもの。
 あたしだけのために存在している。
 あいつがいない隙を見計らって、元祖父の本棚を訪れた。
 エレクトラはまだ同じ場所にあった。ぱらぱらとめくる。やっぱり理解できない。
 それでも、いけないと思うのに身を委ねたくなってしまう衝動はわかるようになっていた。
 衝動を押し殺すために、あたしのあいつへの態度はよりつっけんどんであからさまに生活時間帯から避けるものになっていく。学校で見かけて違うクラスに戻った後、よくなついた犬のような彼がご機嫌伺いに来て笑いあおうとも、心の裡はしばらくは冷静ではいられない。彼女はできていないだろうか。好きな子は? 誰もあいつのことをほめそやしてはいないでしょうね。
 あたしはギリシア神話のヘラのようだ。
 そう気づいたら、たまらなくこの気持ちをあいつにぶつけてやりたくなった。
 あたしのことは言わなくても何でもわかる彼は、うすうすあいつのことに気づいていたに違いない。つっこまれたくなくて、二人きりになるのを避けるようになった。そのくせ、図書館帰りにあいつと彼が仲良くじゃれあっているのを見かけると、紙をくしゃりとしたくなるような衝動に駆られた。
 あいつに嫉妬したんじゃない。彼に嫉妬してのことだった。
 二年に進級して、何かを言いたげに二人きりになりたがる彼を避けきれなくなった。
 梅雨の頃。
 図書室に来て。
 じゃれて囁きあう会話の中で、直接口頭で呼び出された。
 覚悟を決めなければならないのだろう。あいつへの不毛な気持ちに決着をつけて、彼の囁きに乗るのだ。
 思えば去年の夏からずっと望んできたことではないか。何を躊躇うことがあろう。
 それなのに、図書室についたら、扉を開ける前にあいつが出てきた。
 いつもの仏頂面で。しかし、何かを言いたそうにあたしを見つめた。
「春香」
 久方ぶりに聞いた声は、低く落ち着いたものになっていた。
 心が揺らぎそうになってあたしはあいつから顔を背け、図書室に入った。
 彼はあたしが望むような告白はしてくれなかった。
 すでに失恋したような顔で一言、あたしに言った。
「あいつは春香のこと好きだよ」
 あたしは図書室を飛び出した。
 部活にのめり込むこともできず、あいつが家に帰りつきそうな時間を逆算し、九時前に帰る。
 その日は、先に帰ったあいつが作ったご飯だった。あいつが作るご飯は母が作るものより少し味付けが濃くなる。
 いつも通りそっけなさを装って無言で食卓につく。それなのに、あいつは無神経にも言葉をかけてきた。
「春香、断ったの? 告白されたんでしょ?」
 思わずあいつの顔を見つめてしまう。目を見開き、それ以上触れるなと睨みつける。
「あんたには……関係ない」
 押し殺した声がしっかりと音になって伝わったかどうか、沸騰した頭では判別が難しかった。
「好きだったんじゃないの?」
 かちん、と固くなった頭に小石を投げつけられたような思いがした。
「うるさい」
 ようやく放った言葉は怒りの炎で燃え上がり、一方で悟られたのではないかと怯える気持ちをご飯で飲み下す。
「母さん、パートだって」
「知ってる」
 できるだけそっけなさを装おう。あたしがあいつに何か思うところがあるなんて、決して悟られないように。彼からあいつもあたしのことが好きだと聞いて、不覚にも何かを期待してしまったなど、決して悟られないように。
 それなのに、あいつは名を呼ぶ。
「春香」
 居間から出ていきかけたのに、わざわざ戻ってくる。
 あんたには関係ないでしょう? あたしが彼に告白されようと、あたしが彼を振ろうと。
「キスでもされた?」
 心配そうな目とは裏腹に、あいつの言葉は容赦なく図書室でのことを探ろうとしてくる。
「セクハラ」
 ようやくの思いで、これ以上踏み込むなと言っているのに、あいつはさも訳知り気な顔でのたまった。
「あいつ、春香のこと好きだよ。僕を懐柔するために今年もまた図書委員なんかになって。でも、いい奴だと思う。春香だってあいつといる時……」
 我慢の限界だった。
 とっさに掴んで投げつけたのが、沖縄であいつが作ってくれた箸置きだったのはあたしの失策としか言いようがない。
 星を抱く紅蓮の華は割れてしまった。
 あたしの世界は、壊れてしまった。
「何で捕らないのよ! 割れちゃったじゃない!」
 え? と素で茫然とするあいつに、あたしはもう苛立ちが隠せなかった。
『あいつは春香のこと好きだよ』
 悲しそうに、でも励ますように優しく言った彼の声が耳元に蘇る。
 好きじゃないよ。きっと、こんな癇癪持ちのことなんか好きじゃない。
 あっちへ行って。もういいから、あっちに行ってよ。
 そうじゃなきゃ……
「懐かしいね。沖縄に行った時の」
 目の前に二つに割れた箸置きが置かれた。
 真っ二つだ。そして、傷口は修復不可能なほどぐちゃぐちゃだ。
『大丈夫だよ。僕がいる』
 十二歳だった、声変わりもまだのあいつの声が耳元で聞こえた気がした。
 何度も何度も、頭の中で再生したあの声、あの言葉。
「優しくしないで」
 声と手が裏腹に動いていた。
 抑制するための声はもう、手の動きを止められなかった。
 あたしの手は、あいつの洗いざらしのコットンシャツの裾を握っていた。
 万事休す。
 古臭い言葉だけど、これほどぴったりとくる言葉はなかった。
 どうする、あたし?
 どうしてくれるの、夏也?
 いいんだよ? 掴んで引き寄せてくれたって、いいんだよ?
 あたしはそれを望んでいる。
 多分、きっとずっと、それを望んでいた。
「離して」
 下された審判は、重々しく低く、あたしの想いを打ち砕いた。
 ぎゅっと握りしめる。
 離してほしいなら、振り払ってくれればいい。それとも、その手でもうあたしには触れたくない?
 ようやく、あたしは夏也のシャツの裾を掴む自分の手を見た。
 子供の手みたいだった。
 迷子の子供がようやく見つけた保護者に掴まるかのような、必死な手だった。
 指を解くのにもう片方の手を用いなかったのは、プライドだ。
 心が弱った子供が、ちょっとがっついただけ。
 恋、なんかじゃない。好き、なんかじゃない。
 これは、違う。
 あたしは、弟に、縋ろうとしただけ。
 よすがにしようとしただけ。支えにしようとしただけ。その手に――触れたかっただけ。
「嫌いじゃないんでしょう? あいつならきっと大切にしてくれるよ」
 思わず、振り仰いでいた。信じられない思いで、あいつを見上げていた。
 いつの日か、守ると言ったその口が、あたしの心を最大限に切り裂いた。
 あいつはあたしを見なかった。
 真っ二つだった。
 目の前に置かれた割れた紅蓮の華の箸置きのように、流れない血が息を止めた瞬間をあいつにも見せられたらよかったのに。
 はじめて、あたしはあいつに泣かされた。
 泣きはらした目のあたしが、朝、顔を洗っていても、あいつは何も言わなかった。一瞥だけして先に学校へ行く。
 彼は、やはり何があったか気づいたのだろう。
 おれと付き合おう、と言った。
 いいよ、とあたしは言った。
 夏休みに入り、彼と花火大会にいっしょに行く約束をした休み時間の後、眠くなる午後の講習。あたしはふと視線を感じて窓辺に視線を向けた。
 彼があたしを見つめていた。
 微笑んであげると、彼はしっぽを振らんばかりに喜びをあらわにして、少し照れ、わざとらしくきりっとした横顔で授業に没頭しているふりを始めた。
 ふふ、かわいい。
 なんて安らかなんだろう。彼との毎日は。
 これでいい。これでいいんだ。
 口元に笑みを噛みしめる。
 その瞬間、だった。
 窓鏡越し、あいつと目が合っていた。
 無意識に、目はまだあいつの姿を探していたのだ。
 空恐ろしくなって、あたしは目を閉じた。
 目を開ける。
 まるでさっきの瞬間はあたしだけが見た幻だったかのように、あいつは真面目に前を向き、授業を受けていた。
「えー、ここに出てくる琥珀とは、みんなもよく知っているように――」
 教師のだみ声が遠ざかる。
 エレクトラには琥珀という意味があると聞いたことがある。あいつが教えてくれたのだったか。
 それならばあたしも、琥珀に眠る羽虫のように降り積もる樹液の中でひっそりと息絶えてしまいたい。
 二度とこの想いが外に出てしまわぬように。

〈了〉
201406240553
弟視点『さなぎ