invitation to the blue

 春三月の空は吸い込まれそうだ。長い冬の灰色の空が少しずつ色づいて、灰白く靄がかった青でも遠くまで連れて行ってくれそうな気がする。いや、だからこそ不透明な先行きの果てにうっすらと見える青に希望をのせたくなるのかもしれない。
 夏の空は拒絶する。一面にみっしりと敷き詰めた青で圧迫し、勝ち上がる気力のある者でなければその先を見せてくれない。
 だから、わたしは春の空が好きだ。何が起こるかわからないわくわくに満ちている。
 寒さの緩んだ風が運んでくる萌黄の匂いに包まれて淡い空を仰ぐ瞬間が、何にもまして切なくて、満ち足りている。
 そんなことを思う余裕も、ここ五、六年はなくしていた。
 大学を卒業して何とか少ない採用人数の試験に合格して手に入れた教職員の職。教育実習の時からわかってはいたつもりだったが、子供はかわいいばかりではない。分かりやすい授業を心掛けていたつもりが、いつの間にか子供たちのご機嫌取りの授業となり、親御さんたちからの意見に怯え、同僚たちのおしゃべりが恐くなり、気が付いたら灰色い冬のトンネルを這いつくばって進んでいるような状態になっていた。
 理想?
 そんなものあったかしら。
 夢?
 いつの?
 誰にも目をつけられないように、嫌われないように、正しいと思うことでも口を噤み、自分を押し殺し、おもねるような笑いを浮かべ、急流に押し流される木の葉のように周りの言葉や態度に翻弄されながら生きていたら、気が付いたら周りには誰も信じられる人はいなくなっていた。
 それどころか、本来の自分さえ鏡の中に見出せなくなっていた。
 一体わたしは誰だったのか。
 一体わたしは何のために教職員になったのだったか。
 何を教えたかったのだろう。子供たちに。
 勉強? 算数? 国語? 理科、社会?
 そんな通り一辺倒な科目を分かりやすく教え、理解を深めさせ、授業での躓きを少しでも減らしてあげるために学校の先生になったのだったか。学校の児童生徒の学力向上に努め、県下一を争う進学校にのし上げるために学校の先生になったのだったか。
『先生、そんなこともう塾で習いましたー』
 生徒たちに背を向け、緑の黒板に白チョークで本日の重要ポイントを書きだしたとき、背後で生徒が呆れたような声を上げた。続いて周りの生徒たちもくすくすと笑いだす。わたしの肩甲骨はぎゅっと強張り、肩はそびえあがった。
 今日の授業はこれを教えること。つまずきやすい部分だからこことここを丁寧に解説して――生徒の理解を手助けしてあげること。
 それが今日のわたしのめあて。
 授業を始める前に、昨日の夜準備しているときからずっと心に言い聞かせてきたこと。
 だけど彼らは、それをもう知っているという。分かっているという。
 じゃあ、わたしは一体何を教えたらいいの?
 生徒たちの全員が全員塾に通っているわけではないことを、わたしは知っている。
 塾に通っている生徒でも、復習に重点を置いた塾に通っている子がいることも知っている。
 けれど、彼らは拒絶している。
 わたしの授業を拒絶している。
 すでに習ったことを繰り返すな、蒸し返すなと、あざ笑いながら拒んでいる。
 どうしてお前はそうなのか、と、わたしを拒絶している。
 夏の空のように。
 灼けつく思いがした。
 触れることはおろか見ることさえ危険な夏の太陽に炙られて、自分が焦げついてしまうような気がした。
 その場を何と言って乗り切ったのか、わたしは覚えていない。
 終業のチャイムとともに逃げるように教壇を去り、廊下に転げ出で、追い詰められていく呼吸の苦しさにあえいだ。しかしほどなく生徒たちも廊下に出てくる。しゃがみこみそうになった自分の尻を叩く思いで、わたしは職員用のトイレに逃げ込んだ。職員室にはとても、戻れなかった。
 古く昭和の香りのするモザイクタイルと錆びた配管が張り巡らされた無彩色のトイレの中で、息を押し殺し胸を押さえる。泣く、という選択肢はなかった。涙袋は空になったままのようだったから。ただ、抑え、堪え、落ち着け、と自分に命令する。それだけで精いっぱいだった。
 銀色の窓枠にはめ込まれた六角形のぼこぼこが安っぽく見える網入りのすりガラスは、ぼんやりと雪が積もっている様を透かしだしていた。
 夏じゃない。
 今は冬だった。
 耐え忍ぶ冬。
 堪える冬。
 雪雲が低く垂れこめるモノクロの中で、歯を食いしばって潰されないように、身動き一つせずただ厳寒が去るのを待つだけの冬。
 でも、いつまで?
 いつになったら冬は終わるの?
 空を見上げたって灰色一色。周りを見渡したって真っ白なまま。息すらも凍りつくかのように白い。
 そんな中で、一体何を信じろというのだろう。
 寄るもののなさに、ガラガラと音を立てて胸の中の何かが割れ落ちていった。
 ああ、泣くのは新採の時だけだと思っていたのに。
 大人の世界の理不尽さに洗礼を浴びた一年目くらいのものだと思っていたのに。
 ぬるま湯につかっていた大学生活から抜け出すためのイニシエーションなのだと言い聞かせて、大人の世界の常識に染まるよう、でも、まだ残っていた気骨で染まりすぎないよう、注意深く真偽を見定めながら自分の正義を確立してきたつもりだったのに。
 いつわたしは自分の正義を見失ったのだろう。
 これだけはするまいと決意していたのに、困っている後輩の苦境を見て見ぬふりをして自己保身の大人の狡さに染まった時か。
 自分の力のなさに同僚たちの陰口が追い打ちをかけた時か。
 他愛ないはずの子供たちの笑い声に含みを感じはじめた時か。
 声をあげて泣くわけではない。
 鳴き声をこらえるためにすすり泣きの声を漏らすわけでもない。
 ひきつけたように呼吸が乱れることもない。
 ただ、左目からうっすらと滲んだ涙が滑り出し、頬の途中で蒸発していった。
 泣いてはいけない。
 泣いたら目が赤くなる。
 赤い目で職員室に戻ったら心配される。いや、何を言われるかわからない。次の授業の教室に戻ったら、なおさらどうなるかわからない。
 立て直す。
 寄る辺など無くしてしまったけど、空っぽの張りぼてみたいなプライドで目に力を込め、これは花粉症の先駆けなのだと思いついた言い訳を心の中で復唱する。
 花粉症。
 そんな言い訳が通る季節になっていたのだ。
 もうすぐ暦の上では春になる。
 あの子たちも卒業して、次の新しいステージへと旅立っていく。
 緊張してあの子たちを教室に迎え入れた春。仲良く修学旅行で写真を撮った夏。受験でぴりぴりしだした子たちのイライラが教室中に感染しはじめた秋。すっかり別の世界の住人になってしまった冬。
 全て嘘だったのだろうか。あの子たちの気遣いと演技と我慢が積み重ねられてきた結果だったのだろうか。
 おどおどとするわたしに苛立ちを見せ始めていたことには気づいていた。
 どちらが上なのか。嫌われてもわたしの方が上なのだと胸を張って、言うべきことを言いやるべきことをやらせなければならなかったのに。
 それからも休みを取る暇などなかった。面談に受験に卒業式の準備、そして、卒業式。
 感謝などされていなかった。
 何を期待していたのだろうと思うほど、あっけなくあの子たちはこの教室を、校舎を後にしていった。
 校門で彼らを見送り、ぼんやりとしているわたしに、教頭は肩を叩いて休みを取りなさいと言った。
 突然もらった一週間の休みに、わたしは何をしていいかわからなかった。
 一日目と二日目をぼんやりと一人暮らしのアパートの自室で過ごし、ようやく、しばらく郵便受けを見ていなかったことを思い出した。
 部屋着にオーバーを羽織った姿で郵便受けを確かめに行くと、溢れんばかりの広告とダイレクトメールの他に、電気やガスの検針票、カードの請求書などが二月初めに遡って大量に出てきた。その場で全部捨てたくなったが、個人情報個人情報といい聞かせて部屋に持ち帰る。
 開かなくていいものはゴミ箱へ。
 開いて金額を確かめたものもゴミ箱へ。
 何も真新しいものはない。
 そう思って最後の茶色の封書に手をかけた。
 マッサージのサービス券でも入っているのだろうと思っていたその封筒には、見れば後納郵便の印ではなくちゃんと切手が張ってあり、手書きでわたしの名前が記されていた。
 門山彩子(かどやまさいこ)様。
がくがくと角ばったり狭まったりした男の人のあまりうまいとは言えない文字。
 よく見かける部類の下手な文字だ。だけど、何となくわたしはその文字に見覚えがあるような気がした。
 裏を返してみると、奥付にはしばらくぶりに目にする小学校の同級生の懐かしい名前があった。
 新実哲(にいみてつ)。
小学校最後の年に同じクラスになったクラスの学級委員長。真面目でしっかり者で勉強もスポーツもできる秀才だった。そして、こっそりわたしの気になる人だった。学年の女子は口にするしないは別にしてみんな彼に憧れていたのではないか。そう思うほど、典型的なよくできた人だった。中学卒業後は県下一の進学校に行って、でも、その後は分からない。字が下手なのが難点だと、そこだけはいつもみんなに笑われていた。
 千切りあけられた今までの郵便物をしり目に、重い腰を上げてテーブルにカッターを取りに行く。中の文書を破いてしまわないように、でも根拠のない胸の高鳴りに突き動かされるように封を切る。
 中の文書はさすがにワードで打たれたものだった。
 桐山小学校第百二十六回六年月組卒業生のみなさま。
 そう宛名された文書は、小学校の卒業式の日に校舎の木の下に埋めたタイムカプセルを掘り出す時が来たことを知らせる内容だった。
 成人する二十歳の時でもなく、十年後の二十二歳の時でもなく、十七年後の『三十歳になる二十代最後の時に掘り起こしませんか?』そう言いだしたのは、当時三十路に入ったばかりの担任の先生だった。
 当時は三十路といえばもう大人も大人、おじさんおばさんと呼ばれるような年だと思っていたけれど、そうか、自分ももうそんな年になるのだ。
 一体、そんな年になるというのに自分は何をしているのだろう。結婚しているわけでもなく、子供がいるわけでもなく、恋人すら影が見えない。こんなにも一人でいる時間が長くなるとは、あの頃は予想もしていなかった。行けばきっと、たくさんの子たちが子連れで来ていたりするのだろう。
 じり、と灼き焦げるにおいを嗅いだ気がした。
あの春三月のうす靄のかかった青空の下、標になるようにと植えた常緑の木の下に集まるみんなの姿が浮かぶようだ。
 何人、来るのだろう。
 みんな集まるのだろうか。
 仲の良かったみっちやありさは来るだろうか。ちょっと苦手だった川田さんは?
 全員あわせて四十人。
 昔の一クラス分。
 今では多いくらいの人数だけど、あの頃は標準的な人数だったはずだ。その中に、本当にいろんな人たちがいた。たくさんのグループがあって、みんな思い思い遊んだり騒いだり、それでも運動会や文化祭の時にはなぜか一丸となって取り組むクラスだった。
 わたしの一番大好きだったクラス。
 タイムカプセルを作ろう。
 そう言いだしたのは誰だっけ。
 先生じゃなかった。誰だっけ。誰だっけ。
 一番言いそうなのはクラスの人気者の高藤君? それとも義務感が強めの委員長?
『大人になると将来の夢とか、昔キラキラしていた時のこと忘れてしまうんだって。だから、忘れたころに思い出せたらいいよね』
 誰かがそう言った。あれは女の子の声だった。
 そうしたら、担任の藤原先生が言ったんだ。
『それなら皆さんが三十歳になる二十代最後の時に掘り起こしませんか?』
 とても穏やかに、先生は微笑んだ。
 何か、その年に取り戻したものでもあるかのように。
 行ったら逆に自分がもっとみじめになるんじゃないかと思った。今を輝いている人たちの姿を見て、ほんと自分って駄目だと烙印を押して帰ってくるだけになるんじゃないかと。
 今を輝いている人たち。
 そうなんだ。わたしはあのクラスのみんなひとりひとりが今もきらきらと輝いた人生を送っていると思っていた。それ以外の姿など、思いつきもしなかった。
 やめよう。
 閉じた瞼の裏に、穏やかな先生の微笑が蘇ったけれど、わたしは自分に言い聞かせた。
 これ以上、みじめになんかなりたくない。
 そう言い聞かせてもう一度目を開ける。
 ワードで打たれた文書の最後には、汚い字で追伸が書かれていた。
『欠席の場合、所有者確認のため、その場で中に入っている作文を代読させていただきます。』
 何度か瞬いて、もう一度文字を追いかけて目を見開く。
「代読って……!!」
 叫んで、慌てて出欠確認の締め切りを確認したが、それはなく、当日お越しくださいと記されていた。
「掘り起こす日って何日よ!?」
 文面に目を走らせる。
 三月二十七日。
 明日だった。

 電車に乗り継ぎ、たどり着いた時にはもう日差しは午後のけだるさを含みはじめていた。
 集合時間は午後一時半。
 集合場所は小学校裏の小さな丘のタイムカプセルを埋めた木の下。
 手書きで書かれた省略されすぎの添付地図は、宝探しにでも行くような気がして、なんだかわくわくした。
 そう、わくわくしたんだ。
 久しぶりに見上げる故郷の空は、思い描いた通りのあの日の靄がかった薄い水色。優しく希望の光で奥まで導いてくれるような空の色。
 そのわくわくの下の方では、わさわさと灰色の不安が蠢いている。
 中学校に入学する時にクラスの何人かとは別々になり、高校に行った時には二、三人くらいになった。大学に入った時には、もうあの時のクラスメイトは誰も周りにいなかった。そういえば成人式の時に何人かとは再会して連絡先も交換したが、連絡を取り合っている人は特にいなくなっていた。
 そんなものだ。人生のステージが進めば付き合う人たちも変わっていく。だから、ふと思い出したときに会いたくなるのかもしれない。懐かしく思うのかもしれない。
 いや、ここに至るまでのわたしを知らない人たちだからこそ、わたしは彼らに会うことで昔の自分に会おうとしているのかもしれない。
 わくわくは丘を登るにつれて不安を含んだどきどきに変わっていた。その不安は目印に植えた木が大きくなり、近づいてくるのを見るほどに高まってくる。
 がやがやと聞こえてくる人々の話し声。時に上がる子供の声。
 やっぱり、ね。そう、だよね。
 言い知れない失望は子連れの彼らに向けられたものではなく、自分に向けられたものだ。
 さて、みんなは他の誰かと一緒に来たのだろうか。一人で来たのはわたしだけだったりしないだろうか。
 こんな時なのに疎外感を味わう心配をしている自分が情けない。
「それにしてもひでぇよな。今日平日だぞ? ふつうはこの忙しい時期に休みなんかとらせてもらえねぇよ」
「俺は平日休みだから助かったけどな」
「私なんて明日から岐阜に引っ越しよ。旦那の転勤、先週決まってさぁ。もう頼み込んで一日引っ越し伸ばしてもらっちゃった」
「めいちゃん、子供何歳になったの?」
「三歳。今日は実家に預けてきちゃった」
「いいわねぇ。うちなんかまだ六か月だから離れるとすぐ泣くのよ」
「三鷹、お前髪どうしたんだよ」
「るっさいわいっ」
 ざわざわとした喧騒の中からいくつか会話が聞き取れはじめる。その中には懐かしい名前もあったり、申し訳ないけど誰だっけと頭の中を検索しなければならない名前もあったりして、いい意味でも悪い意味でも緊張が高まる。
「門山さん!」
 あともう少しで丘の頂上に着く。
 その場所で、わたしは後ろから誰かに呼び止められた。
「よっ、ひさしぶり」
 軽く肩を叩かれ、追い越したその人はわたしを振り返る。
 短く刈り込んだ前髪を逆立て、日に焼けた肌のいかにもスポーツマンぽいこの人は――
「高藤君?」
 当たりばかりに高藤君はにいと白い歯を見せて笑む。
「成人式以来だな。元気にしてたか?」
 うん。
 そう頷くのがやっとだった。声は高藤君まで届いていたかは怪しい。懐かしさで目が熱くなっていくのが分かった。
「なんだよ、泣くのはまだ早いぞ。もう始まるから早く来いよ」
 そう言って高藤君は先に丘の上に行ってしまう。
 わたしも涙を呑みこんでようやく丘の上で、昔小さかったはずの大樹を見上げた。
「うわぁ」
 思わず感嘆の声が漏れる。
 十七年でこんなに大きくなったんだ。
 ちゃんと成長していたんだ。
『あーやーちゃん!』
 聞き覚えのある二人の声が斜め後ろから聞こえて、わたしは反射的に振り返った。
「あやじゃないよ、さいこだよ!」
 はっと口元を押さえる。
 振り返った方からはきゃははと笑い声が聞こえた。
「ほらね。絶対そう返すって言ったでしょ」
「ほんとだー。変わってないねー、あやは」
「だからあやじゃないって言ってるでしょ! みっち、ありさ!」
 化粧をしていようが、年相応の体型に変わっていようが、彼女たちのことは反射的に名前を呼んでいた。呼んでしまってから、当時の面影を彼女たちの中に探したくらいだ。少女のように抱き合って、再会を喜び合う。
 ここにくるまで、小学校六年の時の自分はどんなキャラだったかとか、どんな風にみんなと関わっていたか、どう演じようか悩んでいたのがウソみたいだった。一瞬にしてわたしは二十九歳十一か月と十七日の皮を引きはがされて、十二歳十一か月と十七日の素の自分に戻っていた。
 ああ、これが自分だ。
 一番きらきらしていた時の、素の自分だ。
「あやちゃんは変わらないねぇ」
「みっちは……」
「どうせ太ったって言いたいんでしょ? もうね、三人も産めばこれくらい肉ついてないとやってられないのよ」
「えぇっ、三人も?」
「そうそう、すごいんだよ。みっちの一番上のお兄ちゃんなんてことし小学校なんだって」
「えええっ。そ、それでありさは?」
「あたしはまだまだよぉ。結婚なんて老後の資金ためてからでいいと思ってるから」
「何言ってんの。恋が多すぎて一人に決められないだけでしょ」
「もうやだぁっ、なんてこと言うのよぉっ」
 いかにも大人の女性の色気が身についたありさはばしばしとみっちの厚くなった背中をはたく。
「もしかして二人ともずっと連絡取りあってたの?」
「そうなのよ。ありさとは短大も一緒だったからさぁ。もう腐れ縁よね」
「あやだって成人式の時にメアド交換したじゃない。でも、やっぱり遠くにいると、ね、あまり遊びにも誘えなくてさ」
「そうよぉ、帰ってくるときくらい連絡くれてもいいのに」
「そ、そうだよね〜」
 ちりりと胸を灼いた疎外感を払拭するように、強張りかけた顔に作り笑いを貼りつける。
 あーあ、せっかく一瞬昔の自分に戻れたと思ったのに、これじゃあまたいつもの今のわたしだ。
「よし、みんな揃ったかな」
 ざわざわした空気の中を通る声が響き渡って、みんなは一斉に木の方を向いた。
「四十人、全員だ」
 眼鏡をかけた地味ながらもどこか根底に爽やかさとかっこよさのにじむ笑顔を浮かべたのは、当時の学級委員長の新実君だった。
 女子たちの空気が一瞬沸き立つ。そしてみんな、顔を見合わせてちょっと恥ずかしげに笑う。
 新実君は思い出したように笑みを深め、目を伏せる。
「新実ー、あの下手字の脅し文句、最強に怖かったぞー」
「そうそう、あれ見たらもう欠席なんかできないと思ったね」
「何の脅迫文かと思ったぜ」
 みんなから口々に非難を浴びせかけられた下手字以外オールマイティの学級委員長は、苦笑しながら開き直った。
「おかげで全員、再会できたじゃないか」
 どっとみんな笑いだす。
「何開き直ってんだよ」
「委員長、性格悪すぎ」
「うわぁ、あこがれの委員長がぁ」
「お前、変わりすぎだって」
 さらに愛情のこもった集中砲火を浴びて、学級委員長はまぁまぁ、と昔やっていたように両手でみんなを鎮めにかかる。そんな中、一人の女性が声を上げた。
「あれ、先生は? 藤原先生は呼んでないの?」
 みんなの視線は彼女に集まる。彼女、川田さんに。
 きりっとした眉、赤い唇、正義感の強い目。でも、その目はかえって批判的でもあり、強すぎる光を宿しているようでもあり、わたしはその目やちょっと威圧感を感じさせるその声が苦手だった。
 みんなは再びざわざわと先生の行方についての情報を交わしはじめる。
 藤原先生。
 わたしたちが卒業した時、三十歳だったっけ。今思えば結構若かったんだ。確か奥さんもお子さんもいたはずだけど、優しくて穏やかで、やんちゃなわたしたちを否定したり枉げたりせずに一年間ずっと見守ってくれた先生だった。
 あんな先生になりたいと……ああ、そうだ、わたし、確かそう思ったんだ。
 だから大学は教育学部に入って、小学校の先生を目指したんだ。
 あの時の先生はあんなに大人だったのに、今のわたしはどうしてこんなに子供のままなんだろう。
「高藤」
「はいよ。藤原先生ならこちらにいらっしゃいますよ、っと」
 学級委員長の指示に従って、おどけたような言いぐさで高藤君が大きめのノートパソコンの画面を掲げた。
 その画面の中には病院の屋上らしき風景と青空が広がっている。
 どよめきが上がる中、カメラは角度を下げて、スーツに身を包み、上からフリースを羽織ったちょっとやつれた先生の姿を映しだした。
 どよめきは一瞬静まり、悲鳴に変わる。
「先生!」
 先生、先生、先生。
 引き寄せられるように全員が高藤君の掲げるモニターの下にぎゅっと集まった。
「いやぁ、このような姿での再会となってしまって申し訳ありません。皆さん、お元気でしたか?」
「うわぁぁぁっ、先生!」
 泣き崩れる数名。
 わたしは、みんなと同じようにモニターの下に駆け寄ったものの、あまりのことに声も出ない。
 さんじゅうたすじゅうななは、四十七。
 五十、手前。
 思ったよりも、老けていない。学校の同僚の同じくらいの年の先生たちより、老けてない。だからこそ、病が蝕んだのであろうやつれ具合が余計痛々しい。
「それでは、これより桐山小学校第百二十六回六年月組卒業生による、タイムカプセルの掘り起しを始めたいと思います」
 厳かに学級委員長が始まりを告げた。
「はじめに発起人のわたくし、六年月組元学級委員長の新実哲から一言」
 先生の姿の衝撃と急速に冷えて厳かになった雰囲気の中、学級委員長の司会に誰かがぷっと噴き出した。
「自分で司会して自分で一言かよ」
 ぷぷっと他の誰かも笑う。
「しょうがないだろ。地元に残ってたのが俺と高藤だけだったんだから」
 さらりと告げられた事実に、みんなはえっ?と顔を見合わせる。
 わたしも、みっちやありさを振り返る。
「ああ、あたしたち地元に残ってるって言っても、隣町の方にいたから」
「そうそう、この街にずっといたわけじゃないんだよね」
 そっか。県外に出てしまっていたわたしなんて、本当に遠い存在になってしまってたんだ。
 あれ、でも、学級委員長、ここに残っていたの? 隣町の県下一の進学校に行ったんじゃなかったの? え、その後は?
「では一言。本日は北は北海道、南は沖縄からお越しくださいまして、誠にありがとうございます」
 再びざわめきが起こる。
「いくら何でもそりゃ大げさだろ?」
「いや、俺北海道、網走。試される大地」
「あ、わたし沖縄〜。旅行で行ったら気に入っちゃって」
「マジかよ」
 誰かが全員の弁を代弁してくれて、視線は再び大きく育った木の下の学級委員長へ。
「本日の目的は旧交を温める、その前に、十七年前に埋められた我々の当時の夢のかけらを回収することです。一体何が書かれているのか、わたくしもすでにはっきりとは思いだせませんが、何となく、予感はしています。きっと、それは十七年前は大事な宝物で、十年くらい前であれば破り捨てたいような恥ずかしい産物だったことでしょう。でも今は、もしかしたら違う感慨を受けるのではないか、とおもうのです。十七年前の自分に会えるのではないか、と」
 はっとした雰囲気になったのは、きっとみんな同じ予感を胸に集まっていたからかもしれない。
 十七年前の自分に会う。
 それが、今日の一番の目的。
 子供がいても一人ぼっちでも、仕事漬けでも、ニートでも、誰もが持っている十七年前の自分。一体当時の自分が何を考えていたのか、何を思って過ごしていたのか、何を夢見ていたのか、どんな大人になっていたかったのか。
 思い出したい。
 その思いを揺さぶられて、ここにみんなやってきたのではないだろうか。
 十七年前、わたしはどんな門山彩子だったのだろう。
「それでは、次に当時担任をしてくださった藤原恒(ふじわらひさし)先生からお願いします」
 高鳴った想いを鎮めるように学級委員長が続ける。
 高藤君がモニターを再び高く掲げる。
「皆さん、改めましてこんにちは。お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「元気だったよぉっ」
「先生〜っ」
 泣きつく女生徒たちに先生は微笑む。
「今日は四十人全員が集まってくださったんですね。一堂に会す機会などもうないものと覚悟していましたが、嬉しい限りです。ただ一つ心残りなのは、私がそこに直接赴けなかったことです。このような姿でお会いすることをはじめは迷いましたが、しかし、姿を見せないというのもますます皆さんにご心配をかけることになりましょうし、何より、いま、私は心からあなた方にお会いしたかったのです。新実君と高藤君のお誘いに甘えてしまったのは、私のわがままです。この中継がつながるまで、ずっと逡巡していましたが、しかしこの中継をつないでもらって本当によかった。皆さんに会えてよかった、今は心からそう思えます。私事となりますが、二週間ほど前に私は肺がんで入院しました。来週手術の予定です。ごく初期のものですので、ご心配には及びません。もしまた機会があるのなら、次はきっと皆さんと同じ場所に立っていられるはずです」
 ここに。
 次は先生も一緒に。
「十七年前、タイムカプセルを埋めることになった時、私は掘り起こすのは三十歳になる直前がいいのではないかとお話ししました。覚えていますか? あまり、余計な助言はしないよう心掛けていたのですが、実は皆さんとお会いする直前、三十歳になる直前の三月、私も同級生たちとその昔埋めたタイムカプセルを掘り起こしていたのです。小学校を卒業する時に埋めたものです。そこで私は、失いかけていた自分を取り戻した。成功も挫折も失敗もたくさん繰り返して、気づいたら三十歳が目前になっていました。それなのに自分は大した大人になれていなかった。いつまでも子供のままのような気がして焦っていたのです。大人になったら何かが劇的に変わって、素晴らしい人生になるものだと、心のどこかで信じていたのです。笑ってしまうでしょう? でも、きっと笑えない人もいるはずです。その様子だと、皆さんそうなのかな?」
 先生がみんなの顔を見回すのに合わせて、わたしたちも周りを見回す。
 みな、神妙に強張った顔をしていた。
 お前もか。ああ、あなたもか。
 そんなため息が聞こえてきそうだった。
「前だけを見て生きていたはずが、いつの頃からか後ろを振り返り、時に取り戻したいと願うようなことが増えていました。取り戻せないものほど強固に欲するようになっていました。朝まで飲んでも一限目から号令をかけられる若さとかね」
 ふっと空気が緩む。
「新実君がお話してくださいましたが、今から皆さんは十七年前の自分と再会することでしょう。その時の気持ちを忘れないでください。苦くても、あまじょっぱくても、甘すぎても、辛くても、もしかしたら何の味もしなくても、その時の自分を迎え入れてあげてください。長くなってしまいましたね。私からは以上です」
 ほうっと皆一様に一息つく。安堵じゃない。これから対面の心構えをするために吐き出された息だった。
「それではさっそく掘り返し作業を始めます。皆さん一人ずつこちらに来て、一掬いずつこの辺りを掘り返していってください」
 わたしたちはまるで儀式のように一列に並び、一掬いずつそっと小石で囲まれた円の中の土を掘り返していった。二十四人目にしてがつっと箱にシャベルの先が当たる音がして、そのあと十六人は慎重にその周りを掘り進めた。そうして出てきたのは、一抱えほどの茶色い陶器の壺だった。
「ぶっ、漬物の壺じゃねぇか」
「あ、思い出した! 錆びたり虫が入ったりしない何かいい入れ物ないかってことになった時、俺が家からこれ持ってきたんだ。お袋が買い置きしてた新品の漬物壺。あの後ひどく怒られたんだよなぁ」
 ぶっははははははと笑いが巻き起こる。
 ああ、そうだ。この感じだ。この一体感が好きだったのだ。みんな同じところで笑って盛り上がれるこの感じが……大好きだった。
 だから、いつかまたみんな集まれる機会がないかと思って。
「で、誰が蓋開ける?」
「そりゃもちろん学級委員長じゃない?」
「いや、その役はもう決めてあるんだ。門山さん」
 突然名前を呼ばれて、後ろの方から覗き込んでいたわたしは驚いた。
 みんなの視線が一瞬にして集まって、二度驚く。
「は、はい」
「タイムカプセルの蓋を開けるのは、提案者の門山さんにお願いしたいんだ」
「提、案者……?」
 わたしが、提案したの?
『ねぇ、みんな。タイムカプセルを作ろうよ。大人になると将来の夢とか、昔キラキラしていた時のこと忘れてしまうんだって。だから、忘れたころに思い出せたらいいよね』
 あれは、わたしの声……だったの?
「そうだそうだ。いつも大人しい門山さんが急に張り切って手ぇあげてさ、目ぇキラキラさせて言ったんだよな」
「そうそう。びっくりしたよなぁ。門山さんが手ぇあげるなんて」
「あ、でもあれで俺門山にちょっと惚れた」
「えっ、マジかよ。俺だってちょっとときめいたけどさ」
「かわいかったよな、門山さん」
「そうそう、大人しくていつも図書館で借りてきた本読んでて、にこにこしてて」
 そう、だっただろうか。
 わたしはそんな子だっただろうか。
「だよねー。門山さん可愛かったよねー。なんか雰囲気が優しいっていうか」
「でも、あやって呼ぶと怒るの」
「だからあやじゃないってばっ!」
「ほら、ね」
 全員の笑いが巻き起こり、わたしは赤面する。
「それでは門山さん、お願いします」
 学級委員長から渡された軍手をおそるおそるつけ、みんなの期待を一身に背負ってわたしはかぶせられた蓋の紐をほどき、縁と壺の間に指を差し入れて蓋を引きはがす。
 中には大量の折りたたまれた原稿用紙が所狭しと差し込まれ詰め込まれていた。
 封筒にも入れられないままで。
「こ、れ、は……」
 開いてみないと誰が書いたかわからない、「将来の夢」の作文たち!
 うわぁぁぁと上がる悲鳴、頭を抱える人たち、所構わず転げまわる男子たち。
「誰だよ、こんなやり方提案したのはっ」
「あっ、俺俺!」
「高藤、貴様っ!」
「ぐわっ、くるじい、ぐるじいっ」
 締め上げられた高藤君は大げさに悲鳴をあげながらも続ける。
「文集と同じじゃん! みんなで読んだ方が楽しいじゃん! 分かち合えるじゃん! ぐはっ」
「高藤、貴様のから探して読み上げてやるっ」
「うわわっ、やめてやめて。わたしも探すっ」
「ああっ、わたしもっ」
 一斉に襲い掛かられた茶色い壺はゴロンと転がり、口から白い中身を吐き出しながら丘を転げ落ちはじめた。
「うわぁっ、最悪だっ!」
 甘いものを追う蟻のように転げ落ちる茶色の壺の後を追い、一人、また一人と吐き出された折りたたまれた白い原稿用紙を拾い上げて座り込んでいく。
「あ、これ沢野さんのだ」
「これ、字ぃ汚くて読めないんだけど、委員長?」
「違う違う。委員長より字が下手だった奴、一人だけいただろ。三鷹だよ、三鷹」
「えっ、俺!? 俺の?! わわわ、見るなっ、見るな見るなっ、返せっ」
「なになに? かいぞくおうに、おれはなるっ!! って、みなさーんっ、大人気漫画の先駆けがいましたよーっ」
 爆笑がはじける。
「おっ、高藤の発見」
「あああっ、見るなっ! 返せっ、俺の青春っ」
「やーだねっ。えっとぉ? 僕のゆめ。六年月組 高藤俊一。僕の夢は、将来家のリンゴ畑を継いで大きくすることです。おわっ、何まともな夢書いてんだよっ」
「あ、でも高藤、いま何やってんの?」
「へっ、リンゴ農家さ。夢どおりリンゴ畑継いでリンゴ作ってるよ。去年なんか県知事賞もらったんだぜ?」
「うわぁ、すごーい。買う! わたしそのリンゴ買う! 岐阜に送って! あとで住所書くから」
「毎度〜」
「じゃあ、私も」
「おれも。嫁さんリンゴ大好物なんだ」
「なんだとぅ、嫁さんだとぅ? お前さっき門山さんに惚れたって言ってたじゃねぇか」
「ガキの頃の話だろっ」
 あああ、モウワタシノ名前出サナイデモラエマスカ。
 肩をこわばらせたわたしは、丘の途中でまだ拾われていない一通を拾いあげた。
「あ、ようやく門山さんも拾ったね」
 すぐ近くに落ちていたもう一通を拾ったのは学級委員長の新実君だった。
 よく見ると作業服のような地味なベージュ色のジャンパーには徽章の入った名札がついている。
「役場……」
「そ。大学卒業してこっち戻ってきたんだ。俺らの頃、結構就職厳しかっただろ? ようやく受かったのがここだった」
 淡々と新実君は語る。
「そうがっかりした顔しないでよ」
「がっかりだなんてそんな」
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの 人ってね。でも、俺にとってはここが夢を叶える地、だったはずなんだ」
 苦笑した新実君は、不意に笑いを引っ込めると意を決したように作文を開いた。そして、やがてほっとしたように口元を緩める。
「俺のだ」
 さすが学級委員長、こんな時までそつがない。
 なんて言葉は呑みこんで、わたしは十七年前の自分と対面する新実君の横顔を見つめた。
 真剣な表情で読み進めていく視線の先を覗き込むことは躊躇われ、ただその表情を見つめるしかない。
「なんて、書いてあったの?」
 読み終えた作文にもう一度目を落とした新実君は、ぼんやりと遠くを見つめたまま呟いた。
「俺の夢、叶ってた」
「え……?」
「俺の夢、叶えられてたんだよ!」
 喜びにわたしの手を取って上下に振った新実君は、やがてはっと気づいて気恥ずかしげに自分の作文を差し出した。
「いいの?」
「どうぞ」
 そこには自信を取り戻した学級委員長の顔があった。
 わたしは手渡された作文を遠慮がちに開く。そこには予想通り何とも言い難い読みにくい字が綴られていたが、筆圧は強く、自身に満ち溢れている。
『ぼくの夢
 六年月組 新実哲
 ぼくの夢は、また六年月組のみんなともう一度同じ時間を過ごすことです。十七年後、一人も欠けずに集まって、タイムカプセルをほりおこすことです。』
 わたしは顔を上げる。
 新実君は照れたように頭の後ろをかいた。
「なんだろな。もっと壮大な夢だと思ってたんだけど、でも、ある意味壮大すぎる夢だよな。十七年たって、いろんな事情抱え込むようになってるはずなのに、四十人、全員同じ時間、同じ場所に集まれるなんて、信じられるんだから」
 新実君は眼鏡を外しジャンバーの袖でぐいっと目元を拭う。ほんとばかだ、といいながら。それを見るのはいけないような気がして、わたしはその先の文章に目を走らせる。
 振り返ってばかだと言いながら、十七年前の新実君もその難しさを十分に分かっていたようだ。だから地元に戻ってきて、タイムカプセルを掘り起こすこの日に全員が集まれるよう同窓会の役員をやったりしながら綿密に連絡先を把握し、木が倒れないように見守り、土の中のタイムカプセルが根っこに押し出されて出てきたら土をかぶせなおしたりすることを自らに課したのだ。そして、町から出ていった同級生たちがこの日のために戻ってきたとき、懐かしいと言ってもらえるようにこの町や学校、裏の丘や植えた木を守ることも自分の役目だと、それに最適な職が役場だと結んでいた。
 小学生らしからぬ周到な策。さすが学級委員長。でも、いま学級委員長は泣き笑いだ。
「何のために役場に入ったのかなんて忘れそうになってた。思う通りにならないことが多くて、みんなそうなんだろうけど、夢も理想も捨てちゃったほうが楽なんじゃないかって。でも、一つ、叶った。今日、叶ってた」
 返した作文を握り締めて、新実君は自分に言い聞かせていた。
 わたしは手に持ったままだったさっき拾った作文を開く。
『わたしのゆめ
 六年月組 門山彩子』
 どきりと心臓がはじけんばかりに震えあがった。
 そこから先に視線を移す勇気が整わない。
 わたしはいったん作文から顔を上げ、空を見上げた。
 わたしを迎え入れるようなあわい青。
 そして、息を止めて一行目に目を落とした。
『わたしのゆめは、学校の先生になることです。藤原先生のようなやさしくてかっこよくてみんなにすかれる先生になることです。』
 ざくりと胸に切り付けられたような想いだった。
 みんなにすかれる先生。
 それは優しくて? かっこよくて?
 そんな先生は、現実にはいない。
『藤原先生は、自分をしっかりと持っています。わたしたちが何を言っても動じません。いつもおだやかに笑ってわたしたちをみちびいてくださいます。きっと自分の信じる道がしっかりと定まっているのだと思います。』
 自分の、信じる道。
 小さいくせに、なにを分かったようなことを……一体何を見てそう感じ取れたというの? 信じる道、だなんて、小学生が思いつくはずがない。
『藤原先生は教えてくださいました。どうしたら先生のような先生になれるのか。先生はおっしゃいました。自分をうらぎらないことだよ、と。自分はまだまだだと笑っていましたが、それでも、その時の先生の目は強く自分を見すえるようでした。きっと、自分をうらぎらない人はほかの人もうらぎらないのだと思います。だから、みんなから好かれるのだと思います。わたしはそんな藤原先生のような先生になって、またみんなでタイムカプセルを埋めたいです。』
 まだ形の整いきらない小学生らしいわたしの文字が、ぼやけて歪んでいった。
 わたしはどこで道を間違えたのだろう。
 みんなから好かれる先生になりたい。
 ばかみたい。
 そんなこと、一握りの人間関係がうまくこなせる人たちだけの特権なのに。
 ばかみたい。
 みんななんて、そんなうまいことわたしにできるはずはない。
『門山さん、自分を信じることですよ。自分を見捨ててはいけない。信じられなくなりそうになったら、信じられる自分を思い描くんです。理想の人の写真を見ながらでもいい、思い出の宝物を見ながらでもいい、自分で自分をデザインするんですよ。信じられる自分になれるように』
 藤原先生は、わたしたちが子供だからといって甘やかしたりしなかった。
 対等な人として、お話をしてくれた。
 子供相手だからとごまかしたりしなかった。
 大人になったらわかりますよ、なんてことも言わなかった。
 子供の目は純粋だ。何でもかんでも鏡のように映しだす。いや、左右反転じゃなくそのままに映し出している。いいことも、わるいことも。彼らが善悪の判断がつかないなんて嘘だ。わたしたちは常に、何がよくて何が悪いのか、問いかけながら生きてきたはずだ。いつのまにか。だけどそれは、中校生の時にはすでに培われ小学生の時にはすでに思いを巡らせていたはずだ。
 忘れているだけなのだ。わたしたちは。
 子供は何も見えない暗愚で無垢な存在だと、いや、何も見えない暗愚で無垢な存在でいてほしいと、その方が扱いやすいからと、上から押さえつけていただけなのだ。
 だから、想像の範囲を超えると対処ができずにうろたえるのだ。
 彼らの想像力は無限。彼らが見るものも、この世にあって彼らの目に映るものすべてなのだ。わたしたちのように見たいものだけを見るという狡さはない。だからこそ、わたしたちが忘れていた、いや、見えなくなっていたものが逆に見えているのだ。
 だから、大人は彼ら子供たちの目が怖いのだ。
 大人は。
 わたし、いつの間にか大人になってたのか。
 これが、大人というものなのか。
 子供の心がわからなくなること。
 見たいものしか見なくなること。視界が狭まること。自我を通したくてわがままになること。好かれたいばかりに、いや、嫌われたくないばかりに自分を見失うこと。自分を守るために見て見ぬふりをすること。
 なりたくなかったはずの嫌な大人になっていた。
 あんな大人になんか絶対にならないと、新採一年目に決心したはずのあんな大人になっていた。追い立てられるような時間の中で、自分をデザインするために今の自分を見つめる余裕もなくしていた。自分を裏切りまくった末に、すり減った自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
「先生……わたしは愚かです。馬鹿で愚劣で最低な人間です……」
「門山さん?」
「先生の言葉、ずっと忘れてた。どうして学校の先生になんかなっちゃったんだろうって、そればっかり頭の中ぐるぐる、ぐるぐる……ばかだ、わたし。人として、ちっとも手本になれてなかった。わたしが先生の中に見たのは生きざまだ。揺らがないその生きざまに憧れて、みんなにもそれを教えたかった。それなのにわたしは……あの頃の自分さえ裏切っていた」
 湿った手が作文を握りしめていた。
 新実君がそっと肩を貸してくれる。その肩に額を押し付けて、わたしは今までの分、思う存分悔し泣きをした。
「俺、ちょっとエベレスト行ってくるわ」
 落ち着いた頃、顔を上げるといつの間にか周りは湿った静けさの中に漂っていた。
 夢のようなことを言って立ち上がった男子に、別の男子が声をかける。
「なにそれ。お前の夢、登山家だったの?」
「K2までは行ったんだ。でもそこで身体壊して……でも、俺もっかい挑戦するわ。身体整えて、世界一の山制覇してくる」
「んじゃ、俺はちょっと海賊王になってくる」
 便乗した三鷹君も立ち上がる。
「それはやめとけ。王様なる前に速攻捕まるぞ」
 湿っぽくなった空気ががらっと明るくなった。ようやく笑い声がはじける。その大半がまだ鼻声だったのだけど。
 ふと、一陣の風が吹いて一枚の折りたたまれた紙が舞い上がった。
 まだ誰も拾っていなかった作文らしい。
 わたしは立ち上がってそれに手を伸ばした。
「全員、もう自分の作文が手元にあるよね?」
 丘の下まで拾いに行って戻ってくる人たちも含め、全員が頷く。
 誰のだろう。
 四十一人目の生徒?
 そんな子はいない。このクラスは四十人だ。
 じゃあ、誰?
「作文、開くよ?」
 おそるおそるわたしは手にした作文を開く。
 原稿用紙は心なしか黄ばんでいて、マス目の色や形もわたしたちのものとは少し異なっていたが、記されている文字は確かに子供のものだ。
「僕の夢。六年一組、藤原……恒」
 文字を追いながら読み上げて、あっとわたしは声を上げた。
 みんなも一斉に大木を背にテーブルの上に載せられた先生が映っているモニターの方を振り返る。
 先生は恥ずかしそうに微笑んでいた。
「見つかってしまいましたか」
『ええ〜っ』
 どよめきが空に響き渡った。
「門山さん、読んでくださいますか?」
 わたしは驚きながらもなんとか頷く。
 鉛筆で強い筆圧を込めて殴るように書かれたその文字はマスからはみ出さんばかりに大きくて、今の穏やかな先生からは想像もできないくらいアグレッシブな印象を受けた。
「僕の夢は、学校の先生になることです。長沼先生のような学校の先生になって、人を育てることです。僕は――」
 その先を読むことは躊躇われた。
「いいんですよ、門山さん。読んでください。どんな内容だったか、私はちゃんと覚えていますから」
 促されてわたしは口を開く。
「僕は、自分がきらいです。大きらいです。みんなからきらわれる自分が、大きらい……です……」
 丘の上は静かにざわめく。
「タイムカプセルにしょうらいの夢を書いた作文を入れようと言い出した人の気持ちがわかりません。またほりおこすためにこの人たちと顔を合わせることはくつういがいのなにものでもありません。僕は心の中で反対しました。でも、口には出せませんでした。そもそも、僕のこの作文もいっしょに入れてくれるかさえ分からない。僕の作文だけ外に出されるのではないか、埋める前に読み上げられるのではないか、そう考えるとふあんでふあんでたまりません。十七年後、僕にもちゃんとおしらせがとどくのか、十七年後、僕は生きているのか、それさえもわかりません。いやだ、と僕は先生に言いました。僕だけこのじゅぎょうを休みたいと言いました。先生は言いました。自分と戦え。殺す戦いをするんじゃない。生かす戦いをするんだ。なりたい自分を思い浮かべろ。なりたい自分がないなら、とりあえず俺を目指せ。俺は自分が好きだ。大好きだ。自分をうらぎらない自分が、俺は大好きだ。先生は、泣きながらそう言いました。だから、とりあえず長沼先生のようになりたいと書いておこうと思います。長沼先生のように自分が大好きだと言える自分に、なれないかもしれませんが、もし、生きていたなら、自分のような子供が一人でもいなくなるよう、この世界を変えたいです。」
 そのあと、わたしたちは広げた作文を折りたたみ、また元の茶色い壺の中に押し込めた。梅干しのおにぎりのように真ん中に先生の作文を挟みこんで。
「じゃあ、次は何年後にする?」
 誰からともなくそんな声があがった。
「今年三十だろ? あんまり間隔置くともう会えない奴も出てくるかもしれねぇよな」
「縁起でもないこと言うなよ」
「十年後、でいいんじゃない? 男子の本厄の前あたり!」
「ぶっ、何の見込みだよ、それ。ほんと、縁起でもねぇなぁ」
「でも十年後なら思い出しやすいんじゃない? わたしたちが四十歳になる年。ね、新実君?」
「そうだな。じゃあ、次は十年後の今日にしよう」
 わぁっと歓声が上がった。
 十年後、何人がこの日に集まれるか分からない。そんなことはみんな重々承知だ。それでも、また会える約束に胸は熱くなり、信じたいと思ったのだ。また十年後、四十一人でこの木の下に集まれると。
 その時には、十二歳の時の自分に恥じない自分になっていよう、と。
「それではみなさん、また十年後にお会いしましょう」
 穏やかに先生は笑ってモニターの向こうで手を振った。
 先生は、わたしが先生の作文を読み終えた後こう言った。
『生きていてよかった。耐え忍べば必ず春はやってきます。私もそうでした。そして季節は巡り、また冬の時代はやってきますが、その後、わたしは皆さんに出会えました。十七年後の今日にもまた、皆さんの顔を見ることができた。これほどの幸せがあるのだと、私は当時の彼に教えてあげたい。――門山さん、読んでくださってありがとうございました。』
 カメラはゆっくりと空へと向けられていく。
「そいじゃあ、地元の居酒屋に場所取ってるから、来れる奴、俺と一緒に来てくれ。一緒に来れない奴は中町のアミダ屋で一杯やってるから、来れそうならいつでも来てくれ。解っ散!」
「高藤、お前が〆るなよ!」
「そうだそうだ。お前は飲み会の〆でいい」
「ひっでぇ。じゃあ新実!」
「以上で第一回タイムカプセル掘り起こし式を終わります。皆様お手を拝借。一本締めでお願いします。よーぉっ」
「結局飲み会のノリかよ!」
 ぱんっと叩いた音が空高く吸い込まれていった。
 親睦会に行く人たちは高藤君についていき、新実君は設置していたカメラなどの機材の片付けに取り掛かっていた。
 わたしは名残惜しくて、ふらふらとモニターの置かれた木の前に立った。
 と、青空を映していたモニターの景色がくるんと翻り、さっきよりも上着を着込んだ先生がモニターの向こうで手を振っていた。
「門山さん」
 びっくりしてわたしは腰を抜かす。
「そんなに驚かなくても」
「す、すみません。もう帰られたものだとばかり」
 まだ胸がどきどきしている。
「門山さん、先ほどはつらい役目をお願いしてしまいましたね」
「あ……いいえ……わたしも心に留めておかなければならないことだと思いました」
「門山さんが先生になったと聞いた時、嬉しかったんですよ。ああ、夢を継いでくれる人ができた、って。重いですか?」
「重いだなんて、そんな! 光栄です! 先生からそういっていただけるなんてわたし……でも、わたしは……」
 思いがけない言葉に、その重さから逃げたいと心が揺れた。
 まだ、揺れるんだ、わたし。
「揺れていいんです。人だから。後戻りできるなら、道は間違えたっていいんです。ただ、来た道と行く先だけを見失わなければ」
「自分の、信じた道」
「そうです。よく覚えていてくれましたね」
 先生は嬉しそうに笑った。
 そして今度こそ、通信回線は閉じられた。
「門山は藤原先生の秘蔵っ子だったんだなぁ」
 片付けを済ませた新実君は感心するようにわたしを見た。
「秘蔵っ子だなんてそんな。買いかぶりすぎだよ。ただわたしは藤原先生のようになりたいと言っていただけ」
「でもちゃんと先生になったんだろう?」
「う……まあ、ね」
 免許は、とか自虐的な言葉は続けないように呑みこむ。
「なぁ、門山。帰ってこない?」
「え?」
「この町に帰ってくる気は、ないかな。別に来月からとかそんな無茶言ってるわけじゃないんだ。来年でもいいし、再来年でも、十年後でもそのうちでも。なぁ、門山、帰ってこないか?」
 見つめられて、久しぶりに違う意味で心が揺れた。
「先生が不足してるの?」
「まぁ、それもある、かな。でも、嫁は不足してる。俺の、奥さんになる人」
 かぁぁぁっと身体が内側から熱くなった。
 何年ぶりだろう、こんなの。ううん、それ以上。もう忘れたと思ってたのに。
「一年、待って。わたしまだ、向こうでやり残したことがあるから」
 まだ、藤原先生のような先生になれていない。今、ようやく入口を見つけたところなのよ。とても遅くなってしまったけれど、向こうで、もう一年。わたしは自分を信じてみたい。
「じゃあ、待ってる。門山が帰ってくるまで、待ってるから」
 藤原先生、わたしの信じた道はこの町に繋がっているでしょうか。
 ううん、繋げる。
 わたしの道はこの場所に続いている。
 これは招待状。
 あの白く霞がかった優しい青空からの、招待状。

〈了〉
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