鈍色の夢

八、誓約
 燃え盛る炎が太陽よりも明るく宮中を照らし出している。壕をめぐらし、垣をめぐらせて守っていた家々からも黒い煙が立ち上り、壕の外からは休みなく火矢が射込まれてくる。すでに祭殿は落ち、月読たちは泣く泣く裏の香具山へと退却しはじめていた。
 木々の合間から眼窩に見える景色は、いつか見た光景によく似ていた。幼い頃に見た、国が滅びかけようとしている光景。違うのは、傍らに日孁がいないこと。今は自分も剣を抜き放ち、顔も名も知らぬ人間を切り殺して血まみれになっていること。
 昼が最も短くなる冬至の朝。日もまだよく昇らぬ時分に奇襲をかけられてからというもの、もうどれくらい戦の怒号を聞きつづけているかわからない。集落の周りには壕を掘りめぐらして守りに備え、周辺の国々にも狗奴国の軍勢を入れぬように通達してあったというのに、一体どうやってここまで辿りついたのか。周辺の国々からは事前に何の音沙汰も無く、気づいたときには集落は壕の外から火攻めにされていた。
 歯噛みしている暇などなかった。垣を登り、壕を駆け上り、攻め入ってくる敵兵の勢いは留まるところを知らない。一方、迎え撃つ耶馬台国は明け方で準備もままならず、急ぎ、裏の香具山に女子供と老いた者たちを逃がしたものの、逃げ切れなかった者たちが何人か月読の目の前で斬られていった。その姿を見た瞬間、月読の中で何かがはじけ飛んでいた。ふるった剣にかかる重みなど意にも介さず、返り血を跳ねのけながら、月読は血眼になって敵陣の中に素戔鳴の姿を探した。
 長らく岩屋に閉じ込められていたとはいえ、半年前には耶馬台国に入り込んでいた素戔鳴が王として指揮を執っているならば、どこが守りの薄いところなのかすっかり見通してしまっているだろう。今朝に始まる奇襲とて、内部を知り尽くしている素戔鳴だからこそできたことではあるまいか。加えて月読は外視の巫女である日孁を岩屋に閉じ込めて一月。口の聞けぬ侍女に食料と衣類は運ばせていたとはいえ、月読自身は一度も日孁と会うことはなかった。その分、同盟国内はもちろん、狗奴国内に潜ませていた目からの情報を些細なことさえも見逃さぬように注意を払ってきたつもりだったが、彼らの言葉に狗奴国の奇襲の件はどこにもなかった。
 さりとて、月読は日孁を閉じ込めた自分を悔いてはいなかった。悔いる気がないというのが正しいだろうか。ここまで国を巻き込んでおいて、しかしながらそれさえも予測のうちだったと、月読は自分に言い聞かせていた。
 分かっていたつもりだった。狗奴国が攻め入ってくることも。もし攻め入るならば、日孁の力が最も衰える冬至の日だろうということも。全て月読の読みどおりに進んできたというのに、打つ手を用意していなかった自分に、今更ながら月読は気がついた。
 国などもろともに滅びてしまえばいい。
 心のどこかで、そう願っていたのかもしれない。
 日孁を縛りつける耶馬台国。自分を日孁の弟でしかいさせてくれない耶馬台国。忌まわしい父を生み出した耶馬台国。狗奴国に敵対する耶馬台国。
 なくなってしまえばいい。何も手に入れることができないのなら。
 また一人、狗奴国の兵を斬り伏せた月読は、ふっと口元に笑みを浮かべた。
 父上よ、忌まわしき御子は素戔鳴だけではなく、私もだったのかもしれませんよ。いや、太陽を穢し隠した私こそが貴方の恐れる忌み子だった。私さえいなければ、この国は日孁様が等しく豊かに治めていらっしゃったことでしょうから。
「楽しそうだな」
 また一人、斬り飛ばした者の血飛沫の合間に、無精ひげの生えた口元に笑みを刷いた男の顔が見えた。
「素戔鳴」
 月読は噛み締めるように男の名を呟いた。
「その顔、その出で立ち、まるで黄泉の神のようだ。一体何人自分の配下に沈めた?」
 くくっと笑った素戔鳴に、間髪いれず月読は打ちかかった。その剣をたやすく受け止めて、至近距離から素戔鳴は月読の目を覗き込む。
「探しましたか? 俺のこと」
「お前自ら現れずとも、いずれ斬りに行ったものを」
「それじゃ被害が大きくなりそうだったから俺が来たんだよ」
 打ちかかった剣を跳ね返されるのにあわせて、月読は後ろへ飛び退る。
「光を失ったというその右目、何も映っていないのかと思ったら、腐りもせず鏡のようによく映しているものだ。炎に焼き尽くされていく都の様を」
「ほざけ。貴様の目には何も映っていないではないか。耶馬台国を陥としにきたのなら、もっと嬉しそうにしていてもいいものを」
「俺がもらいにきたのは国じゃない」
 ふと真摯になった素戔鳴の目に一瞬たじろいだものの、怖れを振り払うように月読は再び素戔鳴に打ちかかった。
「やらぬ。お前にこの国のものなど何一つ、奪われてたまるものか」
「兄上。あんたは一体何が大切なんだ。国か? 日孁か? それとも自分か?」
 問われた直後、剣に込めていた力が少しばかり緩んだ。逃さず素戔鳴が払い返す剣で月読に一撃を入れる。寸でで飛びかわしたものの、風圧で斬られた袖の合間から赤い血が飛び散る。
「俺なら決して迷わないのに」
 月読の腕から飛び散る血を眺めながら、憐れみを込めて素戔鳴は言った。
「何と迷った? 少なくとも国ではないだろう? もし国が一番大切なら、狗奴国がいつ攻めてくるかも分からない時に、日孁をあの岩屋に閉じ込めたりはしない。それでは日孁か? 国を支える王として、国の行く末を予言する女王は何者にも変えがたい存在。王として正しい答えは女王である日孁が大切だというもの。しかし、それさえも言いよどんだ。兄上が大切だと思っているのは、女王の日孁じゃない。まして姉の日孁でもない。女としての日孁だ」
 体勢を崩した月読に、今度は素戔鳴が飛びかかる。
「だけど悲しいかな。兄上が答えられないのは、本当に大切なのは実は女である日孁でもないから。そう、兄上が一番大切なのは……」
「だまれ!」
 剣を跳ね飛ばし、さらに一歩踏み込んで素戔鳴に体当たりした月読は、仰向けに倒れこんだ素戔鳴に馬乗りになって切っ先を下に剣を首元に突きつけた。
「だまれ」
 唇を噛み締め、月読は怯える色さえない素戔鳴を見下ろした。
「兄上が一番大切なのは、自分だ」
 悲しげに素戔鳴は囁いた。
 その声が耳に入ったのかどうか。月読は雄叫びと共に剣を振り下ろした。その瞬間、下から湧き起こった強風に煽られて月読の上体は揺れ、あっという間もなく後ろに転げていた。手から零れ落ちた剣が指先一寸ほどの場所に転がっていたが、手を伸ばす間もなくその剣は素戔鳴に奪われていた。素戔鳴は月読の剣と自分の剣とをそれぞれ逆手に持つと、さっきとは逆に自分が月読の上にまたがり、諒の剣を交差させるように月読の首もとの地面に突き立てた。
「兄上が一番大切なのは自分なんだよ。その顔の火傷の痕も首の火傷の痕も、右腕に残る火傷のあとも、日孁を守るためについたものだったかもしれない。でも、今負ったその腕の傷は、日孁を守るためじゃない。日孁を失うことで自分が傷つきたくなくて負った傷だ」
「違うっ。違う、違う、違う!」
 気づけば、まだ夕暮れ時のはずなのにあたりは夜中のような暗い闇に覆われていた。日は雲に覆われたわけでもない。月読はぽかんとしたまま素戔鳴の背後低くに見える黒い太陽に目を凝らした。
「月が太陽を隠す日蝕だ。天を読むのが仕事の兄上が、まさかそれすら見逃していたとは」
 見逃して、いた? 気がつかなかった?
 そうだ。そういえば一月前の満月の日は月食だった。ちょうど、日孁を洞窟に隠した日。――隠されたのは自分だったのではあるまいか。日の光を求めるあまり狂わされて、王としての月読がどこかへ隠れてしまった。残された自分は……素戔鳴の言うとおり、自分で自分の感情を御しきれなくなったただの人間だ。
「今朝、日孁に会ったよ。産気づいて苦しそうだった。誰もいない真っ暗闇の中で、誰にも手を握ってもらえず、身をよじって呻いていた。俺が手を握ろうとしたら、跳ね除けられた。今、俺にだけは縋るわけにはいかないと」
 月読は目を見開く。そして、もう一度漆黒の太陽を見つめる。
「……日孁様は岩屋の中にいたはず……」
「なあ、どうして日孁の側にいてやらなかった。何で肝心な時に側にいてやらない? もし、あんたが日孁の側にいたら、それこそ俺らは耶馬台国に入り込めやしなかっただろうに」
 はっと何かに気づいた月読は、探るように素戔鳴を見上げた。
「岩屋から出てきたのか? 岩屋の奥はどこに繋がっている? お前が十年以上もあの岩屋で生き延びられた理由、母上が消えた理由と関連しているのか?」
「あんたはもっと早くそのことに気づくべきだった。もし気づいていたら、日孁をあそこには閉じ込めなかったはずだ。狗奴国と洞窟伝いに繋がっているあの岩屋とは」
「まさか、お前たちは皆岩屋から出てきたのか? いや、しかし岩屋はわたしの勾玉がなければ開かないはず」
「ああ、岩屋戸はな。だけど、洞窟はいくつにも枝分かれしているものだ。他にもいくつか出口があるんだよ。あの山の裏側や今朝、俺たちが出てきた都近く、安の河原の近くとか」
 素戔鳴の言葉に、月読は握った拳を冷たい地面に叩きつけた。
「親父殿もそうだが、岩屋の暗闇の向こうはどんなに深くても行き止まりだとでも思っていたんだろう。確かに、あの入り口から灯も持たされずに閉じ込められれば絶望して奥を探ろうなどとは思わないかもしれない。もし勇気を出して奥へと踏み出したとしても、暗闇の中ではただ迷うだけだ。中の迷路にはたくさんの骸骨が転がっているのがその証拠だ。道を見つけたのは前の狗奴国の王。母上会いたさに灯を持って踏み込んだらしいが、驚いたことに狗奴国からは真っ直ぐ一本道であの岩屋までこられるんだ。ここから攻めてくださいといってるようなものだろう?」
 月読は愕然と素戔鳴を見上げた。
「祈年祭の前夜、俺を見つけた時にもっと考えるべきだったな。いや、兄上はそれどころではなかったのか。俺と日孁が会ったことにやきもきして、ただの情けない男になってしまった」
 頬に血が上り、月読は素戔鳴を睨み据える。持ち上げられない腕が拳を握ったままわななく。
「なぁ、兄者。誓約をしないか? もし日孁が産んだ子が男の子ならば、明日、再戦することとしよう。その時は、生まれたばかりの男の子も日孁も、耶馬台国の全てを俺が滅ぼす」
「……日孁様も?」
「そうだ。日孁もだ。そして、もし日孁が産んだ子が女の子ならば……」
「女の子ならば」
「明日の朝までに、俺は日孁を連れて狗奴国へ帰る」
「な……っ……」
 驚く月読に、素戔鳴はにやっと、しかしどこか悲しげな色を浮かべた笑みをつくった。
「この国の王は親父も兄上もろくな男がいない。女王の方がよほどうまくまとまるのだろう。そうは思わないか?」
 月読は注意深く素戔鳴の目を見つめた。周囲は暗く、素戔鳴の目だけがらんらんと白く輝いている。
「さあ、どうする? 悪くはないと思わないか? 兄上がのるというのなら、太陽が漆黒の闇から生まれかわる前に狗奴国の軍を一度都から撤退させよう。男の子が生まれていても、いずれ半日兵たちに休養を与え、明日朝に備えることもできる。女の子が生まれていれば、この国は新しい女王を得られるのだ。日孁は自由になれるはずだ」
 そうだ、悪くはない。疑いを深くするほど、素戔鳴の申し出は国にとっては都合がよい。しかし、月読にとっては――。
「もし明日の朝までに生まれなければ?」
「その時は、もう一晩待とう。もし死産であれば、日孁を奪い、この国も滅ぼす。俺の提案を受け入れないと言うのなら、今すぐこの剣を傾け、お前の首を刎ねる」
「……その言葉、本当か?」
 月読はごくりと唾を飲み込んだ。
 男の子ならばいい。明朝、周囲の同盟国からの援軍さえ来れば狗奴国を打ち負かすことはたやすい。日孁も奪われず、国も守れる。もし女の子であったとしても、仮に死産であったとしても、明朝まで素戔鳴から日孁を守り続ければいい。
「本当だ」
 そうだ、何を迷うことがある?
 否、と答えれば、今自分はここで殺されるであろう。首の上にかかった二本の剣によって。諾と答えれば、自分は生き延びられる。生きて明日に再起をかけることができる。
「その誓約、受けいれよう。もし日孁様のお産みになった子が男の子ならば、明朝再戦を受けて立とう」
「女の子だったら、日孁を俺に引き渡す」
 二人でしばし睨みあったあと、月読は声は出さずただこくりと頷いて見せた。
 にやりと笑って素戔鳴は大地から剣を引き抜き、月読の上からおりる。
「では明朝、日の昇る前に岩屋に確かめに行こう。今は狗奴国の兵士たちにひくように告げてくる。兄上は耶馬台国の兵士に深追いせぬよう伝えてくれ。もし深追いした場合は……分かっているだろう?」
 立ち上がった素戔鳴は、ようやく上体を起こした月読を振り返った。
「ああ、わかっている。深追いせぬように命じよう。――時に、素戔鳴」
「なんだ、兄上」
「此度の戦、お前は王として臨んでいるのか? それとも……」
「愚問だ。俺は日孁をもらいに来た。それだけだ」
 次に月読が何か言う前に、素戔鳴は風を巻き上げて姿を消していた。
 どっと月読の全身から冷たい汗が噴き出した。
 奪われる。
 日孁様が奪われてしまう。
 苦い未来が目の前に浮かびかけて、慌てて月読は首を振った。
「奪われてなるものか。この国も、日孁様も」
 たとえ生まれたのが女の子であっても、日孁に素戔鳴を近づかせなければいい。そうだ、素戔鳴が昔やったように、自分はちょっと顎を引いただけだ。「諾」とは言っていない。必ずや素戔鳴を追い返し、日孁と新たに生まれてきた子どもと共にこの先も生き抜いてみせる。
『信じられないか? それなら、これならば信じてくれるか? 生まれてくるのが女の子だったらお前の子だ。きっと、この国を導く新しい太陽となるだろう。生まれてくるのが男の子だったら素戔鳴の子だ。この国を滅ぼす嵐となるだろう――大丈夫。生まれてくるのは女の子だ』
 日孁様……貴方は素戔鳴が来ることを知っていらっしゃったのですか? それとも、あの時はただの期待に過ぎなかったのですか?
「答えてください、日孁様……」
 月影に隠されたまま沈んでいった太陽を見送って、月読は足早に煙の立ち上る都へと戻っていった。




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