鈍色の夢

七、光ありて影
 田畑が緑から黄金色へと色を移しても、月読は日孁に相談するどころか、狗奴国に和議に同意する使者を出すことさえしていなかった。国内は収穫の時期を終え、他国に比べ日照りや洪水に悩まされることもなく、豊作とまではいかずとも昨年とほぼ同じ五穀の収穫を得ることができていた。
 半年以上も前の祈年祭前夜以来、日孁の口から素戔鳴の名が出ることはなく、月読もまたその名を口に出さなかった。日孁は毎日、日の出と共に禊を済ませ、天照らす女神への祈りを捧げて機を織り、夕に再び禊をして眠りにつく生活を淡々と送っていた。少なくとも月読は気都からそう聞いていた。
 あの夜以来、月読は日孁に指一本とて触れようともしなければ、衝立の向こう側に入ることもなかった。話は必要な時に意図的に衝立越しに行ってきた。日孁を目の前にしたとき、月読は夢を一夜だけで終わらせる自信がなかったのだ。日孁もまた、月読に顔を見せろとは言わなかった。拒まれてはいない。だが、求められてもいない。歯がゆい思いは、思いを遂げた祈年祭の夜以来、逆に高まっていた。
「月読様、狗奴国から書状が届いております」
 冬の蓄えを倉に運び込んだ耶馬台国は、狩りや機織へと日々の営みが移り変わっている。夏に比べれば仕事量は少なくなるが、日の長さは日に日に短くなり、山の木々や野原の草花が色を失っていくのと共にどこかあくせくとした暗い雰囲気が山里に降りはじめておた。
 八意思兼が険しい顔をして月読の前に書簡を差し出してきたのは、そろそろ雪も舞おうかというそんな時期であった。
 ちらと八意思兼の表情を窺い、月読は書簡を受け取る。
「なんと書かれていました?」
 すでに開かれているのは書簡を見ればすぐ分かる。
「なぜ、和議の申し出に返事の使者を立てなかったのです? 私は何度も進言したはず。貴方はまた親書が届いたら考えようとおっしゃっていたが、ごらんなさい。向こうは私たちとの国とは違い、夏は寒さにやられただけでは済まず、川の氾濫に田畑が潰され、一方では日照りで田が干上がったとか」
「まるで天罰だな」
「笑っている場合ですか。全て目からの報告で知っていたことでしょう。狗奴国が攻めてきます。余力のある今年のうちに我が国の倉を襲うつもりです」
 書簡を手に取りはしたものの開きもせずに一瞥し、月読はうっすらと口元に笑みを浮かべた。
「因縁の決着をつけるいい機会です」
 八意思兼は別人でも見るかのような目で月読を見た。
「まさか貴方はこれを待っていたのですか?」
 父伊佐那岐は狗奴国の王に妻伊佐那美を奪われ、今度は新たに狗奴国の王となった素戔鳴が日孁を奪いに来る。そうだ。食料の強奪などただの名目に過ぎない。あいつが本当にほしいのは、日孁様だ。
「狗奴国の王に、種まきが終わるまで待ってやると言われていました」
「狗奴国の王? それはいつです? そのような書簡が届いていたのなら……」
「祈年祭の前夜、素戔鳴がここに入り込んでいたのです。狗奴国の王となった素戔鳴が」
 くっくっと月読は笑う。
 八意思兼は取り返しがつかないことになったと唇を噛んだ。
「狗奴国に忍ばせている目からの話では、耶馬台国を攻めるための矛や楯が大量に作られていて、職人たちは昼夜工房にこもりきりなのだとか。それもその武器は全て鉄を使っているのだそうです。鉄は青銅よりも硬い。我が国も急ぎ、鉄を打てる者を呼び、応戦の準備を整えなければ」
 青ざめた八意思兼はうろうろと月読の前を行ったり来たりしはじめる。それを見ながら月読はうっすらと意地の悪い笑みを浮かべた。
「鉄を打てる者を呼ぶといっても、魏からですか? 魏よりも晋の方が製鉄技術は進んでいると聞きましたが」
「ならば魏ではなく晋から……」
「晋は狗奴国に肩入れしていると聞いています。我が国も魏を裏切って晋に援助を請うわけにもいかないでしょう」
 静かに切り返してくる月読に、立ち止まった八意思兼は疑念の視線を向けた。
「月読様。もしや貴方、祈年祭以来、こうなることがわかっていらっしゃいましたね?」
 月読は真っ直ぐに八意思兼を見返して小首を傾げて見せた。
「さあ」
「むしろ、こうなることを望んだのではありませんか?」
 八意思兼に見据えられて、月読は笑った。
「まさか。国の民を守り導くことが私の務め。あいつのように自分ひとりのわがままのために国一つを犠牲にしようなど、私は思いませんよ」
 そう、国一つを犠牲にしようなど、誰が思うものか。伊佐那岐亡き後は日孁が背負ってきた国だ。自分も共に育んできた国だ。誰がただの嫉妬のためにその国を、民を滅亡の闇の中に差し出せよう。
「それでは、貴方は素戔鳴を甘く見ていらっしゃったのですか。私は父からその存在を聞かされていただけですが、素戔鳴は生まれて間もなくあの岩屋に閉じ込められてから、ずっと一人で生きてきたというではありませんか。そのようなこと、人離れした肉体と強靭な精神がなければとてもできますまい。そんな者が力を得、再三の使者を立て、貴方に最後通告までした。本当に実行しないとでも思ったのですか」
 月読は八意思兼の詰る言葉を聞きながら、内心頷いていた。そのとおり、あいつは口にしたことは必ず守る。あの岩屋に大人しく一人で十何年も閉じ込められていたのも、伊佐那岐から日孁を守るためだったのではないか。先が見える能力でもあるのかはしらないが、たとえ自分が岩屋をあけてやるから国から出て行けと事前に言っても、素戔鳴はあそこから出てこなかったかもしれない。
「そもそも、私は聞きたいことがございました。素戔鳴が伊佐那岐様を手にかけたとき、なぜ貴方は止めなかったのですか。いいえ、貴方はなぜ、岩屋の封印を解いたのです。その勾玉が岩屋を封じる力が込められていたと知ってのことだったのでしょう?」
 咎める八意思兼の鋭い視線に、月読は重く口を閉ざした。
 味方は誰もいない。そんな気がした。
「日孁様のところへ行ってまいります」
 書簡を携え、月読は円座から腰を上げた。
「お待ちください」
 八意思兼が去ろうとする月読の背を突き刺すように睨みつけた。
「急ぎ民たちを集め、敵襲に備えます。よろしいですね?」
「お任せします」
 振り返らずに月読は言い、部屋をでた。その途端、冷たい空気が袖の合間から入ってきて、月読は一つ身震いをした。
 すっかり緑が消え、見渡す限り枯れ草の野となった国内を眺め渡す。日の力は弱く、夕刻にはまだ早いというのに日の高度は山際ぎりぎりを浮揚するかのように低い。
 太陽の女神に愛されし日孁の力は、毎年収穫祭が終わると格段に小さくなり、新嘗祭が行われる冬至の頃には実は予言も得られず、ほぼ普通の人間と変わらなくなる。それを知っているのは月読と気都だけ。それでも新嘗祭の時には日孁は民衆の前に姿を現し、柏木を振って天照らす女神の言葉なるものを人々に伝える。それは一年のねぎらいであり、また一年の寿ぎ。毎年、変わることのない言葉をこのときだけは伝えつづける。何も知らない人々は素直にありがたいと日孁に手を合わせる。
 その嘘は日孁が一人で決めてついている嘘だった。月読も気都も何の相談も受けはしなかったが、感づいていながら何も触れずにいる。むしろ、太陽の日照時間や高度に日孁の力が影響される様は、まさに日御子の名にふさわしいとさえ思っていた。
 集落よりも一層薄暗い杉林の中を通り抜けて、かじかむ手をさすりながら月読は日孁の祭殿へと入った。
「日孁様、入ります」
 昼だというのにかたりとも機織の音のしない部屋の中に入り、月読は衝立の前に座す。
「西から嵐が来るな」
 月読が座ったと感じるや、衝立の向こうから日孁の声が聞こえてきた。
「はい。狗奴国が攻めてまいります」
 月読は大人しく衝立の向こうに書簡を差し出した。
 白く、しかし記憶にあるよりもふっくらとした手が、その書簡を受け取っていった。
「用意が整い、攻め込んでくるのはちょうど新嘗祭の頃か」
「目からの話では、鉄を用いた武器を鍛造している最中とか。おそらく、新嘗祭にあてる形で開戦となりましょう」
 月読の言葉に、日孁からの返事はなかった。しばしの沈黙が重なる。月読は、ただ黙って日孁からの次の言葉を待っていた。なぜこうなるまでことを放置したのかと尋ねられれば、失策だったと素直に認めようと思っていた。
「日孁様?」
 あまりにも長い静寂に耐えかねて不安になった月読は、ついに自分から声をかけた。それでも日孁からの返事はない。意を決した月読は衝立に手をかけ、その向こう側へ自分の身体を傾ける。
「日孁、様……?」
 衝立の向こう、日孁は書簡を握ったままうつらうつらと目を閉じていた。その腹はゆったりとした白い着物に包み込まれていたが、ふっくらと赤子一人分大きく膨らんでいるのが見てとれた。
 瞬時に月読の身は固くなった。衝立を掴む手が震え、全身が震え、静かに尻餅をつく。そのままゆっくりと後ろへ下がり、息をつこうとしたところで日孁がうっすらと目を開けた。
「ああ、すまない。最近とみに眠くて……話の途中で眠ってしまったか」
 たじろぎもせずに日孁は微笑む。
 唖然とした月読は、そんな愛らしい日孁の笑顔ではなく、膨らんだ腹ばかり見つめていた。
「その、お腹は……」
「新嘗祭のこと、ちょうどお前に相談しようと思っていたのだ。見てのとおり、この子はあと一月足らずで生まれてくる。ちょうど新嘗祭の頃だろうかな。天照らす女神と月の王の子だ」
 日孁がいとおしげに撫でさすった腹を、月読はぼんやりと見つめた。
 天照らす女神と月の王の子。
 月読の子だと日孁は言っているのだ。祈年祭の夜の、たった一度の契りでできた子だと。同時に、日孁は太陽の女神の代わりに腹を貸しているのだと言っているように、月読には聞こえた。
「豊穣祭は着物でごまかしたが、さすがにここまで大きくなると新嘗祭では隠せまい。どうしたものかと思っていたところだ」
「……どうして……どうして今まで黙っておられました? 気都は知っていたんですね? 私と民には告げず、このような……」
「なにを怒っている。告げたくともお前は衝立を越えては来ないし、もうわたしの顔など見たくもないと思っているのかと……」
「それでも、臨月まで秘密になさっているとは、あんまりです。まるで……」
 不意に月読の心に黒く大きな鳥が翼を広げた。
 わざと隠していたのではないだろうか。その腹の子供は、素戔鳴との子だから。そうだ、祈年祭の夜、素戔鳴は禊を覗き見ている。ひっそりとした森に響き渡ったあのかすかな水音。触れ合わなかったと、なぜ言える? 二人以外、誰もいなかったのだ。なぜ、素戔鳴の子ではないと言える?
「月読、お前の子だよ」
 月読の心中を見透かしたように、日孁は言った。
「誓って、素戔鳴とは触れ合ってはいない」
 びくりとふるえ、おそるおそる月読は顔をあげた。
「信じられないか? それなら、これならば信じてくれるか? 生まれてくるのが女の子だったらお前の子だ。きっと、この国を導く新しい太陽となるだろう。生まれてくるのが男の子だったら素戔鳴の子だ。この国を滅ぼす嵐となるだろう」
「そ……んな、もし男の子だったら……」
「大丈夫。生まれてくるのは女の子だ」
 日孁の自信たっぷりの微笑を見ても月読の心は晴れなかった。日孁が言うならば、生まれてくるのは女の子なのだろう。それは即ち自分の子だと。同じ母から生まれた姉と弟の間に生まれる子だと。
 月読の中に新たな畏れが芽生えた。
 異腹の母から生まれた兄妹姉弟の結婚は認められている。しかし、日孁と自分は伊佐那美と言う同じ母から生まれた同腹の姉弟。それも三つ子だったのだ。誰が裁くかはわからない。だが、どんなに欲望に駆られたからとはいえ、日孁はただの日の女神の坐代だったのだと思っていようと、自分がしたことは父と同じ、あるいはいけないと分かっていて求めた分、罪は重いのではないだろうか。
 これが人々に知られたら。素戔鳴に知られたら。
 きっとただでは済むまい。
 日孁も自分も人々から蔑みの目で見られることだろう。
 もちろん、それは日孁がこの父親が月読であると公言すればの話である。
「この子は日の女神が下さったこの国の新たな女王。日の巫女ならば、男と交わらなくとも子を授かることがあるのかも知れぬと人々は思うだろうよ。新しい太陽は国に新しい恵みをもたらす。人々にはそう告げればよい」
 罪の証が次の女王になる?
 自分の犯した罪の証が堂々と人々の前に立って神託を下し、日の女神と崇められる?
 そんな怖ろしいことが起ころうというのか?
 あっけらかんと言ってのけた日孁の手を、月読は掴んでいた。
「月読?」
「素戔鳴が来ます」
「負ける気はないのだろう?」
「貴方が次代の女王を身籠っていると知れば、素戔鳴はお腹の子どもごと貴女を殺すかもしれない」
 日孁はわずかに顔を背けただけで何も言わなかった。
 月読は日孁のもう一方の手もとり、日孁を立ち上がらせる。そして自分の羽織ってきた衣を肩からかけた。
「一緒に来てください」
「……月読」
 戸惑った顔の日孁の手を引き部屋を出ると、月読は祭殿の階段を注意深く下りる。
「日孁様!? どちらへ?」
 途中、気都が慌てて縋りついてきたが、月読は構わず日孁の手を引いて林の中へと入り込んだ。
 日孁は悲鳴こそ上げはしなかったが、抵抗すればお腹の子に障るとでも思ったのだろうか。息苦しそうに呼吸をしながら、足元を選んで月読の後をついて行く。
「月読様、どちらへ? 日孁様をどちらへ連れて行かれるおつもりです?」
 年のせいなのか、次第に遅れていく気都の声を背後に聞きながら、月読は林の山道を足早に登っていく。その昔、日孁に肩を貸されて登っていった岩屋への道を、今度は日孁の手を引きながら。
 薄暗い林の中を抜けて目の前に現れた岩屋は、沈みかける太陽に照らされて二枚の黒岩に朱が滲んでいた。その前に立ち、月読は首から提げた勾玉の一つを握り一言「開け」と呟いた。勾玉は夕日よりも赤く輝いて二枚の岩の割れ目を指し、低い音をたてて二枚の岩が左右に分かたれる。
 ぽっかりと開いた闇の中へ、月読は日孁の手を引いて入っていった。
 岩屋の中は思いのほか広かった。奥はどんなに目を凝らしても見えないほど深く、根の国へと続いているかのようだ。湿った苔のにおいと、黴臭さが鼻元に漂い、奥のほうからかすかに水滴の落ちる音がゆっくりとこだましてくる。
「私をこんなところに連れてきて、どうするつもりだ、月読」
 月読を見上げた日孁は悲しげな顔をしていた。
 そんな顔を見たくなくて、月読は思う存分日孁を抱きしめた。
 柔らかな感触、甘いにおい。また、自分は日孁を傷つけるのだという罪悪感。全ての思いを込めて、月読は苦しいと呻く日孁を抱きしめた。
「貴女は誰にも渡さない。祭殿に閉じ込めても素戔鳴が来ると言うなら、私にはもうここしか思いつかない。ここを開けるのは私だけ。いくら素戔鳴といえどここを開けて貴女を攫いには来られまい」
 腕を解いても、月読は日孁の顔は見なかった。顔を背けたまま踵を返し、岩屋から出る。日孁は茫然としているのか追いかけてきてはいなかった。
 枯れ草を踏みしめ、月読は岩屋の方を振り返る。
 真っ赤な太陽の日を一身に浴びて、闇の中、日孁は立っていた。
 予想よりもずっと、この上なく悲しそうな顔で日孁は微笑んでいた。
「私はもう、どうしたら貴女を手に入れられるのかわからないのです」
 月読は呟き、勾玉を握りしめた。
「閉じよ」
 ゆっくりと左右に分かたれた岩戸が中央に寄り添っていく。その隙間に最後の太陽の光が差し込み、日孁を包み込んだ。
 重々しい音を立てて、二枚の岩は重なり合う。
「月読様!」
 咎める気都の声が月読の耳朶を叩いた。
「あとで日孁様の身の回りのものと食料を岩戸の前に置いておいてください」
「貴方は何をなさったのかわかってらっしゃるのですか?! 女神を穢し、その上闇の中に隠すなど、日孁様を冒涜するにも限りがあります。すぐに騒ぎになりますよ! ええ、私が喋りますとも。皆に伝えて、すぐに日孁様を助けに……」
 気都の声はそこで途切れた。空を仰ぎ、沈んでしまった太陽を探して目を彷徨わせ、最後に大きく抉られた赤い満月を見た。
 その胸からは赤い血が迸っている。
「可哀想に。空を見上げ、月は太陽がないと輝けぬと教えてくださったのは月読様ではありませぬか……」
 月読は抜き放った剣から血を払い、鞘に収めた。
「太陽があるから、月には影もできるのですよ。気都様」
 老婆の亡骸を抱き上げ、月読は呟いた。
 もし日孁がいなかったら、自分はもっと自由に生きてこられたのかもしれない。この国の王として。月ではなく、日の御子として、何かに縛られることもなく、宇受女を妻に迎え、思うが侭自由に暮らせたかもしれない。
 それとも、日孁のいない人生は味気ないものになるのだろうか。
 権力など要らない。王になどならなくてもいい。国などいらぬ。
 ほしいのは、ただ日孁の心だけなのに、子まで生してなぜその心が手に入らない?
 求めるのはいつも自分からだ。自分ばかりが光を必要としている。それは、自分だけが闇を抱えているからなのか。一体、どうすればこの心は満たされる? どうすれば、日孁を自分のものにできたと思うことができる? どうすれば。
 目裏に素戔鳴の精悍な顔が浮かんだ。
「ああ、そうだ。あいつがいなくなればいいんだ」
 素戔鳴さえいなくなれば、今度こそ日孁は自分のものになる。誰に心を移すこともなく、自分が捧げただけの心を返してくれるに違いない。
 月読は意を決して集落への道を辿りはじめた。
「あ、月読! 日孁様は? 日孁様を連れて外に出て行ったって聞いたけど?」
 祭殿の前で右往左往する巫女たちと共に日孁と月読の帰りを待っていた宇受女が、通り過ぎようとした月読の袖を引いた。
「これより一月のうちに狗奴国が攻め入ってくる。日孁様はそれをお聞きになり、身を潔斎して必勝祈願のため、岩屋にお篭りになられた。皆の者、わたしの指示があるまでは岩屋には近づかぬように。以後、心して後の戦に備えよ」
 一瞬の静寂の後、巫女たちは悲鳴を上げながら自分の持ち場へと戻っていった。ただ一人、宇受女だけが月読の側に寄り添ったまま離れない。
「月読、気都様は?」
「気都様は……気都様も日孁様のお世話のために岩屋にお篭りになられた」
「嘘!」
「嘘じゃない」
「嘘だわ」
「どうして。視線を合わせないから? 私がいつも嘘をつく時の癖でも出ている?」
 顔をあわせようとしない月読の頬を、宇受女は両手で挟みこんで自分に向けさせた。その目は溢れ出る涙に潤んでいた。
「貴方から、血の臭いがする」
 唇を噛み締めた月読の手は、無意識のうちに剣の柄をまさぐっていた。殺そうと思ったのではない。ただ、この剣から血の臭いがするというのなら、八意思兼に糾弾される前に捨ててしまわなければと思った。
「剣じゃないわ。貴方自身からよ」
 宇受女は泣き顔をそっと月読の胸に埋めた。
「わたしでは貴方の太陽にはなれない?」
 月読は、暮れかけた西の空に太陽を追いかけるように輝く細い月を仰いだ。
「太陽ならいらない。影ができるだけだから」
 宇受女の身体を静かに押しやり、月読は政庁へと向かって歩き出した。




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