鈍色の夢
六、闇を彷徨う
夜鳴き鳥が鳴いている。薄暗い林の中は先ほどよりも一層闇に沈み、月のない宵の空には枝葉の隙間から星の光が霞みに滲んでいた。
月読の耳には、羊歯草を踏み分ける自分の足音ではなく、胸を突き破りそうなほどの心の臓の音が一歩ごとに大きく早くなっていくのが聞こえていた。
日孁のいる祭殿に向かいながら、一体これから自分が何をしようとしているのか、何を求めにいくのか――腹の底から湧きあがるものを沈めることもできずむしろ沸き立たせるように抱えて、息を切らし、月読は坂を上る。
「あら、月読様? 帰ったのではなかったのですか」
祭殿の入り口に畏まる侍女たちを押しのけて、月読は中に押し入る。
「いかがなさいました」
奥宮の戸の前には気都が立ちふさがっていた。その顔には先ほど月読を送り出した時の柔和さはなく、厳しさが皺に刻まれている。
「危急の用件により参りました。日孁様に会わせてください」
月読の口からは思ったよりも冷静な声が滑り出る。
気都は眉をしかめ、月読を見上げた。
「祈年祭が終わってからでも遅くはなかったのではありませんか?」
「その件とは別の話です」
「その顔、どう見ても穏やかではありませんね。日孁様はすでに本日の禊を済ませていらっしゃいます。そのように邪気を撒き散らしている方にお会いさせるわけには参りません」
月読は、頑としてよけようとしない気都の肩を乱雑に掴んで押しのけ、奥宮の戸に手をかける。その手に気都が縋りついた。
「おやめください。何をなさるつもりですか!?」
「何を?」
月読の唇の片隅に笑みが浮かんだ。
間近で見た気都の顔が凍りつく。
「禊で神聖さが失われていないかを確かめるだけですよ」
あっけにとられた顔で気都が月読を見上げる。
「禊は身体を聖めるための……」
「知ってるよ。ただ、それは誰にも見られなければの話。気都、今宵一晩の人除けを」
「誰かに、見られたと?」
震えだす老婆の手をとってそっと取り除き、月読はにっこりと微笑んだ。
「それを今から確かめるのです。明日の神事に影響してはいけませんから。よいですね? 私が出てくるまで、この祭殿には誰も、気都も近づいてはいけない」
ずるり、と気都の手が月読の手からすり抜けていった。がたがたと震えている気都を置いて、月読は奥宮の戸を開けた。
中は真っ暗だった。かろうじて室内の中ほどに衝立が設えられているのが見える。その奥で、わずかに人が身じろぐ気配がした。
戸を閉めると中は完全に暗闇に閉ざされた。
入室の許諾も得ずに、月読は衝立の向こうへと入っていく。
「騒々しいことだ」
白い着物に身を包み、敷布の上に坐した少女は、衝立の陰から現れた月読の顔を見るなり呟いた。
部屋の奥に設えられた鏡が、闇の中だというのに仄かに光っている。
月読は何も言わず、日孁の肩に手をかけると敷布の上に押し倒し、唇を押しあてた。柔らかな感触を感じる余裕はなかった。ただ受け入れようとはしない冷たさだけがしんと月読の胸に染み入ってきた。
「わたしと契りたいのなら望みを言え。お前のために女神になってやる」
日孁は月読の腕を払おうとはせず、射抜くように真っ直ぐに月読を見つめた。月読はその視線を左目一つで受け止める。しかし、心の中には水に波紋が広がるようにあっという間に失望が広がっていった。日孁から投げかけられた強い視線に己の意志をぶつける場所を見失って、そらしたいのを何とか堪える。
「素戔鳴に会ったのですか」
言葉を継ぐ。決して口にはしたくないと思っていた奴の名を口から吐き出す。
日孁はうっすら口元に笑みを浮かべた。
「会った」
「太陽の巫女もあろう者が禊をあのような者に見られるとは……」
「穢されたとでも思ったか?」
「素戔鳴のことを覚えていたのですか」
日孁はすっと遠くを見て微笑んだ。
「ああ、思い出した。さっき全て、思い出した。父上がなぜ亡くなったのか、誰がわたしを助け出してくれたのか、誰が父上を殺したのか」
月読は日孁から目をそらし、深く息を吐き出した。
「助けてくれたのはお前だ、月読。だから、お前の望みなら何でも叶えよう」
月読の頬に手を伸ばし、日孁は囁く。
「助けてくれたのは二度目だったのだな。一度目はこの火傷を負った時。二度目は父上から慰み者にされていた時。いつもお前はわたしの命を救ってくれた」
違う。
心の中で月読は叫んだ。
違う。
もう一度。
日孁の顔を見つめる。
人形のような顔だった。義務を果たそうとするかのように生気のない、女神の依巫。伊佐那岐に天照らす女神として抱かれていたときと同じ、何かになりきろうとしている顔。
これは日孁様ではない。
いや、日孁ではあるのだ。巫女としての職務を全うしようという耶馬台国の女王、日孁。
「日孁……様」
素戔鳴のように彼女の名を呼び捨ててしまえればよかったのかもしれない。しかし、月読は気づいてしまっていた。物心つく前から共に育てられ、姉でもなく、まして一人の女性としてでもなく、自分は彼女に従うものとして育てられたのだ。歯がゆいほどにその癖が心中に染みついてしまっていた。
それでも、今目の前にいる少女を求めてやまないこの腹底からこみ上げる欲望は、一体何に基づくものなのか。
日孁とてそうだ。自分自身を受け入れようと言ってくれたのではない。
『わたしと契りたいのなら望みを言え。お前のために女神になってやる』
耶馬台国の王である自分に太陽の恵みを授けようと言ったのだ。
おそらく、伊佐那岐にもはじめはそう言って抱かれていたのだろう。自分がこの男を受け入れているのではない。自分はただ、女神に身体を貸しているだけなのだ、と。そう言い聞かせて伊佐那岐の腕に身を委ね、今度は自分の腕に身を委ねようとしている。
「さあ、望みを言え」
これが素戔鳴であれば違ったのだろうか。日孁と呼び捨てる素戔鳴ならば、共に育てられたわけでもない素戔鳴ならば、一目あった瞬間から心を惹きつけてやまない素戔鳴ならば、何のためらいも役割もなしにその腕に飛び込んだのだろうか。夕暮れ時、河原から聞こえてきた水のはねる音。あの瞬間、日孁と素戔鳴は再会し――。
月読はあらぬ想像を打ち砕きたくて日孁の身体に手を伸ばした。開かれた襟の合間から滑らかな白い肌があらわになる。
「折りしも時は祈年祭前夜。我ら人の営みは、まこと農耕の営みと似ておる。そうは思わぬか? 月読」
なぜ、日孁が自分の罪悪感を拭おうとしているのか、月読には分からなかった。ただ分かるのは、日孁は月読を求めてはいないということ。己がしようとしていることは、結局あの時の伊佐那岐と同じことだということ。
何のために自分は素戔鳴を岩屋から出したのだろう。何のために自分は伊佐那岐を殺したのだろう。何のために、自分は日孁を救い出したのだろう。いや、果たして救い出したといえるのか? 全てを思い出したという日孁ならば、気づいているのではないか? 自分が何のためにこんな人気のない香具山のふもとに祭殿を建て、最もな理由をつけて日孁を閉じ込めているのか。
きっと、今の日孁なら気がついている。
「月読」
日孁が耳元で囁く。その誘うような甘い声に、月読は日孁の身体をかき抱いた。
せめて、「耶馬台国の王」と呼ばれる前にこの少女を自分のものにしたいと思った。
「望みは二つ」
「……欲張りだな」
日孁の意地悪な笑い声がむなしく胸に響く。
「一つ、天照らす女神より耶馬台国に一年の御恵みを賜ること」
もし、本当に女神がこの望みを叶えてくれるのなら、半年後、空腹に泣く民はいないはずだ。周りの国々が凶作に喘ぐ中、耶馬台国は安泰が得られ、日孁はより一層民からの信を篤くする。
「約束しよう」
笑って日孁は月読の唇に自分の唇を重ねた。
温もりを味わう間もなく再び月読は口を開く。
「二つ……」
「二つ」
面白げに笑い、日孁は月読の左目を覗き込む。
何も分かっていないふりをしている笑顔。幼い頃、伊佐那岐の膝の上で庁議を聞いていた時の無邪気なふりをしているあの顔。
日孁にそんな顔をさせている自分がとてつもなく情けなくて、月読は目頭が熱くなるのを感じていた。
それでも、夢を見たかった。どんな色の夢でもいい。日孁が自分のものになるのなら、どんな色の夢でも、いずれ覚めてしまう夢でも、何でもよかった。
「今宵一晩、我が妻に」
日孁の心が手に入らないことは分かっていた。きっとこの後、どんなに待ったとしても、たとえ狗奴国に攻め入って素戔鳴を亡き者にしてきたとしても、日孁の心は頑なに男としての自分を拒むだろう。
それでも。
それでも――。
「一晩でいいのか?」
日孁は笑って言い返した。
足りない。一晩などで足りるものか。出来ることなら永遠に、この命尽きるまで自分のものにしていたかった。だが、それでは伊佐那岐と同じだ。心がない人形を妻にして何の悦びがある? 一晩で十分だ。日孁の心を殺してまで夢を見るのは。
そう、そうまでして自分は日孁を自分の元に繋ぎとめておきたいと望んでいるのだ。
苦い思いが胸をじわりじわりとしめつけていく。
「日孁様」
「我が君」
日孁は笑んで月読の首の後ろに腕を回した。月読は闇に白く浮かび上がる日孁の首筋に唇を這わせ、手のひらに吸いつく滑らかな肌をそっとなぞる。こみ上げる欲望に、何が望みだったのかなどすぐに忘れてしまった。ただ今は、何もかも忘れ去ってこの悦楽の中に沈んでしまいたかった。
身体の端々から伝わる日孁の温もりだけが、暗闇の中を手探りで彷徨う月読の標となった。
←五 書斎 管理人室 七→