鈍色の夢

五、密使
『お待ちください、日孁様』
 鈍色の闇の中、誰かに手をとられた日孁が白い衣の端をひらめかせて遠ざかっていく。
『お待ちください、お待ちください、……お待ちください、日孁様』
 自分は追いすがりはしたものの、拒む背中にそれ以上は近づけず、泣きながら暗闇の中にくず折れる。
 日孁はちらりと後ろを振り返る。しかし、歩みは止めない。おさまりの悪い黒髪を無理やり一つにまとめたいかにも粗野な格好の男と共に自分から遠ざかっていく。
 お待ちください――。
 振り返った日孁を諭すように、黒髪の男が振り返る。
「素戔鳴ォ……っ」
 五年の歳月を経たというのに、いまだ月読の中には伊佐那岐を殺した素戔鳴の姿が鮮やかに焼きついていた。岩屋で日孁にかけていた優しげな声も、岩屋から呼び寄せた時の自分に向けられた荒々しい声も、日孁の身を自分に引き渡した時の身を切るような切なげな声も、あの日祭殿で起こったことすべてが月読の中では日を経るごとに鮮やかに刻みつけられていた。真におかしなことだった。あの日、あの場にいたときは全てが夢のようにどこか霞がかって見えていたというのに、過去となってしまってからの方が色づいて見えるとは。
 かといって、この五年、毎日あの日のことを思い出していたわけではない。まして、夢に素戔鳴の姿を見ることもなかった。素戔鳴ならばこの国に二度と足を踏み入れるなと命じ、素戔鳴もそれを諾としたからこそ、何も言わずに祭殿を出て行ったのだ。あれ以来、国内で素戔鳴の姿を見かけたという話も聞かない。ただ、三年前、はるか西にある日の沈む国で八つの頭を持つ大蛇を退治したと噂になった若者の姿が素戔鳴に似ていると感じただけだった。
 どこで何をしているのやら。
 気がかりなのは、決して素戔鳴の安否を気遣っているからではない。心のどこかで、やはり素戔鳴はまた岩屋に閉じ込めて自分の監視下に置いておけばよかったと後悔しているからだった。この国の外のことに関しては、日孁が鏡に映ったものを読み取って告げる。せっかく五年間素戔鳴のすの字も出さなかったというのに、まさか素戔鳴の居場所を日孁に求めさせるわけにもいかない。
「月読様。月読様」
 各国からの米や稗をはじめとする穀物の収穫量を記したもの、魏の使者からの親書、人々の生死を記した戸籍、属国を監視する目からの定期便――それらの書物の中で、しばし目を閉じていた月読は、名を呼ばれて顔を上げた。
「狗奴国から親書が届いております」
 昨年、宮に上がったばかりの頬の赤い覡見習いの少年が月読に一つの文を差し出していた。
「これで三通目ですね。外にはまたたくさんの供物が届いていますよ。月読様、中には一体何とか書いてあるのですか?」
 目を輝かせて尋ねる少年を一瞥し、月読は親書を受け取った。
「そのようなことはお前が気にしなくともよい」
「ですが、狗奴国とはその昔大きな戦をしたと聞いております。これほどまでに熱心に親書と貢物を送ってくるなら、狗奴国との戦はもうしなくてもよくなるのではないでしょうか」
 月読は小さく呟いた。
「下がれ」
 だが、赤頬の少年は気づかず喋りつづける。
「もしそうであれば、兄も父母もきっと胸を撫でおろすことと……」
「下がれ」
 二度目に口にした言葉は、呟き以上の語気を持って少年の口を封じた。少年は恥じらいに顔を赤く染め、一礼して月読の部屋を駆け出していく。
 その背中を追うこともなく、月読は狗奴国から届いたという親書を見つめた。
 おそらくこの外庁の外にはまた瑪瑙や翡翠に黒曜石、それに鹿やら長鳴き鳥やらが積まれているのだろう。
 溜息をつく。
 供物が届いているなら、三通目となる親書の内容もおそらく一通目と同じものであろう。どちらが上でもなく、下でもなく、対等な立場で和議を結ぼう、と。そして書の中には必ず伊佐那美が健在であることにも触れられている。差出人は狗奴国王。見なくとも分かる。
「それほどまでに頭を悩ませるのならば、日孁様に尋ねてみてはいかがです?」
 苦笑しながら室内に入ってきたのは八意思兼だった。伊佐那岐亡き後阿牟多は政の場から身を引き、いよいよ以って八意思兼が補佐役として月読についた。国の長は長子である日孁が担っているが、実質は予言をはじめとする祭祀を日孁が担い、日孁の言葉と国の現状を鑑みながら政を行うのが月読の職務となっていた。日孁は伊佐那岐亡き後、また神言を聞く力を取り戻し、外の国や属国の様子のみならず、近い未来を鏡に映し出すまでにその才を伸ばしていた。今は月読が安の河原近くに新しく建てた祭殿に引きこもり、毎日決まった侍女と月読にしか会わず、禊のために川に降りる以外は祈りと機織の日々を過ごしている。
「魏に遣した使者から大陸からの安堵は得たと、つい先ごろ文が届いた。大陸から安堵を得ているのは我が国だけ。日孁様がおっしゃるとおり、耶馬台国はますます栄えることだろう。国内とて騒乱なく治まっている。狗奴国と手を結ぶ意義がどこにあろうか」
「それならば送られてくる文をないがしろになどせず、日孁様にきちんと御報告申し上げ、狗奴国に手を結ぶ気はないと返事をしてはいかがです。たとえ争いになったとしても、魏の国からいくばくかの助けが得られれば、西の海を渡ってくる魏の軍と東の山から攻め入る我が軍とで狗奴国を挟み込み、耶馬台国の領土を広げることができるでしょう」
「それは……」
 大それたことを顔色一つ変えずに飄々と言ってのけた八意思兼を、月読はちらりと見上げた。
「月読様、そちらの各国からの昨年の穀物の収穫量を記した書物には目を通されましたか?」
 月読は八意思兼から目をそらす。
「一昨年よりもどの国も収穫量が落ちていた」
「月読様が太陽と月と星の運行を読み解かれ、田畑に種まく時期を触れてくださるようになった四年前から、どの国も格段に収穫量が上がりました。さらに稲作のための水路や灌漑の技術を広めてくださったのも月読様です。食料が安定すれば、森や川など国の間を木の実や魚を求めて行き来する者も耶馬台国に定住し、田畑はさらに開墾され実り豊かとなれば租税も増やすことができる。この五年、耶馬台国の土台を揺るぎないものにしてくださったのは間違いなく月読様です」
「……昨年の夏は例年よりも肌寒い日が続いている気がすると日誌に記していた。稲もなかなか背丈が伸びぬと」
「それはどうやら狗奴国や他の国々でも同じであったようです。魏をはじめ大陸の国々も昨夏から悲鳴を上げていたようです」
「耶馬台国だけではない、と」
「それこそ日孁様にお伺いを立ててはいただけませぬか? 肌寒い年がこれからあとどれくらい続くのか。狗奴国が和議を申し出てきているのは、おそらく耶馬台国とのこれ以上の諍いをなくし、領土の安寧を計るため。もし耶馬台国が申し出を受け入れなければ、昨年までの蓄えがある今年であれば耶馬台国を平らげ、領土を広げ作付面積を稼ぐことができます」
 返事を出していないにもかかわらず、半年で三通もの狗奴国王からの貢物付の親書。確かに急いているかにも見える。それであればこちらが有利なように交渉を進めるという手もあるが、一つ気にかかることがある。
「あれだけ諍いが多かった国なのに、貢物付で対等な関係での和議を求めてくるなんて……話がおいしすぎる。それこそ、理由などつけずにはじめから攻め込んできていてもいいはずなのに。下手にこんなことをしているから我が国にまで真意を探らせる機会を与えてしまって」
「伊佐那美様がいらっしゃるからかもしれませんね」
 三通目の親書を開く。内容は同じ。狗奴国王から耶馬台国女王日孁にあてて、向こう五十年間は互いに攻め入らぬと誓う対等な立場での和議の申し込み。さらに交易の申し込みと伊佐那美は元気であると付け加えられている。
 辛抱強くこのような親書を送ってくるとは、あるいはもしかしたら狗奴国王自身に何かあったのかも知れない。
「八意思兼様、狗奴国王の身辺に何か変化があったという知らせは?」
「さて。三年前、年老いた王が外から来た若者に位を譲ったという話しか私は聞いておりませぬ」
 八岐大蛇を倒したという若者の噂が届くのと時を前後して、月読もその話は耳にしていた。耳にした当初は気に留める程度であったが、先ごろやたらと素戔鳴のことを思い出すせいだろうか。不意に狗奴国王の正体が気になってきた。
 まさか、国を負われた素戔鳴が母伊佐那美を頼り狗奴国へ渡り、王になったということはあるまいか。外から来たとはいえ、血筋は狗奴国王の血。八岐大蛇が倒された地も、確か狗奴国の内であった。その手柄を土産に、伊佐那美の後ろ盾を得て王位を継承したということはあるまいか。
 ぞわり、と月読の背筋を悪いものが駆け抜けていった。
 まさか。そう思いたいのに、何かが警鐘を鳴らしている。
「狗奴国との対等な立場での和議ということであれば、何も悪いことはありますまい。なぜそのように躊躇われます?」
 月読は八意思兼の問いには答えず、立ち上がった。
「日孁様のところへ行ってまいります」




 宮の外は、明日に控えた祈年祭の準備に勤しむ人々で賑わっていた。日と夜の長さが同じになる明日は、田畑を耕す前に穀物に宿る神々に今年一年の豊穣を祈る大切な祭りが催される。今晩はその前夜祭が広場で行われるため、広場は太鼓を抱えた男集や舞の練習をする巫女たちで溢れていた。
「月読」
 舞姫となる巫女たちの中から宇受女が、人の目を忍ぶようにして隅を歩いていた月読を目ざとく見つけて声をかけてきた。
「宇受女」
「どう? 今年の衣装は結構きわどいでしょう? この日のために一年かけて作ったのよ」
 ふふん、と裾をひらめかせて宇受女がくるりと一つ回る。髪に挿した金色のかんざしが揺れて光を撒き散らす。その眩しさに目を細めて、月読は笑顔を浮かべて頷いた。
「ああ、とても綺麗だよ」
 天真爛漫なこの女こそ、春の訪れを告げる舞姫にふさわしい。かんざしだけではなく、笑顔も昔から眩しいくらいに明るい。年上ながらも愛らしさを感じさせていた宇受女も、気づけば綺麗な顔と豊満な胸を持つ美しい女になっていた。伊都国の首長も八意思兼も、二、三年前からしきりに月読に宇受女を娶るように勧めている。八意思兼に思いを寄せているとばかり思っていた宇受女からも、最近は何か淡い思いのようなものを視線に感じることがある。伊佐那岐には覡として育てられたが、今は日孁の託宣を読み取ること以外は実質月読が王となっているも同じであった。いずれは子孫を残し、先を託さねばならない。宇受女ならば地位も器量も、何より、気兼ねが要らない分自分の半生を共にする相手として申し分はない。
 そう頭では考えていても、月読は今まで一度も八意思兼たちの意見に首を縦に振ったことはなかった。曖昧な笑みを浮かべたまま、その場をやり過ごして逃げてきてしまう。
「まぁた、月読は口ばかり達者になっていくわね」
「失礼な。本心だよ」
 宇受女は少し笑って、月読を見つめた。
「今晩、見にきてね。忙しいかもしれないけど、少しでも神様に気に入ってもらえて実り多くしてもらうために一所懸命踊るから」
 貴方のために。切ない思いが込められたそんな言葉が聞こえてくるようだった。
「頼んだよ」
 宇受女の視線を受け流すように顔を背け、月読は歩き出した。
「きっと来てね」
 背中を追ってくる言葉に振り向いて手を振り、月読はまた歩き出す。
 香具山のふもと、人目を忍ぶようにして鬱蒼と茂る杉林の中に建てられた安の河原近くの祭殿には、もううっすらと夕闇が忍び込みつつあった。女王の住処というのに、人の数は広場に比べれば驚くほど少ない。生活にたる必要最小限の侍女しかここにはいないから、外を歩き出ている者もいないのだろう。
「あら、月読様。どうなさいました。今日はいらっしゃるのが遅かったではありませんか」
気都きと様」
 祭殿の入り口で出迎えたのは、一番年配の巫女上がりの侍女だった。昔から日孁と月読のことをわが子のようにかわいがり、時に厳しくしつけてきたのがこの侍女だった。日常生活を取り仕切ることに関しては月読が最も信を置いているといっても過言ではない、母のような女性だった。
「今夜の前夜祭や明日の祈年祭のことでちょっと。日孁様は中に?」
「それが、月読様がおいでにならないので、今日はもう禊に川へ行ってしまわれたのですよ」
「禊に……。そうですか。それなら仕方ありませんね」
「何か相談事でしたか?」
「いえ、祈年祭が終わってからでも遅くはありませんから。それでは」
 月読は祭殿を見上げ、侍女に軽く頭を下げると祭殿をあとにした。
 夕暮れ時。たしかに、真っ暗になる前に禊は済ませておきたいところだろう。今夜は日孁の出番はないし、明日のことならば毎年のこと。広場に特別に設えられた祭殿で天照す神に豊穣を願って祈りを捧げる。狗奴国のことも祭りが終わってからゆっくりと相談すればよい。三度も返事を待っているのだ。何も届いてすぐに返事を返さずとも、今更怒って田植えを迎えようとするこの時期に攻め入ってくることもないだろう。
 夕闇はあっという間に帰り道を覆っていく。日中暖められた羊歯草には寒さが這いより、露がにじむ。遠くからは祭りが始まった笛と太鼓の音が林の間を縫って聞こえてきていた。きっと今頃、宇受女が挑むような顔で袖から舞台を見上げていることだろう。
『きっと来てね』
 愛らしさの残る宇受女の笑顔が胸に蘇る。
 きっと。自分の右顔の火傷の痕を見ても、驚きこそすれ気味悪がることのなかった宇受女ならば、背中一面の傷痕を見せても受け入れてくれるだろう。笑顔で自分の全てを受け入れてくれるだろう。不満などない。思い描ける未来はとても明るい。それなのに。
 月読は足を止め、祭殿のある後方を振り返った。すでに祭殿は木陰と闇に紛れて見えなくなっている。日孁はもう禊から戻っただろうか。やはり一目。せめて明日の確認だけでもした方がよいのではないか。
「……っはっ」
 月読は額を押さえ、嘲り交じりの笑いを飲み込んだ。
 理由なら何でもいい。自分なら、何とでもつけられる。自分はただ、日孁に逢いたいだけなのだ。そして、こんな人里はなれた場所に祭殿を設け、国の柱として祭殿に引きこもらせているのも誰の目にも触れさせたくないから。
 五年前、日孁から伊佐那岐を遠ざけ、素戔鳴を遠ざけ、巫女であることを理由に少しずつ少しずつ自分の手の届くところに日孁を囲い込んだ。けれど、どんなに策を弄して手の中に収めようと、同腹であるからには実際に触れることはかなわない。
 夕暮れの静けさの中、後方から微かに水のはねるような音が聞こえた。
 まだ河原にいるのか。
 月読は唇を噛み締め、拳を握り、祭殿に背を向けて広場へと足早に歩き出した。暗闇の林の中を抜け、やがて広場に掲げられた松明の灯りがぽつりぽつりと見えてくる。その灯に、心のどこかが緩んだような気がした。人々の笑いあう声がさらに月読を一時の感傷から現実へと引き戻す。
 大丈夫。ここまで来ればもう、大丈夫。
 一時、胸にこみ上げかけた欲望は波が引くように穏やかになっていた。人目が自分にこの国の王として振舞うことを強要するのだ。
 人々の笑い声を聞け。豊穣願う人々の声を聞け。浮かれ踊るその顔を心に焼きつけよ。
 そうすれば、腹の底から湧き上がる禁忌すらも乗り越えようとする忌まわしき父親の血は引いていく。
 日孁様はただの巫女ではない。耶馬台国の明日を担う天照らす神の意を聞き出し、国を支える女王。その神聖なる女王が再び穢されることがあってはならない。
 舞台の上では宇受女がひらひらと裾を揺らめかせ、柏木を持って他の巫女たちを後ろに従えて和えかな舞を舞っていた。しとやかながらも時折流される視線に含まれた艶に、男たちは時折どよめき立つ。
 その視線が、林と広場の入り口の間に立つ月読を捉えて、にこりと笑んだ。
 思わず月読も笑い返す。
 胸のうちには言い知れぬ安堵感が広がっている。
 宇受女の舞にはさらに気合が入る。
「綺麗な女だな」
 ぼそりと、いつの間にか隣に立っていた男が呟いていた。
 気配に気づかなかった月読は、眉をひそめて隣を振り返る。
「祈年祭なんて、いつから始めたんだ?」
 頭から襤褸をかぶってはいたが、縦横無尽にはみ出した黒髪と、たくましい横顔には見覚えがあった。
 戦慄する。
 身体中の血が引けていくのが分かった。
「貴様……二度と足を踏み入れぬと誓ったのではなかったか」
 声を噛み殺し、月読はその男――素戔鳴を睨み据えた。
 素戔鳴はにやりと口の端に笑みを浮かべる。
「諾と言った覚えはないな、兄上」
 ぐっ、と月読は拳を握る。
 声を上げるか? ここに約束を守らぬ者がいると。しかし、今そんなことをしてみろ。あっという間に素戔鳴は捕まえられるが、せっかくの祭りが台無しになる。前夜祭とはいえ、明日に向けて神々を集めるための祭り。途切れさせるわけにはいかない。
「時に兄上。狗奴国からの親書は女王の元に届いておいでか?」
 祭りに目を向けなおし、素知らぬふりで素戔鳴が問う。
 月読は続いて唇を噛み締める。さっきとは違う。こみ上げる怒りを抑えるために。
 半年前、狗奴国から親書が届くようになってからやたらと五年前のことを思い出したり、素戔鳴のことを思い出していたのは、こういうことだったのか、と。
「出て行け」
 震える声を低く、小さく振り絞る。
「この国から、今すぐ出て行け」
 もう一度、促す。
 しかし、素戔鳴は飄々と肩をすくめ、月読を振り返った。
「俺の言うこと、聞いてなかったの?」
「それは私の台詞だ。二度とこの国に足を踏み入れるなと私は命じた」
「狗奴国王から耶馬台国女王への親書は姉上に届いておいでか?」
 激昂寸前の月読に、噛んで言い含めるようにゆっくりと素戔鳴は言った。
 血の上りたつ頭の中に、不意に夕時八意思兼と話した内容を思い出す。
「まさか……狗奴国の王は貴様か」
 歯軋りする合間に漏れ出た月読の言葉に、素戔鳴はしたりと笑う。
「酒漬けにした大蛇の頭を持っていったら、狗奴国王も母上も大喜びで俺を迎え入れてくれたよ。それから先はあれよあれよという間に王様なんて呼ばれてたっけ」
「馬鹿に……馬鹿にするな……っ! この五年を……私の築いてきたこの五年を……」
「太陽と月と星の運行から暦をつくり、魏の使者から得た知識を元に水路や灌漑設備を整え、天照らす女神の御覚えもめでたく、誰が見ても今がこの国の絶頂期だ。この祭りも日と夜の長さが同じになる日を見つけ春の始まりと定め、兄上が農耕期の始まりの触れを出すために始めたんだろう? 人知の及ばぬ範囲は姉上が読み解き、人知の限りを尽くして目の前にあるものを兄上が読み解く。耶馬台国はこれ以上ない女王と王に恵まれている」
 耶馬台国が狗奴国に目を送っているように、狗奴国も耶馬台国に目を忍ばせている。それも、かなり目のいい者を。
「それに比べ狗奴国はまだまだだ。鬼道衆は到底姉上の力には及ばないし、俺だって兄上のように天を見上げて決まりごとを見つけるなんて柄じゃない。水田だって耶馬台国の見よう見まねで一昨年、ようやく収穫量が上がった。が、現に敏い兄上なら気づいているだろう? 昨年は狗奴国もさっぱりふるわなかった。狗奴国だけじゃない、大陸の呉でもさっぱりだったという」
「……呉?」
 怒りはまだ鎮まらない。しかし、素戔鳴の呟いたその大陸の国の名は、聞き逃すわけにはいかなかった。
「そう、呉。耶馬台国が朝貢してる魏とは敵対関係にある国だな。ちなみに安心してくれ。まだうちは朝貢はしていない。鉄というものがあってさ、それが青銅よりも硬いんで、鏡や剣に使えないかと人を遣って覚えさせてるところだ。少しだが鉄の採れる山があることが分かったからな。そのうち、うちの国でも鉄を精製できるようになれば……耶馬台国を平らげることも易い」
 どこか遊びが滲んでいた素戔鳴の声に、どすが混じった。
 月読の中に渦巻いていた怒りは、不安へと質を変えて腹の中で渦巻きはじめる。
「何を、しに来た。そのような姿に身をやつして……狗奴国の王よ」
 声を絞り出し、自分よりも大柄な男を見上げる。
 素戔鳴は笑った。
「うちの覡のじい様どもが言うには、どうやら少なくとも俺たちが生きている間は夏でも肌寒いままらしい。残念ながら米や雑穀の収穫増もそうそう見込めない。そんな中でこれ以上いつ攻めるか攻められるかの緊張状態を保ってたって意味がないだろう? 田畑を耕す者たちも、安心して暮らしてもらいたいしな。だから、収穫量が分かった去年から、ずっと親書を出してたってわけだ。だけど返事がない。ちゃんと届いてるのかなって、まあ、俺がじきじきに届けにきたわけ。狗奴国の王として」
 月読は素戔鳴を睨み据えた。素戔鳴は月読の視線を正面から受け止めて飄々と見返す。
「対等な立場での和議って、悪くないと思うんだけど。何が国の為なのか、賢い兄上なら分かるだろ?」
 何が国の為になるのか? 狗奴国と和議を結ぶことだ。
 しかし、和議を結べば交易も増える。国の長同士の交流も増える。素戔鳴と日孁を、否が応でも会わせなければならなくなる。
 次に日孁が素戔鳴と顔を合わせたら、日孁は五年前のことを全て思い出してしまうことだろう。辛く悲しい思いをまたさせてしまうことになる。それだけじゃない。忘れ去っていた幼い日の思慕まで思い出してしまうかもしれない。
 それだけは、避けなければならない。
 どうしたらいい? どうしたら。
「それに、祈年祭って見てみたかったんだ。前夜祭から楽しそうなもんだな。来年はうちでもやってみることにするよ。神様なんざ秋に収穫したものを食いにしか来ないような奴らだけど、田畑を耕す者たちの景気づけくらいにはなるだろ」
 満足げに頷いていた素戔鳴は、おもむろに襤褸を頭に巻きなおした。
「じゃあ兄上。俺はこの辺でお暇することにするよ。和議の申し込みは今日送った三通目の親書で終わりだ。それを伝えるために俺が来た」
「拒む、と言ったら?」
 慎重に月読は腹を探る。が、素戔鳴は痒くもないとでも言うように豪快に笑った。
「田植え、種まきが一段落する夏頃までに考えてくれればいい。よい返事を待っていますよ、兄上。それから、日孁……姉上にもよろしく。さっきのは本当に偶然だったんだ、って」
 にやりと笑った素戔鳴に耳打ちされ、月読ははっと顔を強張らせる。
 耳に、林に響く水音が蘇った。
「貴様、まさか……」
「俺は水を飲みに行っただけだよ」
 素戔鳴は笑い、飛び掛った月読の腕を逃れ、次の瞬間音もなく闇の中に消え去っていた。
「待て! 素戔鳴ッ!」
 闇に沈む林の中に、月読の怒鳴り声が呑み込まれていった。広場では相変わらず祭囃子が鳴り響き、宇受女が布帛ひれを振りながら春を呼ぶ舞を舞っている。
 その姿を一瞥して、月読は足元もおぼつかない林の中へと踵を返していた。




←四  書斎  管理人室  六→