鈍色の夢

四、追放
 月読は首からかけた勾玉と腰に佩いた剣の柄を握りしめ、まだ日も昇らぬ前に祭殿に忍び入った。
 日の出とともに禊を済ませた伊佐那岐と日孁がこの祭殿に入ってくる。それから二人は夜日が沈みきるまで祭殿から出てくることはない。日が出ればどんなに裏に回っても人の目がある。夜と朝のこの間の時間、朝霧に紛れて忍び入るのが最もよい策と思えた。
 薄暗い祭殿の中、月読はその昔宇受女に教えられた内部の構造を頭に描きながら進んでいく。奥の宮まではそう距離はなかった。天井は廊下よりも若干高め。板が張り巡らされた床を越えて向こう壁に鏡を中心に置いた祭壇が設えられている。その前には細い注連縄を張り巡らせた囲炉裏がある。囲炉裏の中は灰で埋められ、その中に一つ、二つ、動物の骨を焼いたと見られる跡が残っていた。
 おおよそ、行われるべき神事は行われている。
 月読は割れた動物の肩骨の欠片を手に取り、ふっと溜息を漏らした。
 いびつに割れた肩骨は左右、割れ目がぴたりとあわせられなかった。いくつかの欠片が灰の中に落ちてしまったのだろう。割れ落ちた欠片の数にもよるが、割れ目の整合性が取れないほど凶意は強い。その凶意を拭い去るには、巫覡が神を降ろして力を与えるしかない。問題はその力の与え方だ。
 月読とて何も知らないわけではない。場合によっては体を結び合うこともあることは知っていた。しかし、神を降ろすにしろ何にしろ、前提というものがある。そもそも婚姻関係を結べるのは異母の兄妹姉弟からだ。同母である自分はもちろん、己の体の半分を為す父となど論外のことだった。
 しかし、それもこれも決めたのは父である伊佐那岐。その伊佐那岐をしてよしとするならば、誰もいない密室でのこと、この国に関わる者は母である伊佐那美以外誰も何も言えまい。
 月読は手についた灰を払うと、身を潜められそうな場所を探した。祭壇と囲炉裏以外何もない部屋。あえて隠れられそうな場所といえば祭壇の裏だろうか。月読は祭壇の裏に回りこむと麻布をたくし上げ、一番下の壇に横になれる程度の隙間を見つけた。
 そもそも神事が行われる日に祭壇に近づくだけでも畏れ多いことだというのに、祭壇の裏に隠れ潜むなど、のちのちどのような祟りにあってもおかしくない愚行だ。そうと分かってはいても、それ以上の愚行がこの祭殿で行われているというのなら、止めなければもっと恐ろしい災厄がこの国を見舞うだろう。
 大義名分を己の胸に掲げ、月読は祭壇の下に身を横たえた。腰に佩いた剣は紐を解き、いつでも抜けるように胸に抱く。いざとなったら、この場所を血に染めてでも日孁を守る覚悟だった。
 やがて、壁の隙間から眩しいほどの朝の光が差し込みはじめた頃、静々と日孁が室内に入ってきた。日孁は祭壇の正面に坐すと一度額を床につけて拝礼した。それから続けて二度、同じことを繰り返すと、二度拍手を打った。その音は室内に篭っていた闇を打ち払うとともに、潜んでいる月読の胸に巣食った疑念さえも祓いゆくかのようだった。続いて祝詞が始まり、その間に巫女たちが音もなく入ってきて祭壇の前の囲炉裏に波波迦の枝をくべて火を点し、日孁の前に新しい真白い鹿の肩骨と一枝の柏を置いて出て行った。日孁は置かれた柏を手に取り、左右に振りながら一心不乱に祝詞を唱え続ける。
 一通り祝詞が終わると、日孁は鹿の肩骨を両手で捧げ持ち、波波迦木の燃える炎の中にそっとくべた。それから祭壇に飾られた鏡を胸に抱くと、再び炎の前に坐して託宣を求めて神に祈る。やがて、骨の割れる乾燥した音がかすかに響いた。かと思いきや、雷でも生まれたかのような轟音と共に炎が燦然と天井近くまで昇りたち、硬質な骨が砕け散る音がした。
 室内は再び静寂に満たされる。
 目を開いた日孁は灰の中を覗き見るとかすかに溜息を漏らした。
 炎に照らされて赤く見える日孁の目は失望に満ちていた。
 またか、という声が聞こえてきそうな表情であった。
 不意に波波迦木の明かりにだけぼんやりと照らし出されていた室内に再び外の光が入りこんできた。真昼の光だろうか。日孁が入ってきたときよりもその光は青みと黄みの両方を兼ね備えるようになっていた。その光を背後に室内に踏み入ってきたのは伊佐那岐。月読は祭壇の隙間からその姿を捉え、思わず剣の柄を握る手に力を込めた。
「天照らす日輪に愛されし巫女よ。狗奴国との戦はじめはいつがよろしいか?」
 足を組んで日孁の背後に座った伊佐那岐は、厳かながらもどことなく楽しげな色を滲ませた声で尋ねた。
「戦は……起こりませぬ」
「それは、なぜか?」
 楽しげな伊佐那岐に対し、日孁の肩は小刻みに震えだす。
「伊佐那岐様の……お命が……尽きまする」
 唇を噛み締め、日孁は言いにくい言葉を押し出すように告げる。
 伊佐那岐の命が尽きる?
「その話なら素戔鳴が産まれる前から何度も聞いている。伊佐那美の腹から生まれし末の子ににこの命とられるという話であろう? だが、当の子どもは岩屋から出られず、いまだ私は生きている」
「……尽きまする」
 かすれた声で零れ落ちた声を拾い上げるように、伊佐那岐が日孁の顎をつまみあげる。
「ならば今日こそあの者を始末しよう。伊佐那美の腹から生まれたとはいえ、あれは私の子ではない。忌むべき狗奴国王の子。月日が経てば去ぬものと思っておったが、潮時だろう」
「それでは伊佐那岐様が血の穢れに染まってしまいます」
「もし穢れたならば、安の河原ででも身を清めればいい。神力を失うというなら、日輪の女神にまた神の力を宿してもらえばよい。何の不都合があろうか?」
 伊佐那岐は笑みを浮かべて日孁を見つめた。
「さあ、日の女神よ。汝が慈しみし巫女の身に降りおりよ。そして、我に忌まわしき狗奴国を滅ぼす力を与えよ」
 日孁の目は抗うように苦しげに一瞬宙を彷徨ったかと思うと、すとんと伊佐那岐の腕の中に体を委ねた。祭壇前の炎が再び逆柱をあげる。その炎は天井を舐めて焼き焦がし、天が閉ざされていると知ると日孁の口へと吸い込まれていった。
 日孁様――月読は叫びだしそうなのを押さえてその光景を見守る。
 と、日孁はゆっくりと瞬きをすると自分を抱える伊佐那岐を艶を含んだ目で見上げた。
「欲深き男よ。また我に用か」
 その声は月読の知る日孁の声ではなかった。低く誘うような妙齢の女性の声をしている。目つきも半ば眇められいささか楽しげである様はどこか伊佐那岐と似ている。
 声も姿も別人を見ているかのようだ。
「天照日輪の女神よ。数多の国を従え、国の要たる耶馬台国の礎を築いた我に、今一度神の力を授けよ。女神の祝福を」
 伊佐那岐は太陽神の宿った日孁の前にひれ伏す。日孁はそれを睥睨し、顔をあげさせると伊佐那岐の唇を吸った。
「日輪の祝福を汝に捧げよう」
 妖艶に微笑むと、二人はもつれるようにして床に転がった。
 月読はおもむろに目を背けた。神の依り代として一国の王にその身を捧げることは、日の巫女ならばありうること。祭壇の向こうで繰り広げられる様は、耶馬台国に祝福をもたらす女神と王の契りに過ぎない。白い胸もあらわに伊佐那岐を誘うあの女のどこに、昨日泣きながら素戔鳴に縋っていた少女の姿がある?
 素戔鳴はそれでも許さないと言うだろう。日孁の身体が日孁の石に沿わず穢されていることには変わらないと。しかし、未来を占い、時に神を降ろして国の安寧を図るのが巫覡の務め。あれは、耶馬台国を維持していくために必要なことなのだ。
 言い聞かせながらも、月読はこみ上げてきた吐き気に口元を押さえた。もう一度、もう一度だけ、あの目の前にいるものが日孁でないと確かめることができたら、後はもう目も閉じ、耳も両手で覆い、事が終わるのを忍びとおそう。そのつもりで、月読はもう一度だけ隙間から日孁の表情を窺った。
 仰向けにのけぞった日孁の顔は伊佐那岐からは見えず、祭壇側を向いている。
 苦悶に満ちた表情が、その顔には張り付いていた。うっすらと目じりからは涙が滲んでいる。さっきまでの伊佐那岐を誘う妖艶な目とは裏腹に、嘆きに満ちたうつろな目が宙をさまよっている。その目が、ふと月読の視線と交わりあった。
 あっと日孁の目が見開かれる。それからすぐに日孁は祭壇から顔を背けた。
 日孁だった。
 日輪の女神の依り代にされているはずなのに、確かに月読の視線とぶつかったその目は素戔鳴のところから戻る時に見せた必死に嫌なものを堪える日孁と同じのものだった。
 口元を覆った月読の手の内から堪えきれずに腹の中のものが戻り出る。震えた肩が祭壇を少しばかり動かした。その物音に気がついて、ことも半ばで伊佐那岐が我に返り誰何の声を上げた。
「誰だ」
 ぶるりと月読は身震う。情けないことに奥歯はかちかちと噛みあわず、剣の柄にかけた手は握ることもままならず、もう片方の手で勾玉を握りしめ震えていた。
『お前に与えられたその玉は祈りを強化するだけ。しかし、この期に及んで俺たちは誰に祈ればいい? 祈りでは人は変えられない。運命も何も切り開くことはできない。俺なら全てを変えられる。少なくとも日孁を酷い目にあわせる奴から救ってやれる』
 この期に及んで誰に祈ればいい?
 そのとおりだ。祈るべき神などいない。もしいたならば、そもそも日孁をあんな目になどあわせないだろう。あの日孁のどこからどこまでが日孁だったのか? おそらくはじめからだ。伊佐那岐を誘う女神も日孁が演じていたに違いない。何もかも、己を欺くために。
 自分は何も知らなかった。何も知ろうとしなかった。神事ならばいい? いいわけがない。自分は見たくないものから都合のいい理由をつけて目を背けていただけだ。神などいない。この国に幸をもたらすために降りて来るものなどどこにもいない。この国の豊かさとて、全て今までの経験と知恵とで築き上げてきたものではなかったか。祭儀は良心で以って政を後押しするためのものに過ぎないのではないか。
 月読は袖で口元を拭い、祭壇の裏から這い出た。
 日孁は月読の姿を見るなり失神し、伊佐那岐は余裕げな表情の中に僅かに感嘆の色を滲ませる。
「何をしている」
 引き締められた表情に似つかわしい鋭い声で伊佐那岐は尋ねる。
 月読は身が竦むのを感じながら、身体を起こし、伊佐那岐に対する形で胡座した。
「父上こそ何をなさっているのです。ここは清められし祭殿の奥室。神の声を聞く場所にございます。まずは日孁様からお離れください」
 震えた声ながら、全てを言い切って月読の全身にはどっと汗が噴出す。
 しかし、伊佐那岐は僅かに眉をしかめたかと思うと、次の瞬間天を震わせるかのような大声で笑い出した。
「日孁? 日孁などどこにいる。ここにいるお方は天より大地を照す日輪の女神」
 そこで日孁の身体を抱き上げ愛しげに髪を梳くと、伊佐那岐はぎり、とこれまでにないほど厳しい目で月読を睨みつけた。
 月読は吸いかけていた空気をゆっくりと呑み下す。
「神事を穢すとは何事か。お前のせいで女神が逃げてしまったではないか」
「女神など降りてきてはおりません。そこにおわすお方は、はじめからずっと日孁様でございました」
「出鱈目を申すな」
「出鱈目などではございません。父上、姉上をお放しください」
 唇を噛み締め、剣と勾玉を握りしめ、月読は正面から怒りに打ち震えた伊佐那岐の視線を受け止めた。
「それとも、まだ姉上を母上の身代わりとするとおっしゃるのなら、私にも考えがございます」
「伊佐那美の身代わり? 馬鹿な。この娘はそれ以上だ」
 伊佐那岐が気を失ったままの日孁の白い首筋に唇を這わせるのを見て、月読は腹の底から怒りがこみ上げてきた。己の触れられえぬものに忌まわしい痕を残すあの男。色欲に溺れたあの男。決してただで許してはならない。
『俺ならどうせ母殺しの罪をかぶせられて一生ここに閉じ込められるだけの人生だ。事が終わったら、お前は父親殺しの罪人としてまた俺をここに閉じ込めるなり何なり好きにすればいい』
『その話なら素戔鳴が産まれる前から何度も聞いている。伊佐那美の腹から生まれし末の子ににこの命とられるという話であろう? だが、当の子どもは岩屋から出られず、いまだ私は生きている』
 素戔鳴と伊佐那岐、両者の台詞が月読の頭の中に同時に蘇る。
『……尽きまする』
 続いて消え入るような声で伊佐那岐の死を予言する日孁の声。
 月読は剣の柄から手を離した。首から勾玉の数珠をとると、両手にかけて挟み込む。
 伊佐那岐の表情が変わった。
「月読、貴様何をするつもりだ?」
「日孁様を穢した貴方は憎いが、私も血の穢れは恐ろしい」
 月読の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「ならば、血の穢れを畏れぬ者を以って貴方の穢れを祓わせましょう」
 伊佐那岐は素戔鳴が狗奴国の王の子だからではなく、真実は自分を殺すと聞いて畏れてあの岩屋に閉じ込めた。その予言が現実になる恐ろしさはいかばかりだろう。それだけではない、伊佐那岐の命が尽きるという日孁の予言は当たり、その上、うまくいけばあの目障りな素戔鳴を岩屋などではなくもっと遠くに追放できる。伊佐那岐がいなくなり、素戔鳴もいなくなれば、日孁は自分に頼らざるを得なくなる。日孁には自分しかいなくなる。
「香具山の大樹に抱かれし岩屋戸の、戸によりかけられし二枚の岩よ、汝らに呪をかけし勾玉を持つ我が名は月読。我、畏みて汝らに祈りを届けん。我が祈り届かば即ち応えて左右に道を開け」
「月読、貴様、自分が何をしているか……」
 伊佐那岐の顔色が見る間に青ざめていく。
 それを横目に見ながら、月読はさらに勾玉をすり合わせ、岩戸に閉じ込められた素戔鳴に意識を集中した。
「大気を震わす荒ぶる魂の持ち主よ。汝の道を妨げしものは取り除かれた。我、月読の声が聞こえるならば、母伊佐那美より授けられし剣を携え山を下り、祭殿は奥の間まで馳せて来よ」
 誰に祈るか?
 自分だ。願いを、思いを叶えられるのは自分だけだ。自分に神力などはないと皆は言ったが、この勾玉と曲がらない己の強い思いさえあれば、叶わぬことは何もない。
 握れば握るほど、掌から自信が流れ込んでくるかのようだった。その自信を裏付けるように、突如、外から暴風が吹き荒れる音がしたかと思うと、轟音と共に屋根が破れ、嵐を連れて一人の少年が飛びおりてきた。
 すさぶる風を身にまとった少年は、長い黒髪を風にたなびかせ、剣の切っ先を床に突く。
「よう、月の兄者。俺を呼んだか?」
 振り向かなくてもその口元に大それた笑みが浮かんでいるのが分かった。
 茫然としている伊佐那岐の腕からは日孁の身体が抜け落ちる。その身体を掬い取って、素戔鳴は細心の注意を払って月読の腕に引き渡した。
「大事にしてくれよ」
「分かっている」
 相手を引き込む力強い黒い瞳。丹精ながらも武ばったやや荒削りなところが残る面立ちは、確かに細微に渡って繊細なつくりの伊佐那岐や日孁、自分には似ていない。しかし、十数年一人で岩屋の暗闇の中にいたというのに、なんと生き生きとした目をしていることだろう。なんと獣のように敏捷な動きをすることだろう。
 岩戸越しとはいえ、日孁が惹かれるのも分かる気がする。
 いや、今はそんなことはどうでもいい。
 首を振った月読は、袖先を裂いて捨てた己の上衣で日孁の身体を包み、抱きしめる。日孁の目に素戔鳴の姿が映らぬように。大好きだった父が黄泉の国へ送られる様が映らぬように。
 勝負はあっという間についていた。丸腰だった伊佐那岐はそれでも自分の剣を拾いに行き、素戔鳴からの一太刀目は受け止めた。しかし、二太刀目を受け止めた際に力負けし、悲鳴を上げる間もなく斬り伏せられていた。
 素戔鳴は剣についた赤い血を振り落とす。
 その間に、祭殿の騒ぎを聞きつけた宇受女たち巫女や阿牟多、八意思兼らが奥の間に駆けつけてきた。
「急を要することにより失礼いたします」
 扉を開いて入ってきた人々は、見慣れぬ大柄の少年と、その前に切り伏せられた伊佐那岐の姿に、あっと声を上げた。巫女たちは恐れて外へと戻っていく。その中で、前に進み出てきたのは阿牟多と八意思兼、そして宇受女だった。
 阿牟多は伊佐那岐の傍らにしゃがみこみ呼吸を確認し、八意思兼は剣を持つ素戔鳴の横を通り過ぎて月読の前に相対す。その八意思兼の指示で、宇受女が月読の腕から日孁の身体を預かる。
 と、素戔鳴は月読に向かって床に胡座すると剣を置いてひれ伏した。
「月読様、何がありました」
 素戔鳴の様子を視界の片端におさめ、八意思兼が正面から月読を見据える。月読は握りしめていた勾玉を首にかけなおし、ひれ伏す素戔鳴を見下ろして口を開いた。
「祭儀の最中、この者が屋根から押し入り、父上を殺したのです」
 渇いた口の中を無理やりに唾液で湿らせて、月読は続ける。
「聞けばこの者、我らと共に生まれたものの、父上に忌まれ、今日この時まで裏の香具山の岩戸に閉じ込められていたとか。それが突如岩戸が開いたものだから、荒ぶる風に乗って父上を討った、と――そうですね、素戔鳴」
 僅かに顔をあげた素戔鳴と、しばし月読は見つめあった。素戔鳴をこの場に呼んだときから、始末については容赦する気はなかった。王であった伊佐那岐の立場を形のみながら守り、日孁を守るには、素戔鳴に全てを背負わせるしかない。
「素戔鳴……」
 八意思兼は僅かに驚きの声を漏らした。が、すぐに目には月読を咎める色が浮かぶ。
「月読様。朝からお姿が見えないと皆が心配しておりましたが……」
「この者が閉じ込められていた岩屋に行っておりました。話をするうちに岩屋の戸が開いたのです。飛び出してきたこの者を引きとめようと縋りついたところ、あっという間もなくここに共に連れてこられ、止める間もなく父上はこの者の剣にかかって身罷られました」
 八意思兼は探るように月読を見ていたが、父の阿牟多が首を振ったのを見て、月読の前に膝を折った。
「伊佐那岐様亡く、日孁様も気を失われたまま。この場はどうか、月読様がお治めください」
 月読は一つ頷き、素戔鳴を見下ろした。
「出生時には母伊佐那美を殺し、此度は長の恨みから父を殺した。そなたのごとき穢れに塗れた者をこれ以上この耶馬台国においておくわけにはいかぬ。しかしながらそなたの身に流れる血は我らと同じ父母の血。然らば命はとらぬ。その血に塗れた剣を持ちて日が昇る前にここを出て行け。日が昇った後は、二度とこの耶馬台国に足を踏み入れてはならぬ」
 月読と素戔鳴の視線がしばし絡み合う。やがて、素戔鳴はちらと宇受女の腕に託された日孁の姿を目におさめると、頭を垂れ、剣を取って嵐を身体に纏って祭殿から出て行った。
 月読はもう一度勾玉を握り心を落ち着かせてから、宇受女の腕から日孁の身体を抱きとった。
「帰りましょう、日孁様」
 その晩から高熱を発した日孁は、三日三晩目を覚まさなかった。月読は宇受女と交替で日孁の看病にあたり、額に浮かぶ汗を拭いつづけた。
「素戔鳴、素戔鳴! 行くな、素戔鳴!」
 その間、何度このうわ言を聞かされたことだろう。まるで一部始終を見ていたかのように、日孁は夢で素戔鳴の姿を追い求めているようだった。
 だが、熱も下がって目を開けた日孁は、伊佐那岐との神事から素戔鳴との逢引まで全てを忘れ去っていた。記憶は鏡を授けられた成人の日で止まっていたのだ。
「そういえば、いつか香具山にお前と二人で行かなかっただろうか。誰かがそこにいたような気がするのだが……」
 そう、素戔鳴の存在そのものを日孁は忘れ果てていた。
「香具山には何度か幼い頃に遊びに入りましたが、誰もおりませんでしたよ。もしかしたら、狸か何かにでも化かされたのではありませんか?」
 月読は優しく嘘を諭し、日孁の口に雑穀粥を含ませた。




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