鈍色の夢

三、日のみこ、月のかんなぎ
 かたり、と戸が開く音がして月読は目を覚ました。
 片目に映る景色は光を失ったもう片目とほぼ変わらずに闇。しかし、しばらくするとその闇の中に室内に設えられた物の影がぼんやりと輪郭を持ちはじめる。
「日孁様、お戻りになられたのですか」
 上体を起こし、布の仕切り越し、寝具に潜り込んだ少女に月読は声をかけた。
 返事はない。
 もう、七日に渡ってこの調子であった。
 十二歳になった日、伊佐那岐から日孁には鏡が、月読には勾玉が成人の証として贈られ、二人はそれぞれ大人として認められたのだった。そして日孁はその日から、本格的に動きはじめた狗奴国討伐の戦勝祈願のために、大将である伊佐那岐と共に一月、祭殿に篭りつづけた。その間、月読は右顔に負った火傷を前髪で隠しながら、伊佐那岐の右腕である阿牟多の息子、八意思兼おもいかねについて政を学ぶ傍ら、討伐隊の出発準備にあたっていた。男たちに五百人分の剣を打たせ、女たちには軍装を縫わせ、生口たちには米や穀を各地から運ばせ、来るべき戦いへの備えに没頭するあまり、いつしか日孁とはすれ違い続ける毎日となっていた。月読が勾玉と共に伊佐那岐から与えられた本来の職は神がかった日孁の得た神言を読み解き、人々に触れを出すこと。せめて寝起きくらいは同じ屋根の下でと望んで、一月の篭りを終えた日孁と共に暮らしはじめたものの、日孁は毎朝日が昇ると共にふらふらと何かにとり憑かれたように祭殿へ赴き、夜遅くまで戻ってこない。戻ってきても、月読の言葉に反応することなく、寝具にくるまると背を向けて眠ってしまうのだ。
 祭殿で毎日どれだけの祈りを捧げ、どれだけの神言を聞いているのか。祭殿では月読のかわりに伊佐那岐が神言を読んでいるというが、それが祭殿の外にふれられたことはこの一月あまり一度もない。一月かけた伊佐那岐への戦勝祈願も終わり、戦の準備も整っているというのに、伊佐那岐は伊佐那岐で公の場に出てこようとはしない。
 余念など挟んではいけないとは思いつつも、どうしても日孁の様子が気になった月読は師と仰ぐ八意思兼に尋ねてみたが、伊佐那岐を畏れているのか八意思兼は与えられた職務を全うすることだけを考えなさいと繰り返すばかり。月読としては、その職務の中に日孁の様子を慮るものも含まれていると解しているものだから、当然、師の言葉は耳に入ってもそのまま反対側の耳から抜け落ちていく。
 八日目の夜も、やはり日が暮れても日孁は帰ってこなかった。
 月読は夕餉を軽く済ませると、黄昏の闇に潜んでそっと日孁と伊佐那岐が篭っている祭殿に近づいた。高床になっている祭殿の足となる柱の陰に隠れ、どこから入ろうかと思案をめぐらす。
「よ、月読」
 そんな月読の左肩を誰かが後ろから軽く叩いた。月読はびくりと震えておそるおそる背後を振り返り、ほっと一息吐き出した。
「なんだ、宇受女か」
「なんだとはなによ。せっかくこの宇受女様が声をかけてやったというのに」
「こういうときは声なんかかけないで見守っていてほしいものだね」
 宇受女は耶馬台国の属国にあたる伊都国の首長の娘だった。今はこの祭殿で巫女見習いとして仕えている。
「他の誰かに怪しまれて連れて行かれるよりはましだろう?」
「そりゃそうだけど」
 くりっとした大きな目に浮かぶ表情は日孁よりもくるくるとよく変わる。宇受女は自分たちよりも一つか二つ上だったはずだが、その愛嬌のある顔立ちのせいなのか、人懐っこい性格のせいか、月読にとってはある意味では日孁以上に気の置けない少女だった。
「日孁様?」
 月読の心中を察したように、短い言葉で聞いてくる辺りもまた好ましい。
「中に、いるんだよね?」
 尋ねた月読に、宇受女は若干言葉を濁しつつ頷いた。
「ああ。いるはずだよ」
「宇受女は中にいなくてもいいの? 宇受女だけじゃない。みんな巫女たちは外に出されているみたいだけど」
「それは……特別な儀式中だから」
「特別な儀式?」
「そう。伊佐那岐様を元気づけるための特別な儀式」
 低められた宇受女の声がやたらと胸の中にこみ上げる焦燥感を掻き立てる。
「僕、ちょっと見てくる」
 不安になった月読は、夕闇の具合を見計らいながら、柱の陰から出て行こうとした。
「やめなさい」
 宇受女は月読の肩を思い切り掴んだ。
「痛っ。放してよ」
「だめ。中を見ちゃだめ」
「なんで?」
「月読も覡見習いならわかるでしょう? 日孁様は今神懸り中なのよ。それを見ていいのは、託宣を受ける選ばれた者だけ。月読はまだ選ばれていない。そうでしょう?」
「そう、だけど……」
 月読が口ごもるのを見計らったかのように、足早に誰かの影が近づいてきた。
「月読! こんなところにいたのか」
「あら、八意思兼様。月読ったらまたお仕事怠けて出てきたんですか?」
「怠けたというわけじゃないけれどね」
 若干年上の八意思兼を、宇受女はやや眩しげに目を細めて見つめた。そんな視線は受け流して、八意思兼は厳しい目で月読を見下ろす。
「月読、倉に鼠が入ってしまったようなんだ。一部穀物が食い荒らされてしまったから、至急手配を整えたい。ちょっと来てくれるか」
 八意思兼に仕事の話をされてしまっては、それも急を要する話だといわれてしまっては、断るわけにもいかない。
「はい」
 しぶしぶ頷いて月読は八意思兼の後ろについて、日孁がいるはずの祭殿を後にした。
 季節はこれから梅雨に入ろうかという時。実りの秋にはまだ三月ほどある。いくら昨年も豊作だったとはいえ、戦のために一度穀物を供出させているのだ。二度、同じところから出させては人々は食料を失い、ひいては国が衰える。
 八意思兼と夜半まで論議を重ねた末、月読が穀物庫を後にしたときには、丸い月がやや西に傾きはじめていた。外を歩く者は当然誰もいない。時折猫や狸などが目を光らせて目の前を走り去っていくくらいで、立ち並ぶ住居はしんとしている。そんな真夜中、月読はふと祭殿から出てくる人影を見つけた。人影は祭殿からの階段を静かに駆け下りると、月明かりを頼りに裏の香具山の獣道へと入っていった。
(日孁様?)
 月読も息を潜めて、しかし足早に人影の後を追う。人影は迷うことなく細い踏みしだかれただけの山道を登っていき、半年以上も前に一度来たあの岩戸の前に立っていた。
「素戔鳴、素戔鳴。起きているか、素戔鳴」
 岩屋の中の人物を呼ぶ声は、確かに日孁のもの。しかし、今聞こえてきたのは月読の知る凛とした日孁の声ではなく、縋るような切羽詰った声だった。
「起きていたよ、日孁」
 岩屋の中から、あの野太い声がやけに優しげに響いてきた。
 瞬間、月読は胸の中で何かが小さく弾けるのを感じた。思わず飛び出していきそうになるのを何とか堪えて、来た道からやや外れた茂みの中に身を隠し、隙間から岩屋の方を窺う。
「ああ、素戔鳴、素戔鳴!」
 胸をかきむしらんばかりに日孁は小さく叫び、岩の割れ目伝いにずるずると座り込んだ。
「今日も、か。母上を呼び戻そうか? 母上にとっては日孁も腹を痛めて産んだ子供だ。自分の身代わりにされていると知ったら……」
「言うな! わたしはただ……父上の戦勝祈願で勝利を授ける日輪の女神をこの身に降ろしているだけなのだ。だから、だからわたしは……」
 母上の身代わり? 勝利を授ける女神を降ろしているだけ?
 月読は小さく首を傾げた。
「月はまだ何も知らないのか?」
 憐憫のこめられた素戔鳴の声が、不意に月読の胸を突き刺した。
 月ハマダ何モ知ラナイノカ?
 自分は一番日孁を理解していなければならない。一番日孁に寄り添っていなければならない。そう思ったからこそ、戦勝祈願の開けた日孁を寝食を共にできるよう同じ宮に呼び戻したというのに、自分は結局、なぜ日孁が宮に戻ることを渋ったのか、なぜ夜中に帰ってくるのか、なぜ自分と口を利いてくれないのか、何かあるのだと察しても踏み込むことはできなかった。それを、半年前に初めて出あったばかりの異父弟は知っているというのか? まさか毎晩遅くに帰ってきていたのは、この異父弟のいる岩屋に寄って泣き明かしていたからか?
 月読の体からは一気に血の気が引いていた。自分の体が薄っぺらくなってしまったかのような心もとなさがかわりに全身に広がっていく。
「月読にだけは絶対に知られたくない」
 次に聞こえた日孁の声は、嗚咽混じりながら強い意志に支えられていた。
 自分にだけは絶対に知られたくないこと。
 思わず月読は握っていた笹の葉を握りつぶしていた。そのかすかな音が岩屋を挟んで向かい合う二人の耳にも届いたらしい。
「誰かいるのか?」
 おそるおそる誰何の声を上げたのは日孁。
 月読は息を潜め、気配を殺す。
「日孁。今日はもう戻れ。安の川で禊をしていくんだろう? あまり遅くなると月も心配する」
「……そうだな。あいつには心配をかけ通しだ。夜もわたしの帰りを待っているのだから」
 そう言うと、日孁はふらつく足取りで岩戸の前を離れ、月読の潜む茂みの脇を踏み分けて山を下っていった。
 日孁の足音が聞こえなくなり、気配も感じられなくなったところで、ふぅっと月読は息を吐き出した。そして、おもむろに月の照らす原を歩き、岩戸の前に立った。
「いつからだ?」
 岩の割れ目の向こうにいる者に向かって、月読は声を低めて尋問した。
「あんたがいることなら日孁が来たときから気づいていたよ」
「違う」
 月読の鋭い声に、岩屋の住人が意地悪く笑んだ気配がした。
「日孁がここに来はじめたのは半年前、初めてお前とここに来た晩からだ。それから一時来なくなって、ちょうど月が半分くらいになってきた頃からまた来るようになった」
 月読は唇を噛み締め、上空の丸い月を見上げた。
「そんなに前から」
 己の中にこみ上げる怒りを抑えて月読は呟く。
 素戔鳴はそれには答えず、しばし沈黙した後呟いた。
「……泣いてたよ」
 それは今にも崩れてしまいそうなほど頼りなく、悔しさに塗れた一言だった。
「そりゃそうだよなぁ。一番身近にいる弟には様付けで敬われ、実の父親には日輪の女神のふりさせられて……もし俺が外に出られるなら、あんな奴、躊躇いなくこの剣で斬ってしまえるのに」
 脆かった言葉は悔しさと憎しみに補われて一気に強さを増す。
「お前なら、そうだろうな」
 唇を噛む月読の前に、岩の割れ目からぬっと剣の柄が現れた。
「俺のかわりに、やってくれないか」
 地を這うような低い声が岩屋の中から響いた。
 何を? とは月読は問わなかった。
 この剣で日孁を守ってくれないか、と。実の娘を大義名分の下に毎晩妻の身代わりにしている男を殺してくれないか、と。
 一度目にすると、素戔鳴の差し出した剣は限りなく魅力的なものに見えた。月読はおそるおそるその剣の柄に手を伸ばす。素戔鳴がずっと握っていたのだろう。柄には若干温もりと湿り気が残っていた。
 これで、父上を――殺す。
 想像してみる。祭殿の中に押し入り、丸腰で慌てふためく伊佐那岐を一刀の元に切り伏せる自分を。
 剣を握ったことがないわけではない。片目しかないから実戦は踏んだことはないが、身のこなしの素早さには定評がある。日孁を守るために、両目が見えた時代から必死に磨いた剣術だった。
 しかし、だ。
 ふと月読は、半年前、この剣を握った日孁の手から流れ出した赤い血の色を思い出した。血の穢れ。それは神に仕える者としては最も避けなければならない穢れ。手を血に染めてしまっては、いくら禊を行ったとてその穢れは二度と取れはしない。二度と神言を読み取ることはできなくなる。
 自分は神に仕えるのではなく、日孁様に仕えているのだ。そう思っていたつもりだったのに、月読は急に血の穢れが恐ろしくなっていた。
 ぱっと掌を開き、剣の柄から手を離す。
「やらないのか?」
 苛立つ素戔鳴の声が中から聞こえた。
「明日、確かめる」
「はっ。怖気づいたのか。日孁が泣いてたんだぞ? 聞いただろう? 横通ったとき、こんなに明るい月明かりの下だったんだ、涙の痕が見えただろう? 何より、日孁はお前にそんな場面なんか見せたくないんだよ。見られたくないんだ。分かるだろう?」
「祭儀なのか、そうでないのか……」
「なら俺をここから出せ。一晩だけでいい。お前の胸にかかったその勾玉、元は親父がこの岩屋を閉じるために神力を込めて作らせたものだ。言葉次第ではこの岩屋を開く力を持ちうるはずだ」
 成人の時に父上から授けられたこの勾玉が岩屋を開ける鍵になる?
 はっ、と月読は苦笑を漏らした。
 父上は自分がこの男を嫌いなことをお見通しらしい。自分の胸にこの勾玉がかかっている限り、この岩屋は開かれることはない。そう安心しているに違いない。
「それとも、やっぱりお前がやるか? お前に与えられたその玉は祈りを強化するだけ。しかし、この期に及んで俺たちは誰に祈ればいい? 祈りでは人は変えられない。運命も何も切り開くことはできない。俺なら全てを変えられる。少なくとも日孁を酷い目にあわせる奴から救ってやれる。俺ならどうせ母殺しの罪をかぶせられて一生ここに閉じ込められるだけの人生だ。事が終わったら、お前は父親殺しの罪人としてまた俺をここに閉じ込めるなり何なり好きにすればいい」
 月読の中で何かがぐらりと揺らいだ気がした。一体、剣を一振り持っているだけで何が素戔鳴をここまで自信づけるのか。世の何も見えていない愚か者なだけなのか。一度外に出たら、二度と岩屋の中には戻れまい。奴の言葉に踊らされてはならぬ。
「……全ては、明日」
 月読は首から提げた勾玉を握りしめると、岩屋に背を向けて宮へと戻った。
 宮では疲れを色濃く残した日孁が眠りについていた。
 身代わりになれるものならなりたいと、月読は日孁の頬に落ちかかった髪を掬いとり、唇を寄せた。




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