鈍色の夢

二、忌み子
 今でも夢に見ることがある。片目を失った日のことを。熱を出して寝込めば、必ずといっていいほど背中を覆う火傷が一斉に蠢きだし、軋むような痛みが全身へと広がっていく。そんな時は眠るよりも目を開けていたほうが楽だと思うほどだった。
 目を閉じればいやでも背中の痛みがあの頃の光景を目裏に映し出す。名誉の負傷といえば格好はいいが、蘇るのは太陽のような笑顔の日孁ではなく、この世の終わりとばかりに絶望に打ちひしがれて叫ぶ日孁の姿だった。
 あれからもう、何年になるのだろう。一年、二年、三年。そう、三年。
 はじめの一年は床から出ることができなかった。次の一年は、ようやく這って室内のものを自分でとることができるようになった。そして今は、何とか一人で立ち上がり、人の手を借りれば用をたしに歩き出られるようになった。
 目覚しい回復だと薬師は見に来る度に目を丸くして帰っていく。しかし、月読には歯がゆいことだらけだった。
 歩けるといってもいまだ壁伝いか誰かの手を借りなければ歩くこともできないことはもちろん、視界は半分になり、顔の右半分も火傷で潰れた。誰も自分に鏡を手渡そうとはしなかったが、触ればつるりと溶け落ちた異質の肌が右半分を覆っていた。その様は、薬を塗りつけた布をはがす薬師でも思わず悲鳴を飲み込むほどであるから、よほど醜い様に変わってしまったのだろう。
 しかし、それよりも何よりも口惜しかったのは日孁のことだった。
「月読、元気か?」
 庭伝いにひょっこりと顔を出した日孁は、その手に摘んだ野の花を握っていた。薄紅色の蓮華草、白つめ草、はこべにたんぽぽ。およそ野に咲く季節の花を一つ一つ摘んできたのだろう。愛らしい花が日孁の手元を飾る。だが、その日孁の手は年頃の少女のもののようにきめ細かい滑らかな皮膚に覆われてはいなかった。
 三年前、炎の瓦礫に押しつぶされた自分を引っ張り出して助けたのは、あれほど守りたい、助けたいと願った日孁だった。その日孁の両腕には消えない火傷の痕が残ってしまっていた。その痕を見せつけられる度に、月読はぎりぎりと胸を握りつぶされるような思いに喘いでいた。
 無邪気さがそうさせるのか、日孁は月読のように火傷の痕を隠そうとはしなかった。月読から隠してくれと頼むわけにもいかず、毎日毎日、分かってはいても火傷のあとを見る度に口惜しさがこみ上げてきた。いっそあの時死んでしまえばよかったものをと何度思ったことか。特にも、目を覚まして初めて自分の手を握る日孁の手を見た時の衝撃は、今でも忘れられないほどであった。
 それでも歯を食いしばって生きてきたのは、日孁のただ一言があったからだった。
「お前がいないと私はもう笑えない」
 あれほど父上、父上と言っていた姉が、笑い続けるためには自分が必要だといってくれたのだ。
 絶やしてはいけないと思った。この世から太陽の輝きを奪ってはいけないと。たとえ嘘でも、姉が自分がいなければもう笑えないというのなら、自分はどんな姿になってでも、どんな傷跡を見ることになろうとも生きなければならないと思った。
 そう決心して三年。
 日孁は父、伊佐那岐と共に一日を占い、機織る日課の合間に、毎日欠かさず月読の元を訪れていた。
「綺麗な花ですね。最近暖かくなってきたと思ったら、外はもう花が咲く季節になっていたんですね」
 手にとってつくづく愛らしい花を眺めていると、知らぬ間に口元も緩む。出来ることなら自らの足で野に出でて花を摘み、日孁の髪に挿してやりたい。
「行ってみるか?」
 不意に、日孁はいたずらを思いついた子どものような笑顔を浮かべて下から月読を覗き込んだ。
「え?」
 どぎまぎしながら月読は問い返す。
「外に出たくはないか、と聞いてるんだ」
 にやにやとしながら、日孁は本心を読み取ろうとでもするようにさらに月読に顔を近づける。
「ですが私はまだ一人では歩くこともままなりませぬ」
「わたしがいるではないか」
 にっこりと微笑んで、日孁が月読の前に両手のひらを仰向けにして差し出した。
 ミミズのように赤く引き連れてしまった両手。
 月読は野の花束を傍らに置くと、そっと包み込むように日孁の両手を握った。
「使わなければ、井戸の横にいつも座ってるおばばのようにその両足もただの棒切れになってしまう。薬師からも言われているのであろう? 歩いて足を使えと」
「しかし……」
 用をたす以外、散歩がしたいなどという理由では誰も自分に手を差し伸べてくれる者はいなかったのだ。
「ですがにしかしに、お前はよくそう次から次へと否定の言葉ばかり並べ立てられるな。いいから付き合え。行きたい場所がある」
 言うなり、日孁は月読の手を握り、渾身の力を込めて持ち上げた。負担をかけまいと月読も自らの足に力を込める。
 まだどことなく雲を間に挟んだような曖昧な感覚が膝と足首に残っていたが、立てないわけではない。
「肩を、貸していただけますか」
「もちろん」
 日孁が行きたい場所があるというなら、付き従うのが自分の務め。日孁の手から左肩へと重心を移動し、あまり負担をかけないように気遣いながらゆっくりと片足ずつ外に向けて歩き出す。
「なんだ、自分一人でも歩けるんじゃないか? さては月読、お前外に出たくなくて床でごろごろしていたな」
「なっ、そんなわけ……」
 意地悪く笑う日孁に口答えしようとした時、不意に月読の左目を真白い輝きが容赦なく射抜いた。
 思わず月読は立ち止まり、春の日差しから顔を背ける。
「眩しいだろう?」
 にやにやと日孁は月読の顔を覗き込む。そして、もう一歩、外へと踏み出した。
 月読はゆっくりと目を開け、左手を額にかざして外を見回した。
 白い光に埋もれていた茶色の大地が顔を出す。少し先には緑の草に覆われた野が広がり、さらに向こうには青々とした山が峰を連ねていた。
「三年でようやくここまで立て直した。稲を植えるための田も、去年よりも広がった。どうだ、驚いただろう?」
 三年間、全く外に出なかったわけではない。だが、日孁と共に見る世界は、一人ぼんやりと眺める世界とは全く違う色に満ちていた。
「お前の言ったとおり、父上が兵を翻して戻ってきてくれて、逆賊の鬼奴国を外から一掃してくれた。宮と祭殿は焼け落ちたが、王と民がいれば国は滅びない。焼かれたとはいえ領地も残ったしな」
 この三年間、変わったのは国の様子だけではないらしい。「父上、父上」と赤子のように繰り返していた姉の口から政の一端が語られるようになるとは、誰が想像したことだろう。それでも、まだあの父が好きであることにはかわりはないらしい。言葉の端々からまるで自分の手柄のような誇らしさが伝わってくる。
「それで、行きたい場所とは?」
 胸の奥に疼いた嫉妬心をごまかすために、月読は声を改めて日孁に尋ねた。
「あの山の懐に岩屋がある。その岩屋に長いこと閉じ込められている者がいるらしい」
 あの、といわれて月読は思わず遥か彼方のまだ峰に白い雪を残した山を捉えてたじろいだ。
 その様に、日孁は思わず笑いを漏らす。
「そっちじゃない。すぐそこのあの香具山だ」
「ああ、香具山の方ですか。まさか私という荷物を背負ってあんな遠くまで気軽に散歩するのかと思いましたよ」
「さすがにわたしもそこまで考えなしじゃない。まあ、岩屋まで少々の上り坂は覚悟しなければならないが、今日たどり着けなかったら明日また歩を進めればいい。急がずとも逃げるものでもないしな」
「それはそうですが、岩屋に閉じ込められている者というのは?」
 日孁は一瞬考え込むように表情から笑みを消したが、すぐに挑むような微笑を浮かべた。
「私たちの弟だ」
「おと、うと?」
 思わず、聞き返した声が中途半端に裏返る。
 ふきだした日孁を月読は不満げな顔で見下ろす。
「笑いごとじゃありませんよ。一体何を言い出すかと思えば……」
「私たちは生まれたとき三つ子だったんだ。しかし、最後の一人を産み落とした直後、母上が亡くなってしまった。父上は忌み子と呼んで、殺しはしなかったが香具山の岩屋戸に閉じ込めたというわけだ」
 裏山へ向かって歩きながら、日孁は辺りをはばかることなく言ってのけた。月読は、日孁が進むものだから足を動かさずにはいられなかったが、しかし、あまりに突然のことに繋ぐ言葉が見つからない。
「初耳か?」
 日孁の揶揄に、ようやく月読はぎこちなく頷く。
「一体、どこでそれを?」
「日夜父上にくっついて歩いていると、思わぬ話を聞くことがあるんだよ。弟の話を聞いたのは、それこそ三年前、父上が狗奴国へ出兵する準備を進めていた頃だった。父上と阿牟多が岩屋戸にいる忌み子をどうするか話しているのを聞いてしまってな」
「……どうすると言っていたのですか?」
「生まれてすぐにその岩屋に放り込んでから十年間。乳を与える者も、食べ物を差し入れる者もいないのにまだ生きているらしい。餓死もせずすくすくと育ってしまっているからには、手にかけるしかないだろう、と。父上は狗奴国から帰ってきたらそうするつもりだったらしいが、鬼奴国の反乱のせいで忌み子のことを思い出す暇もなくなってしまったらしい。まあ、また狗奴国に仕掛ける気でいるようだから、殺される前に一度会っておこうかと思ってな。同じ母の腹から生まれたのだ。月読が歩けるようになったら一緒に行こうと決めていた」
 今日の日孁は、いつもの無邪気な日孁とはどこか様子が違っていた。一国を滅ぼす算段をしている父の側にいても、にこにこと笑みを絶やさなかったのは、ただそういう話は理解するに乏しいからだと思っていたのに、もしかしたらすべてあの太陽のような笑顔は父の側で直に国の情勢を学ぶためだったとでもいうのだろうか。
 芽吹きはじめた若葉をつけた木々が木漏れ日を山道に散らす。
「日孁さま。一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「父上のこと、お好きですか?」
「何を今更。ああ、好きだよ」
「私たちには母がいない。祖父母もいない。あの頃から、周りにいたのはいつ毒を盛るとも知れない侍女と名も無き者たちばかり。いかに快い言葉をかけてくる我が国傘下の領主たちとて、父に逆らってまでは我らのことは守ってはくれない。ええ、貴女の言うとおり、昔から私たちを守ってくれるのは父上しかいなかった」
 守りたい。守らなければ。そう思っていた少女に、まさか自分はずっと守られつづけていたというのか。難しいことなど分からないと思ったからこそ、あまり話を聞かせたくないような殺伐とした軍議でも父の膝にのぼることを見逃してきたというのに。自分よりもこの少女は遥かに聡明だったというのか。
「疑うな。そもそも月読は考えすぎなのだ。そんなに何もかも自分ひとりで背負い込まなくたっていい。わたしたちは太陽と月。二人支えあって、これからこの国を支えていけばよいのだから。こんな風にな。肩を貸すだけで、二人で坂道だって登れる」
 獣が通るような羊歯や笹が足元を邪魔する坂道を一歩一歩踏みしだくように登り、迎え入れるような平地で一呼吸ついてつと顔をあげると、大樹に抱かれた黒々とした二つの巨岩が見えた。
「あそこか」
 日孁が岩の一角に目を凝らす。
 とても人が入れる隙間があるようには見えない。ただ二つの巨岩が重ねあわされているだけのように見える。
「本当にあそこに人が閉じ込められているというのですか?」
「いなければ今までどおり、私たち二人で生きていけばいいだけの話だ」
 こともなげに言った日孁の言葉に、月読はふと一抹の不安を覚えた。
「もし、私たちの弟と思しき者がいたら?」
「その時はもちろん、私たちの弟として迎え入れる」
 日孁はいとも楽しそうに目を輝かせる。反対に、月読は今まで感じたことのない不安と言いようのない思いに駆られ、日孁の左肩にかけていた手の指先に知らず力を込めていた。
「父上は反対なさるのではありませんか? 殺そうとしているのでしょう?」
「その理由はただ、その者が生まれた直後に愛妻が死んだからだ。その者とて好きで母上を殺したわけではあるまい。母上の寿命だったのだ。それを受け入れられない父上は、まだまだ心が狭い」
 父上と慕っているくせに、その者のことに関しては視点が冷静になるらしい。それがまた、月読は面白くない。
 月読は岩屋戸の手前で日孁の肩から手を下ろし、立ち止まった。二、三歩進んだ日孁が怪訝そうに月読を振り返る。
「どうした?」
「やはり、私は帰ります。父上が隠すほどの者。会っても父上の御不興を買うだけでしょう」
 言葉を選び、選び、日孁が己の行いの危うさに気づいて頷きそうな理由を舌に載せる。だが、日孁は嘲るような笑みを浮かべた。
「なんだ、お前父上が怖いのか?」
 思わず月読は沈黙する。
 日孁とあの岩屋戸の中の者を会わせてはいけない。それは、予知の才などない月読が、珍しく強く感じる不安だった。何がだめなのか。そんなことは決まっていた。日孁にとってよい影響を与える者ではないからだ。あの二枚の岩の向こうに閉じ込められた日の光を知らない者。そんな者をこの太陽の化身に引き合わせてみろ。大概は目が潰れるだけだろう。しかし、あの岩屋戸の中にいる者はこの年まであの中で母はもちろん乳母も世話人もないのに生き続けているという。そんな者は日孁のように神に見初められた者か邪な者かのどちらかしかいない。もし後者だったら。日孁の光に恐れをなさぬ邪な者であったら。自分はあの二枚の岩の向こうからおぞましいものが現れた時、日孁を守りきることができるだろうか。
 できるわけがない。せいぜい足を引っ張らないように、いや、日孁だけでも逃げられるように自らの身を以って邪なる者の前に立ち塞がるしかない。
「それならお前はそこにいるがいい。わたしなら怒られても平気だからな」
 日孁は月読をおいて、さらにずんずん二枚の岩の前へと歩みゆき、岩の割れ目の前で立ち止まった。
「日孁さま」
 日孁一人を中から飛び出してきかねない危険に晒すわけにはいかない。月読は足を引きずり、引きずり、自力で駆け出す。振り返った日孁がその姿ににやりと微笑み、ほうと感嘆の声を上げる。
「できるじゃないか、月読。一人で歩けているぞ」
「喜んでいる場合ですか。やっぱりこんなのはだめです。帰りましょう」
「父上が怒るからか? でもな、月読。わたしがもし伊佐那岐だったら……」
「そんな畏れ多い」
「いいから黙って聞け。もしわたしが父上なら、ここまで二人で来ること自体を許さない。父上はこの世のことを数千里に渡って見晴かし、聞くお方。そんな方が止めようとしないということはつまり……」
「いいえ、まだ探っていらっしゃるのかも」
 言葉を遮られた日孁はまたかとばかりに不機嫌そうに月読を見やる。
「何のために?」
 暗に、お前なら娘と息子を試すのかと問われ、頷くわけにもいかず月読は黙り込んだ。
 その時だった。岩の隙間の向こうから月読とは対照的な野太くがらがらと荒れた少年の声が漏れ響いてきた。
「おい、お前ら何の用だ?」
 確かに二枚の岩の向こうから聞こえてきているというのに、驚いて尻餅をついてしまった月読は、思わず周りに誰かいないかと首をめぐらせる。そんな月読には構わず、日孁は目を輝かせて二枚の岩の隙間に飛びついた。
「忌み子というのはそなたか?」
「忌み子? それが初めて会う弟にかける呼び名か? 日の女神さまも呆れた礼儀知らずだな」
 岩の隙間から、それこそ日の女神に向かって礼儀知らずもはなはだしい言葉とともに日の光に煌く剣の切っ先が突き出された。慌てて日孁は飛び退き、それを月読が抱きとめる。
「俺は素戔鳴すさのお。伊佐那岐と伊佐那美の息子。俺が外を歩けば雷が鳴り、風が渦巻く。炎は燃え上がり、水は逆巻く。教えてやろう。伊佐那岐は自分よりも俺の方が強いから俺をここに閉じ込めた。十一年、俺が死なずに生きてるのがその証拠だ」
 くつくつくつと素戔鳴は楽しげに笑う。その嗤い声に、月読は何故か背筋が凍るような思いを味わった。
 父上の勘は当たっている。こいつは自分たちを滅ぼす者だ。
 全身全霊が警告を発している。今すぐ逃げろと。父上に叱られるまでもない。こいつに関わってはいけないと。
「日孁さま。戻りましょう。あれと関わってはいけない」
 月読は日孁の腕を引く。しかし、日孁は魅入られたように期待に溢れた目で岩の割れ目を見つめている。
「日孁さま!」
「おおう、言ってくれるじゃないか。月の兄者。名乗ったのにあれ呼ばわりとはな。がっかりだ」
「戻りますよ、日孁さま!」
 素戔鳴の挑発は無視して、月読はなおもしつこく日孁の腕を引くが、日孁は頑としてそこから動こうとしなかった。
「日孁さま!」
「素戔鳴、わたしの名は日孁。そなたに聞きたいことがあってきた」
 素戔鳴の名乗りに答えた日孁は、ついに月読の腕を振り払って岩の割れ目から伸びる剣の切っ先を握った。
「聞きたいこと? 俺のことを迎えに来てくれたわけじゃないの? あんたたち日と月の姉弟の次に入れるためにさ」
「答え次第だ」
「ずるいな、お姉ちゃんは。ここに来るときはあれほど大きな声で 俺のことを姉弟に迎え入れるって言ってたのに」
「日孁さま、手から血が……」
 剣を握った日孁の手から刀身を伝う血に、月読は慌ててまた日孁に取りすがり、剣から指を離そうとする。日孁はそれを意にも介さず、さらに指先に力を込め、岩の隙間を見透かす目をうっすらと眇めた。
「母上は生きてるんだな」
 日孁の口元には笑み。
 月読はぽっかりと口をあけた。
「母、上?」
 今更突然何を、と言いかけたが、口は思うように動かない。ただわななき、肩を上下させながら空気を通すだけだ。
「母上はこの者を生んだ時に亡くなった。先ほどそうおっしゃったではありませんか」
「親父殿がなぜあれほど狗奴国を目の仇にしているか、知っているか?」
「は? それは狗奴国が執拗にこの豊かな耶馬台国の領地を狙っているから」
「正しくは領地と伊佐那美だ。狗奴の王は伊佐那美に懸想したのだ。その末に生まれたのがこいつだ」
 岩の向こうから鼻を鳴らす音が聞こえた。
 月読は今もってわけが分からない。母の伊佐那美は自分たちを産んですぐに亡くなったと、幼い頃からずっと言い聞かせられてきた。さらについさっき、日孁から素戔鳴という弟をもう一人産んでから亡くなったのだと聞いた。それが、今度は生きているという。それも素戔鳴という敵国の王の息子を産んで。
「日の女神さまは何でも照らし出しちまうってわけだ」
「でも日孁さまと私とこの者は三つ子であると」
「俺たちが生まれたのは一時母上が狗奴国に攫われた一年後。親父様は俺だけあまりにもあんたらに似てなかったから――というか、狗奴の王にあんまりにも似てるもんだから、不義を働いたと言って母上ごとここに閉じ込めたってわけだ。俺だけ殺しちまえば済むものを、母上があまりに庇いとおすものだから母上まで憎くなっちまったんだろうな」
「お前は母上の乳で育った。その剣も、母上から授かったものか」
 返事のかわりに、剣がするりと岩屋の中へと消えていく。
「他に聞きたいことは? お姉ちゃん」
「母上はどこへ行った?」
 先ほどまでの目の輝きはどこへやら。冷静に岩の割れ目を見据え、日孁は尋ねた。
「狗奴国へ」
「そなたをおいて?」
「そうだ」
「なぜ?」
「俺にはまだここでやるべきことが残っているからな」
 くっくっくっと嫌な嗤い声が聞こえてきた。
「はて。母上は、一体どこから狗奴国へお隠れになったのか」
 身の毛もよだつような存在感を岩越しに放つ異父弟と話などしたくはなかったが、ふと思いついた疑問が月読の口をついて出てしまっていた。
「なんだ、月の兄者。俺の口から答えが聞きたいのか?」
 しまったという月読の表情が見えてでもいるかのように、素戔鳴は愉しげに揶揄する。
「いらぬ。これ以上お前の声など聞いていては耳が穢れる。帰りましょう、日孁さま。もう二度とこのような場所に来てはなりませぬ。このようなほらを吹く岩の神がいるようなところには」
「あっはっはっはっ。岩の神だとよ。この俺が岩の神。ははっ、おかしすぎて涙が出るね。月の兄者。俺から忌々しい答えを導き出そうとしたのはあんたの愛しい姉上様だよ。も一つ言うなら、あんたたち二人も十月十日同じ母上の腹の中で過ごしたんだ。俺が穢れてるならあんたたちにもとうに穢れが移ってるはずだ」
「何ということを」
 わななく月読に、日孁は吹っ切れたように大きな声で笑い出した。
「日孁さま。そのようなはしたない笑い方をなさるものでは……」
「月読、帰るぞ」
「は?」
「帰るといったんだ。帰りはもう一人で歩けるな?」
 日孁は強い視線で月読を振り返ると、とっとと岩の割れ目から離れ、月読の横もすり抜けてきた道を戻りはじめていた。
「お待ちください」
 思わず月読は呼び止める。
「なんだ、お前は。帰ろうと言ったり、待てと言ったり。一体どっちなんだ」
「私たちの弟と思しき者がいたら、弟として迎え入れると来る時におっしゃいましたが、この者はここに置いていくのですね?」
 胸の中に渦巻く不安を払拭するために、月読は凶と出ないことを祈りながら日孁に確認した。
「そこにいるのはほら吹く岩の神なのだろう?」
 にやりと日孁が笑む。
 ぞわりと月読は嫌な感じがした。置いていく気なのは確かだ。しかし、その意図がよく見えない。日孁はこの岩に閉じ込められているものが確かに自分たちと同じ母を持つ弟であると確認したのではなかったか。それなのに来る時の言葉を月読が嫉妬混じりにかけたまがい物の呼び名で違えるのか。
 月読は唇を噛み締めたまま岩屋を振り返った。
「月の兄者。大切な日の女神の手が傷ついたままだぞ」
 外が見えてでもいるかのように、おどけた素戔鳴の声が隙間から投げかけられてきて、月読ははっとして日孁の右手を見た。日孁の掌からはゆっくりではあったがまだ血が滴っていた。慌てて月読は野辺の草の中から止血に効くものを手折り、日孁の元へと急ぐ。
「日孁さま、お手を」
 大人しく差し出された日孁の手に薬草を当てて己の手で包み込む。
「帰ったら切り傷に利く薬を作りますので、今はこれでご辛抱ください」
「ありがとう、月読。さあ、日が暮れる前に戻ろう、高天の宮へ」
 一人で歩けるだろうと言ったくせに、日孁はそっと月読の右腕を自分の肩にかけ、歩き出した。
 大丈夫。いつもの日孁さまだ。あのような悪鬼に惑わされるような方ではない。そのようなこと、あってはならない。
 月読は必死に二人の足元を見つめながら自分に言い聞かせていた。
 だから気がつかなかった。
 日孁がそっと、後ろの岩屋に視線を送っていたことなど。




←一  書斎  管理人室  三→