鈍色の夢



一、夢のはじまり
 燃え盛る炎が赤々と宮中を照らし出している。白い煙に部屋を追い出されて飛び出した庭も、すでに垣に火が回り、外から火矢が休みなく射込まれていた。
「父上は、父上はどこじゃ」
「父上は狗奴国へと今朝方出兵されたばかりではありませんか」
 半ば茫然としている同い年の姉の手を引いて、月読は逃げ道はないかと辺りを見回す。しかし、すでに二人の周りは火の壁に閉ざされていた。先ほどまで先導していた乳母も、付き従っていた名も無き者たちも、二人を逃がそうと体を張って守るうちに、ついに誰もいなくなってしまっていた。
「月読、なぜ……なぜ、父上は助けに来てくれないのだろう」
 今にも泣きそうな目で姉に見つめられた月読は、軽く唇をかんでその目から逃れた。
「貴女はどうしていつも父上、父上と……!」
「わたしたちを守ってくれるのは父上だけだ。わたしたちには母上はいない。父上しかいないのに」
 なぜ、そうなのだ。
 月読はかむ唇に力を込める。
 幼い頃から、姉はずっとそうだった。父上、父上と、父がいれば軍議だろうが政の場だろうがその膝に上がり、上機嫌で父と共に家臣たちを見下ろす。父も姉が大人しくしているのをいいことに、とろけそうな目で姉を見、抱き上げてその膝の上にのせるのだ。
 自分には、あれほど無邪気に父の膝に上がることなど思いもよらない。姉は父の膝の上にいるから、家臣たちと相対している時の父の本当の顔を見たことがないのだ。次から次へと他人の領地を侵略し、王を殺し、人々を奴隷としていく冷酷な王の顔をした父の顔を、姉は見たことがないからあれほど父に懐いていられるのだ。膝の上でも話の中身くらいは分かろうが、あの様子ではおそらく理解していないに違いない。理解していたならば、自分ならとてもあの父に近づこうなどとは思わないだろうから。
 無邪気な顔で父の膝に上がり、家臣たちに笑顔を振りまく姉。家臣たちだけじゃない。乳母も、名も無き者たちも皆、姉の太陽のような笑顔の虜だった。
 穢れなき無垢な笑顔。見れば誰しもが守りたいと思うのだろう。この笑顔を。だから、宮の中からここまで出てくる間に、自分以外はみんな焼け落ちてきた屋根や壁の下敷きになって死んでしまった。
「しっかりなされませ。父上はきっと今頃兵を返し、こちらに向かっておられます。ですから、必ずや生きて笑顔でお迎えするのです」
「父上が、戻ってくる?」
 不安に慄いていた少女の顔にぱぁっと太陽の輝きが戻っていく。また不安の淵へと引き戻されないよう、苦い思いを噛み殺して月読は力強く頷いて見せた。
 なぜそんなにも父を慕うのだろう。まるで死んだ母の代わりでも務めるかのように。父と、まだその父の腰半ばまでしか背丈のない姉が並び立つ姿を見る度に月読は幼いながら臍をかむ。太陽の化身と称される姉と対になるべきは、月の化身と称される自分であるべきなのに、と。
「分かった。行こう、月読。笑顔で父上をお迎えするのだ」
「はい」
 たとえ父との再会に胸を膨らませた結果の笑顔だとしても、このとき向けられたはじけるような笑顔は月読だけに向けられたものだった。
 自分だけに向けられた笑顔。
 根拠はどうあれ、その事実に自然、月読の口元にも笑みが浮かぶ。
 守らねば、と少年らしい思いが胸のうちからふつふつとわきあがる。
 やはりこの人は、自分が一生をかけて守らなければ、と。
「参りましょう」
 姉の笑顔に一番弱いのは、結局のところ自分なのかもしれない。花ほころぶような鮮やかな笑顔。その笑顔を守るためなら、自分だってこの身の一つや二つ、惜しくはない。
 姉自ら握り返してきた手を強く握り返し、月読は前を見据える。取り囲む炎の壁の中、一点だけ火の弱い場所があった。
「月読、あっちだ!」
 姉も同じ方向を見て叫び、今度は自らが月読の手を引いて走り出そうとした。月読の足もふわりと地から離れる。
 だが、ふと上を見上げた月読はすぐに膝に力を込めて立ち止まり、進もうとする姉の手を引いた。
「お待ちください! そちらは……」
 門に辿りつく手前、燃え盛る物見櫓が斜めに傾ぎ、今にも崩れかけていたのだ。
 強く握っていたつもりだったのに、するりと姉の手は月読の手からすり抜けていった。黒髪が揺れる背中がゆっくりと自分から離れていく。その頭上には、予想通り音をたてて炎を纏った瓦礫が崩れ落ちかけていた。
「危ない、日孁ひるめさま!」
 反射的に月読は駆け出し、日孁の背を突き飛ばした。そのまま駆けつづけられればよかったのに、月読の足は先ほどまで日孁がいた場所で止まっていた。
 上を見上げる。
 赤い赤い塊が目の前に迫ってくる。
 さっと全身の血がどこか別の場所に消えていった。
 早く、逃げなければ。
 あれ、日孁さまは無事だろうか。
「月読ぃぃぃっっっ」
 門の方から叫び声が上がった。
 月読はその声の方に顔を向ける。本当は顔よりも先に足を動かさなければならないことくらい百も承知だった。けれど、ここよりは安全な場所に転がった日孁の姿を視界に捉えた瞬間、月読はゆっくりと息を吐き出して口元に微笑を浮かべていた。
 ご無事で何よりです。日孁さま。
 声にせずとも伝わればいいと思った。
 自分がどれだけ貴女を大切に思っているか。
 貴女を守れた自分を、どれだけ誇りに思っているか。
 日孁さま。どうか貴女にこの思いが伝わりますように。
 炎と瓦礫に押しつぶされながら、月読は強く願った。




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