光の大地 空の海




1.女子大生だって異世界に飛ばされる夢を見る


 敷島しきしま小柚香さゆか、あと二日で二十一歳。
 ぎりぎりまだ二十歳の女子大生。
 そんなわたしは、日々激動する世界を的確に把握し分析するために経済学を学ぶ超現実派(のつもり)。
 今日も国際経済学の講義に出て……出て……なんだっけな。リカードがどうの、ヘクシャー=オリーンがどうの言ってたような気がするけど、はじまって十分後から終るまでの記憶が丸々ない。
 現実を直視するのよ! とか言って経済学部に入ったものの、ご覧のとおり、あまりに興味と適性がなさすぎて、専門性が増した去年あたりから拒否反応を起こし気味な今日この頃。帰り道、一人のときは鞄をいつもより大きく振りながら空を見上げてため息つくことが増えている。
「現実なんてそんなもんよ」
 これでも、高校生の時は真面目に異世界からのお迎えを夢見る純粋な女子高生だった。
 あの小説のように、ううん、むしろこっちの漫画のように、いつかはわたしもどこか知らない世界に転がり落ちるかもしれない! そう、そして助けてくれた、あるいは敵と間違って襲い掛かってきた素敵な王子様と一緒にその後冒険して、世界を救って泣く泣くこっちの世界に戻ってくるの!!
「……あほらし。脳みそいかれてるわ、わたし」
 思い出すだけでも砂を吐きたくなる。
 どうして十代の頃って、そんな突拍子もない夢描けたんだろ。
 いや、わたしが特別夢見がちだったってことは大いにあるんだろうけど。
 とにかく。
 待っても高校生だったわたしの前に異世界への扉は開かれなかった。
 結局、知り合いにも異世界から舞い戻ってきたどころか、行方不明になった子すらいはしない。いたら大変だけど。
 まあ、結局夢物語は夢物語なわけだ。
 そりゃそうだ。
 現実にそんなことが起こったらフィクションとしての物語の価値がなくなってしまう。
 というか、外交問題として首相さんの頭を悩ませる種が増えてしまう。
 想像は想像だから楽しいの。
 異世界は夢物語だから楽しく夢を見させてくれるの。
 この世界は利潤が社会を支える世界。
 異世界を夢見る隙間なんてありはしない。
 そう。
 だから人々はひと時羽を休めに空想の世界へと旅したくなるのだ。
 時に本というすぐに自分で帰ってこられる媒体を用いて。
 それすらなければ、想像力という無限の可能性の中にあらゆる理想を詰め込んで。
「ああ、中途半端。小柚香、現実を見るのよ! 現実だけを!!」
「うん、そうだね。それがいいと思うよ」
「ええ、ええ、分かっているわよ!」
 叫び返して、思わずわたしは辺りを見回した。
「へ?」
 視線をちゃんと前方に据える。
 どこからが空でどこからが海なんだかわからないほど一面の青。
「……」
 耳をちゃんとそばだてる。
 潮を含んだ海の風。それ以外にあの車の不快な排気音ひとつない。
「……起きろ、小柚香。学校帰りに歩きながら夢見るなんて、轢かれて死んでも知らないぞ」
 言い聞かせてみる。
 声は脳髄まで低く響き、しっかり意識にまで届いている。
 手を動かしてみれば指も動く。
 足の指だってサンダル越しにわきわきと地を踏みしめることができる。
 それじゃあ何がおかしいの?
「起きてるよね?」
「うん、しっかり目も開いているね」
「幽体離脱じゃなくて、ちゃんと大地を踏みしめてるよね?」
「少なくとも足は消えていないね」
「誰かがわたしの心の声に勝手に応えてくれてるみたいなんだけど……」
「独り言を掬い上げてくれるなんて、いい人すぎて泣けてくるよね」
「……」
 わたしは、あえて見ないようにしていたそれを、左に首をめぐらせて視界に入れた。
「やほー。こんにちは、小柚香お嬢様。僕、異世界間転送機を使ってあなたを呼び込みましたサイレス研究所のククルって申します。よろしくー」
 ひらりと胸元に手をあてて、スーツ姿の金髪碧眼の美青年は優雅に改まったお辞儀をした。
「……まあ、日本だって金髪碧眼の外国人がスーツ着てそこらへん歩いてたって全っ然おかしかないわよね」
 英会話スクールの講師とかいるし。
 わたしは真正面に顔を戻し、帰途を全うしようと前に進みだす。
 踏みしめるは、さっきよりも透明感の増した午後の日差しを目いっぱいに浴びる緑の芝生。
 前方に見えるのは見慣れた交差点ではなく、点在する支柱に支えられて空中に縦横無尽に張り巡らされた透明なチューブ。その中をタイヤのない色とりどりの四角い箱が列を成して一律同じ方向に同じスピードで移動している。
 その下には写真でしか見たことがないあの地中海のように青い色をした海と船浮かぶ水平線。
 まるで海外リゾートといかにもな近未来都市とを組み合わせた光景に、しばしわたしはぼんやり見とれる。
「小柚香お嬢様ー、それ以上進むと崖から落ちますよー」
「え?」
 止める気があるんだかないんだか分からないくらいのんびりとした声が、背後からわたしを現実に引き戻した。
 気がつくと、ぱらぱらと足元から小石が落ちる音がする。
「わ、わぁっ」
 反射的にわたしはそこから怪しい金髪碧眼の男がいる後ろに飛び退っていた。
 まだ縮み上がったままの心臓を押さえつけながら、いやいや横の男を振り返る。
「すいません。帰り道はどこですか?」
 うん。
 なんとなく、分かっていた。
 ここは『異世界』だ。
 未来だか宇宙だか異次元だかはわからないけど、とにかく二十一世紀初頭の日本の景色でないことだけは確かだ。
 二十一世紀初頭の日本では、少なくとも車に黒いタイヤがついている。そして、車は粉塵と排気ガスを撒き散らしながらアスファルトの上を各々の運転技術とスピードで走っていく。けして、血管のような透明チューブの中を赤血球よろしく整然と流れていったりはしない。
 高校生の頃、異世界に来たら、まずは最初の一句はありきたりの帰り道を尋ねる台詞なんかじゃなくて、もっと感動的で個性的な台詞を言ってやろうと思ってた。
 でも、わたしはもう高校生じゃないのだ。
 高校なんて卒業して三年。
 お化けを見たこともなければ、死んだおじいちゃんが夢枕に立ってくれたこともない。
 不可思議な現象とは全く縁のないまま成人式も済ませてしまった。
 それどころか、より現実を学ぶために日々経済の講義漬けな毎日。
 そんなわたしに、こんな光景を受け入れられるだけの少女ちっくな夢ポケットなど、残っているものか!!
「ここはどこよ! 異世界のお約束なら中世でしょ!? お迎えに来るのはもっと中世ちっくな格好した人じゃなきゃ駄目じゃないっ! 剣はどうしたのよ! 羽根つき帽子は?! 長靴はっ!? 馬はどこ繋いできたのよ!」
「えー、いや、いくらなんでも僕だって白タイツなんてはきたくなかったし……。そもそもコスプレっつったって白タイツ好き好んではく人いるかなって感じだし……てか、そんなに白タイツの王子様がよかったの?」
 わたしはふつふつと湧き上がる怒りを勢いにかえて、金髪碧眼の美青年の襟元を引きつかんだ。
 麗しい顔のどアップにどきどきしている場合じゃない。
「あんたの頭ん中は白タイツのことだけかっ?! ったく、もうっ。こんな世界に用はないわっ。さっさと元の世界帰しなさい。わたし、四時から去年見過ごした月9の再放送見なきゃならないのよ。ビデオ、予約してないのよ。あと三十分で始まるのっ。わかる?! この切迫感!! こんなとこで油売ってる暇なんかありゃしないのよっ!」
 美青年をぽいと放り投げてわたしは肩で息をする。
 だけど、芝生に尻餅をついた美青年はからから笑って、こんな時ばかりお約束の一言を言い放った。
「帰りたかったら、僕と一緒に来てくださいな」
 と。











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