縁期暦紀 巻ノ五 下

櫂  ―舟幽霊―



 この舟一杯になった悲しみを、わたしは海に汲み出すの。
 わたしが海に沈まぬように。



 寂しげな女の歌声が洋上から響いてくる。
 こんな日は海に出てはいけないと、源太郎は祖父からきつく言い聞かせられていた。十六になるそのときまで、源太郎はその言いつけを破ろうと思ったことさえなかった。
 その日。
 穏やかに凪いだ海の上には満月が昇りはじめ、皓々と黒い海を青く照らし出していた。
 源太郎は、近づいてくる女の歌声にはたと目を覚ました。
 そこは海の上だった。西のはるか彼方、低い陸の輪郭が黒くかすんで見えている。ぽっかりと出た月が清かに照らし出すものは、船の中にある縄や柄杓、魚篭に菰以外他にない。
 船はいつしか舫を解かれ、源太郎の知らぬ間に女の歌声に引き寄せられていたようだった。
 溜息をつきつつ、源太郎は半身を起こした。
「困ったのう」
 穏やかな海に浮かべた小舟がゆっくりと揺れるのが好きで、源太郎はよく、暇をみてはその舟で昼寝をしていた。勿論、寝る前には舫はしっかりと港に結びなおす。
 さては悪戯好きな小童どもが舫を解いたか。
 源太郎はこれといって恨みを買うような性質ではない。知らず買った恨みもあったかもしれないが、漁村の人々にとって源太郎は、影薄い、いるかいないかさえも問題とならないような人物だった。父は源太郎が物心つく前に海に出たまま帰ってこず、このあたり一番の海女だといわれた母は、源太郎を三つまで育てた後、海に潜ったままやはり帰ってこなかった。その後育ててくれた祖父も十の時に亡くなり、村人との親交も葬式や魚と雑穀の売買など必要最低限のものになっていた。背丈こそ幼い頃より海坊主と揶揄されるほどに高くはあったが、日に焼けて浅黒い肌も、大雑把な顔立ちも人並みで、のんびりしている上に無口なため、村人からは害もなければ得もないと思われていたに違いない。漁の腕も自分が食べる分には困らない程度であり、漁師たちからはよくもなければ悪くもないと評されていた。本人もそんな漁村の村人達との距離感に不満を抱いたことはこれといってなかった。
 それだから、十六になっても嫁の来手もなければ見合いの話も来ない。そもそも、源太郎は年頃の娘を村で見かけた覚えさえなかった。見かけても記憶に残らなかっただけかもしれないが。
「やれやれ」
 舟の中を見回して、源太郎は細い櫂を手に取った。
 源太郎が一人舟ごといなくなったところで、村人達がそのことに気づくのはいつになることだろう。もしかしたら、誰も気づかないままかもしれない。おそらく、探し当てられるのを待っていては、明日の日差しにやられて干からびてしまうだろう。今夜のうちにあそこに見える陸に戻るしかない。
 源太郎は力強く櫂を海に差し入れ、漕ぎ出した。
 しかし、女の歌声は近づいてくる。
 洋上には西に見える黒い陸と東の雲居がかった満月以外何も見えなかった。源太郎の舟以外、洋上に浮かんでいるものは何もない。
 源太郎が櫂を漕ぐ手を休めてぐるりと辺りを見回すと、俄かに皓々と海面に映っていた月が消えた。
「柄杓を……柄杓を下さい……」
 月を覆い隠した黒雲はさして大きくはなかった。しかし、如何せん厚みだけはあるらしい。
 源太郎はいつしか間近から聞こえてきた女の声に、振り返るともなく背後を振り返った。
「柄杓を。水が、入ってくるのです。どうしてもなくならなくて」
 源太郎のものよりも一回り小さな小舟に乗っていたのは、白い着物を着た華奢な体の少女だった。さして美しいとは思わなかったが、しかし、とめどなく頬をぬらす涙に源太郎は目を奪われた。
「柄杓を、貸してはくださいませんか」
 そう懇願しながらも、少女は泣きながひたすら両手で舟の中にたまった水を海に返していた。一瞬でも気を抜けば舟が沈んでしまうとでもいうように。
 もし夜に海に出て舟幽霊に出会ってしまったら、柄杓の底を抜いて渡してやれば、自分の舟に海水を汲み入れられることなく難を逃れられるという。
 祖父の話を思い出して、源太郎は舟の隅っこに転がっていた柄杓を手に取った。
「ああ、それです。その柄杓をどうかお貸しください」
 海水をくみ出すことをやめて、少女は両手を源太郎の持つ柄杓に伸ばしてきた。その間にも、少女の乗っている小舟の水位は驚くほど上がっていく。
「手を止めると舟が沈むぞ」
 源太郎は少女の手元から柄杓を遠ざけた。
「ひどい。どうしてその柄杓を貸して下さらないのです。よもやわたしがその柄杓であなたの船を沈めようとしているとでも? それとも、わたしの舟など沈んだところで構わぬと?」
 恨みがましく少女は言って、腰を浮かして源太郎の柄杓を取ろうとした。その途端、ざぶん、と波音を立てて少女の船の舳先が海面に沈んだ。
「あっ」
 少女は慌てて両手で海水をくみ出しはじめる。しかし、一度傾いた舟は後はもう、際限なく海水を舟に呼びいれるだけだった。
「ああっ、舟が、わたしの舟が……。何故、柄杓を貸しては下さらないのです? わたしがあなたに何かしましたか? 柄杓を貸してくださらないなら、せめて見逃してくれればいいものを」
 源太郎は少女の恨み言には耳を貸さず、柄杓を自分の舟の中に放り投げ、細い少女の両脇を掴んだ。
「何をするの」
 幽霊と呼ばれるにもかかわらず少女の体には実体があり、猫よりも細く柔らかいその壊れそうな感触に、源太郎は細心の注意を払いながらその体を持ち上げて自分の舟に移し乗せた。
 海水の染み込んだ少女の白い着物の裾からは、ぴたり、ぽたりと水滴が零れ落ち、乾いた源太郎の舟に黒い染みをつけはじめる。
 少女は驚いた顔で源太郎を見つめていた。
 その背後では、舟が泡を立てながら海に沈んでいくところであった。
「何故柄杓なんじゃ。舟に乗せてくださいと言えば済むことじゃろう?」
 源太郎は素朴な疑問をそのまま口にした。
 少女は源太郎を見つめたまま唖然と口を開いた。
「ちょうど、陸まで戻るのに一人で漕ぐのは心もとないと思っとった。二人で漕げば、一人よりも早く丘に戻れるじゃろ」
 当たり前のことを当たり前に。源太郎は淡々と語って少女に櫂を渡し、自分はもう一本の櫂を手にとって、どっかと舟に腰を下ろした。
「お前も座れ。陸に帰りたかったらその櫂で舟を漕げ」
 少女は櫂を胸に抱え、大きな源太郎の背中を見つめ、その足元に柄杓が転がっているのを見つけた。
「柄杓……」
 少女の消え入りそうなほどか細い声に、櫂を海に刺そうとしていた源太郎の手が止まった。
「この舟まで沈めたら、お前は二度と陸に上がれなくなるぞ」
 振り返った源太郎の表情には優しさも厳しさもない。ただ事実だけを告げる淡々とした表情だけが張りついている。
「お前は舟を沈めたいのか? それとも、生きて陸に帰りたいのか?」
 少女は、はっと我に返ったかのように目を見開いて、源太郎を見つめた。
「生きて……?」
「わしは幽霊には触れんと聞いて育った。影もないと聞いて育った。お前には影がある。体も持ち上げることが出来た。お前は生きてる人間じゃろ。違うのか?」
 源太郎のひたと据えられた視線を、少女は真意を測ろうとでもいうように正面から受け止めていた。
「わたしの名は……スイ。海に潜っていて異国船に囚われて、舟幽霊に舟を沈められたんだ。能面をつけた南蛮人に、お前はとっくに死んでいるといわれて、だから、あの舟にいるしかないのだと思って……。だから、柄杓で水を掻き出さなきゃ死んでしまうと思って……死んでると思ってたのに。死んでしまうと、思っていたのに……」
 記憶をなぞり出すと、混乱した生死の境界がスイの過去への追憶を妨げた。呆然と放心したスイは船底に座り込む。
「違うのか? わたしは、幽霊じゃないのか?」
「さぁ、わしゃぁ神様でないでのう。お前が何なのかは知らんがのう。幽霊というのは、ああいう者らのことを言うんでないかのう」
 空から月は消えていた。いつしか天は黒雲で覆われ、周囲には濃い霧が漂っている。その霧の中、十数灯もの青白い明かりが淡く滲みながら近づいてきていた。
 ぜいぜいと掻き鳴らされる琵琶の音。爪弾かれる舞曲の琴音。吹き鳴らされる饗宴の笛音。笑いさざめく女衆と男衆。近づく屋形船は掲げた灯火を頼りに波を分けて来る。
 潮引くようにスイの顔から血の気が引いていった。
「お戻りなさい、渦島。そこはお前のいる世界ではないよ」
「渦島?」
 源太郎はスイに問いかけた言葉を途中で飲み込んでいた。
 潮のみならず、鼻の奥に残る花の香りをも多分に含んだ風が洋上から吹き上がり、闇色の空へと駆け上がっていった。掻き鳴らされる楽の音は聞くものの焦燥感を煽り立てる。取り囲む数多の舟に遊ぶ者は皆、源太郎が見たこともないような雅やかな綾織に身を包み、黄金の面と扇子で顔を隠していた。
 スイは船底で膝を抱え、顔を埋めたまま震えていた。
 その小さな舟が、一瞬ぐらりと傾いた。
「誰だ、お前」
 源太郎は、不意に目の前に現れた紅毛に黄土色の能面をつけ、浅黄の水干袴に身を包んだ男を睨みつけた。黄土色の能面をつけた男は、金環に縁取られた穴の底から鋭い視線を源太郎に投げ返した。
「その女を舟から降ろしなさい。さもないと、あなたも海の藻屑となりますぞ」
 爪弾かれた小脇の琵琶が鳴をあげる前に、源太郎は男に櫂を振り上げていた。男はそれをひらりとかわし、見越したように源太郎は今度は着地点となりうる船べりを櫂で薙いだが、櫂は風のみを切り、源太郎が気づいたときには男は細い柄の上に両足をつまたてて立っていた。
 重さはない。しかし、櫂を動かすことも出来ない。
 源太郎は櫂を低空に差し出した中腰のまま、男を睨みあげた。
「お前達は壇ノ浦に身を投げた平氏の亡霊というが、本当か?」
「本当でございます」
 男は、面をつけているにもかかわらずくぐもらない声で明朗に返した。
「我らは姫様をお守りしながらこの海上に都を求めたのでございます」
「現世を捨てておきながら、それならば何故、現世の者達が漕ぎ出す舟を沈める?」
「それは勿論――余興にございます」
 男は口元の面をずらし、にぃと笑った紅い唇を晒して見せた。
 源太郎の全身にぞっと嫌悪が走った。
「御覧なさい。自分だけ助かろうと小さな舟に縋るあの者たちの浅ましい姿を。自分のことしか考えられずに足を引っ張り合い、舟を沈めていく姿を。愚かしい人の姿ほど、興をそそらせませんか? 同じ人として」
 思わず源太郎が見た先、スイが乗っていたみすぼらしい小舟には、いつの間にか十数人の男たちが舟べりに取りついて乗り込もうとしていた。その男達の顔は皆、源太郎もよく見知った漁村のたくましい男達のもの。
 助けに来てくれたのか。
 そう安堵とかすかながら嬉しさが源太郎の胸にこみ上げかけた瞬間、目の前では信じられないことが起こっていた。
 漁村の男達は何があっても一枚岩だと源太郎は思っていた。老いも若きも、互いを思いやって生活をし、漁に出ては協力して網を引き上げているはずだった。しかし、ひとたび船が沈没して海に投げ出されたら、あとは目を覆うばかりの光景だった。誰か一人が小舟に飛び乗ろうとすると脇の二人が足を引っ張り、船が傾いたのに乗じてまた他の誰かが縁によじ登ろうとすると体ごと抱きついてその男を引きずり落とす。あれが本当に現世に生きる人の姿かと、源太郎は自分の目を疑いたくなった。知っている顔ぶれが並んでいるだけに、心に感じる軋みもひとしおだ。
 唖然とする源太郎の後ろで、ゆっくりとスイが立ち上がっていた。
「人が生きようとして何が悪い? 生きたいと願って何が悪い?」
「あな浅ましや、浅ましや。姫の侍女の中でも最も賢く潔癖と称された貴女様が、そのようなお考えをお持ちだったとは。海賊達を舟から蹴落とし、自ら助かろうとしたのも頷ける」
 かっと顔を赤らめたスイは、源太郎が止める間もなく能面の男に掴みかかっていた。
「わたしは生きたかったんだ! 生きるためならわたしは……」
「裏切り者の渦島や。妾がお前を道連れにした理由を知りたいか? お前が源氏の平氏と密通していたからだよ。我ら平氏が追い込まれたのも、お前が兄様たちの情報を敵に流したからだろう? 妾はお前が誰よりも生に執着していることを知っておったよ。だから、お前も海の都に連れて行ってやろうと思ったのよ。生を超えた世界にのう」
 スイは唖然と屋形船の一段ときらびやかに装った女を見つめた。
「我らも生きたかったのよ。のう、薬師丸。覚えておろう、生を手放すときの息苦しさを」
「覚えてございます、姫様。だからこそ、生に執着する者は滑稽でございますね」
 深く頭を垂れて恭順に頷いた能面の男は、胸倉を掴むスイの手首を引き掴んだ。
 宙で足をばたつかせながらスイは叫ぶ。
「し、知らない! わたしは知らない! 渦島なんて、わたしは知らない!」
「嘘をおつきなさい。貴女はついさっきまで渦島だったではありませんか。あの喋り方、物腰、何をとっても漁村のあばら家で生まれた女とは別人でしたよ」
「知らないといったら知らないんだ! もうやめてくれ。つきまとわないでくれ! わたしは渦島じゃない!!」
「前世の業とは深きもの。償いもせずに極楽浄土を見られるなど、思わぬことじゃ」
 屋形船の女はスイの後頭部に向けて扇子を投げ、扇子は空を滑るように宙を貫いてスイの首元に当たった。気を失ったのか、ぐったりと力の抜けたスイの体を、能面の男は荒れる波頭めがけて放り込む。
 白い泡冠を戴いた黒い海面がスイの体を飲み込んだ瞬間、艶やかに凪いだ。
「スイ……?」
 スイの体は波にもまれているのか、一向に浮き上がって来る気配はない。
「おお、そうだそうだ。お前の顔によく似た顔の夫婦がいたよ。ほら、そこを御覧なさい」
 能面の男が言った途端、ずずっと小舟が傾いた。
「源太郎、源太郎」
「源太郎、源太郎、助けておくれ」
 一組の男女が、舟べりに青い手を載せて海面から源太郎を振り仰いでいた。
 ごくり、と源太郎は生唾を飲み込んだ。
 小さい頃にいなくなってしまった父と母。
 顔をはっきり覚えているわけではない。だが、顔を合わせた瞬間、忘れていた面影が重なったのも確かだった。
「源太郎、源太郎。私達も舟に乗せておくれ。海の中は寒くて凍えそうだよ」
 母親が震えながら懇願する。
「源太郎、舟に乗せておくれ」
 父親も青白い顔で源太郎を見つめてくる。
 源太郎は顔を歪め、胸に息を吸い込むと天を仰いだ。
 暗雲に閉ざされた天空は、未だ月の光すら漏れてこない。雨すら降ろうかというその空模様に、源太郎は深く息を吐き出した。
とと様、かか様。どうぞ、舟にお乗りください。それがわしに出来る唯一の親孝行です」
 源太郎の言葉が呪縛を解いたかのように、青白い顔をした夫婦は勇んで舟に飛びかかってきた。
 ぐらぐらと舟は揺れる。
 その揺れが大きくなるうちに、二人は二人とも平衡感覚を失って海へ投げ出された。そしてまた一斉に取りついては舟を揺らし、海へ投げ出される。
「あんた、妻と子の命が惜しくないんね?」
「お前こそ夫の命と子の命が惜しくはないんか?」
 二人は次第に源太郎の目の前で言い争いはじめた。
「おやおや」
 能面の男はさも呆れたように肩をすくめて見せる。
 取り囲む雅やかな舟の乗り手たちも扇子の後ろからくすくすと笑いを漏らす。
 源太郎は悲しげに言い争う男と女を見比べた。
「舟があるから助けを期待してしまうのか。舟があるから、命が惜しくなるのか。舟があるから……生きる者を妬むのか」
 源太郎は舟の中央に立つと、持っていた櫂を振り上げた。
「何を!?」
「やめろ!!」
 男と女は一斉に舟に乗りあがろうと舟べりに体重をかけた。しかし、そのときにはもう、源太郎は舟の板の繋ぎ目に櫂を突き立てた後だった。
 中央に櫂を突き立てられた舟は、舟であったことを忘れたようにただの板切れに戻っていった。源太郎は足場を失って黒い海に呑まれていく。畳み掛けるように荒れた波が源太郎の頭を殴りつけるように越えていく。
 ぐるりと源太郎の視界が回った。口から出ていった白い泡が唯一暗闇の中で色をもち、遠ざかる。その両側を、源太郎の父と母だと名乗った男女が海底に引きずり込まれるように真っ直ぐに沈んでいった。
 源太郎は思わず両手を伸ばして二人の手を掴まえようとしたが、その手は届かず、拳を握るだけだった。
「嘆くこたないよ。あの二人は舟に縛られることなくあの世へ行ったんだ。悲しむべきは、上の舟の連中さ。無くした栄華に縋るふりをして、その実自分が惜しいだけなんだよ。死んだのに新たに生まれ変わることを拒んでいるのは、自分がなくなるのが怖かったのさ」
 源太郎の目の前には、海に投げ出されたまま浮かび上がっても来なかったスイが悲しげな笑みをつくって浮かんでいた。
「お前は怖くなかったのか?」
「さぁ、覚えていない。だけど、きっと渦島という女はあの中にいることのほうが怖かったのさ。人と群れて自分が無くなってしまうことの方が」
「分かる……気がする」
 幼い頃、源太郎が蟹を磯に返してやろうと言うと、他の子供達はどうして自分達の意見に合わせて連れ帰ろうと言わないのかと源太郎を責めた。きっと親がいないからだと、理も通らぬ由をつけられて遊び仲間からはじかれた。
 助けに来てくれた漁師達の中には、そのときの幼馴染もいた。きっと彼らにとっては過日の他愛ない出来事として忘れ去ってしまっているのだろう。人と距離を置こうとする源太郎を変わり者だと思ってはいても、その原因が自分達にあるとは思っていないのだ。源太郎でさえ、今となっては何故自分がこれほどまでに他人を遠ざけてきたのか分かっていなかったのだから。
 しかし、生活の大半を分け合って親しくしていても、自分の命が脅かされれば、誰も他者のことなど考えられなくなるものなのだ。源太郎を探しに来たであろう漁師達は、おそらく今も海上で舟を求めて争っている。
 源太郎の胸の奥に失望が疼いたのは、一人をよしとしながらもどこかで漁村民達のつながりに憧れを抱いていたからなのかもしれない。
「掴まって」
 源太郎は、差し出されたスイの手を素直にとった。
 スイは源太郎の手を掴むと、上だけを目指して泳ぎあがっていく。
 まだ死にたくない。
 死にたくない。死にたくない。
 心の中で叫びながら、源太郎も必死に足で水を掻く。
 海面から顔を出したときに冷たい風が顔を撫でなければ、二人はまだ懐中にいるものと思ったことだろう。
 海も空も、暗い闇に覆われていた。
 源太郎とスイは吐き尽くした空気を取り戻そうと、波にもまれながら肩で荒い呼吸を繰り返す。やがて、源太郎は波に乗って漂ってきた櫂に手を伸ばし、しっかりと柄を掴むとスイを引き寄せ、隣に掴まらせた。
「ほんに、生きようとする姿は浅ましいのう」
 いつの間に近づいてきたのだろう。雅やかな着物に身を包み、扇子で顔を隠した女の声が二人の頭上に降ってきた。
「それ、喉が渇いただろう。水をやろう」
 女は流れ着いてきた柄杓を手に取り、杓を海水に通すと、二人の頭に流しかけた。
 くすくすと周りの小舟から嘲笑が聞こえてくる。
 波にもまれ、上から海水をかけられ、源太郎とスイは思わずむせこんだ。
「さぞや苦しかろう? そなたらも妾の元へ来りゃれ。ここには苦しみはないぞ。まさにここは妾たちが求めていた都じゃ」
 女はなおも柄杓に海水を汲み入れては二人に流しかけつづける。
 源太郎は荒く息をしながらも舟に乗った女を睨み上げた。
「苦しみがない? いいや、お前達は苦しんでいるではないか。一人になることも出来ず、陸にも帰れず、自分に執着するあまりあの世へも旅立てず。人の苦しむ様に興をそそられるのは、もはや自分達では何も感じることが出来なくなっているからだろう」
 源太郎の言葉に女は目を見開き、柄杓を顔に投げつけた。
「そのようなこと、あるわけがない。妾たちは何も変わりはせぬ。生きている時と、何一つ変わりはせぬ!」
「変化のない時間ほど、退屈なものもないものだ」
 スイは源太郎の顔に当たって吹っ飛んだ柄杓を海面から拾い上げると、嬉しそうにそれを握って一掬い、海水を掬って女の舟の中に汲みいれた。
「な、何をする!」
 着物の裾が濡れることを嫌ったのだろう。女は勢いよく立ち上がった。
 ぐらりと女の舟が揺れる。
 体勢を崩した女はよろめき、ひときわ高くせりあがってきた波に頭と背中を攫われた。
「姫様!」
 女の舟を取り囲んでいた小舟からは悲鳴が上がり、すぐさま周りに数多の白い波飛沫があがった。
 それに気づいていたのかどうか。
「おのれ、渦島」
 髪も綾織の着物も海水に掻き乱された女が、勢いよくスイの背中にとりついた。
「違う! わたしはスイだ。渦島などという名前は知らない。離せ!」
「離すものか。お前だけは、離してやるものか。ようやく捕まえたのだ。誰が離すものか」
 暴れるスイの背中にひたとへばりついたまま女は離れない。源太郎が手をこまねいている間にも、女の着物は水を大量に吸ってスイの背中にのしかかり、スイが上半身を乗せている櫂も沈みはじめる。
「姫様、姫様、姫様」
 源太郎たちの周りでは仕える姫の後を追ったはずの侍女と侍従たちがもがきながら沈んでいく。誰一人として女の元まで泳ぎ着くことなく、飛び込んだ場所からただ真っ直ぐに、真っ直ぐに海底へと沈んでいく。
 源太郎は憐れみを込めた目でおどろおどろしい姿になってしまった女を 見つめた。
「何だ! その目は何だ!」
 女は心のままに癇癪をぶつけてきた。
「周りを見てみろ。お前はどこに帰るつもりだ?」
 源太郎は静かに女に問うた。
 女は疑わしげに源太郎を睨み、やがて周りを見回した。
 源太郎たちを取り囲む小舟にも屋形船にも、どこにも笑いさざめく人々はいなくなっていた。女の目の前では、最後の一人がうなされるように「姫様」と女に助けを求めながら沈んでいった。
「あの者たちも成仏したかったのよ。だが、お前が都を求めている限りはこの世の未練を断ち切れなかった」
「何を知った口を。妾は今でも都を求めておる。その都にはこの女が必要なのだ。我ら一族を滅亡に追い込んだこの女の命を都の柱に立ててやらねば、妾は気が済まぬ」
「都のことなど忘れていただろう。お前はもうこの女に復讐することしか見えていなかった。だから、仕える者たちの命を束ねていられなくなったんだ」
「違う。違う、違う、違う! 妾は、妾は……」
 力抜けた女はスイの背から離れた。そのまま波に乗せられるがままに源太郎たちから離れていく。その間に、源太郎は女が乗っていた屋形船に飛び乗り、櫂に掴まるスイを引き上げた。
 そして、屋形船に設えられていた櫂で流されていった女の後を追った。
「あんた、一体何を」
 驚くスイには答えず、源太郎は溺れかけている女の元に櫂を差し出した。
「何を考えているんだい! その女は幽霊だよ。死んでいるんだよ。それも、人を溺れさせて楽しむような女なのに!!」
「お前も自分を幽霊だと思っていただろう。――女、さあ、掴まれ」
 スイの言葉を一言で封じると、源太郎は女の手元に差し伸べた櫂を揺らした。
 波にもまれながら、女は呆然と源太郎を見つめ返した。
「早く掴まれ。死にたいか」
「……もう、死んでいる」
 やおら、くすりと女は笑った。
「その櫂は、あそこでもがいている生きてる者共に差し伸べてやれ」
 女は舟を奪い合う男達を指差すと、とん、と源太郎たちの乗った舟をその男達の方に蹴りやった。舟は導かれるように男達の方へと流れていく。
 一方、女は波に身を任せながら両手を広げ、曇天を仰いだ。
「薬師丸」
「はい、姫様」
 傍らの波頭に爪先立った能面の男は、琵琶を抱えなおして静かに答える。
「死とは孤独なものじゃのう」
「生もまた、時に孤独なものでございます」
「そう、であったかのう。もう、忘れてしもうた。のう、妾は皆を縛りつけていたのかのう。都という幻想の中に閉じ込めて……皆、本当は成仏したかったのだのう。いなくなってしもうたわ、皆」
「私は最後までお側におります。姫様の目が閉じられても、この琵琶が聞こえる限りは、私の言葉、お信じ下さいませ」
 一条、波を裂き分けるように低く琵琶の音が闇に響いた。男の顔からは面が外れ、爪先立つ足元からゆっくりと波の中に沈みはじめる。
 その姿を遠くから眺めていたスイが、はたと顔色を変えた。
「薬師丸……薬師丸! 薬師丸!」
 何かを思い出したように舟縁から身を乗り出そうとするスイを、源太郎は必死で押し留めた。
「何をする! 死にたいのか!?」
「ああ、薬師丸! 薬師丸!」
 波が二組の男女の間を隔てていく。
「のう、薬師丸。済まぬのう。妾はまたしても姉弟を引き裂いてしまったのう。それにお主こそ、源氏の……」
「よいのです。私は姫様のお側にさえいられれば」
「薬師丸ーっ」
 スイの悲痛な叫びに、男はちらりとスイの方を見た。
「ええ、よいのです。私ももう、死者の門をくぐった身でございますれば」
 男の紅い髪が波に埋もれ見えなくなると、雲は晴れ、再び海上には月の光が注ぎ渡った。
 残された屋形船には泣き崩れる少女が一人。それを途方に暮れたように見守る男が一人。
「おお、薬師丸、薬師丸……」
 源太郎には、何故スイが嘆いているのかは分からなかった。しかし、のたうつようなその苦しみ方は、肉親を思ってのことに違いなかった。
「縁深ければ、また会う日も来るじゃろうて」
 何とか見つけた言葉とともに去来した先程の父と母の姿を胸の底に押し沈め、源太郎は握りしめた櫂を溺れる男達に差し出しはじめた。








〈了〉







  書斎 管理人室

  200811022320