縁期暦紀 巻ノ五 上

碇 潜いかりかづき  ―舟幽霊―



 夜は海に近づいてはいけないよ。
 あそこには平氏の亡霊がたくさんうろついていて、生きてる人間を見れば海に沈めようと寄り集まってくるからね。


 子供の頃からそう刷りこまれ続けてきたからだろうか。それとも、夜の海に近づいた弟が二度と帰ってこなかったからだろうか。スイは夜になると浜にすら近づこうとはしなかった。毎晩日が暮れれば、母のいる掘っ立て小屋同然の家に閉じこもり、せんべいのような薄い布団をかぶって海鳴りから耳をふさぐ。昼は名うての海女であったにもかかわらず。
 東の水平線に丸い月が浮かぶ。
 夜、であった。
 気がついたのは先刻。海鳴りに押し上げられたかのように、足元を波がさらい続け、右頬はざらついた砂に冷たく焦がされている。
 つと。小さな蟹が目の前を過ぎていった。あせった様子もなく、岩陰を手繰るようにスイの影の中を不器用に歩いていく。その蟹に、スイはうつぶせのままもたげた腕を伸ばした。
 月影遮る闇が蟹を覆う。
 スイは赤黒い甲羅を伸ばした手の指先でつまんだ。三対の足が心もとなく宙を掻き、ぎょろりと突き出た二つの目が不安そうにスイを見る。ひとしきりその様子を眺めたあと、スイは興が失せたように蟹を放り出した。
 海鳴りに混じって、蟹がそそくさと砂を掻く音が聞こえたが、スイは砂浜に身体を投げ出したまま動こうとはしなかった。
 濡れた着物が潮を含んだ風に吹かれて身体に張りつく。
 体中、手足に碇をつけられたかのように重たかった。
 夜だ、とスイは思った。
 夜なのに、今、自分は海にいる。夜に海にいてはいけないのに。
 そうだ。逃げなくては。
 平氏の亡霊に囚われてしまう。
 手の指に力を込め、足の指に力を込め、この海辺から這い出さなくては。
 そう思うのに、背は曲がらない。関節を思うように曲げられない。
 身体は冷たかった。
 とうに凍ってしまったかのように、冷たい。
 ふと、スイは思考を止めた。
 凍る? この辺は雪もめったに降らないのに?
 風はぬるい。
 なぜ。
 なぜ、わたしは降る雪の冷たさを知っているのだろう。
 なぜ、わたしは凝った水の冷たさを、知っているのだろう。
 逃げ、なくては。
 ゆっくりと錆びた歯車を回すように、再びスイは思考を始める。
 しかし、もはや考えることは何もなかった。
 どうやっても自分はここから動くことは出来ないのだ。
 どこかでそう、理解していた。
 足を舐めるだけだった波頭が、いつしか腰の辺りまで襲いはじめている。
 のまれる。
 海に、のまれてしまう。
 閉じた眼裏に、深く暗い海の水底が見えた。
 顔を上げれば海上の月明かりが水面に揺らされて歪んで見え、光求めるように口から漏れ出た気泡は塩辛い水をくぐり抜けて立ち上っていく。
 その様は、まるで海の中に真珠を撒き散らしたかのようだった。
 美しいと、スイは思ったのだ。
 この世の何よりも美しいものを、今自分は見ているのだと。
 そう。
 自分は海に沈んだはずだった。
 言葉もわからぬ賊に海に潜っているところを連れ去られ、逃げられないようにと舟の舳先に身体を縛りつけられた。死にたくなければ言うことを聞け、と、赤い髪のやたら鼻の高い南蛮人が日本語で賊たちの言葉を伝えていた。
 スイは大人しくしていたのだ。
 海に潜ったあとで、暴れる元気もとうになかった。
 それなのに、しばらくしてスイは縛られたまま海に投げ出されていた。
 スイだけではない。
 船上にいた者全てが海に投げ出されていったのだ。
 手が不自由なだけであったなら、もがきながらでも海上に浮き上がることも出来ただろう。しかし、賊とともに投げ出された碇の縄が、波にもまれてスイの身体に絡みついていたのだ。
 記憶をなぞり、身を竦ませたスイの耳に、どこからか琵琶の音が聞こえてきた。
 弾かれた弦の音は海鳴りと共鳴するように低く、幅広く空気を掻きまわす。その音に添うように、地を這う唄声が続く。


 重ね着た 着物に水は 浸み入りて
 肌触る水は 京の雪を 思わせる
 招かれたるは 我らが都
 祝して唄うは 尽きせぬ栄華


 じゃり。じゃり。と砂を啼かせ、真白い足袋に草履を履いたその足は、ひたりとスイの前に止まった。
「何を、しておられます?」
 枯れかけた唄声とは一転。若く澄んだ声だった。
「逃れられると、思われましたか?」
 顔を上げると、黄土色の能面をかぶった浅黄の水干袴の男がいた。能面からはみ出す髪は紅く縮れ、目の周りを縁取る金環が闇夜の中、月影に照らされて眇めるように眼光を研ぎ澄ます。
 ひやり、と冷たいものがスイの背筋をなぞり落ちていった。
 逃げなければ。
 夜は海に近づいてはいけないと、あれほど言われていたのに。
 逃げなければ。
 ここから。
 この男から。
 逃げて、母の待つあの家に帰らなければ。
 体は一向に言うことを聞かない。むしろ、能面の男が現れてから、いっそう体を押しつぶす圧迫感は強まっているようだった。
「帰りますぞ」
 能面の男は琵琶を小脇に抱え、投げ出されたスイの腕をつかんだ。
 雷に打たれたような衝撃がスイの全身を駆けずっていく。
「いや……だ……」
 腕を持ち上げられながらも、波を受ける足で必死に砂にしがみつく。
「なぜ聞き分けられませぬ? 何度逃げても同じこと。我らの都は一つだけ。皆で誓い、身を沈めたではありませんか。なぜ貴女だけいまさら捨てようとなさるのです?」
 哀しげに、唄うように男は言った。
 怒りを込めて罵るのではなく、恨みを込めて切なく、囁く。
 その声だけでスイの体は冷たく痺れた。意識をも凍え、遠ざかる。
 その先には何もなかった。
 ただ暗澹たる闇が広がっているだけだ。
 水底に沈むときに見た生の散る美しさなどかけらもない。
「知らない」
 スイはやっとそれだけを口にした。
「わたしは知らない。わたしは何も知らない」
 違う。わたしはただのスイなのだ。伝説だけがこびりついた漁村の、ただの海女の娘なのだ。
 うつろな頭でスイは自分に言い聞かせた。
 そんなスイの体を胸まで寄せていた波がざばりと覆った。
 能面の男はスイの手を離し、ひらりと後ずさる。
 波にもまれながら、スイは必死で手足をばたつかせていた。
 暗い海は底なしで、水を掻きつづける足元がひどく心もとない。今にも足首を掴み、引き込まれそうなおどろおどろしさが漲っている。
 動かしていないと不安だった。
 この中は、あまりに恐ろしいもので満ちている。
 冥い海の冷たさも、海底に眠る人々の想念も、渦巻く並みの激しさも――全てが恐ろしくて、スイは必死に目を見開いていた。襲い来るもの全てから身を躱すために。そして、海上に浮き上がるために。
 もがいた末に、スイの手は何かの縁を掴んだ。
 逃すものかとスイは両手をかけ、必死に自分の体を引き上げる。
 顔にへばりつく髪になどかまっていられなかった。若干飲んでしまった塩辛い水を吐き出し、かわりに海の匂いが強く浸みこんだ空気を吸いこむ。
「いつまで、そうやって生きてるふりをなさるおつもりですか?」
 水平線上に月の舟が浮かんでいる。
 あれが沈めば、漁火の出ていない今宵、自分は夜の導を失う。暗い海の上に閉じ込められてしまう。
 しっかりしろ、と言い聞かせる。
 しかし、船上に先回りしてスイを見下ろす能面の男は容赦なく金環に縁取られた目でスイを追い詰めた。
 スイにとっては温かいと思える指で、弦を抓むように一指一指スイの指を舟の縁から引き剥がしていく。
「いい加減、お帰りなさい。お迎えがみえていますよ」
 爪を立てて舟にしがみついていたスイは、その言葉にやおら戦慄した。
 いつの間にか、自分の影が濃くなり、男の能面に覆われた顔が細部まではっきり見えるようになっていた。
 そろそろと後ろを振り返ると、二艘、三艘、四艘……数多の舟が柔らかな灯火とともに海に浮かんでいる。その船上では見たこともないほど雅な着物を身にまとった男女が、笑いさざめきながら溺れかけたスイを肴に酒を酌み交わしていた。
 スイは冷えて硬くなった唇を噛みしめた。
「渦島や、渦島や。戻っておいで。怒ったりなどしないから、早う妾の元に戻っておいで」
 中央の一際大きな船から鈴振る女性の声が聞こえた。
「ほら、ご主人様もああおっしゃっておられますよ。今宵はご慈悲賜りなさい」
 能面の男がうらさびしい小舟から語りかける。
「渦島……?」
 スイはもう一度振り返った。体中がもう、碇を抱いたように重かった。どこかで、助かるならば何にでも縋りたくなっていた。
「渦島や、渦島や」
 女は鈴振るように呼びかける。
 しかし、遠目ながらその顔には得体の知れない能面が張りついていた。
 スイを渦島と呼ぶ女だけではない。船上で宴を楽しむ者全て、各々違う表情を刻み込まれた面をつけていた。
 ぞくり、とまたスイの背中を冷たいものが這いずった。
 わたしもあのような面をつけて、あの中で笑い騒いでいたのだろうか。
 ありもしない記憶を一瞬、スイは手繰ろうとしていた。が、すぐに打ち消す。
 傍から見れば、なんと滑稽なことだろう。
 なぜ、皆面などつけているのだろう。酒も肴も食しにくかろうに。
 なぜ、皆自分の顔で笑おうとはしないのだろう。声ばかりは陽気なのに、表情が固まったままでは空気も凝る。
「いやだ。いやだいやだ」
 スイは潮気に張りつく髪を振り乱して叫んだ。
 そして、舟の縁にしがみついていた腕に力を込め、能面の男を押し倒して体を海から小舟の上に引き上げた。
「ぐっ」
 押し倒された男は水の重みに苦渋の呻きを漏らした。その顔から、スイは能面を剥がし取る。
「……お前っ……」
 そらされた横顔は、鼻梁が高く彫りの深い南蛮人の顔であった。
 昼間、スイを攫おうとした賊の言葉を伝えていた赤い髪の男。
 弾かれたように、スイは背後を振り返った。
 狂宴の灯火は一つ残らず青白い鬼火に変わっていた。白々と月夜にはためく帆も破れ風の吹き通るまま不気味な音を漏らし、凛と天に向かって突き立っていた帆柱は折れていつのまにか船縁にめり込んでいる。
 それぞれ委細は違えど、さっきまでの貴族の屋形船の様相はまるでない。幽霊船そのものであった。
 その中で、彼らはさっきまでと変わらず笑い興じている。男の面が小娘にひん剥かれたわ、と扇で口元を隠して笑っている。
「何なんだ、一体……」
 一人ごちたスイの言葉は、髪から滑り落ちた滴とともに南蛮人の頬の上に滑り落ちた。
 南蛮人の口端が音もなく引き上げられる。
「まだ、分からないか。昼間、お前をのせて出港した舟は、あいつらに沈められたんだ。お前を乗せているという、ただそれだけのために」
 滑らかな日本語が悪意に染められて静かにスイに投げつけられた。
「……それだけ? 元はといえば人を攫おうとしたあんたたちが悪いんじゃないか」
 俄かに湧き上がる怒りを、スイは南蛮人の男の首元に添えた手にそのままこめた。
「そんなことをしたって無駄だぞ。お前はとうに死んでいるんだから」
「うそだ! 信じるものか。わたしには足もある。影もある。これで生きていないというのなら、わたしはなんだって言うんだ!」
 スイが叫んだ瞬間、がたん、と舟が傾いだ。
「舟……、舟だ……おれたちものせておくれ……」
「おまえだけたすかるなんて……そんなことは……ゆるさない……」
「舟を……よこせー……」
 顔にばらばらと髪が張りついてはいたが、それらは皆見覚えのある顔だった。海に潜っていたスイを攫い、縄で縛り、舳先にくくりつけた賊どもの顔。
「っ!! 誰がっ……誰がお前らなんか乗せるもんか!!」
 スイは南蛮人の首に手を掛けたまま足で登りあがろうとする賊どもの顔を蹴散らした。それでも懲りずに賊たちはわらわらと小舟に取りつき、舳先に、船縁にのしかかる。
 傾いだ船縁からは海水が流れ込む。
「渦島や、渦島や。戻っておくれ。今ならまだ許すぞえ」
 いまや美しい着物も溶け落ちて、声ばかりが麗しい女が骨だけ残った手をゆらりと招いた。
「誰が行くものか。そんな魔物の巣窟に、誰が喜んで加わるものか!」
 スイは力抜け、気の途絶えた南蛮人の男の体を底にあった縄で縛り、船縁にしがみつく賊たちのほうに転がしやった。
 とうに傾いでいた船縁から、南蛮人の男の体は賊たちを巻き込んで海の中へと沈んでいく。
「っはは、やった!」
 完全に舟がひっくり返る前に、スイは反対側に移動して均衡を保ち、手を打った。
 冷水を浴びせられたのは次の瞬間。
「ああ、本当にやってしまいましたね」
 今さっき海に突き落としたはずの浅黄の水干袴の男が、出会ったときのように面をつけ、琵琶を小脇に抱えてスイの反対側の船縁に立っていた。
 スイの口からは笑いが途絶え、全身が総毛立つ。
「お可哀想に。あなたはもう、都に住むにふさわしくなくなってしまった」
 さっきまで首を絞められていたなど微塵も感じさせぬ朗々たる声で、能面の男は告げるように唄いあげ、琵琶を弾いた。
「おお、おお、渦島がやってしまったよ」
「渦島が人を殺してしまったよ」
 幽霊船から聞こえる声は潮風に乗って哀しげにスイの耳にしみてくる。
「殺した?」
 目の前が真っ暗になって、鸚鵡返しにスイは呟いた。
「だって、あれは化け物だったじゃないか……化け物を追い払って何が悪い……?」
 辺りを見回したとき、そこには能面の男も、鬼火を浮かべた舟も月もなかった。
 真っ暗な洋上。心もとない星明りだけが半ば浸水した小舟を照らし出す。
 そこに、人影はない。
「……わたしは、死んでない。帰らなきゃ。帰らなきゃ……」
 しかし、舟には櫂も縄もなかった。あるのはただ、スイの心に重くのしかかり、動けぬよう上から楔打つ碇だけ。
 海水は足首近くまで浸水し、波に揺られて小舟が傾ぐたびに少しずつ水位を高めていく。
「ああっ、水を掻き出さなけりゃ。帰るまでに沈んでしまう」
 両手を合わせて足元の海水を掬い取る。が、その僅かな量たるや、入り込んでくる海水の量にあっという間に帳消しにされてしまった。
「柄杓……誰か、誰か柄杓を……柄杓をちょうだい……! 水を掻きだす柄杓をちょうだい!!」




 のち、満月が昇る頃に沖に出ると女の唄が聞こえるという。
 それはそれは淋しそうな女の唄が。


 この舟一杯になった悲しみを、わたしは海に汲み出すの。
 わたしが海に沈まぬように。

 ――だから誰か、柄杓をちょうだい。











書斎 管理人室 

  2007/1/24