後ろはチャワタの溶接部門。彼はここで溶接の仕事をしています。ポリオだったと思います。三輪車を降りたあとは、しゃがんだような姿勢で手をついて歩きます。鉄くずなどいろいろなものがあり、親指を怪我することもあるようです。三輪車はオーダーメイドでその人に合わせて作ります。  左の写真の人です。注文があったものを作って売ります。木>工はベッド、棚、いす、机等で、溶接は三輪車、窓用鉄格子、タバコの葉の圧縮機械などです。三輪車は高価なので(1.5から2万円)自分で買うのは難しい。欲しい人のリストが>あって、寄付が集まり次第、順番の人に作ってあげています。

 そんなカリムさんと私の出会いだった。私がタボラにいる間は友達に衣類・文具を送ってもらってそのまま寄付したり、周りの学校の先生達にバザーで売って手漕ぎ三輪車の資金にしたり、学生の奨学金に当てたりしていた。 私の任期も終わり、遠く離れていてもいつまでもタンザニアとつながっていたいという思いで帰国。2ヶ月位してタンザニアの様子を出発前の隊員にレクチャーする依頼がきた。行ってみるとチャワタに配属になる理学療法士の渋谷隊員がいるではないか。要請を出してから配属になるまで、ポレポレ(ゆっくりゆっくり)のタンザニアの出来事としてはずいぶん早いので私はびっくりした。タンザニアでは「いつやるの?」と聞くと「明日!」。明日になってまたたずねる。「いつやるの?」「明日!」。この繰り返し。公共機関でもだ。きっと時間の感覚が私達とは異なるのだと思う。「タンザニア スタディー ツアー報告」で坂本さんが書いているように、せかせかしている私達から見れば昼間から木陰で大人がくつろいでいたり、一見なまけ者に見えるかもしれないが、赤道直下で日なたは暑いのだから体のために理にかなっているし、私達の目に付かないところで日の出前に機械を使わず農作業したり、バケツに入った20Kgの水を頭に乗せもう20Kgのバケツを片手に持ち平気な顔で運んでいたりもする。力の配分が私達とちょっと違うだけかもしれない。秘めたる大きなパワーを持った人たちだ。

 木工部門の方で、やはりポリオだったと思います。タボラは周りの森でいい木が取れるのでタンザニアの各地に木材が運ばれていきます。回転させながら削る機械もあるので、家具の脚に飾りを施しています。しゃがんでいる状態でずっと過ごします。そのせいかほころびがひどい。溶接部門の彼と共に二人は立てないようです。脚は非常に細くなっています。

 市場で買い物をしても「つり銭が無いから向こうで買ってくれ」と言う人がいるくらい商売上手ではないし、物やお金の管理も苦手だし、泥棒も多い。イスラムの教えの中に「水が高いところから低いところに流れる様に、物が沢山ある所から少ない所に移動するのは自然なこと」というのがあるらしく、泥棒も多いが寄付をする人も多いらしい。庶民の人たちは貧しい中で助け合っている。でもちょっとお金持ちになるとやはり自分の財産は守りたくなるらしい。ダメもとでおねだりする人が沢山いるが悪気はまったく無いのだ。ほしいから、いっぱい持っている人に、くれそうな人に、言ってみるだけなのだと思う。
 暑いし、伝染病は多いし、医療は整っていないし、物は少ないし、水も少なく汚いし、乗り物は時間通りに動かないし、移動にも体力がいるし、いろいろと自分の力ではどうしようもないことが多い中、肩肘張ってどうにかしようとしても無理がある。環境に適応した生き方が、タンザニアの人達の生活スタイルになっているのだろと思う。便利なものに囲まれて、自分の思い通りに生きていけると錯覚している私達のほうが、もしかすると自然の大きな流れから外れているのかもしれない。
 またチャワタに話を戻す。隊員が配属になりチャワタとも連絡が取りやすくなり、つながっていられると一安心。タンザニアでは、ほとんどの人が市場で外国からの古着を買って着ている。自分の家だけでもタンスの中に眠っている衣類はあるし、親戚や友人に声をかけただけでも結構な量が集まりそうだ。送料もかかることだし、タンザニア式にポレポレで贈って、みんなで分けてもらおうと思っていた。そんな時はじめにも書いたように、グループを作ってみんなに呼びかけてやっていこう、という仲間が現れたことからトゥエンデが出来た。1999年1月に「タンザニアのお話会―第1番―」を行なって、ちょうど6年が過ぎた。タンザニアのお話会は2004年2月28日(土)のタンザニアスタディー ツアー報告会が第14番となる。衣類等約2120Kg、カレンダー約430Kgを贈った。バザーは40回以上行 >なった。
 ではタンザニアのチャワタの6年間を振り返ってみよう。現地にいたわけではないので手紙と今回聞いた範囲で分かることだが。

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