32対の狛犬を残した石工 内藤 慶雲



東京と神奈川に跨がる地域では江戸時代後期から多摩川、鶴見川沿いにいくつかの石屋(石工)がその名を刻んだ石造物を残しています。
鶴見の飯嶋石工、登戸の吉澤石工、二子の小俣石工、神地(川崎市中原区上小田中)の松原石工、古市場(川崎市幸区)の巳之吉等であり、ある程度地域毎の縄張り的に活動範囲が決まっていたようです。
時代と共に、また各石屋(石工)の盛衰と共にその活動範囲も変化して来ますが、明治期なってこの地区で台頭してきたのが溝ノ口(川崎市高津区)の内藤石工でした。
後発であるにもかかわらず東京都では調布市、小金井市、狛江市、稲城市、世田谷区、大田区、目黒区。神奈川県では川崎市の各区、横浜市の港北区、緑区、都筑区、鶴見区とかなり広範囲にその在銘石造物が見られます。
確認出来た狛犬だけで32対、鳥居・キツネ・水盤等他の石造物の調査は不完全ですが、間違いなく100以上はあります。
こと狛犬に限って、同名で32対(他に銘は無いが留五郎・慶雲作と思われるものが数対、台座に銘だけ残っているもの3対)も残した石工は多くはないのではないでしょうか?


内藤石工
これまで内藤石工は初代が内藤留五郎で、二代目から慶雲を名乗り数代続いたと考えられていましたが、御子孫の方からご提供頂いた系図・戸籍等の資料やお伺いしたお話しと内藤家の墓所にある「石匠 内藤一門之供養塔」から様々なことが分かってきました。
石屋(石工)を考察するのに狛犬は決して主力商品とは言えないので、狛犬だけからと言うのは無理があるのは承知していますが、無理矢理(?)狛犬から見えてくる範囲で考えて行きたいと思います。


慶雲は誰が何時から名乗ったのか?
  

       ※ 御子孫である佐藤京子さまからご提供頂いた資料や戸籍及び内藤家の墓誌等からからの推測で作成

・初代慶雲(留五郎)

内藤留五郎 弘化4年生まれ、明治3年に最初の在銘作として石段親石にその名があるとのこと。
(稲荷神社・横浜市青葉区鉄町〜未確認)

最初の狛犬は明治13年(33歳)で、この年3対を彫っています(1対は和犬)。

明治21年の狛犬から銘が慶雲に変わります。
留五郎の戒名に慶雲の文字が入っていること、長男作太郎はこの時まだ17歳で代を継いだり名を名乗るには早すぎることから、留五郎が明治21年(41歳)に慶雲を名乗ったものと思われます。
留五郎の没年は大正14年で78歳と長寿でした。
留五郎は2つのタイプの狛犬を彫っています。耳と目や鼻の顔つきに独特の個性を持ったもの(前足先も特徴的)と、やや丸みを帯びたオーソドックスな江戸尾流れのタイプ。
ほとんどが阿吽とも子供を連れた両子獅子タイプです。
内藤留五郎銘の狛犬
明治21年 八幡神社
(都内世田谷区太子堂)
明治20年 白山神社
(川崎市麻生区白山)
明治15年 八幡神社
(狛江市南岩戸南)
明治14年 八杉神社
(横濱市港北区大豆戸)


・二代目慶雲
留五郎の長男作太郎が継ぎました。
いつからなのかは不明ですが、明治32年頃から名を刻んだ石造物が多くなっていること、26歳になっており継ぐのに問題は無かったと思われることから、明治32年頃からではないかと推定しています。
この時、留五郎は52歳、5月に瀬田玉川神社(世田谷区瀬田)に建立した狛犬が最後の作だったと思われます。

二代目慶雲(作太郎)の時代の狛犬
明治32年 杉山神社
(川崎市高津区末永)
明治34年 久地神社
(川崎市高津区久地)
明治39年 杉山神社
(横浜市緑区青砥町)
大正7年 月読神社
(川崎市麻生区麻生)


・三代目慶雲
作太郎長男の慶三が継ぎました。
作太郎が亡くなったのが大正2年(40歳)で、この時の慶三はまだ16歳。従って、すぐには継げず、まだ元気だった初代の留五郎(66歳)が実質的には店を守っていたのかもしれません。
一旦五男 巳之助が継いだが体を壊し、慶三が呼び戻されて継いだとの話もありますが、作太郎が亡くなった時、巳之助はまだ8歳。
いずれにせよ、作太郎が亡くなった後は、留五郎が「ご隠居の再登場あるは後見役」として中心にならざるを得なかったのではなでしょうか。

留五郎が亡くなる2年前の大正12年頃、慶三(26歳)が代を継ぎ慶雲を名乗ったのではないかと思われます。
大正12年以降の狛犬には石工ではなく、石匠 内藤慶雲と刻むことが多くなっています。

慶三の名刺には「石工藝の店 石匠 慶雲 店主 内藤慶三」と書かれています。
三代目慶雲(慶三)の時代の狛犬
大正13年 伊豆美神社
(狛江市中和泉)
昭和4年 高木神社
(都内目黒区南)
昭和11年 八幡神社
(都内世田谷区太子堂)
昭和21年 身代り不動尊/大明王院(川崎市高津区下作延)