内藤慶雲の墓所を訪ねて〜慶雲は4人いた!


溝ノ口に石工・内藤家の墓があると聞き、行ってみた。
溝ノ口神社のすぐ近く、宗隆寺(川崎市高津区溝口2-29-1)。

  

内藤慶雲は明治から昭和にかけて、川崎市溝ノ口を本拠に鶴見川、多摩川流域を中心に数多くの石造物を手掛けた石工。
狛犬の数も24対(多分もう少しありそう、留五郎の銘では6対)と非常にに多く、多作な石工として「登戸の吉澤」と共に「溝ノ口の内藤」は双璧をなしている。
銘を見る限り、初代が留五郎、二代目が慶雲と思われるが、その狛犬のバラエティー…あまりに違う作風の狛犬が多数存在することから、色々と想像がわいてくる。
そんな所から生まれたのがたくきさんの「大胆推理・内藤慶雲物語」。
これは1998年2月の狛研例会で、阿由葉・たくきさんによる内藤慶雲の協同発表のおまけ(いや、これがメイン!)として、最後に三遊亭小田原丈(現・丈二師匠)さんに落語と言うより、講談調で語られたもので、今では伝説となっている。

  

その中で、疑問や想像が提示されていましたが、先日、内藤家の墓所を訪ね、墓誌等を見る機会を得、それらの回答に迫るものを見いだすことが出来ました。



左奥の墓(施主 内藤慶三)
留五郎、妻トモ、留五郎長男・作太郎、妻サト4人の墓。
内藤留五郎は弘化3年の生まれ。
大正14年、79才まで生きた。
その戒名は「㳒性院
慶雲日定信士」とあり、慶雲は留五郎が名乗った(42才)事がわかる。
長男の作太郎は留五郎25才の時の子で、留五郎が慶雲を名乗った明治21年は17才。
まだ修行が始まったばかり、この時点ではまだ慶雲を名乗ることはなかったと思われる。

作太郎の没年は父である留五郎より12年早い大正2年で、42才。



左手前の墓
内藤留五郎 長女 イク
内藤作太郎 妻 アイ(作太郎は再婚したようだ)
内藤留五郎 四男 富造 十九才
内藤作太郎 二男(幼くして亡くなった)
内藤作太郎 ○男(幼くして亡くなった)



右奥(施主 内藤吉左衞門、内藤留五郎)
大塚安五郎(留五郎二女の夫)
内藤留五郎 二女 キク
他に1名



右手前(施主 内藤留五郎 大正12年再建)
内藤家先祖代々の墓
没年で天正2年(1574)から弘化(1844)まで18人の名が刻まれている。


これらの他に「石匠 内藤一門之供養塔」がある。
昭和44年に「故 内藤慶三の遺志により建之」とある。


この供養塔の二面にぎっしりと47名の名が刻まれている。
没年で明治41年から昭和51年までの60年間。
かなり大きな工房であったことがうかがえる。

戒名、没年、俗名が記されていて、その中の4人の戒名だけに「」あるいは「」の文字が含まれている。この4人が慶雲を名乗ったのではないだろうか。


留五郎作太郎(留五郎の長男)、一三慶三の4人だ。
俗名は全て姓と名が刻まれているが、最初の6人だけは姓はなく名のみ。
これは内藤姓だと思われる。
この6人についで留五郎二女の夫・大塚安五郎の名もある。
また、川村友吉にだけ「留五郎一番弟子」と特別に刻まれている。腕が良かったことがうかがえる。