内藤慶雲ブランド
「石匠内藤一門之供養塔」(三代目慶三の遺志により昭和44年に四代目の内藤寛等が建てたもの)には47人の名が戒名と共に刻まれています。常に多くの石工を抱えた大きな工房(石材店)だったのではないかと思われます。
初代留五郎はオリジナルの狛犬を彫っていて腕の良い石工だったのは間違いありませんが、何故かその形は後代に全く受け継がれておらず、逆にバラバラと言っても良いほど様々なタイプの狛犬が残されています。
前ページの<二代目慶雲(作太郎)の時代の狛犬><二代目慶雲(慶三)の時代の狛犬>の写真やこの写真をご覧いただき比べてみて下さい。
内藤慶雲銘の狛犬
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明治39年 白山神社
(都内大田区東嶺町) |
大正7年 椙山神社
(町田市三輪町) |
大正11年 天満神社
(稲城市浜坂) |
昭和15年 白髭神社
(川崎市高津区北見方) |
にもかかわらず、多摩川沿いにかなりの範囲にわたって多くの作が残されていてる…これは留五郎が築いた慶雲というブランド名があってこそのものなのではないでしょうか?
狛犬からのみ考えましたが、石工の綱川潔さんは「石屋の本業としては土木工事がメインで、神仏分離の騒ぎが一段落した後は再びお墓の需要が増えはじめ、神社関係の仕事も増え…と言った中で、代々続いた看板は大切だった」とおっしゃっています。
明治期からの後発の石屋にもかかわらずこれだけのブランドを確立した留五郎は石工としての腕も商才にも長けていたのではないでしょうか。
ブランド銘の元での石屋としての量産体制…慶雲と刻まれた狛犬でも必ずしも慶雲自身が彫ったものではなく、工房での作でブランド銘「慶雲」としていたのではないかと思われます。
また、狛犬の作成を外注して据付の石工事だけを行ったものもあるのではないかと想像されます。
内藤家から「川崎市大山街道ふるさと館」へ寄贈した写真の中に店の前から山内村忠魂碑(青葉区新石川に現存)を送り出す様子の写真があり、店の看板には「内藤慶雲○店」と書かれています。
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内藤慶雲石材店前(中央が内藤留五郎と思われる) |
大正9年 山内村忠魂碑(青葉区新石川に現存)の運搬の様子 |
※ 御子孫の方からご提供頂いた写真〜同じ写真が「川崎市大山街道ふるさと館」へ寄贈されていて高津区のWebサイトで閲覧可能
また、他の資料には「内藤慶雲石材店」と記された文書(受領証)があり、ブランド銘「慶雲」=屋号「内藤慶雲」としていたことが分かります。
ちなみに池上の内藤石材店は、八幡神社(大田区大森中)の灯籠台座に「溝ノ口石工内藤慶雲 池上支店」と刻んでいます。
なを、狛犬だけを述べてきましたが内藤ブランドで確認出来た石造物中、狛犬とほぼ同割合で記念碑等の石碑があります。時代背景もありますが、文字の彫りも上手で評判が良かったのではないでしょうか。
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