石工 伊藤寅吉の足跡
   〜富士光は藤勝だった!

                             山田 敏春

西東京市の天神社に台座のレリーフと共に素晴らしい出来の構え型狛犬がいます。
明治28年の作で彫った石工は「伊藤寅吉富士光」。
そして杉並区阿佐谷の神明社には明治44年、台座のレリーフと共に素晴らしい蹲踞型の狛犬がいて、石工は「富士勝」。
更に杉並区高井戸西の天神社にも大正6年の、やはり台座レリーフと共に素晴らしい狛犬いて、石工名は「伊藤富士勝」。
この3対の狛犬、共通なのは狛犬及び物語性を持った台座レリーフの素晴らしさです。
「富士勝」と「伊藤富士勝」が同じ石工であると容易に想像は出来るものの「伊藤寅吉富士光」との関係がつかみきれていませんでした。
しかし、練馬区下石神井の御嶽神社の灯籠に父親の銘が刻まれていたことこら一気に謎が解明されて行きました。
実は「伊藤寅吉富士光」=「伊藤寅吉」=「伊藤寅吉富士勝」であると。
以下、山田敏春さんが解明した名工 伊藤寅吉の足跡について、次頁のデータ一覧表と共にご覧下さい。

伊藤寅吉富士光という名工がいた。
狛犬はわずか一対しか残さなかったが、「寅吉」という名を手掛かりに足跡を追ってみた。
天神社(西東京市北町6-7-19)に明治28年(1895)日清戦争帰還記念で狛犬が奉納された。



石工銘は二人「北豊嶋郡元関町村 石工 田中酒造蔵 
北足立郡志木町 彫工 伊藤寅吉富士光」と刻まれている。
元請は田中酒造蔵で狛犬と台座のレリーフ
を彫ったのは伊藤寅吉富士光。
尾やタテガミ、ヒゲなどの毛束の表現が秀逸。
台座のレリーフは素晴らしく、乳を掴む金太郎と十牛図の一つの騎牛帰家と思われる。

 こちらを参照下さい(今月の狛犬No.118)
 こちらもどうぞ(編集長の狛犬小屋〜都下の狛犬)

堤稲荷神社(練馬区西大泉5-1)に明治34年(1959)に奉納されたと思われる狐像があり、台座は「松と親子狐」のレリーフ。
ただし狐像は先代となって降ろされて境内脇の石碑の脇に居る。


この時点で寅吉は荻久保(杉並区荻窪)に住んでいる。
また、年代不明の灯籠があり伊藤寅吉銘の「爺婆と朝日・鶴亀」のレリーフがありる。


なお神社入口の石段は明治41年(1966)に寅吉自身が奉納したものだ。

明治36年に諏訪神社(練馬区西大泉3-13)の鳥居。
地図上では諏訪稲荷神社と明記されていて諏訪神社入口の左に稲荷神社の入口があって鳥居があるのだが、参道に草が生えていて通行ができず、鳥居を見落とすところだった。
「練馬区の石造物/昭和63年刊」 によれば稲荷神社(練馬区石神井1-21)の灯籠を手掛けているが、廃棄されたのか確認できない。

御嶽神社(練馬区下石神井4-34)の灯籠台座に重要な銘文があった。
 明治38年8月(1905)
  「井荻村八丁 石材商 彫刻師 
伊藤富士勝
  「右 
父 志木町 星野藤光」と彫られている。
つまり伊藤富士光は父の藤光と読みが同じ「ふじみつ」という事で、住所も井荻村(杉並区井荻町)になっている。


そこで私のデータを調べてみると氷川神社(埼玉県富士見市鶴馬2-1-72)に獅子山(子獅子のいない獅子山風)があり
  「彫刻人 志木町 
星野彌十郎藤光」と銘があった。
この石工が富士光の父のようだ。


少し話を戻す。
西東京市北町の天神社の狛犬を彫った伊藤寅吉富士光は明治28年の時は姓が伊藤になっているが、志木町に住んでいて父藤光の家か近所に居て仕事も一緒にしていたと推測される。
石工銘の「寅吉富士光」は寅吉と藤光を合わせた名前とするならば狛犬は親子合作の可能性もありうるのではないだろうか?

明治44年(1965)天神社(西東京市北町6-7-19)の石碑を手掛ける。
これは日清戦争から10年後の日露戦争に出征した氏子の軍人たちが記念碑として奉納したもので
 「彫刻 
伊藤寅吉」と銘を刻んでいる。
つまり
字彫もできる石工だった。

明治39年(1906)、三原台稲荷神社(練馬区三原台1-32)に一山講(御嶽講)の石碑とレリーフを手掛ける(写真右)。
そして大正6年(1971)に狐が屋根に居る灯籠を造ったが、現在は消失していた。

明治44年(1911)に阿佐ヶ谷神明社(杉並区阿佐ヶ谷北1-22)に「伊藤寅吉富士勝」銘の狛犬(台座にレリーフ)が奉納される。
石工銘が「寅吉富士光」から「寅吉富士勝」となっている、これは父親の藤光に勝(まさる)ようにという願いが込められているのだろうか?
台座のレリーフは金太郎と牛若丸。
こちら(今月の狛犬No.93)もご参照下さい。

大正元年(1912)9月に第六天神社(杉並区高井戸西1-7)に「井荻村 石工 伊藤寅吉」の名で灯籠の片方を再建している。
これは内藤庄右衛門が安政7年9月に奉納したもの。
 当社拝殿前の狛犬も明和8年9月(1771)に庄右衛門が奉納したもので区文化財に指定されている。
 そして庄右衛門は同年五月にも井の頭弁財天(三鷹市井の頭4-26-1)にも狛犬を奉納している。

大正2年9月、天沼稲荷神社(杉並区本天沼2-14-10)の鳥居を手掛ける。
荻窪八幡神社(杉並区上荻4-19-2)に大正3年6月、小さな灯籠の片方を願主として奉納する。
翌大正3年9月にも鳥居を手掛ける。
大正9年5月に小さな灯籠の片方を奉納してもらい一対となった。

天神社(杉並区高井戸西1-7-2)の狛犬と台座のレリーフを手掛ける。
銘は「
石工 伊藤富士勝 刻」
この奉納理由は「大正4年11月10日(1915)御即位大典記念」だが、完成したのは大正6年4月(1917)。
台座のレリーフは阿佐ヶ谷神明宮のものと同じ。

大正12年9月1日の関東大震災の翌年、大正13年5月、天沼熊野神社(杉並区本天沼2-40-2)の鳥居を手掛けるが、石工銘を「上荻八丁 石寅」としている。
石屋の屋号である「石寅」を刻んでいるのは、この時点で代替わりをしたと考えられる。
昭和3年11月、妙正寺内(杉並区清水3-5)の沓掛稲荷に御大典記念の鳥居を手掛けるが、これ以降の情報は今のところ無い。

                            文:山田敏春(再構成阿由葉) 写真:山田敏春・阿由葉